空から異世界がまるごと降ってきた。
七月七日、二十三時。
近所を散歩中、愛犬がやたらとうるさく吠えていた。
先々日、先日と夏にしては涼しい日々が続いていた。
今日も日中は昨日までに比べれば暑かったけれど、夜になった途端に夏の熱気はなりをひそめた。肌寒いぐらいの空気。これを『今年の夏は涼しくなりそうだ』と喜べばいいのか、『太陽のやつ力をためてやがる』と怖がればいいのか、気象予報士ならぬ僕には予想もつかない。
一応、涼しさへの警戒の意味で袖無しジップパーカーを着てきたのは正解だった。
今日の気温だと、いつもは暑苦しく感じるヘッドホンもそこまでうざったくはない。
過ごしやすい、平穏な時間だった。
けれど、僕のこの夜に対する印象を否定するかのように、愛犬が吠えている。
ウチで飼っている彼女がこれほど吠えるというのは、非常に珍しいことだった。
名前はハナ。
真っ白く、毛足の長い小型の室内犬だ。
どんな時もぬいぐるみのように大人しい。
激しいのは朝、僕を起こしに来る時だけだ。
犬の品種と吠える頻度の関係性は僕にはわかりかねるのだが、少なくとも経験則から言えば我が家の飼い犬であるハナはなかなか吠えない子だった。
だから、なんらかの異常事態でもあったんだろうかと心配して。
音楽を聞いていた僕は、すっかり彼女の忠告を無視してしまっていた。
目の前にナニカいる。
街灯の下に存在する何者か。
弱々しい光の下のソイツを、僕は一見して、誰かが不法投棄した布の塊だと判断した。
乾いた血を連想させる、赤褐色の布。
材質は暗幕のように分厚く、しかしシルクのような光沢があった。
愛犬は吠えている。
けれど、僕は彼女の頭を撫でて落ち着かせると、その布の塊へ、慎重に近付いた。
興味本位だ。
これがたとえば人間だったら、僕は近付かなかっただろう。
けれど一見して生物に見えなかったことが、僕の警戒をやや弱めた。
悲鳴をあげそうになる。
街灯の光。
歩み寄ることで見えた、その布の塊の真ん中に鎮座する物体。
視線の先にいたのは――いや、『あった』のは、ドクロだった。
人間の頭骨とおぼしきナニカ。
僕は数秒から十数秒、呆然としたあと、自分がするべきことを思いつく。
そう、通報だ。
夜中の散歩中見知らぬドクロを見つけた日本国民の男子高校生として、至極当たり前の選択肢である。
おぼつかない手つきでポケットからスマホを取り出す。
そして『110』と『119』どっちにかけるべきなんだ、と混乱し、一瞬、視線を横に逸らす。
それから『110』にしようと決意し、視線をスマホに戻した。
僕の顔をガイコツがのぞきこんでいた。
息が詰まる。
開けるだけ目を見開き、スマホと僕のあいだに割りこんだガイコツを見る。
一見、不法投棄された布の塊。
しかし現実は、豪奢なマントを身にまとったしゃれこうべ。
見る、しかできない。
ソイツは。
「 」
わからない、なんらかの言語で、なにかを述べた。
そして、肉も筋もない顎を大きく開いて、僕に噛みつこうとし――
僕は、なにか小さな衝撃を感じて、真後ろへと倒れこむ。
その結果。
幸運にも。
いや、不幸にも――
実に様々な事実を知ることができた。
たとえば、僕が転びそうになったのは、愛犬のハナが膝裏に体当たりしたからであり――
ハナは謎のドクロから僕を守ろうと、たぶん犬史に残る頭脳プレイを行なったのであり――
空。
倒れこみながら空を見て、僕は、自分の置かれている状況のちっぽけさを知った。
そこには実に様々なものが見えた。
剣と鎧で武装した人間。
人と獣を足したような不思議な人々。
弓を抱えた人もいたし、遠目にもわかるぐらいはっきりと『小さい』人たちも見えた。
モンスターがいた。
そうとしか呼称できない。不定形で半透明、ゼリーめいた物体がうじゅうじゅと音を発しながら落ちてくる。
僕の目の前にいたようなガイコツだって見えたし、皮膚が緑色の、これも遠目でさえはっきりと『大きい』と言えるようなものだって、いた。
石をヒトガタに組み合わせたような――ゴーレムとでも呼ぶべきものもあったし、創作物おなじみのドラゴン以外にどう呼んでいいかわからない存在もあった。
でも。
そんなことさえ、どうでもよくなるぐらいのものも、落ちてきていた。
たとえば城。
古びた石で組まれた、西洋の古城が落下していた。
ふと見れば、山。
叫ぶように噴火をしながら落ちてくる、人の手によらない巨大なソレが見える。
視線を逸らせば水。
あるいは、滝。
世界そのものを飲みこむんじゃないかとさえ思えるような瀑布が、空から降り注いでいた。
僕は逃げるのも忘れて空に視線を釘づけられていた。
ガイコツが視界をふさぐ。
そいつは僕に噛みつこうとしてくる。
愛犬が倒れこんだ僕の上体に乗った。
僕を守るようにキャンキャンと吠えている。
愛犬の尻尾。
迫り来るドクロ。
それからなにもかもが落ちてくる空。
現実が揺らいでいく。
見ている光景が夢なのかうつつなのかわからない。
だから僕は、自分の危機的状況をなんとなくしか察することができずに――
「……すごい、空から異世界がまるごと降ってきた」
惚けたように。
そんなことをつぶやくだけだった。