あなたはそこにいますか?
わたしはちゃんと生きているのでしょうか?
ふもとの家に帰ると盛大に心配されていました。散々に怒られました。
警察はもちろん山岳警備隊に連絡してこれから大規模な捜索を取り行う一歩手前でした。
あぶねぇ、直前に帰れて良かったです。
私の服のあれやこれやをドーベルマンや警備隊にくんかくんかされる所でした。
警備隊のあの人下着ドロやってましたし。コレクターだとか自称してましたけど犯罪ですよ。捕まれ。身内に甘過ぎやしませんかね官僚組織め。
ケータイにかけても繋がらないし(圏外ですようちの山なめんな)。
山の休憩所に問い合わせても下山の途中で行方不明になってるし(獣道にショートカットしてました)。
事情説明したらすっごい怒られました。両親にはもちろんですけど、一番効いたのが山岳警備隊に「山なめんな」って言われたことでしょう。ぐぬぬぬ。
まぁ長いこと見つからないからおおかみに食われたんじゃないかと思われてました。
目撃例が極端になかったので、おおかみがいるのか半信半疑だったんですけど……
本当にいました。アレをおおかみと言って良いのかわかりませんけど。
けど噂はそんなに間違ってなかった気がします。
自称おおかみに化かされて帰って来たようなものですし。
散々どうやって帰って来たんだと聞かれたましたが、なんか神様の使い的な変なのに案内してもらったと説明しました。アホかって言われたけれど、それ以外に弁明方法がないです。だってアレをどう説明したらいいのか。
本当のことを言っても信じてくれないでしょう。そう言ったあの人の言葉は正しかったのです。しみじみ実感してます。人間って非現実的な発言って徹底して信じませんからね……。
何度も何度も同じことを聞かれましたが、わたしの証言は覆りませんでした。だんだん半信半疑ながら信じられるようになっていきました。
結論として、キツネに化かされたのではないか、という所に落ち着きました。
あの人おおかみらしいですけど、こういう不思議なイタズラはキツネの専売特許ですか。
皆納得したようなしてないような、キツネにつままれた顔をしていたけれど、わたしも似たような顔をしていたと思います。科学で証明できないことを、なんとか納得させようとしている感じです。
それでも時間が経てば騒ぎは収まっていくものです。
おおかみさんに会う前と同じ生活をしてると、山奥でのことは夢だったんじゃないか。
そんな風に思ってしまいました。
なので確認するためにまた、山の方に行きました。あの時と同じように獣道を歩いています。
おおかみさんに出会った所のさらにその奥深くをてくてく歩いてます。
ヒト用に整えられた道ではないので、草や枝がぼうぼうに生えていてとても歩き辛いし、
体力がじわじわ奪われていきます。
前の時も思いましたが、わたしが知っている山は表層でしかなかったのだと思います。
山は優しくもあり、厳しい色んな顔を持っているから、それに比べたら人間なんてちっぽけなもの。人間同士の争いなんて小さいこと患ってるのがバカバカしくなってくる。なんて言う人もいましたっけ。
……そうですね。山登りめっちゃしんどい。
歩いても歩いても、おおかみさんに全然会えません。
もっと奥の方にいるんでしょうか。あなたは本当にそこにいますか? わたしが会ったあなたは幻だったのでしょうか。やはりファンタジーは科学に排除されてしまうのでしょうか。そんなことを思ったとき。
あ。足元が消えました。
地面がない!!
単に足を踏み外しただけですが。まさか茂みの先が崖とは。どんなお約束ですか。不注意過ぎます。内心舌打ちした刹那、重力に引かれる嫌な浮遊感がお腹を襲いました。
結果、ケチャップですかね。
もう落ちるしかない、痛いのは嫌だからすぐに終わってほしいなぁと覚悟したその時、手を掴まれました。
ぐい、と引かれました。重力が反転して微かな痛みが腕に。
気が付くと両足が地面を踏みしめているのが良く解りました。へなへなしおれるみたいに腰が抜けました。両手両足で大地に触れて実感します。
地面最高! ノー浮遊感!
