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番外編(3) ワイルダーさん、あなたに神の祝福を

「よーし着いたぞ」

 ボブが車を停めたのは、電気街からニコルソン広場と中央駅を挟んでちょうど対角線上にある官庁街のほどちかく。ヴェスト(西)プラティーン(白金)と呼ばれる高級住宅街の入口といっていい場所だった。

 車から降りたボブの金髪は、ほんの僅かに艶かしく乱れていた。

「ここがあの噂の」

 おなじくミッシーの短く切りそろえられた髪も、わずかに乱れている。うなじの後れ毛が艶かしい。

 衣装は先程までとは異なり、ボブのものには見劣りするがそれなりに良い生地を使った深紫色のジャケットとタイトスカート、シルクのブラウスと濃緑色のドレスコートである。

「そゆこと。わたしも来るのは久しぶりだな」

 店構えは小さい。

 大型のセダンが三台だけ止められる駐車場に、一階建ての鉄筋コンクリート造り。

 こじんまり、という表現がピッタリだ。

 その駐車場はすでに大型の高級セダン二台で埋められていた。

 特に珍しくもなんともない。

 むしろこの時期に割り込めた事のほうが奇跡と言って良いのだ。

「さて行きますか」

 と、ボブはミッシーの手をとった。

「はい」

 ミッシーは嬉しそうにボブの指に自身の指をからませた。


「いらっしゃいませ、フォン・ワイルダー女伯爵様。二年と一一ヶ月ぶりですか」

「お久しぶりです、ヘル・クルピンスキィ。お元気そうで何よりです」

 ボブは出迎えた老齢の紳士と挨拶を交わした。

 紳士の背筋はピンと伸びており、年齢を感じさせないが、その声は年齢に応じた深く落ち着いたものだった。

「すいません、お忙しいのに席を空けて頂いて」

「共和国騎士殿のお頼みとあらば、どうということも御座いません。それに、ちょうど急なキャンセルが出ておりましたもので」

 ボブは頷いた。実際はクルピンスキィが日程を調整してくれたことを知っているのだ。

 そのままミッシーのコートを脱がせてやり、クルピンスキィに手渡す。

「こちらはミシェール・エリオット。先日まで私の部下でした」

「こんばんは、ヘル・クルピンスキィ。エリオットと申します。お世話になります」

「こんばんは、フロイライン・エリオット。この店の主人のクルピンスキィと申します。今後ともよしなに」

 店内は手頃な大きさで、ボックス席が二つ、テーブルが一つ。それに八人がけのゆったりとしたカウンターがひとつ。狭いとは言っても、店の奥に向かうとしてもカウンターの客に体が当たることはまずない。

 いずれも厚手のオーク材で出来ており、一片の曇もなく磨き上げられているが、脂とアルコールとタバコのヤニがよく染み込んでいる。

 カウンターの奥がグリルとバー設備となっていて、入口側の棚に作り付けられた棚には洋の東西を問わず高価な酒のボトルが並んでいた。取り置きの札がかけられているものも少なくない。

 店内は落ち着いた暗さで、通路ではお互いの顔を確認するのも難しい。

 カウンターはすでに満員、テーブル席もボックス席も誰か彼か先客がいる。

「ではこちらへ。お連れ様がお待ちになっております」

 クロークへコートを入れたクルピンスキィが先に立ち、奥のボックス席へ案内をする。

 お連れ様?どういうことだ?

