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番外編(1) パンケーキで昼食を

 共和国の首都は雪と低温に包まれている。


 共和国と帝国正当政府との間に和平が結ばれてから三ヶ月半、大陸は冬の季節を迎えた。

 国家の存亡を掛けた戦争は終結し、街には動員解除――兵役を解除された男女が溢れ、冬の独立祭と年越しの季節を楽しんでいる。彼らの大半は未だ無職だが、そのことを憂いている風はあまりない。

 もちろん求職人口が急増したことによる経済・治安的な悪影響は出始めていたが、それが致命的なレベルへと達するにはまだ時間を要していた。

 なにしろ戦争は終わったとはいえ、帝国正統政府とクーデター軍の戦闘は続いており、共和国はそれに軍事・経済・政治などすべての面で関わる必要がある。景気を悪くしている場合ではなかった。

 このため、共和国は退役軍人年金基金と退役軍人年金支給額の増額に始まり、各種政府機関や医療機関への再就職斡旋、企業への退役軍人雇用奨励金の支給など景気を維持するために必要と思われる施策を大わらわで行ったことが状況の悪化を食い止めているのだ。お陰で国庫は危険なほど目減りしているが、致し方あるまい。

 動員の解除も限定的・段階的なものであったから、一気に一〇万人もの喰い詰め者が現れるという事態は発生しなかったことも影響している。

 正統政府派の帝国避難民の大量流入、すなわち安価な労働力の増大がそれらの努力を押し流してしまいかねないが、共和国は帝国正統政府と協同で旧帝国領内や租借地の都市・インフラ建設に彼らを活用しており、当面は心配なさそうである。

 共和国騎士にして共和国陸軍少佐、鉄拳ボブことローラ・フォン・ワイルダー女伯爵が愛車にもたれながら街ゆく人々を浮き立つような気持ちで眺めている背景には、このような経済的背景が存在していた。

 

 時間は午前一一時二〇分。

 少し早く着すぎたかな、とボブは思った。

 なにしろ北部山岳中央回廊防衛戦以来、初めてのきちんとした一週間もの休暇であったから、一分一秒でも楽しまねば損だ。

 それゆえ彼女は休暇を言い渡されたその日のうちに実家へ帰ると、兄夫婦への挨拶もそこそこに寝床へ倒れこんだ。

 翌朝いつもどおり午前五時に起床し、しばらく使っていなかったため少々機嫌の悪くなった愛車を素早く点検・整備すると自らハンドルを握り、雪道を楽しみながら首都へと繰り出したのである。

 

 一旦軍病院に入院しているジェイクを見舞ってから、ボブは待ち合わせ場所のニコルソン広場の東南端に愛車を止めた。

 ニコルソン広場は首都の中央やや南よりを東西に横断する形で作られた広場だ。独立前はここで帝国本土から連れて来られた犯罪者が並べられ、帝国貴族が経営する鉱山や漁港、農場へと振り分けられた。のちに独立運動を主導したトマス・ニコルソンもその一人で、独立運動はまさしくこの広場で起こった暴動をその起源としている。

 広場は逢瀬を楽しむ男女や同性のカップル、それに二週間ほどもある独立祭の期間を楽しむ家族連れで賑わっていた。気温は氷点下だというのに軽食や飲料の屋台が軒を連ね、広場の中は言うに及ばず街路のあちらこちらで大道芸人がその技を競っていた。

 広場には幾つもの氷像、雪像が並びたち、人々の目を楽しませている。

 それらのテーマは独立戦争や共和国の伝承、はたまた国民に人気のアニメやスポーツ、国内外の景勝地にまつわるものが多かったが、今年は先の戦争、人々が共和国戦争と呼び始めたあの戦争に関するものが特に多かった。

 中でも目を引いたのは都立第三高等学校現代視覚娯楽研究部が作った、ある女性将校の胸像だった。企業が首都防衛師団に委託して設営される規模も細工も見事な大雪像とは異なり、それは一般参加の素人チームが自ずから設営する区画の小雪像だったが、最も雪像建設の経験豊富な首都防衛師団第一一旅団一一大隊の細工をも上回る感動的な出来栄えであった。

 長くうねる髪は一本一本まで見分けられるかのようであり、丁寧に表面を処理された肌はあくまで滑らか。力強くも流麗なラインを保ちすっと延びる首筋に、浅く儚げな鎖骨のくぼみ。襟元から除く胸の谷間は深く切れ込み、全体として優美でありつつも淫靡ですらあり、何人かの男女の奥底にたぎるものを味合わさせた。

 待ち時間の間にぶらぶらと歩いていたボブはその鏡像を目に止めると些かの気恥ずかしさを覚え(なんで本人よりちょっと胸盛ってあるんだよ、あと私はそんなに胸元開いた制服着てなかっただろ、とボブは思った)、年中店を出している馴染みのアイスクリームの屋台でラムレーズンのカップとホットワインを買って愛車のもとまで戻り、無聊を囲うこととしたのだ。


 手持ち無沙汰とはいえ、人々が幸せそうな表情で行き交うのを見るのが戦争の次ぐらいに好きなボブはあまり退屈しなかった。戦時中は誰もが切羽詰まった表情をしていて、たまの休暇も楽しくなかったことが思い出される。