「何してるんだお前」
顔だけ向けて声のした方を見ると、あの例のおおかみ?さんがいました。
やっと会えました。あれだけ歩いていたのに全く会えなかったのに。
でもこんな何でもない風に声かけてる来るなんてずるい。一方的過ぎる。
言いたいことはたくさんありました。おおかみさんに文句言わないと気が済まないです。
ですがその時はまだ腕も足も何もかも震えていたのです。
「お、お、お、お、お、お、お、お、お、おかみさん」
「スタッカートが効いてんな、旅館の女将かよ。落っ着け」
無理。今は心臓バクバクいってるのに忙しいですから。
ヘタに安心しきっている今、すごい嫌な汗が背中をタラタラ流れてるのが良く解ります。
息もなんか早いし、苦しいし、なんだかぷるぷる震えてる感じがします。さしずめ生まれたての小鹿です。バンビちゃんですね。
「やれやれ」
嘆息すると、おおかみさんは。
わたしに抱きつきました。いえ、わたしを包みこみました。
「っ? っ!! っ!?」
予想外の行動だったので別の意味で、震えながら硬直してしまいました。
器用ですねわたし。
「まだ区切りが効いてんな、深呼吸してみ、過呼吸なってんぞ」
まだ喋れる余裕はないです。ひゅーひゅー風を切るような荒い呼吸音しか出せません。
「ほら、ひっひっひっふー」
それは妊婦さんが使う呼吸法です。誰ですかこの人に間違った知識植え付けた人は。こんな状態なのでツッコめないのが凄いもどかしいです。くっ。
しかし、一人冷静なおおかみさんです。
なんでそんなことするんですか? あなたおおかみだって言ってたじゃないですか。なんでそんなに人間くさいんです?
伝えてくる感触は人間と同じく柔らかいもの。そう、人間そのものです。
本当におおかみなんでしょうか。この人……いえ、そもそも人なんて呼んで良いんでしょうか。人外に変身できますし、人間じゃないのは確かなんでしょうが。
名前だってわからないからこの人をおおかみさん、と呼ぶしかないのですが。
「育ての親が辛いときこうしてくれたからな、きょうだいもそうすると、マシになってた。そうすると落ち着くだろ?」
なんて懐かしそうにそんな話をするんですか。
こんな風に優しくされてしまうと、わたしはこの人を人間として見そうになります。
見た目だってほとんど人間なんです。心だってきっとそうです。こんなに優しいのですから。
けれど人間ではない、とおおかみさんは言います。わたしはこの人をどう扱えばいいんでしょう。
「人間は…………何でもない」
もうちょっとおおかみさんのことを聞きたかったのに。
それ以降はずっとだんまりでした。
わたしの震えが落ち着いたころには、おおかみさんはすっと離れていきました。
離れるのが絶妙なタイミングだったので、あたたかい温もりが離れてしまって、寒く感じてほんのり寂しくなりました。
しかし惜しいですね。この機会にもう少し聞けると思ったのに。
わたしの物思いを断ち切るみたいに、おおかみさんは鼻を鳴らしました。
「う、キツぅ」
すんすんと腕のあたりを嗅いでいます。微妙に鼻から離しているので相当においがきついのでしょう。まゆをしかめています。
わたしの体臭がおおかみさんに移ったのでしょう。あれだけ長くくっついていたので、においが移っても不思議じゃありません。
「失礼ですね、毎日お風呂入ってますよ」
何だかわたしの体臭がキツいって言われてるようなものです。
気になってわたしも腕や胸のあたりを嗅いでみます。自分のにおいと自分じゃないにおい。
おおかみさんの微かな移り香がします。
……木と草と土、言うなれば山の臭いがします。これがおおかみさんのにおいでしょうか。
犬や猫でも獣臭いにおいがするものですが、おおかみさんはそんな匂いがしません。今は獣の姿ではないからでしょうか。
……それにしても人間のにおいもしません。やはり人ではないのでしょうか。
「それはすまん。人間のにおいが相当強くてな。そうだな……人間風に言えばニンニク、酔っぱらいの酒臭さくらいかな」
「それはそれは」
何と言えばいいか。強烈なにおいなのでしょう、おおかみさんからしたら。
人間でもそういう種類のにおいは苦手です。それも強くにおったら相当のものです。
解り易すぎてかえって困惑します。
救いなのは、におい自体を嫌ってはいないことでしょうか。