 ボブとミッシーは顔を見合わせいぶかしんだが、どうにも思い当たるところがない。

 突っ立っていても仕方ないので、老人のあとに二人は続いた。


 と、途中で意外な人物がいることに気がつく。

 普段の印象からあまりにもかけ離れた柔和な雰囲気を出しているので、視界に入っていたのに全く気が付かなかった。

「ゲイツ少佐?」

「お。やぁ、ワイルダーくん。久し振りだね」セントラム・シュトラッセ西三丁目にある老舗、ベルンハルトの仕立てと思われるダブルのスーツを粋に着こなしている紳士は、独立第五砲兵聯隊のゲイツ少佐だった。

 久しぶりに見るゲイツ少佐の表情は明るいものだった。

 戦地で声を交わしていた時のような厳格な雰囲気は、そこにはない。

 隣の青年士官らしい男性の存在は、おそらく無関係ではなかろう。

 取るものとりあえず握手を交わす。

「デートかい?」

「ええまぁ、そのようなものです。ミッシーはご存知ですね?」

 ミッシーは顔を赤くしたが、軍人としての習性で気をつけをしたままだ。

 ゲイツはミッシーにも握手を求めた。

「エリオットくん、先のいくさではいい働きだった。だが意外だな。ワイルダー、きみはもう少し保守的かと思っていたが」

「大隊を救った者から姉妹の契りを求められては否応もありません。が、実際は気分次第というところで。どうもあのいくさからこっち、ものの見方が広がったようです。……ああ、そちらも?」

「ああ。紹介するよ。ヘッセンだ。私の副官を務めてくれている」

「こんばんは、ヘッセンくん。ワイルダーだ。ゲイツさんには先のいくさで世話になった。おそらく君にも大いに世話になったと思う」

 ボブはゲイツが隣席の青年士官を紹介するときに、階級を付けなかった意味を違えなかった。

 ここに居るのはあくまでもプライベートであり、軍での階級は関係ない、ということだ。

「初めてお目にかかります、ワイルダーさん。先のいくさではご苦労様でした」

 ヘッセンは年の頃二〇台後半、短く刈り揃えたアッシュブロンドがはためにも美しい。

 少しばかりがっちりした体型で、身長も少しばかり小さい。顔についても同じこと。ボブの好みではないが、男らしいといえば男らしい顔つきだ。ただ、好感は持てる範囲ではある。

 なるほど、そういう好みならまぁ仕方ないか、とボブは思った。

 北部中央回廊の戦闘終了後、落ち込んでいたゲイツを慰めようとして失敗したことがあるのだ。

 まぁ人のことはとやかく言うまい、とボブは微笑した。

「何ほどのこともない。だがその節は、まことにありがとう」

 と言って軽く会釈する。

「ところできみ、新しい部署は決まったのかい?」

「いえ、未だに軍大です。先日ようやく基礎参謀コースの前期が終わったところで」

「なるほど。こっちは先日発表になったとおりだ。いや、なかなか骨が折れる」

 陸軍独立第五砲兵聯隊は、独立第五”突撃”砲兵旅団への拡大改編が決定されていた。

 ゲイツたち第五砲兵聯隊の生き残りは、みなまるごと旅団への再編委員や中核部隊として再配置されている。

 と、そのような話をしている間に、ヘッセンの表情がごくわずかに曇り始めた。

 そろそろ潮時であろう。誰だかしらないが、人を待たせてもいることだし。

「さて、ゲイツさん。また機会がありましたら、改めて」

「ああ、そうだな。こちらからも是非に」

 軽く会釈を交わして奥の席へ向かう。

 カウンター席に座っているのはゲイツたちの他に男女が三人ずつ。

 いずれも身なりの良い官僚と思しき男女の、仕事の付き合いだ。

 テーブル席やもう一つのボックス席も似たようなもの。

 いずれも和やかに会話をしながら酒や食事を楽しんでいる。

 しかし。

「ねーさん」

 ミッシーがボブの耳に届くか届かないかの小さな声で警告する。

 公式に戦争は終わったとはいえ、すでに厳密には合法とは言いかねる作戦行動に参加するようになった二人には、彼らが発する臭いを嗅ぎ分ける能力がついていた。

 諜報(インテリジェンス)関係者(エージェント)