 愛車のボンネットに腰掛け、ニコニコとしながらアイスをなめていると大勢の人々の何割かはボブに気づいた。あのテレビ放送を覚えているものはやはり多いのだ。

 笑顔を向ける家族連れ、目礼をする壮年男性、あからさまに厳しい視線を向ける貴族将校に、一瞬立ち止まり敬礼をする若い男女。反応は人それぞれだったが、ボブはそれらにいちいち頷きを返した。明らかに階級が上のものに対しては立って敬礼したことさえある(背筋はそう伸びていなかったが)。

 そのうちに幼児の群れに襲撃されて一人ひとりを抱き上げてみたり、何人かの顔を耳まで真っ赤にした女子中学生に手紙を渡されたりと少々忙しくなってきた。

 少々ガラの悪い若い兵隊二人を見かけ、ちょいと説教を始めた頃にようやく待ち人はやってきた。


「やーサーセーン!」親しげでありつつ、いささか礼を欠いた挨拶が飛んでくる。

「遅いぞ、ミッシー」青年兵士二人に気をつけをさせたまま、ボブは挨拶が聞こえた方を振り返る。待ち人たるミッシー・エリオット情報軍大尉の姿を見て、ほうとため息を漏らした。

 軍人としては小柄なミッシーは、時に中学生に間違えられることすらある。実際は同じような体格の女子中高生より三、四割がた重たい(つまり筋肉が発達している)のだが、私服に着替えるとその印象はさらに強まった。童顔でありつつも気の強さが現れる面立ちだからなおさらだ。

 ミッシーはそれを最大限に活かし、ほとんど倒錯的とすら言える雰囲気を醸し出していた。

 カーキ色のショートパンツに白いサイハイソックス、濃い褐色のブーツで足元を固めるところまでは若手女性兵士の一般的な流行に沿ったものだが、やや袖丈の長い白いシルクのブラウスに裏起毛の冬季戦騎兵ジャケットを模したこれまたシルクのジャケットを羽織り、ラビッドファーの長いマフラーを首元に垂らし、ウサ耳のような飾りのついた厚手のニット帽、とどめに赤みの強いオレンジ色のリップを控えめに施したその姿は、どこからどう見ても完璧に美少女。それでいてよく発達した下半身は成熟した女性そのものであり、いわゆる絶対領域から覗く褐色の素肌はいやが上にもそそられるものであったから、これは性的倒錯者がさらにこじらせても無理はなかろうと思われた。

 正直そちらの方向に忌避感がないボブとしても、予定をすべてキャンセルして二人でゆっくりくつろげる何処かへ連れて行こうかとすら思ったほどだから、その威力たるや大したものである。ボブが説教していた兵隊二人に至っては何をか言わんや、すっかり骨抜きの軟体生物となっていた。

「お前、その格好凄いな」しばらく呆けたようにミッシーを眺めていたボブは、それなりの努力を払ってようやくそれだけを口にした。自らの頬がほんのり赤みを増していることには気づいていない。

「えへへ……褒められちゃった。ボブねーさんも素敵ですよ」とミッシーははにかみながら鈴のなるような声音で答えた。

 ボブはと言えば、女伯爵でありながらあまり服装に気を使うところがなかったから、一見して地味といえる格好だ。とは言えさすがに質が良い。

 牛革のロングブーツに黒い薄手のストッキング、紺色のプリーツスカートにカシミアの縦縞タートルネックセーター。飾り気のないカーキ色のトレンチコートを羽織り、頭の上には狐の毛皮の帽子。ストッキング以外はそれだけで少尉の棒給半月分が楽に吹き飛ぶ値段のものである。発展途上国の工場でひと山いくらで作り、ロゴを付けただけで低所得者が一月食っていけるような値段となるちゃちなものではない。本物の職人に作らせた本物の品であった。

 それだけならば「服に着られる」だけのカネの使い方を知らない惨めな格好となりかねないが、なにしろ本人が本人である。

 女性にしては上背があり、陶磁のように透き通ったきめ細かく白い肌、豪奢に輝く金髪はプロのファッションモデルをしてすら溜息をつかせるほど。本人がいささか疎ましく思うほどによく発達した女性的部位が遠慮無く着衣を押し上げるそのシルエットに至っては、男性の圧倒的多数と一部の女性を獣欲に駆り立てるところがある。

 要するに何を着ても絵になる女が、これぞファッションであると言わんばかりに自分に見合ったものを着こなしている。そういうことであった。

「ありがとう。あー……なんかその、そうやって正面から褒められると、少し恥ずかしいな」と、ボブは涼しい顔で答えた。耳と頬が真っ赤に染まっているのは、なにも寒気のせいだけではあるまい。

 しばらくうふふえへへと見つめ合っていた二人だが、ややあってミッシーがほど近くに突っ立っている、にやけた顔の二人の青年に気がついた。一人はパンクス、もう一人はギャングのような出で立ちだ。どちらもボブやミッシーの好みではない。

「ところで彼らは?」大きく愛らしいやや釣り上がり気味の目はすっと細まり、瞳孔は広がっている。肉食獣、それも腹を空かしていない(・・・・・・・・・)大型肉食獣が自分の縄張りを主張している時の目にそっくりだ。

