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短編集~現代もの

キミアレルギー

作者: 夏澄

困った病気と闘う女の子の話。

症状1:鼻のかゆみ、くしゃみ


 ある特定の物質に対する免疫の過剰反応をアレルギーと呼ぶ。

 原因は人によってさまざまで、食べ物だったり植物の花粉だったり極少のほこりだったりするわけだが、私の場合は特定の人物に対して発動する。


「あー、鼻がむずむずする」


 校舎の二階の窓から見下ろす校庭で、男子たちが一つのボールを追いかけて駆けまわっている。

 体育の授業というわけでもないのに、わざわざ校庭に出て体を動かそうとするなんて、男子というのは体力があり余っている生き物に違いない。

 外では秋風が枯れ葉を散らしている。

 ただ立っているには寒いけれど、駆け回る男子たちはベストを羽織った白いシャツの腕をまくって汗までかいている。

 人口密集地帯からボールが転がり、一人が勢いよく集団から駆けだした。

 集団から抜け出した彼がそのままボールごとゴールポストまで走ってシュートを放つ。けれどボールはキーパーに阻まれて弾き返されてしまった。

 窓に集まっていた女子たちから残念とかあと少しだったのに等の感想が漏れる。

 私は特に応援しているわけではなかったが、窓際の席ということもあり女子の輪に入っていた。

 あえて視線を向けなくても目の端に姿が入ってくるのがむかつく。

 気にしてませんよというようにハンドクリームを出して手に乗せるのは、精一杯の抵抗の証だ。

 気候は低温乾燥に移行しつつある。


「○○がんばれー!」


 乾燥肌にはきつい季節なんですよ、とクリームを丁寧に伸ばしながら応援する声を右から左に聞き流す。

 自然と耳に届く名前には意識的に伏字を入れた。意識的にとか言ってる時点で気にしているという突っ込みはしないでおきたい。

 彼女たちのため息が聞こえたわけでもないのに、ゴールを決め損ねた彼はボールを受け止めてもう一度果敢にゴールに挑戦した。

 そこで終わらないのが奴の可愛らしくないところだ。

 はじけたボールは奴の体ごとゴールに突っ込んだ。ころころと回る体はネットに絡まって止まる。

 ガッツポーズを決める奴に他の男子たちが駆け寄る。きっとゴールを決めたことへの賞賛と体ごと突っ込んで行った無謀を笑っているのだろう。

 犬だ。あいつは犬だ。

 つい視線が動いてしまい、視界の中心に姿を捉えてしまう。

 土埃が白いシャツを汚していた。顔も汚れていたのに、汚らしい印象を抱かせない。青春って感じだよね。爽やか好青年だ。あ……あぁもう。しまった。まじまじと見てしまった。

 後悔するもときすでに遅し。

 鼻のむずむずの収まりがつかなくなる。かゆみとはまた違う、何かで鼻を刺激されているかのような感覚は留まることなく、くしゃみの中枢を刺激していく。

 こうなるともう止めようがない。

「はっ……はっくしょんっ」

 おやじのくしゃみというほどではないけれど、一介の女子高生が放つものとしては可愛げのない勢いで大きなくしゃみが飛び出した。


「美鶴、くしゃみ可愛くない。せめて出すときは口に手を当てなよ」


 可愛いを自負する友人が注意する。身だしなみに細かい彼女は、友人の私にも普段から「女の子は可愛くあらねばならぬ!」を実戦させようとしてくるおしゃれ番長だ。実際可愛いのだからぐうの音も出ないけど。