 いわゆるスパイおよびカウンタースパイに関わる者達特有の体臭というものがある。

 彼らの臭いは軍人とは、いやたとえ軍籍にあるものでも、他の職種の者とは大いに趣が異なる。

 そのにおいを一言で表すのは大変に難しい。

 それに、ほんのごくわずかに、前線に立ち続けているものでないとわからない程度に、殺気を感じる。

 まあいい、自分たちもそれなりに訓練は積んでいるのだ。何かあっても一矢報いるぐらいはできるだろう。あるいはゲイツたちを逃がすことはできるかも。

「すまんな」

 手に力がこもる。

「大丈夫です」

 ミッシーが強く握り返してきた。

 そうこうするうちに座席についた。

 先客はこれまた意外にすぎる人物だった。

「お久しぶりね、ローラ」

 待ち人は正統帝国政府首班、アナスタシア・イヴァノヴァ王女殿下だったのだ。


 二人は猛烈に焦った。

 ボブは表情ひとつ変えなかったが、背中は汗でぐっしょりと濡れてしまった。

 ミッシーに至っては今にも卒倒しそうなほどだ。

 とするならば。

 ゲイツら二人を除く周囲の一四人ほどの客は、四人がアナスタシアのSP、他は帝国・共和国双方の諜報関係者というところだろう。

 まぁ、かの名状しがたき魔物たち、公安警察防諜部九課一三班、通称H班ということはあるまい。

 HはHitのH。

 暗殺屋達が出張ってくる局面ではないはずだ。

 いや、最低限の注意は必要だが。


「ええ。本当に、お久しぶりですね、アンナ」

 ボブの挨拶を聞いてアナスタシアは眉を上げた。背後の殺気もより低いレベルとなる。

 アンナとは、九年前にアナスタシアが来訪した際にプライベートで使用していた偽名であるからだ。

 もちろん今のアナスタシアはお忍びであることは一目瞭然、目立つ格好はしては居ない。

 ボブと似たような、一見すれば地味と言えなくもない格好だ。

 だが中身が中身である。

 さらさらと流れるようなプラチナブロンドのロングヘアはただそれだけで人目を引くし、雪のように白い素肌は女どもの羨望の的であることは疑いがない。

 長く儚げなまつげに、甘くも冷たくもなりそうな目元と来れば大抵の男どもはひざまずくのをためらわないだろうし、育ちから来る凛とした佇まいには最近増え始めた戦闘的反戦論者でさえ口をつぐむであろうことは用意に想像し得た。

 年の頃はボブより二つほど年下であるが、そんなことは問題にもならない。背負っているオーラが違いすぎるのだ。

 くだくだしく述べたが、つまるところ普通に歩いているだけで人目を引いてしまう。

 誰がどう見ても王女殿下。

 わからないものは余程の世間知らずか、いまのゲイツたちのように彼女に対して興味を持たないかのどちらかだ。

 ところがボブは王女殿下ではなく、ただの帝国人・アンナとして扱ってみせた。

 アナスタシアの意図をこれほどよく酌んだ振る舞いもあるまい。

 ゆえにこのボブの振る舞いを期待していなかったアナスタシアたちは、それに少々驚くこととなったわけである。

 