「ああ、ちょっとな。少々粗暴な振る舞いをしていたから」そういうボブの視線も、先程までとは打って変わって冷淡そのもの。もし視線で人を凍らせることが出来るなら、間違いなく二人の青年は絶対零度まで凍りついていたであろう。二人はともに震え上がり、改めてかかとを打ち付け棒を飲み込んだような姿勢をとった。片方の青年などは、ほんの少しばかりではあるが漏らしてしまったほどだ。

 しばらく二人の女は男どもを見つめていたが、そのうちにボブはふっと視線をゆるめた。

 大股で男どもに近づき、練兵場で教育係軍曹がよくそうするように、その高く優雅な鼻先が相手の肌に触れるほどの距離に立つ。女ざかりのボブのフェロモンが青年二人を刺激したが、あいにくと彼らはアマゾネス(女古兵)にさんざんに鍛えられた経験があった。

「貴様ら、さっき私が言ったことは忘れていまいな?」柔和な表情には全く似つかわしくない、地獄の底から鳴り響くような低音でボブは問うた。

「ヤーヴォール!ヘル・マイヨール!」二人は大音声を張り上げた。

 しばらく間を置いて、ボブは言葉を重ねる。

「いくら男が不足している世の中だからといっても、粗暴な行いが許されるわけではない。いいか。私には公安と情報部が常に張り付いている。貴様らの名と所属はあえて聞かん。が、その気になれば、貴様ら二人をどうとでもすることが出来る。意味はわかるな?」

「ヤーヴォール!」二人はいまや半泣きだった。

 ボブは半歩離れ、二人をしげしげと見つめてから突然抱きついた。

「よろしい。よく理解してくれたようね。男子たるもの常に紳士たれ。いいわね?」

 先ほどとは真反対の、姉か母親が出すような声音でボブは二人に囁いた。

 突然の出来事に青年たちは全く混乱した。

 と、突然に股間を優しく握りしめられる感触がある。

「いい子にしてたら、君たちだってステキな女性を手に入れられるんだからね?」

「は、はい……」二人はカラカラに乾いた喉で、ようやくそれだけ口にした。

 やがて女の気配はすっと離れたが、青年兵士二人はそのことに気がつくのにしばらくの時間を要した。

 二人は緊張を解くと、情けない顔でお互いを見合った。

 口にだすことはなかったが、互いの股間が硬くなる間もなくやや粘ついたものを吐き出していたのを知っているからだった。




 ボブの愛車はフォート・トーラスM454WRSS。出力四五〇馬力のガスタービン・電動モーターコンバインドエンジンを搭載した四輪駆動のラリーカー、その最上位モデルをさらに改造したものだ。モーター出力は五〇〇馬力を軽く超えている。

 ボディラインは競走馬を思わせるような繊細さと力強さを併せ持った優雅なデザインで、柔和なフロントマスクと艶めかしく官能的なリアビューはおおよそラリーカーには似つかわしくない。市街地で低中速走行中のエンジン音は女性の喘ぎ声を思わせるようにわざわざチューニングされていたから、なおさら高級コンパクトカーにしか見えない。

 が、一旦床までアクセルを踏み込めば、そのすべての印象は払拭される。

 戦闘機の排気音を思わせるタービンの咆哮を轟かせながら疾駆する姿は、国内外のモーターファンに「バンシー(亡霊)」と呼ばれるに値するものとなる。

 国際ラリー競技での戦績も素晴らしく、戦前に年間一五戦行われていた国際ラリー選手権大会では常に上位入賞、開戦直前のシーズンでの一四連勝は前人未到の大記録となった。


 ボブはそのトーラスM454WRSSにさらに手を加え、快適性と走行性能の底上げを計った。実際に改造作業を行ったのは本社のワークスチームだが、日常の点検整備はボブ一人で行っている。アルベルトにすら触らせなかったのだから、その入れ込みようもわかるであろう。

 ボディカラーは紫とも漆黒ともつかない闇の色。表面にたっぷりクリア塗料を吹き付け、その印象はあくまでも艷やか。窓枠やヘッドライトのアイラインに細い金色のモールを施し、よくよく見ないとわからないようなコントラスト差で太いラインをボディ上面縦方向に描いている。ボンネット上部のライン内に、いささか素人くさい手つきで描かれた星印は一二個。これはボブが非合法の街道レースで打ち負かした”敵機”の撃墜マークである。

 リアウィングはレース仕様のフルカーボンGTウィングへ変更され、フロントバンパースポイラーは形状こそ標準だが肉厚のカーボンで形成された一点もの(ワンオフモデル)。当然両者ともボディカラーと同一色だ。

 メーカー標準の四三一ミリ径スポークホイールを四五七ミリ径ディッシュホイールに換装し、冬季レース仕様のワイドスパイクタイヤを履いたその姿は、亡霊というよりもむしろ悪魔的ですらある。

 戦闘的な機能美にあふれた内装は、メーターと操作系にのみその印象を止め、往年の貴族が自慢した高級馬車を思わせる明るく優美な内装へと変更された。軽量であるがゆえ居住性に劣るレーシングシートは、クッション性に優れるがゆえに重さのあるスポーツコンフォートシートへ変更され、高級オーディオメーカーのアンプとスピーカー類が上品にセットされているところはまさに貴族の乗り物にふさわしい。

