第三話
陽がかたむき、日向でなく、夜闇でなく、誰そ彼時。
夕闇が迫れば人々の足は速く、すれちがう顔を一々確かめようなどとはしない。
番所の灯篭に灯がはいり、町境の木戸を閉める準備が始まる。
大江戸八百八町。掛け値なしで八百八を上回る区画を持つこの巨大都市は本物の江戸と同様、基本的に公用以外の深夜外出を禁じている。
特に夜の四ツ(午後10時)以降、町の区画を越える移動には、番所で見せる鑑札が必要というのが建前だ。
もっとも町内では遅くになっても夜鳴き蕎麦の屋台も出れば大名下屋敷で賭場も立ち、吉原の廓内で乱痴気騒ぎする者もある。
肝心の町境も番所の者に袖の下を渡せば通れてしまうことが多い。顔なじみならば素通りということさえある。
法規とは時がたてばゆるむものだ。太平の世が続けば、なおさらに。
だが、そんな人の営みとは別の次元で繰り広げられるものもまた、ある。
今日という日の最後の残照が消えゆく最も濃い影の中を、ゆらりとつたうモノ。
人の形がくずれ、獣ともみまごう、ゆらめくナニカ。
ちらり、ちらりと、視界の隅をかすめるように、影から影へと渡る。
向かう先には、家路を急ぐ小娘の姿があった。
どこぞの茶店か、実家の手伝いでもあろうか、風呂敷包みを抱えている。
塀の影から路地裏へ。その路地裏から、遠ざかろうとする小さな背へ。
影の一部が光源に逆らうありえない動きで迫ろうとした、その時。
わずかに風を切る音を従え、大脇差を逆手に構えた巨体が、舞い降りた。
迫る黒い刃から地の影が素早く逃れ、路地の壁へ張りつく。
即座に身を切り返した文久は、路地の出口をふさぐようにして、壁へ対した。
その眼球、白目の部分は、赤く染まっている。
充血、などというものではない。完全に真っ赤だ。そして、金色の瞳。
火眼金睛。
西遊記の孫悟空が太上老君の金丹を盗み食いした罰として八卦炉に放りこまれ、火と煙にあぶられてなったという伝説がある異形の相。後
、闘戦勝仏として祭られた際に退魔伏滅の権能の一つとして、邪を見抜き悪を捉えるとされた。
その目をもって壁をにらむ文久には、影の中に潜む影、獣じみて崩れた人型が、燐光に縁取られるかのように浮き上がって見える。
しかし、見えるからといってうかつにはかかれない。
なによりやっかいなのは、相手にほぼ厚みがないということ。
路地はさして広くはない。
得物は刃渡り二尺(60cm)弱の大脇差・最上大業物:一心伝の片割れ影綱とはいえ、ふるう文久は七尺あまりの巨漢。
大きく動けばたちまち足や肘が壁を打ち、勢いが殺される。転じて相手は万物に備わる縦・横・高さの三軸の内、一つがない。小回りの利き具合は比較にすらなるまい。
狙うならば、一撃必殺。
相手もそれが分かっているものか、隙を見せるような動きをしない。
姿形からすれば、物を見ることも考えることもなかろうと思えるそれとの対峙。
先の小娘は、もう目的の場所へと去ったことだろう。少なくとも一つの死は防ぐことがかなった。
理不尽な死はある。防げない悲劇は存在する。すべてを救うことなど不可能だ。
しかし、それは手を伸ばせば助けられる命を見捨てる理由になるのか?
かつて抱いたそんな思いが文久の胸の内をよぎったことを感じたものか、どうか。
影が動いた。
するりと、己を映しだす灯明が動いたかのように素早く伸びた影が、不自然にも地から起き上がって、文久の着流しの裾へからむ。
途端、ジッと鈍い音を立て、焦げ臭いにおいとわずかな煤が立ち昇る。
間髪をいれず、地の影に大脇差の刃が突き立てられる。身を折るような無理のある姿勢だが、こちらを殺すためにまとわりついたがゆえに
、即座にかわせないというこの好機を逃してはならなかった。影はもがくが、まるで刺されたところが地に縫い付けられでもしたかのように、離れることができない。
そのまま刃は陰のつながりをなぞり、形からすれば胴とおぼしき壁にかかる面までを斬り上げてゆく。
不思議なことに、地面にも壁にも斬られた跡は残らない。
だが、不自然な影だけは斬られたあたりから千散に乱れてかすんでゆく。
ついに刃は頭に達し、振り抜かれた。
断末魔をあげる形だけを成し、声そのものは発さぬまま、影は崩れて消える。
武具等級の上から二番目。最上大業物の一つ、一心伝 影綱・光綱。
二振り一組の大脇差の内、影の権能の最大のものは、実体無きモノを斬ることを可とする、その刃である。
「やれ、なんとかなったか」
少しばかり焦げた裾を一瞥し、油断なく周囲を見回した文久は、感じられる範囲で異常がないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
眼球も、白目がもとに戻っている。
「こういう細かいのは向いてないんだがな」
うんざりとした口調ではあるが、それは己に合わぬ仕事の内容や費やされる労力に対するものではなく、問題の解決が遠いこと、自身の力が拙いことへの嘆きであった。
火事場で死んだ人の無念が影となって焼きつき、生者を同類へ引きずりこもうとする妖怪・焼影。
只人がからまれたなら突然に身体が燃えあがり、なにが起きたかも分からぬまま、苦悶の内に焼死することになる。
滅多に生じるものではないはずのそれが、いまの大江戸には複数ひそみ隠れていた。
息はついたものの長々と休む暇もなく、文久は跳躍する。
音もなく、重さを知らせることもなく、月明かりの照らす長屋の屋根へ一飛び。
そこから隣の屋根へ。さらに隣へ。町境の塀を越えて、さらに先の屋根へ。
軽々と飛んで消え去るその姿を見た者があったとしても、白い影が視界をかすめたとしか思うまい。
大江戸の夜は、ますます深い。