 アナスタシアはすぐに表情を柔和なものとし、二人に着席を促した。

「お元気そうで何よりです」

「ええ、ほんとに。あなたもね」

「私は頑丈なだけがとりえですから」

 二人はふふと微笑んだ。

「ローラ、こちらのお嬢さんを紹介してくださる?」

「ええ。こちらはミシェール・エリオット。私達はミッシーと呼んでいます。大変世話になっています。ミッシー、ご挨拶を」

 あくまでも穏やかな滑り出しの会話ではあったが、ミッシーはアナスタシアのオーラにすっかり気圧されてしまった。

 お陰でガチガチに固まって、ろくに言葉を発することができない。

「どうなさったの?」

「いやぁ、アンナの雰囲気に当てられたんでしょう。あなたほどきれいな人は、こちらでも珍しいですから」

「あら、お上手」

「私みたいに荒っぽい連中が相手ならもっと気楽に振る舞うんですがね。ほら、水飲め」

 といってボブはグラスの水をミッシーの唇にあてがってやる。

 ミッシーはグラスを受け取るとゴクゴクと一気に飲み干した。

 まるで年端の行かない幼子をあやす乳母のようだわ、と、育ち故に妹弟の面倒を見たことがないアナスタシアは思った。

 こんなので大丈夫かしら。確かに九年前もずいぶんと甘い女だと思ったけれど、ここまで甘いと。眼鏡が曇ったのかしらね。それともそういう仲ということかしら?そんな情報はなかったけれど。いいえ、事前の情報に頼るだけではだめね。

「はぁ…すいません、失礼しました、ええと、」

「アンナさんだ。アンナ・テレジコワさん。私が戦前、大変お世話になった人だ」

 元気づけるかのように、ぽんぽんとミッシーの背中を叩いてやる。

 お世話になったとは言いも言ったり、むしろこちらのセリフよね、とはアナスタシアも言わなかった。

「どうも、初めまして。ミッシー、ミシェール・エリオットです。先のいくさでは陸軍中尉として少佐の幕下に居りました。今は情報軍大尉を拝命しております」

「初めまして、大尉さん。私もミッシーと呼んで良いかしら?お噂はかねがね」

 にっこりと微笑むアナスタシア。

「え、ええ。もちろんです、アンナさん」

 ミッシーはぎくしゃくとお辞儀した。

 さて、どうしたものか、とボブは思う。

 この姫様、何が目的なのだ?

「そんなに固くならなくていいわ。今日は旧交を温めに来ただけよ」

 アナスタシアは見透かしたように笑う。

 『旧交を温めに来た』

 お互いに立場というものがあるもの同士、言葉通りに受けとりたくてもそうはいかない。

 ボブはどうにもお手上げだという表情をしてから、アナスタシアに頷いた。

「確かに我々は旧交を温める必要があるのでしょうね。積もる話もありますし」

「納得いただいて幸いね。さて、そろそろ食べましょうか。ここは私が奢るわ」

 それを聞いてボブは目を剥いた。

「いいんですか、アンナ。私も結構食べるほうと自認していますが、ミッシーは無茶苦茶食いますよ。こんななりですが、私の倍は楽に食べます」

「やだ、ねーさんそれ言わないで……」初対面の人間の前で何を言うのだとミッシーは抗議したが、ボブは「どっちみち食べたらバレるんだし」と軽くあしらった。

 アナスタシアは相手を小馬鹿にした顔でため息をひとつついた。目は笑っている。

「あのねぇ、いくら家産が傾いたと言っても私は大陸随一の資産家よ?そりゃあここ最近は素食してるけれども、どうということはないわよ。私だって噂に名高いデァ・グリルの熟成限定特選肉とやらを食べてみたかったのだし。それとも何?こっちが無理やり押しかけて無理やり話をしてるのに、何もせずに帰れということかしら?」

「いや、それは」

「ならばこちらの言うことを素直に聞きなさいな」そう言ってアナスタシアは茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。

 そこまで言われれば否応もない。二人は帝国王女、いや実質的には女王となったアナスタシア直々の饗応を受けることとなったのだ。


 食前酒とアペタイザー(つまみ)、それに他愛もないうわさ話で暇をつぶすこと小一時間。

「お待たせいたしました」

 三人の前に肉の乗ったプレートが、どん、と置かれる。

 実際にはそっと置かれたのだが、そのあまりの存在感に三人は圧倒されたのだ。

 デァ・グリル熟成限定特選ステーキは、厳選された皇国産大辺(おおべ)ビーフもしくは共和国産特A級牛を枝肉(皮を剥ぎ、内臓や頭部、足先などを取り除いて部位ごとに解体しやすくした一頭分の肉塊)ごと店主自らが買い付け、店舗地下の低温貯蔵室で熟成させたものだ。

