〜熱い雫〜 私達が行きたかった場所
この短編は里見ケイシロウさんの企画「なろう旅人」に寄稿したものを、自らアップしたものです。前記投稿分と全く同じ内容になっております。
旅と旅行は何か違う気がする、例えば卒業式などで「私たちはこれから社会に旅立ちます」とは言うが「旅行します」とは言わない様に。旅行というと帰る事が前提で、旅というものは帰らないかもしれない、行きっぱなしの可能性を秘めた、そこはかとなく別れを秘めたものを想起させる……その意味でまさに今、私は〝旅〟に出ようとしているのかもしれない。
ポタン……ポタン……
静かな病室に点滴の落ちる音だけが響く。いや、水滴の音など漏れてはいない、チャンバーに落ちる水滴の動きに勝手に音を感じてしまっているだけだ。
ビニール・パックから延々と滴り落ちるピンクの輸液は、天井を向いた視界の端に固定されていて、ピントの合わない視界にあって何故か唯一明瞭に見える。
まるで命の長さを測る砂時計の様にユックリと滴り、無くなってはまた新たな輸液がセットされる。
『後何回交換したら寿命が尽きるのだろう』
この思考を形にするまでに、日は落ちて深夜となっていた。
幸いな事にとても眠たい。微睡みと覚醒の区別がつかなくなったのは何時の事だろうか?こんな事を考えている内に朝を迎えた。
「スズキさーん、オムツ替えましょうね」
キンキン声の田中が来た。早口で何を喋っているか分からないが、私を雑に扱うこの女が看護師の中でも一番嫌いだ。
こびり付いた様な笑顔に虫酸が走る、だが考えて見ればこいつが来た時が一番思考回路が働いている気がする。
そんな事を考えている内に彼女は居なくなった。
ポタン……ポタン……
胸に圧を感じて知らぬ間に閉じていた瞼を開けると、しきりと女の人が親し気に語りかけてくる。その横には笑みを浮かべた青年と、彼に抱えられた女の子。
何故だろうか? とても懐かしくて、嬉しい気持ちが湧いてくる。上手く笑顔になれただろうか? 多分麻痺して無理だろうが、確かに私は今、破顔するほどの満面の笑みを浮かべている……つもりだ。
「見て見て!お父さんの目が笑ってるわ」
女性の言葉に、
「ほんまかいな、お母さんの気のせいちゃう? お父さん、孫のひなちゃんが来ましたよ。ほら、ひなちゃん、おじいちゃんにこんにちわ、は?」
抱っこしている女の子、ひなちゃんをグイッと近づけると、女の子は嫌がって顔を背けた。
青年が抱えている女の子を私の顔に近づけてくる。ダメダメ、そんな事したらこの子は嫌がるって、分からないかな〜、ほらほら、嫌がって顔を背けた。こいつは何時もそうだ、女心っちゅうもんを分かっとらん。ん? 何時もこいつって、こいつの事を前から知っていたか?
私が自問自答している内に、世界は暗くなる。微睡みが途切れた時には、彼らの姿は無く、また点滴だけがやたらと目の端にうるさかった。
日にちという時間感覚が薄らぐ中、季節の変わり目の肌感覚だけが濾し取られる様に頭に残る。
少しづつ秋が遠のき、冬の底冷えが暖房の効いた病室すら侵食し出す夜。私の脳が常に無いほど冴えているのは寒さのせいだろうか? 思考が断絶せずに明確な意味を構成する事が出来る。
ポタン……ポタン……
相変わらず滴り落ちる生命の砂時計……命の水とも言えるか……うん? 何だか遠くから川のせせらぎの様な心地良い水音が聞こえる様な……
「しょうぞうさん」
可愛らしい声に振り向くと、そこには幼馴染の少女が微笑んでいた。よく晴れた日中にも関わらず、暑くもないのは冬のせいか? それにしては吹く風は爽やかで少しも冷気を含んでいない。
「どうなさったの? しょうぞうさん、ボーッとしておかしいわ」
「だってマリコ、俺は今まで寝たきりだったんだもの、少し位ボーッとしてもバチは当たらないよ」
「うふふ、そうね」
近づいたマリコが手を取って、コッチとばかりに引いてくる。小さな手をとる私の手も同じくらいの大きさだった。日に焼けた肌が真っ白なマリコの手とは対照的で、色の違いに暫し見惚れていると、ホラッ! とばかりに強く引かれた。
グイグイと引っ張るマリコに、
「どこに行くんだよ」
と問いかけても、
「いい所」