 それでいてエンジンとフレーム、サスペンションは強化され、低中速域でのコントロール性は完全レース仕様に勝るとも劣らないものに仕上がっていた。高速域での性能はあえてピーキーな方向に調整してある。重量と出力が増えたぶん振り回されやすくなっているが、それぐらいのほうがボブの性分には合っている。

 ボブはこれを開戦前に過ごした尉官時代に作った貯金のほとんどすべてをつぎ込み、即金で手に入れている。結婚資金についてはまるまる実家にたかろうとしていたところに、この女性の稚気があったといえるかもしれない。


 その豪華な”戦闘機”に乗り込んだミッシーは大いにはしゃいでいた。

 さもありなん、この国の女性の三割ほどにはそうした趣味があるのだ。

 もちろん平民どころか貧民街出身のミッシーには手が届く趣味ではなかったが、そうであるがゆえにボブの助手席に座ることを純粋に楽しんでいた。

 市街地ゆえに乱暴な運転はしなかったが、ちょっとした車線変更や加減速、右折左折で車体が示す挙動にいちいち喜びを露わにする。騎兵乗りはその機械がどのような性質のもので、どれほど手間ひまをかけて作られているかを一瞬で理解できる程度には鍛えられているのだ。

 最初の目的地は市街中心部から少し外れたカフェレストラン。

 まずはそこで流行りのものを食べようということになっており、そのためのボブの愛車でもあった。

 なにしろ今日はミッシーに約束した報酬の日である。

 大隊の勝利を決定づけたミッシーのために、ボブは些かの手抜きをするつもりもなかった。


 目的地への道すがらの会話も弾んだ。

「いやぁでも、ねーさんもヤるもんですね」弾けるような笑顔に、ほんの少しいたずらっ気をまぜた表情でミッシーが言う。

「さっきのか?ありゃあ私が少尉時代に小隊軍曹から習った手だ。だいたいのバカタレはあれでおとなしくなる。ま、使いドコロは難しいがね」少し気恥ずかしげにボブは答えた。

 ふぅんとミッシーは声を漏らすと、ふと眉を寄せ犬のように鼻をうごめかした。

「でもまぁ、やり過ぎたかも知んないですねぇ。明日辺り、従兵志願者が増えてもアタシ知んないですよ?」

「だったら好都合だ、といいたいところだが、大隊どころか中隊も任せてもらえない現状じゃあな。ありがた迷惑だ」とぼける風もなくボブは答えた。なんとボブは自分の行った行為の結末に気がついていないのだ。ある意味においては、全くもってはた迷惑な女といえる。

 ミッシーは一瞬そのことを憂慮したが、まぁ、なんとかなるでしょと小さく呟いた。

「なんか言ったか?」

「いいえ、何にも。あ、そうだ」とミッシーはわざとらしく話題を変えた。口元が童話に出てくるネコのように歪む。

「ジェイクの様子はどうでした?」

 途端に車のコントロールを失い、すんでのところで標識との激突を回避するボブ。

 見ればボブの涼し気だった表情は、赤くなったりこめかみに青筋を立てたりと数秒間のうちにもめまぐるしく変化している。

 これにはミッシーも大いに反省し、呼吸を乱したボブが何かを口にする前に謝罪した。

「すいません。ごめんなさい。失礼しました。着いてからでいいです」

「うん、そうしてもらえると助かる、な」


 最初に向かったカフェレストランは、安く美味くてたっぷりのパンケーキを売りにしている店だった。首都の南西外れにあり、海も近い。ちょっとした林の中の中古別荘を改造した店は、南洋のボートハウス風だ。周囲にはタクシーや自家用車がぎっしりと駐車している。二人はそこで昼食をつつきながら、いささか込み入った話をしていた。

「でな?病室からベッドのきしむ音がするわけだよ。何事だ、苦しんで暴れてるのかと思ってドア開けたらさ、」

「あー……ははは……」

「だからこう、気がついたら、ジェイクのこと殴り飛ばしてたんだけど、な」

 ミッシーは頭を抱えた。

 まさしく彼女が危惧した事態が、あろうことかボブの眼前で展開されてしまったのだ。

 だーから言ったのにな―、とも言えず、困った表情でボブを見やる。

 ボブのほうがより困った顔になっているのは、それはもう考えるまでもなく当たり前のことだった。

 なんとなれば彼女もボブと全く同じことを全く同じ人物相手に経験していたから、見るに堪えないどころの話ではない。

 ナイフとフォークを握りしめたまま、半分ほど食べた山盛りのパンケーキを前にボブは固く結んだ唇をふるふると震わせている。切れ長の目尻から、今にも大きな涙が零れ落ちそうだ。

 これだからお嬢様は、と内心毒づいたものの、ミッシーがあの戦闘でボブに抱いた敬愛の情はある一線を越えかねないほどに高まっていたから、その考えはすぐに打ち消した。

 周囲は女性が八割の客で満員だが、客も店員も聞き耳を立てているのは明らかだった。

 が、そのことは一旦横に置くことにした。

「うーんとね、ねーさん。あの男はね、そんな奴です。でもね、それは考課表にも書いてあったことでしょう?」

 事実である。あれほど優秀な男が戦時にも関わらずいまいち伸び悩んでいたのは、好みの女となれば手を伸ばしてしまうところが原因だった。

 ところがボブはそれを見なかったことにしてしまった。

 ジェイクの言葉と態度、戦場で示した勇気を魂の底から信じてしまったのだ。

 落魄していたとはいえそこは貴族、もともと家族からの愛情に不足は感じない。

 世情に疎いお嬢様育ちのところに、たった一人の(どうしようもなく不器用で、自分自身の正体すら理解できていなかった愚かな)一途な幼なじみと一五年も恋仲を続けていたものだから、男のそういったところに免疫があるわけがなかった。