 肉の細胞が程よく自壊し柔らかくなり、酵母菌が繁殖し旨味をましたところを調理するわけだ。熟成期間は部位や肉の質によって異なる。

 この熟成に失敗すると、肉は腐ってしまう。毎日の温度・湿度管理を神経質に行わないと、肉の旨味を存分に引き出すことはできない。卸売業者でも行っていることではあるが、これを調理する店が自ずから行うところに、この店の凄みがある。


 さて、テーブルに並べられたのは、ボブが限定特級大辺ビーフのサーロイン二五〇グラムを二つ、アナスタシアが限定特級テンダーロイン・コア二〇〇グラム、そして我らがミッシーは限定熟成特級雌牛テンダーロイン五〇〇グラムを三枚、計一五〇〇グラムである。


 いずれも甲乙つけがたい。


 部位だけで言えばアナスタシアの頼んだテンダーロイン・コアが最上級である。非常に柔らかく脂肪の少ない「肉らしい肉」が堪能できる。一頭の枝肉からは四キロしか取れないヒレテンダーロインのさらに奥、わずか六〇〇グラムほどしか取れない希少な部位だ。

 これをアナスタシアはミディアムレアで注文している。ソースは濃厚な味わいが特徴的なグレービーソース。香味野菜がふんだんに使われ、プレートの熱で弾けるソースの香ばしい香りが食欲を掻き立てる。


 対してボブの頼んだサーロインは、ステーキ肉として非常にポピュラーな部位である。

 共和国産であれば脂肪が少ない赤身肉となるが、ボブの頼んだ大辺ビーフは筋肉の繊維一本一本に絡まるように、白く透き通った脂肪が入っているのが特徴だ。これを皇国人は「サシ」と呼び、きれいにサシの入った肉は煮てよし、焼いてよし、生食してよしの美味なる肉として珍重されている。

 ボブはこれをレアとウェルで二五〇グラムずつ頼んでいる。塩コショウとソイソース、ワサビで食べる腹づもりらしい。ウェルのプレートにはたっぷり脂と肉汁が染みだしており、これをどうするのかとアナスタシアは訝しんだ。

 

 ミッシーの限定熟成特級テンダーロインは、共和国産特A雌牛からとったものである。共和国中央食肉市場肥育牛協賛会の品評会において、六〇〇万ギルをマークした雌牛だ。

 通常、食肉にされる牛(肥育牛)は去勢された雄牛を用いる。雌牛には子を産み育てるという仕事があるからだ。

 しかし雌牛を肉として育てると去勢雄牛よりも一段上の柔らかさをもつ事となり、つまりはそれだけ希少な肉ということになる。

 さらには皇国産ほどではないにせよ、しっかりとサシが入っている。

 肉と脂の味のバランスが良さそうな逸品にアナスタシアの喉もぐびりと動くが、しかしてその量が量である。本当に食べきれるのかどうか、周りの人間の気を引くところとなった。