普通、悪臭がするとどうしても遠ざけようとしますが、おおかみさんはそういうことをしません。においが強過ぎるせいで、単に顔をしかめていただけなんでしょう。
「で、何の用だ? 迷い込んだわけじゃないだろ。こんなとこ来やがって」
結構前からわたしが来てたことはわかっていたようです。
それなのに姿を見せてくれないとか、ひどいです。このまま追い返す気満々だったようです。
それでも危ない所をギリギリ助けてくれたから良しとします。
ヒーローは遅れて出てくるものですし、間に合ったから良しとしましょう。
わたしは器の大きい女ですから、怖い思いもしましたが許すのです。
「あなたに会いに来たんですよ」
「寝言は寝てからにしろ」
「あなたに会ったのが夢かと思って」
「ああ、非日常だな。ありえないもんだ」
ルーチンワークが染みついた日常。平和だと思います。
けれど何の刺激もない、生きているのか死んでいるのかすらもわからない停滞したような濁った空気に包まれていました。つくりものだらけの中、鏡を見るとガラス玉のような目をしたわたしがいました。
おおかみさんと出会うことでわたしはそれに気付きました。
あなたはガラス玉の目をしていなかった。夜空に浮かぶ星を宿したように生きている目をしていました。あの目をもう一度見たかった。けれどわたしの日常にあなたはいない。
だからあなたに会いに来たのです。
非日常をわたしは選んで、会いに来たのです。
どこか、さみしそうに苦笑するように自嘲めいた笑みをおおかみさんは浮かべます。
どうしてそんな顔するんですか。
集団は異質な存在を排斥します。人間の形を取れるおおかみなんて存在自体がありえません。突然変異か何かの希少種でしょう、科学的に説明するならば。
おとぎ話なら、おおかみ人間だと簡単にすんなり受け入れられるのですけどね。
こうして自分で目にするまでは、わたしは聞いても信じなかったでしょう。
理解不能なものを排除する……そういう意味では排斥されても仕方ないかもしれません。人間も多少の差異でさえそうです。集団が存在する以上は、当たり前のことです。そんなに気にすることではありません。
なのに。
ぴんと貼っていたとんがった耳も心なしか垂れさがっています。
無表情ですが、明らかしょんぼりしてます。おおかみさんにしっぽが生えていたならきっとしんなりしていたでしょう。
これはこれでぎゅっとしたくなるほど、かわいいんですが……そんな顔しないで下さい。
わたしは、おおかみさんの顔に手を伸ばしました。警戒するようにビクッと震えます。
けれどわたしが何をするのか見極めるように、あえてじっとしているように見えました。
さらに手を伸ばすと触れました。
柔らかくて熱を持ったほっぺ。
夢じゃなかったのだと、触れることでやっと安心することができました。
あなたはここにいる。わたしは白昼夢を見ているわけじゃない。
抱擁されたりと触られましたが、わたしから触ったんじゃないので不安でした。
おおかみさんに会う前に感じた不安は、溶けるようになくなっていきました。
こうすることで、おおかみさんに触ってもいいのだと言われたような気がして、嬉しくて。
胸がほうっとあたたかくなりました。
「触れるじゃないですか、ありえないものじゃないですよ」
あなたにも思ってほしいのです。あなたはここにいる、ちゃんと存在しています。
「タチの悪い幻覚かもしれない、触れるくらいのまぼろしだって最近は出来るかもしれないんだ。IT革命なめんな」
「そんなのありえませんよ、脳に直接幻覚を流し込まない限りは」
即座に断定します。
弱気になっている相手には隙を見せるべきではありません。畳みかけるように続けます。
IT革命って……人間の歴史に詳しいですね。技術の進歩がめざましいのは否定できません。
「やけに限定するんだな」
「わたしが知らないだけで、もしかしたら技術的には実現してるかもしれません。最先端技術は一部の層に秘匿されるのは世の常ですから。
でもわたしは弄られた覚えもないですし。……多少検査はしましたが異常はありませんでした。
わたしがこうしてあなたに触ってる。体温を伝え、伝えられている。それが何よりの証拠です。あなたはここにいる、それだけのことです」
「変な人間だな」