 無論、高等学校や士官学校、初めて血を見た研修配属先に騎兵学校などなどで男女のそういった関わりも見てきたものの、所詮は他人ごと。身に染みた覚悟などあろうはずもない。

 この点、ボブは少しばかり気楽で、世間知らずで有り過ぎた。


 であるがゆえ、一旦突き放さねば理解はされまい。ミッシーはそう考えたのだ。

 案の定ボブは血の気の失せた表情で目を見開き、何かを口にしようと唇を開きかけた。

「でも、」

「でも、やっぱり好きになっちゃったんでしょう?」

 ミッシーの言葉に、ボブは俯いた。

 素早くハンカチを取り出し、ボブの目尻にあてがってやる。

 しばらくそうしてやってから、おもむろに言葉を重ねる。

「だったらしょうがないですよ。そういうところも受け入れてあげないと」

 長いまつげを震わせながら、ボブが顔を上げる。

 理解はできていない。

 当然だ。

 戦争でもないのに、愛した相手に立て続けに去られるような事態にはボブは全く慣れていない。片方は未だ可能性の段階にすぎないとあっても、だ。

「で、どうしても気に食わなかったら、こっちでコントロールするしかないですよ」

 多くの人々が勘違いしているが、生来の性分というものはそれが生き物としての本性に深くかかわるものであるほど、「直す」ことは難しい。

 なぜならそれこそが、彼もしくは彼女の生物としての部分が求める生物学的行動であるからだ。

 ではどうすれば良いのか。

 ありとあらゆる手段を使って「コントロールする」か、社会がそのもの個人の性分を認めてやるしかない。結婚や妊娠、そうでなければ多大な借金など何かしらのイベントで性根が入れ替わることもあるが、そうでない事例も数多あるからだ。

 あるいはそれが社会を脅かすものであれば犯罪者と処理されるところだが、そのようなものでない限りは、彼もしくは彼女自身と周囲の者が多大な努力のもとに新たな方向へ導かねばならない。

 幸いにして、浮気性ぐらいであれば許してしまう度量の広さが共和国社会にはあった。つまるところ、周囲がより望ましい方向へコントロールしてやることは可能なのだ。

 問題は浮気された側である。


「……できるのかなぁ……?」

 弱くかすれた音がミッシーの耳に届いた。

 ミッシーは初めてボブの気弱な態度を目にした。

 焦点を失い、張り裂けそうなほど開かれたボブの目に、ミッシーは血の気の失せる思いがした。

 共和国騎士。救国の英雄。鉄拳ボブ。鉄血公女。壊し屋ボブ。

 今や壊れそうなのはボブ自身の方だ。

 軍大学入校後、間断なく詰め込まれる新たな知識と過酷な演習。さらに先月からはペーパークリップ作戦へも参加させられ、寝る間も惜しんで溜め込みつづけたストレスが彼女を蝕んでいた。

 おそらくは本当に、久しぶりに合う新たな恋人との逢瀬を心底楽しみにしていたのだ。

 一目惚れだ、という男の言葉を信じて。

 身を挺して危険からかばってくれた男の行動を信じて。

 チェルノボグを撃破することにより、患いかけていた戦闘神経症を治療することができたかと思われていたのは全くの筋違い。ジェイクへの過度の恋慕へとすり替わっていたことに、周囲の誰もが気がついていなかった。

 たったそれだけのことが、鉄の女と評されたこの騎兵将校を支えていたのだ。

 はたから見れば馬鹿馬鹿しくもあり、世慣れた男女どもなら鼻先で笑うようなことであっても、彼女と彼女の無二の親友となったミッシーには全くの大事であった。


「できますよ。あたしにはできなかったけど、ねーさんなら絶対できます」

 それがため、ミッシーは弾けるような笑顔で答えた。

「ジェイクの浮気性は本当にどうしようもないけれど、でも、好きになった女にしか手を出さないし、ちゃんと大事にするんです。本気で」

 ミッシーがジェイクを愛した期間はそう長くもなかったが、若く情熱に不足を感じない頃でもあった。

 女性らしい割り切り方で一旦はよくあることだと省みることもなくなっていたが、今やその傷を自ら掘り返すことに躊躇はない。

「本当……?」

「本当ですとも。私なんか、処女捧げてやったのにおんなじ目に会いましたけどね、別れる時まできちんと一人の女として扱ってくれたんですよ。青臭いガキじゃなくて」

 別れの言葉を口にするまで、ジェイクはミッシーをけして粗略に扱わなかった。ミッシーが別れを切り出した時もそうだった。何かを口にすればするほどミッシーの尊厳を傷つけることを察した彼は、雄々しく無言で別れの言葉を受け止めたのだ。