「へぇ」

 アナスタシアは大いに驚いた。

 ナイフをあてがうと柔らかい肉はすっと切れ、濃厚でありながら上品な肉の匂いが漂った。

「確かに大したものね」

 切れた肉の断面は外周から内側に向かって白からピンクへと見事なグラデーションを描き、 しっとりと濡れている。

 切り取った肉をさらに切り、その一つをバラのつぼみのような唇へと運ぶ。

 奥歯で噛みしめるとさくり、という感触とともに肉が切れ、直後にふわりと肉の繊維がほぐれるのがわかった。

 途端に口中に広がる肉汁と旨味。

「!」

 思わずアナスタシアは目を丸くして、声にならない声を上げそうになった。

 かつては帝国の王族として全世界の珍味を味わったこともあるアナスタシアだが、これほど見事なステーキを食したことはなかったのである。

 目を丸くしただけで呻き声ひとつ上げなかったのは、これぞ教育としつけの賜物と言えただろう。

「お気に召しましたか」

 そのようなアナスタシアの様子を見て、ボブはにっこりとした。

 見ればボブは肉を切り分けこそすれ、まだ手を付けていない。

 アナスタシアがこの店を気に入るかどうかを見極めてから手を付けよう、ということなのだろう。

 アナスタシアは目配せでそれに応え、口の中の旨味を一通楽しんでから飲み込んだ。

 ワインを一口喉に流し込んでから、ほうとため息をつく。

「こんなにいい店を知っていたなら、あの時教えてくれたってよかったでしょうに」

「あの当時は立場というものがありましたから」

 言うとボブは皇国産の清酒のグラスをついと傾けた。

 ついで小皿にソイソースを小さじ二杯ほどいれ、ワサビを溶かす。箸の使い方は堂に入ったものだ。

 切り分けた大辺ビーフのサーロイン、その断面が肉汁と脂でキラキラと輝く一切れを箸でつまむとソイソースをほんの少しつける。

 そのまま左手を受け皿のように構えつつ、肉汁もソイソースもこぼさないように慎重かつ素早く口に運びいれた。

「~~~~~~~~~~~~!」

 一かみ二噛みして、ボブは遠慮なく声にならない声を上げた。

 顔はほころぶという段階を通り越し、いささかどうかと思うほどに緩みきっている。

 ほんの僅かな回数の咀嚼ののち、うっとりとした表情で飲み下す。

「……っはぁ……」

 天を仰いだボブは艶やかな吐息を漏らす。

 恍惚を全身で表現するかのようだ。

 その体勢のまま清酒のグラスを見もせずにつかみ、軽く一口流し込む。

 ボブはグラスと箸をおいて、両手で顔を覆った。

「ヘル・クルピンスキィ」

 ボブは店のオーナーに声をかけた。

「何でしょうか、少佐殿」

 クルピンスキィは即座にボブたちの席までやってきた。

「泣いていいですか」

「手前どもに何か落ち度でも」

「いやぁ……生きててよかったなぁって……」

 クルピンスキィは破顔し、大きく頷くと

「恐悦至極に存じます。どうぞ引き続き、お楽しみくださいませ」

 と一言述べたのであった。


 こうなるとアナスタシアもボブの皿が気になって仕方がない。

 隣の芝生は青く見える。

 あの子のお肉は美味しそう。

 もちろんそれは錯覚のようなものだが、気になることを気にならないと無理していても体に悪い。

 あえてボブの皿を目にしないようにして付け合わせのマッシュポテトをいじっていると、ボブがついと皿を押し出してきた。

「一切れいかがですか、アンナ」

 その目は雄弁にこう語っている。

『気にするぐらいならお食べなさい』と。

 こうなるとアナスタシアにも否応もない。なにより今は一介の帝国人「アンナ」なのだ。

 勧められたものを食べてなにが悪い。

 アナスタシアはボブを軽くひと睨みすると、紅白の断面が美しい大辺ビーフを一切れ自分の皿にとり、塩を一振りしてから口に運んだ。

「!!」

 今度はアナスタシアも耐えられなかった。

 ボブと同じように、天を仰ぐかのような姿勢をとってしまう。

 驚くべきはその肉の柔らかさ。口に入れ噛んだ瞬間に淡雪のように肉が溶けて消えてしまうのである。

 あとに残るのは肉の旨味と脂肪の甘みばかり。

 思えば帝家の食卓に上る肉は、いわゆる肉らしさを追求した肉ばかりであった。

 むろんアナスタシアも第一王女らしく外遊も行っていたから、大辺ビーフを食したこともある。