目を閉じて嘆息しました。肩の力が抜けたように深呼吸しています。
ひとまずは説得されてくれたようですね。
でもわたしもおおかみさんも、完全に納得いく答えを出せたわけではないですから。
……わたしの説得に納得してくれたわけでもないですから、合格ラインですが優良ではないのです。
「ならあなたは変なおおかみですね」
人間の形をしているのに、おおかみだと言い張る。
なのに全く獣くさくない。
こんな風に自分の存在に疑問を持っている。
どちらかというと人間の側に傾いている。不安定なあなた。
風が吹いて、わたしたちの髪を乱して行きました。
「……冷えて来たな。麓まで送る」
「あ、待って、くぁ」
追いかけようと足を踏み出すと、つま先が木の根に引っかかって、膝がカクッ。
……おおかみさんの背中にぶつかりました。
「どうした?」
「や、なんか……すみません」
自分のドジさ加減が恥ずかしいです。まともに顔を見れません、顔熱いです。
何してるんでしょう、わたし。
まだ、崖落下未遂を引きずってるんでしょうか。震えは完全におさまってるのに。
おおかみさんは嘆息して、肩をすくめました。それから。
「ええ!?」
がしっ。無造作にわたしの手を掴んでいました。
「見えてないんだろう? 足元。明りないと不便だな」
否定できません。
もう日が暮れていましたから。自分の手なら見えますけど、足元となるともうぼんやりです。数メートル先は何があるのかほとんど見えません。
すいすい歩いてますから、おおかみさんは見えてるんでしょう。
「うう、ナビして下さるんでしたら自分で歩けますよ」
小さい子扱いされてるみたいで、何だか恥ずかしいです。
手を離そうとバタバタしますが、おおかみさんは放してくれません。
「面倒だ、手を引いた方が早い。もうすぐ完全に日が暮れる。なんとか日暮れ前には送り届ける。万が一暮れてしまっても、手を放してる方が危ない。はぐれたら大変だろ?」
本当に子供扱いですか。
…………夜目は利きませんから否定できませんけど。
「うぅ、お願いします……」
「それから。これに懲りたら、もう来んのやめろ」
何も含有物のない声。優しさも興味も拒絶も忌避も何もない。
それは無関心な声でした。
地元の人も使わない獣道を1人で歩いて、不安になってもずっと歩き続けました。怖くて不安にならなかったと言えばウソになります。それでもあなたに会いに来た。
だから。
あなたにわずかばかりとはいえ、好意を持っていることは伝わっていると思っていたのに。
胸がチクっと痛みました。
「それはヤです」
即答しましたが、答えてくれません。
黙々とただ道を進んでいくだけです。なんだか気まずい重い空気になってきました。
でも譲れません。重ねて言います。
「不確定なことなんて…………約束出来ませんから」
「嘘でもいい、ただはい、って言えば良い」
「ヤです」
言葉には力が宿るとおばあちゃんが言ってました。それを言霊と言うのです。
良いことも悪いことも口に出してしまえば力が働いて、そういう方向に引きつけてしまうことがあると言っていました。だから言えません。
目の前には、おおかみさんの背中があるだけです。その背中が遠く見えました。手を繋げる程の距離なのに。心はどんなに離れているのでしょうか。
「あのなぁ」
「ウソつかないで本当のこと言わないと、大事な時に信じてくれないじゃないですか。童話でもあるでしょう? だって狼少年は」
ウソばかりついていた狼少年は、本当のことを言った時には誰にも信じられず。最期には悲惨な末路を迎えました。
「TPOわきまえたらいいだけの話だろ」
「心にもないこととか言うの、嫌なんですよ」
そんなことをすれば自分の心がスカスカになっていきます。
何が本当のことなんだろうと、自分で自分のことを信じられなくなってしまうのです。
「変な人間」
それが人間の普通だろうに、それをしないわたしが普通でないと言うのです。呆れて、ため息をつかれました。
でもさっきより、無関心さは薄れていました。ほんのり嬉しくなりました。
いいでしょう?
人でも、おおかみでもない、どう見ればいいか解らないあなたの前では。本当のことを言っても。
「またそれですか」
変な人間と変なおおかみ。
今はただ、それだけの話。それで良いではありませんか。