「……」

「だからね。本当にねーさんがアイツの事好きなら、諦めてなかったことにするか、それができないなら信じて受け入れるしかないですよ。ね?大丈夫。アイツの本命はねーさんで間違いないですから」ボブの手をとって力強く握ってやる。根拠は薄弱でありすぎたが、そうしてやる必要があった。

 私も協力しますから。なんだったらサカイのおやっさんも呼びつけて、二人で朝まで超説教してやります。次の見舞いはついていきます。諦めることになったら、あたしが一緒に泣きます。だから、アイツの事を好きになっちゃったねーさん自身を信じてください。

 周囲からも鼻をすする音が聞こえた。

 女性が余る社会だからこそ、男の浮気症に泣かされる女もまた多いのだ。


 しばらくボブはまた俯いたままだったが、ややあって顔を上げた。

 まだ心底納得はしていないが、どこか理解はしたような顔をしている。

「……まぁアイツも健康優良共和国男子だからな……」と、少し遠くを見て呟いた。

 深くため息をつきかけ、突然に吹き出したのはボブの方だった。

 健康優良共和国男子とは、帝国の言い回しで言えば”盛りのついた雄牛”にほかならない。盛りのついた雄牛、ことに帝国産のそれは手当たり次第に生殖を試みたりはせず、これはと気に入った雌牛にしか興味を示さない。転じて高望みをする男のことを揶揄する言葉だが、ボブが吹き出したのは雄牛の行動そのものについてだった。

 あれほどの男に選ばれたのだ。

 戦場ではそれなり以上に有能で、女を守るためなら己の命も捨てることの出来るような男。愛そうとする自分自身ではなく、愛したい者を愛せる男に。

 ならば私もただの雌牛ではないことを見せてやらねば気が済まない。

 ボブはなんとかしてそう思い込むことによって、自らを救うことに成功した。実は幼いアルベルトがボブに抱いた感情とほとんど同質のものである。

 表層意識ではそのことには気がついていないが、事実としてはそういうことであった。

 危険な選択といえるかもしれないが、覚悟を決めた女性にとっては別段大した問題ではない。なんとなればそのような決意は、愛するという行為を説明するための後付の説明でしかないからである。

 そのような瑣末な問題でいちいち躓いていられるほど、女性は暇でもか弱い生き物でもないのだ。


 くすくすと肩を震わせるボブを見て、ミッシーは安心した。

 知らぬ間に彼女自身の目尻も濡れていたが、壊れかけたボブがなんとか踏みとどまったと確信できた。それが何よりも嬉しかったのだ。

 しかしそれが自分の手柄であると思えるほど、ミッシーは思い上がりはしなかった。

 彼女はただ手を差し伸べただけ。

 実際に立ち上がったのはボブ自身なのだ。

 それでこそ私の惚れたねーさんだ、と内心でつぶやき、体の奥底から熱い何かが溢れでたものの、これも当面は捨て置くこととした。

「落ち着きました?」

「うん、うん、はー……プッくくく……はぁ。オーライオーライ、じゃあ今度目の前で浮気してたらこれもうレイプしてやるしかないなってことでだね、彼には責任をとって頂こうかとワタクシこれこのように思いましたよと。いい加減三十路すぎた女を弄んだからにはね、そのような覚悟をしていただかないといけないかなと。当面はね、まぁそのようにしのごうかと思いますが、如何でしょうかねこれホント」

 明るさを取り戻したボブの長広舌を聞いたミッシーは、あれまちょっと違う意味で壊れたかしらん、とほんの少し心配になった。

 聞き耳を立てていた周囲の女性客も安心したのか、店内はざわめきを取り戻していった。

「おっし食うか!」

 ひときわ明るくそういうと、ボブは目の前のパンケーキの山に取り組んだ。


「はー食ったなー!このクソッタレ(ファッキン)罰当たり(ブラディ)唐変木め(バスタード)!覚えてやがれ!」

「オラァ!クソうまかったからなぁ!次も覚悟しろよこのヤロー!」

 ボブのトーラスに乗り込んでから、二人は散々に店を罵った。兵隊流の褒め方だが、当然公序良俗に反してはいる。そうでもしなければ乱高下するテンションを平常に戻すことができないのが、ふたりともまだ若いことの証左でもあった。

 実際この店のパンケーキは、その安さとは裏腹にまったく大したものだった。


 薄手ではあるがモチモチとした食感とふっくらした質感を併せ持つパンケーキを多数重ね、間に生クリームや蜂蜜、果実のジャムをはさみ、とどめに上部にたっぷりの生クリームを載せたものが基本となり、好みに合わせてトッピングをいくらでも変えられることが売りだった。見た目よりずっと砂糖を控えて作ってあるから胸焼けすることはなく、ぺろりと平らげることができた。これで四五〇ギル。コーヒーと合わせても七〇〇ギルにしかならない。おやつにはちょうどよかろうというところ。

 気に入ったボブは二皿目を注文した。

 メニューに記載されたトッピングには様々な果実や野菜のシロップ漬けが目立つが、意外なことにハムやソーセージに魚の燻製、炙って柔らかくした干物などもあった。

 一皿目は無難に生クリームと果実のトッピングだったが、二皿目は肉と魚をふんだんにあしらったトッピングとする。

 ハム、ソーセージ、ツナの浅焼きにパインのシロップ漬けだ。

 右隣の歳若い男女のカップルはぎょっとした様子だったが、左隣の元軍人と思しき女性二人連れと常連と思しき男性二人連れ(片方の物腰は妙に柔和だった)は得心した様子でボブの注文を伺っている。ミッシーはといえば、流石ねーさんと言わんばかりに感心していた。