 しかしこのステーキは皇国で食べたものよりもなお美味であった。しかしわずかながら皇国で食べた大辺ビーフより肉の味が濃く、脂の甘味のキレが良い。

 はぁとため息を付いたアナスタシアを見て、ボブはクルピンスキィに目配せした。

「皇国では大辺ビーフに対しては鮮度を求めますから。もちろん多少の熟成はしておりますが、私どもの熟成方法とはいささか趣が異なります」

 クルピンスキィは誇らしげに答えた。

 アナスタシアはその答えに大いに満足した。

 大陸人の舌に合わせた熟成方法をとっているのだとわかったからである。

 なるほど、それならたった一食のコース料理で低所得者がひと月楽に暮らせるほどの料金を取るのも合点がいく。

 アナスタシアは微笑むと皿をボブに押し戻した。

「大変結構ね。では、続きを楽しみましょう」

「ええ。おっしゃるとおりで。」

 ボブとアナスタシアは、改めてグラスを軽く触れ合わせたのだった。


 さてミッシーの頼んだ肉の量に対する周囲の懸念は、とり越し苦労そのものであった。

 孤児院と軍隊で鍛えられた早食い・大食いの妙技は大いに発揮され、アナスタシアが二口三口肉を噛み締め大いに賞賛している間に五〇〇グラムの肉塊の最初の一枚は『蒸発』してしまった。

 二枚目もすでに三分の一ほどが消えてしまっている。

 味の方は、垂れ下がった目尻を見れば今更説明の必要もないだろう。


「ううむ」

 レアの大辺ビーフを半分ほど食べたところで、ボブは唸った。

「どうしたの」

 肉を切りながらアンナが尋ねる。

 ミッシーは黙々と食んでいる。まるで牛か羊のようだ。口に運んでいるのは牛肉だが。

「いえ、その。……アンナの前で失礼にはなりますが、少々下品な食べ方をしてもよろしいですか?」

「構わないわよ、別に。私は王族でも貴族でもないのですもの」

 白々しい言葉をあさっての方を向きながらアナスタシアが口にする。

 その様子があまりにも滑稽だったので、ボブは口に手を当てて吹き出すのをこらえた。

「では、お言葉に甘えて。ヘル・クルピンスキィ。少々早いですが」

「承りました、少佐殿。少々お待ちを」

 傍らに控えていたクルピンスキィが、カウンターのコックに合図を送る。

 ややあって運ばれてきたのは大きく深い磁器に入った、山盛りの白米だった。

「いやぁ、毎度申し訳ありません」

 とボブはクルピンスキィに頭を下げた。

「いえ、お気になさらず。この店ももともとは飲み屋ですから」

 クルピンスキィはにっこりとして下がった。

 気づけば周りの(諜報部員やSPとおぼしき)男女も、伺うようにこちらを見ている。

 にやりとするボブ。

「それをどうするの?」

 アナスタシアは興味津々だ。

「我が国の皇国趣味の広がりはご存知でしょう?私の元教官に、サカイという皇国系のものが居りまして、彼に教わったものです」

「ええ」

「まぁ単純に言えば兵隊の食べ方なんですが、」

 と、おもむろにボブは肉を一切れついとつまみ上げ、ソイソースにちょっと浸す。

 それを今度はホカホカと湯気を立てる、白く透き通った白米の上に広げる。

 ほんの少し待ち、白米の熱が肉に移ったところを見計らって、肉で白米を包むかのようにして一口分すくい取り、口へ運んだ。

 そのままもぐもぐと口を動かし、うごかし、動かし、動かしながら俯いていく。

 アナスタシアとミッシーは訝しげにボブの顔を覗きこもうと、これまた前のめりになっていく。

 三〇回ほども口を動かしたところで、ボブの喉がうごめいた。

 ボブは俯いたまま白米の入った器をどんと置き、箸を持った手でこめかみをもんだ。

「ねーさん?」

「……やー……やっぱり肉にコメは合うなぁ……」

 感極まった声でボブは呟いた。

 そのまま大きくため息をつくと、もう一言呟く。

「最高だな」

「最高なの?」

 アナスタシアが尋ねる。

「最高ですよ」

 ボブは答えた。

「いわゆるひとつの最the高ですか」

 ミッシーも尋ねる。

「いわゆるひとつの最the高ね」

 ボブの答えを聞いて、アナスタシアとミッシーは顔を見合わせ、大きく頷きあった。

「「同じものを二つ」」

 ナスタシアたちの声を聞き、周囲の男女も頷きあった。

「私達も!」

「かしこまりました」

 かくしてデァ・グリルは、その晩だけで一週間分と同等の量のコメを消費することと相成ったのである。

 

