猿に敬礼
所詮人間全員猿で有り、東洋人は西洋人から見えれば猿のように見えているのではないかと溜息つく事があるがあながち間違いではない故に東洋人から見て西洋人は猿に見えるのか
和人は白い人を人を食らうためケモノ辺を使い表すと聞いたが、今だ差別は千差万別と言った所か、ヘドも出る。
だからといって敢えてに髪の色を染めているわけでもないのだが、何故色を越したがるのか自分でもわからない。
最近は目の色が気になり始めては色を加える人間が多くなった。美しい人とはどのような物を射すのか如何せん解りかねない事でして、人の感性の完成とは計りしれないものと感じる次第にございます。
ギィと音を立てて、自動的に開いたソコに目を向ければソコに立って僕を見つめるから手招きする。
「扉に隠れていないで出ておいで。」
小さな兄弟二人は如何せん何がしたいのか、
「某、何故生きているのか」
「神様が好きだからです。」
「某は」
「神様が好きだからです。」
溜息一つ点せずに僕はまた二人の目を見れば片方はホワイトアイ、もう片方はキャッツアイ。如何せん解りかねます。
「何故その瞳、欲しがる。」
解りきった質問の答えを欲しがる僕もまだまだ差別的に子供であり孤独であると感じる事は度々あるが現代の自由は本当に自由なのか?
「神様がしておられたからです。」
「その方もか」
「はい。神様がしておられた故」
他人と同物を共有し、所持する事により人は安心感を得る生き物らしいがこの事が命取りとならぬ事を祈らなければならない。神というものがいるのなら僕か、はたまた俺か。
「なぁ、」
僕に成りたいのか?
僕のように成りたいのか?
俺のようになりたいのか
俺になりたいのか
「神様は、俺達にとって神に近い存在、いえ神です。」
簡単に神と言葉にしてよいものなのか実はとても厳格なものではないか浅はかなのかいや、そうではない恐ろしくも言葉にすれば殺されてしまうやもしれない単語は今だにあるのではないだろうか昔と変わらず、現代に発してならぬ物とはなんだ?人権は持ち合わせ、何の意味が深く刻まれ生まれた?欺かれた世界で目も見えぬ人が本当に幸せか?見なくて良いものを見えぬ方が良いのか、はたま見えていた方が踊らされなくてよいものか?本当に自由なのか?教えてくれフリーメイソン。
「良心さん、神様は神々しいかったですね。」
「邪心さん、神様に輝きが見えたようでした。」
監視を見れば忠実かわかる。神々しいとは神であるならば言われるのだろうか、神ならば神々しいと?輝きが見えたようと?神ならば輝きが見えたのでは?
洗脳足りぬ現代に地デジメディアにより汚染電波を放出し、脳に働きかけ確実なる忠誠を誓わせる。
「なぁ、主らは僕に成りたいのか?僕のように成りたいのか?」
オリジナリティというものはないのか、所詮脳でみたもののみしか人は形にしてゆく事が出来ぬのか?いや、僕は違う。
なぁ、
彼はただの人間だ
僕はただの人間だ
終