 ボブはニコリとするとおとなしく二皿目を待つこととした。


 しばらくのうちに二皿目が運ばれてきた。

 パンケーキは一皿目よりすこし高い温度のまま、バターのたっぷり塗られたパンケーキの間には先ほど注文した魚と肉が挟まり、最上部にはパインとたっぷりの生クリームが鎮座していた。

 周囲がボブの様子を伺う気配の中、まずは最上段のパインと生クリームが乗ったパンケーキを取り払って脇に置く。これはデザートだ。

 二段目に程よく焼き色のついたソーセージが二本、姿を現した。

 ボブは紙ナプキンを用意すると、ためらうことなくソーセージの下のパンケーキをひっつかみ、二つに折って口の中に放り込む。

 瞬間、口の中に広がったのは幸福である。

 ソーセージを噛むとパリリと小気味良い音が鳴り響き、熱々の肉汁と脂が口の中に飛び出した。塩気と香草の香りが口の中いっぱいに踊り始め、食欲を嫌が上にも掻き立てる。

 そのまま食べ進めると、今度はたっぷりバターを吸った先程よりもやや甘みの強いパンケーキと行き当たる。一噛み二噛みするうちに、パンケーキの甘みとソーセージの塩気が渾然一体となり、えも言われぬ旨さを醸しだした。ソーセージも非常に美味であり、大筋では共和国人の好みに沿うものであったが、細切れにした軟骨とレモンの香りの香草が斬新な刺激となっている。

 二段目を食べ終えたボブは、グレープフルーツジュースで舌の調子を整えた。

 三段目はやや厚手のハムである。これも香ばしく焼き上げられたものだった。先ほどのソーセージと同じような味と食感を半ば期待し、半ば予想していたボブは大いに裏切られた。

 ハムの下にはスライスしたチーズが控えていたのである。

 塩味はやや控えめであり、チーズと豚肉の濃厚な風味を楽しませる味付けとなっている。ハムに使用した部位はヒレかと思われ、脂身は少ない。しかし濃厚なチーズの風味との相乗効果で脂の少なさは全く気にならない。ボブの好みで言えばチーズにブラックペッパーが練りこまれていても良かったところだが、しかしそんなことになれば絶対にボブは酒を飲んでしまう。雨が地上へ落ちるが如く、それは絶対の理と言えた。いや、現時点ですら飲酒への渇望が喉を突き破って外へ零れ落ちそうなのだ。この後も運転を続けなくてはならない我が身が、心底恨めしかった。

 息を整えて挑んだ一番下の段は、浅く焼いたツナの赤身であった。

 軽く焼き色が付く程度にあぶられたツナの切り身の下から、何やら淡黄色の植物の細切れらしきものが見えるが、これはおそらく生姜であろう。先ほどまでの肉二品と異なり、ツナの浅焼きは冷えたままである。

 さて如何したものかと腕を組んで考えてしまった。共和国では魚の生食は珍しくもなんともない行為だが、刺激のつよい香辛料とつけ合わせて食べるという習慣は存在しないのだ。

 ウムムと唸っていると、可愛らしいお仕着せを着たメイド、ではなく、浅黒い肌とたくましい体つきをしたシェフが小皿と魚醤、ナイフとフォークを持ってきた。その表情はあくまでもにこやかだ。

「こちらで切り分けテ、ソースをチョト付けて、お召し上がりクダサイ」片言の共和国語で伝えてきた南洋系の彼女の目には、興味と好意、そして期待が溢れていた。

 ならば否応はない。ボブは戦場で見せるような素早い動作でツナをパンケーキごと切り分けると小皿にとった魚醤ににほんの少し浸し、おもむろに口の中へ放り込んだ。

 驚愕、筆舌に記すこと能わず。

 ボブは口元を抑え目を白黒させたが(いや、白青というべきかもしれない)、その瞳の色は好意に満ち溢れている。周囲を見渡し、まずシェフには感謝の意を露わにして目礼する。元軍人らしき女二人連れと常連らしき男二人連れにはいささか行儀の悪いことだが拳を突き出し(相手もそれに答えて拳を突き返してきた)、右隣の歳若いカップルには左手で口元を抑えたまま右手でツナを指さし、盛んに親指を立てた。

 その間ずっと顎は動き続け、ややあって飲み込んだときには恍惚とした表情を浮かべていた。

 まさに至福であった。

 脂身のやや多い部位を表面が締まる程度に炙った赤身はそのままでも充分に旨いが、少しばかり華やかさにかけるきらいがある。

 しかしそれに魚醤の塩味と生姜の辛味、パンケーキの仄かな甘味が絡まると、刺激的で官能的ななんとも言えぬ風味が喉奥から鼻を通り脳天へと突き抜けた。重厚で、きらびやかで、それでいて素材の味わいが存分に発揮される味と食感へ、完全に”化けた”のだ。

 普通の生地ならただただ歯にまとわりつくことになったであろうパンケーキも、わざわざこれだけのために全粒粉と燕麦粉のブレンドされたものが使われていた。焼き締めたパンかと思うほどに硬い生地だが、幾ばくかの水分を含むとポロポロと口の中でほぐれてゆく。そのほぐれた生地とツナを一緒に噛みしめると、これがまた旨い。