「ちなみにですね、このよく火が通ったほうを賽の目状に切りまして」

「ええ」

「ふむふむ」

「こっちのワサビを溶かしたソイソースと、肉汁ごと混ぜてしまって」

「えー」

「肉汁ごととかねーさんそれ超ずるい」

「ちょっと胡椒と塩足して、ライスに」

「ライスに」

「ライスに」

「どーーーーーん!」

「うーわー」

「いったーーーーーーーーーーーー!」

「で、下品に食べます」

「最高でしょ」

「これは太る、間違いない」

「肉くってんのにそんなこと気にするな。胸が育たんぞ」

「それはひどい」

「ねーさん絶対に許さない」



 それなりに気の置けない会食も終わり、運転代行業者を待つ間にアナスタシアは支払いを終え、帰り支度を始めた。


「そういえば、」

 細巻きに火を付けたアナスタシアは足を組み、ボブの目を覗きこんだ。

「あなた、あの素敵な幼なじみとは別れたんですって?」

 ボブは眉をひょいと上げ、ハンドバッグから取り出した葉巻の吸口を切った。さすがに噛み切りはしない。

「ああ、そのことですか。まぁそれなりにショックでしたが」

 ボブは努めて何気ない口調で答えた。

 内心は先ほどまでの気分とは正反対だ。会食直前の気分よりもなお悪い。

 アナスタシアは見透かしたように薄く笑い、すぐに表情を消す。

 ふた呼吸ほど置いてから、アナスタシアはおもむろに言った。

「あなたが倒したあの子。とてもいい子だったのよ」

 表情は消したままで、帝国人アンナの演技をかなぐり捨てて。

「チェルノボグ」

「あなた達はそう呼んでいるのね。ええ、確かにあの子はチェルノボグ(怪物)だったわ。可愛い可愛い、怪物(チェルノボグ)

 完璧なポーカーフェース。

 アナスタシアの表情からは何も伺えない。

 しかし瞳の奥に、なにか複雑なものがごくわずかに滲んでいるように見えた。

「恨み言は言わない。戦争ですものね。ねぇ、ボブ。教えてくれないかしら」

「何をです」

 ボブは声を震わせないようにするので精一杯だった。

 ミッシーは緊張した面持ちで、二人を交互に見つめる。

「分不相応な思いを抱いたその結果についてよ。私はひとつしか思いつかないのだけれど」

「全然同意します」

「同情はしない?」

「そういった関係において加害・被害の立場が成立するのであれば、私は加害者ですからね。むしろ今後とも望んでそうあり続けるでしょう。今までがあまりに無自覚であったがため、私は断然そうせざるを得ません」

 ボブは挑みかかるかのように、そう告げた。


 しばしの沈黙。

 ややあって、視線を外したのはアナスタシアの方だった。

「ならば私とあなたは今ようやく、相互理解のスタート地点に辿り着いたのだと思うわ」

 それだけ言うとアナスタシアは立ち上がり、ボブの肩を柔らかく叩いて出口へと向かう。

 遠ざかる足音を背に、しばらくだまっていたボブは振り返ってアナスタシアの背中へ声をかけた。

「アンナ。私はどこまで行っても共和国の騎兵だ。私にはそれしか言えない」


 立ち止まったアナスタシアはくるりと振り返り、寂しそうな笑顔で応えた。

「ええ、わかっているわ。ローラ・フォン・ワイルダー騎兵少佐。あなたの前途に幸運と武勲多からんことを、心から願っているわ。願わくば、神のお恵みを、というところね」


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