微笑んだまま答えてはくれずに、ドンドン先に行く。すこし坂になった岩場の一本道を進むとてっぺんが見えてきた。
「ほらここ、この場所を覚えてる?」
坂の上から見下ろすと、流れの速い渓流が大岩にぶつかって飛沫をあげていた。
「ああ、猿岩か」
地元の伝説で猿に化けた神様が座っていたとされる大岩のある風景だった。近場のお坊さんが岩の裏側に毎朝お経をあげに来る事でも有名だった。
「懐かしいな、故里の少丹生川じゃないか、あそこ、ほれあそこに魚が群泳しているよ」
指を差す先には水流の遅い川溜まりがあり、最近では滅多に見られない小魚が数匹、銀鱗を反射させながら泳いでいる。
「本当、私達の子供の頃みたいに川も綺麗ね」
そう言うと魚が逃げるのもお構いなく坂を降りて行く。遅れまいとついて行くと、懐かしい渓流の匂いに胸が一杯になった。
「早くおいでなさいな、とっても気持ち良いわよ」
すでに裸足になったマリコがくるぶしまで浸かりながらこっちに手を振る。
「おいおい、川底は苔が生えて滑るから気を付けろ、毎年誰かは事故で亡くなっているんだからな」
慌てて追いかけると、靴を脱いで裸足になった。
「分かっているわよ、あなたの方がおっちょこちょいなんだから。昔、川に流されて、近所のお兄さんに助けられたのは誰よ?」
ふふふっと笑いながら水を飛ばしてくる。
「そう言えばそんな事もあったな」
おかしくなって、つられて笑いながら川に入ると、ぬめる苔を生やした丸石と、ヒンヤリと流れる水がなんとも心地良い。うーん、と伸びをすると、対岸の雑木林から零れる木漏れ日が目に焼き付いた。
「あーあ、このまんまずーっとこうして居たいよ」
暫くしてから並んで腰掛けた丸岩で、隣に座るマリコに声を掛ける。
「そうね、あなたとこんなに安らぐ時間がもてるならずーっとこうして居たい」
そう言うと、腕を取って両手で抱きついて来た。華奢なマリコの体温が伝わってくる。何故だろう? 長年連れ添ったこいつに今更ドキドキし出した。そっと盗みみると、マリコも顔を真っ赤にして目を閉じている。
「ねえ、あなた」
目をあけたマリコははにかみながら見つめて来る。その潤んだ瞳はくもり無く、日を反射して美しい。
「なんだい?」
跳ね上がる心音を隠す様に素っ気なく答えると、
「大好きよ」
ポツリとつぶやいた。
痺れが全身を貫き動けなくなって暫く見つめた後、
「そんなん知ってる」
ようやく言葉を捻り出すと、ニヤリと笑う。その返事を聞いたマリコの驚き、そして満面の笑みを見て、
『ああ、幸せだなぁ……』
しみじみと幸福感に包まれながら、二人でいつまでも川を眺めた。
「おばーちゃん、今日も病院に行くの?」
孫のひなちゃんが聞いてくる。それに答えて、
「ううん、もう病院には行かないのよ、おじいちゃんはもっと遠くに行ったからね」
おばあちゃんは屈み込んでひなちゃんの頭を愛おしそうに撫でると、赤く潤んだ目をこすった。
「おばーちゃん、おじいちゃんが遠くに行ってさみしい?」
悲しみを感じ取ったひなちゃんは、大好きなおばあちゃんに抱きつくと手のひらで体をさすった。
「うん寂しいわ、でもね、昨日夢を見たのよ。若い頃のおじいちゃんと私の夢、とっても綺麗な河原に行ってね、大好きって言ったんだ。そしたらおじいちゃん何て言ったと思う?」
おばあちゃんの問いに「うーん」とうなったひなちゃんは、
「やっぱり僕も好きだよ位は言わないとだめよね〜」
と真剣な顔でませた事を言う。そのしたり顔に微笑んだおばあちゃんは、
「ふふっ、おじいちゃんね、そんなん知ってる、だって」
「え〜っ、そんなのないわ、女心わかってないわ、男ってや〜ね〜」
と非難轟々、夢の中のおじいちゃんをなじる。
「でもね」
そんな孫を優しく見つめた後、そっと小さな肩に触れて、
「その言葉にはおじいちゃんの愛が詰まってたんだ、知ってるって言った時の自信満々の顔、可愛かったな〜」
そう言うと、おばあちゃんはひなちゃんの頭をギュッと抱いた。その温もりに熱いものが込み上げて止まらない。
「おじいちゃんはね、遠くて近い所に旅に出たの、ひなちゃんも分かる時が来るわ、本当にすごく近くなのよ」
ひなちゃんが見上げると、おばあちゃんは満面の笑みで優しく頭を撫でてくれた、頬を伝わる熱い雫を落として。
ポタン……ポタン……