 そのまま咀嚼しているとパン生地のせいで口の中が甘くなりすぎるかと思われたが、ぱりぱりと弾ける細切り生姜が全体の味を引き締めるアクセントとなっている。

 旨い。ひたすらに旨い。

 味が濃く、塩分とカロリーの高い軍の食事に慣れたボブの舌にはむしろ優しげな味とさえ言える。

 しかし、とボブは思った。

 これはやはり本来の食べ方ではあるまい。

 ボブは意を決した。

 おもむろに残りの切り身を素手で摘むと魚醤に浸し、余分と思われる魚醤を落とすと元あったパンケーキの上へと戻す。

 そのままパンケーキを掴み、先ほどのソーセージと同じように二つ折りにしてかぶりついた。

 魚醤の強烈な磯の香りが鼻を突き抜け、同時に生姜の刺激と食感が舌と歯を楽しませる。外はこんがり、中はなめらかなツナの身の食感は面白く、それに甘みが少なく歯ごたえのある生地が絡みつく。

 ものも言わずかぶりつきながらシェフをみると、はたしてそこには全く満足そうな笑顔があった。

 

「ごちそうさま」紙ナプキンで口と手を拭うと、ボブはシェフに向かって頭を下げた。

「ドイタマシテ」シェフはニッコリとするとボブたちの皿を手早く下げ、優雅な足取りで厨房へと戻っていった。

 入れ替わりに白いお仕着せを着た少年給仕が、コーヒーを持って現れた。少年の肌もまた浅黒い。一般的な共和国人の体格に比べると華奢だが、しっかりと筋肉はついており贅肉は少ない。顔はまぁまぁ、年のこともあるから将来に期待すべきであろう。

「こちらは店からのサービスです」

 馥郁たる香りがテーブルの上に広がる。

 ボブはカップをもってその香りを楽しむと、そっと一口飲んでみた。

 とても濃厚な味わい。どちらかと言えば酸味が薄くが渋みが濃い。南洋種の深煎りだ。

 ボブはことさらゆっくりとコーヒーを楽しむこととした。

 そこに少年給仕が声をかける。

「あのう、少佐殿」声変わりして間もないまだ甘さの残る声。こんな女ばかり来る店の手伝いをさせて良いのだろうか。

「なんだろうか」ボブは好意的な笑みを返した。少年がお客様、と呼ばなかったことはむしろ当然と受け止めている。

「少佐殿はこちらには初めてお出でですよね?」

「そうだね」

「他のお客様になにかお勧めされましたか?」

「いいや、全然」

「それなのにどうして二皿目はあのような食べ方をなさったんですか?どこかでご存知だったのでしょうか」少年の目に浮かんでいるのは好意的な困惑、とでも言うべきものだった。

「質問に質問で返して悪いけれど、いいかな?」

「はい」

「このパンケーキはデザートではないね?甘さの目立たなさ、カロリーをバターやクリームで補うところ、塩の使い方、生地の薄さから見てこれは朝食や弁当のたぐいだろうと思ったんだ。そこへもってきて肉や魚だろう?しかもメニューでは魚が多い。となればこれの発祥は漁民の弁当だ。違うかな?」

 少年は商売の道具ではない笑みを浮かべ、うなづいた。

「やはりね。であるなら、使用するカトラリーはせいぜいがナイフまで。おそらくは手づかみで食べることも多かったろうと思ったのさ。生地も薄くてもちもちしているから、ナイフで切って食べるよりは具材を挟んでかぶりつくほうが都合がいい」

「おっしゃるとおりです。このパンケーキは母が南洋に居た頃に食べていたもの、そのままなんです」

 少年の笑みはますます大きくなった。

「素晴らしい。君は母上を大いに自慢するべきだな。で、これが一番大事なことだが、そういう風に出来た食べ物は、上品ぶって食べちゃダメだ。そういうふうに食べるほうが絶対にうまいと私は信じているんだ」

「実際のところ、いかがでしたか」

「分かっていて聞くかね?大変満足だ!大いに気に入ったよ!!この味でこの値段、ちょっと普通じゃありえないね。可能な限り足を運ばせてもらう。もし可能なら、次は南洋産の酒もいくらか試したいところだね。きっと素晴らしい体験ができるに違いない」

「母に伝えます」

「よろしく頼む」ボブは右手を差し出し、少年の手をがっしりと握ったのである。

 


「よっし次だ次!つぎどこいく!?」

「次!?次ねー!モーテル行こうモーテル!ちょっといいとこ!」

「マジか!お前そんな趣味あったんか!パネェ!ミッシーさんパネェっす!」

「……ねーさんは……イヤ?」

「……私はあんまりそんな趣味ないけど……ミッシーなら……いいよ……」

「なーんつって!」

「なーんつって!」

 ガッハッハと大笑いし、盛大に雪煙を蹴立てながらボブたちは出発した。

 大変に迷惑なことである。


「なーんつってつっちゃったか!」

「なーんつってつっちゃった!」

「なーんつってつっちゃった?」

「なーんつってつっちゃった!」

「ガッハッハ!」

「ガッハッハッハッハ!」

 それ以上良くない。


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