 すまぬ友よ。せめて唾が飛ばないように横は向いたので許してくれ。

「あぅ、ごめん。止まんなかった」

「風邪?」

「うんにゃ。アレルギー」

 言いつつまだ収まらない鼻をこすって奴を視界から切り離した。


 奴――出井 翔が私のアレルゲン(アレルギーの原因物質のこと)。

 小中高と腐れ縁のように同じ学校であり続ける彼が私のアレルギーの原因物質であることは、私以外は誰も知らない。

 というか言えるか。こんなこと。


 ※ ※ ※


 最初のアレルギー症状の発動は今から五年前、小学校六年生の秋にまで遡る。

 放課後、誰が言いだしたかはもう忘れてしまったが、教室に残っていたクラスメイトを集めて缶けりが始まった。

 場所は校庭を中心とした学校の敷地内。校舎内は禁止。缶はどこかで拾ってきたぼこぼこの缶を使用した。

 缶を守る鬼はすでに三人を捕まえていて、私は散らばった仲間の誰かが缶を蹴ってくれるのを期待しながら鬼からは陰になっている校舎の壁に身を潜めていた。

 こういった遊びに参加する割に度胸がないのが私だった。

 ただ身を潜めているだけなのに胸がドキドキしてくる。ヒーローにはなれなくても、その胸のドキドキを感じているだけで満足する節が私にはあった。


 後ろから近付いてくる気配に気が付いたのは、鬼が私がいる方向とは逆の方向に歩いていったときだった。

「もうちょっと離れたらチャンスかな」

 びっくりしすぎて声が出そうになる。

 小学校も六年生になれば異性への意識も生まれてくる頃だ。

 集団となれば男女関係なく遊びはしたが、異性と二人ぼっちという状況に戸惑いを感じ始める年頃。

「翔……」

 例にもれず、私もいつもなら何の気兼ねもなく話をする相手に対しどぎまぎとして言葉が詰まってしまった。

 自分とは違う男子という生き物と一緒に身を隠していることに、缶けりに対するドキドキとは違う意味の胸の鼓動が追加される。

「いきなり声かけてくるからびっくりした」

 緊張していることに気付かれなくて、わざとぶっきらぼうに言う。

 責める口調にも嫌な顔をしないのが翔の気の良いところだ。「ごめん」の一言で私の体越しに鬼に見つからないように身を乗り出す。

 さりげなく手が置かれた肩が熱かった。


 鬼は向こうに誰もいないことを確認して、今度はこちらに体を向けた。

 それに慌てた翔に体を引っ張られて下がる。 

 下がった拍子に肩と肩がぶつかって、さっき以上に接近してしまう形になった。

 鬼からは見つけたという声はかからない。

 密着しているわけではなかったけれど、隣り合う肩越しに人の熱が伝わってくる。

 私ばっかりドキドキしてバカみたい。

 翔の側に気にした様子が欠片も見えないのは、奴が異性に対して興味がないからか、それとも自分に対して興味がないからなのか。

 ずっと近くなった距離に動揺する。今すぐその場から逃げだしたかった。――と、ふいに鼻がむずむずしだす。

 息が短く切れて、抑えようと手で覆ったが間に合わず、鬼がいる位置まで聞こえるような盛大なくしゃみが飛び出した。


「おっ。翔と美鶴みーっけ」


 鬼が名前を言って缶に足を置く。見つかって胸の鼓動を増やした私とは対照的にゆっくりとした余裕のある動きだった。

「あーあ、見つかっちゃったな」

 ヒーローになりそこねた翔はそう言って笑った。

 見つかる原因となった私を怒ることもしない様子がちょっとだけ大人びて見えて悔しかった。


 それ以来だ。

 翔がそばに来ると鼻がむずむずしてくしゃみが止まらなくなるようになったのは。 

 それは翔がそばに来たとき限定で起こり、それ以外のときはなんの症状も出てこなかった。

 くしゃみの原因が翔であること断定するのにはそんなに時間はかからなかった。

 私たちは特別に親しいわけでもなかったが、会えば話をするくらいには仲が良かったので、出てくるくしゃみを抑えるのには苦労した。

 半径にして一メートルほどの距離を離れれば大丈夫だと分かると、他の人がいれば間に挟んでなるべく距離を取るようにした。

 席替えで席が近くなりそうになったときは自分の小柄な体型を言い訳にして、黒板が見えないからと誰かに席を替わってもらうことで距離を稼いだ。

 経験にのっとったその対策は功を奏し、翔にも別段気に留められることもなかった。

 

 症状が進行するのはまた数年後のこと――。


 ※ ※ ※


症状2:目の充血、涙目


 中学生にもなると、周囲は誰が誰を好きだとか誰と誰が付きあっているだとかの話題に事欠かないようになる。

 一回でも誰かと付き合うことになれば人よりも優位に立てるというのは暗黙の了解。

 モテるかモテないかは大切な命題の一つになる。

 だがそこは中学生。

 見た目がそこそこで、勉強がそこそこできて運動もそこそことなれば簡単に人気者に仲間入りだ。

 大抵のことをそこそこにこなし、人当たりも良い翔は同級生の間でも人気者の仲間入りを果たすことになった。

 その頃には気恥ずかしくて小学校の頃のように気軽に名前で呼ぶこともできなくなり、私は翔のことを苗字そのまま「出井」と呼ぶようになっていた。

 翔のほうもそんな変化を察して自然と私のことを名前の「美鶴」ではなく苗字の「坂木」と呼ぶようになった。そのことを少しだけでなくかなりさびしく思っていたことは私の勝手な言い分で、当然口に出して言えることではなかった。

 何故か中学三年間クラスが別々になることがなかったことは、クラス替えの発表があるたびに「腐れ縁だなぁ」と笑い飛ばす春の定番のネタになっていた。


「――好きなの。付き合って欲しいんだけど、ダメかな?」


 現場に居合わせたのはたまたま。

 中学三年の秋。日直で職員室まで日誌を届けに行った帰りのことだった。

 ダメかなだって。よくそんな台詞が出てくるね。それって相手が断らない前提で言ってない? どんだけ自分に自信があるんだか。

 恋愛の手練手管なんてものはさっぱりだったけど、内容や言葉の感じから相手を真綿にくるむような印象を感じ取って胸やけがした。甘ったる。

 出歯亀の趣味はないので、見なかったふりをして通り過ぎようとする。

 足を止めたのは、鼻がひくりと何かを感じ取ったからだった。


「出井……」


 可愛らしく小首をかしげる女子の前にいたのは、三年間どころか小学六年生の頃から同じクラスだった腐れ縁の相手だった。

 かろうじて自分だけに聞こえる音量で出た声は、自分でもみじめに感じるくらい悲壮感が漂っていた。湿気を帯びた声に自分で身震いする。

 柄じゃないって、こんなの。

 夕方の日差しが校舎内に降りかかる。オレンジ色の光の中で二人向かい合う男女の姿は絵面としてはとても綺麗だった。

 見てらんない。

 思った途端、ものすごく目がかゆくなった。かゆみに耐えられなくなって目を擦る。

 ごしごし。ごしごし。

 訪れたかゆみと擦った刺激で目に涙が浮かぶ。

 滲んだ視界の中で翔が顔を上げたような気がした。角度的に彼女を見ているようで見ていないようで。

 こっちを見た……?

 そう感じる自分にまた嫌悪感を抱いた。


 開く口元に注視していられなくてきびすを返す。

 どんな返事だろうと見ていられなかった。

 はい、なら失恋確定で。いいえ、ならその先に待つ返答いかんでは立ち直れそうになかった。断るだけなら安心できるけど、「好きな人がいるから」とか「誰のことも好きではないから」という言葉を聞くことができなかった。

 やばい。相当はまり込んでる。

 自覚した瞬間に失恋とか無理。

 すんと吸った鼻はアレルギー症状から来るものだけではなかった。



 靴箱まで走って息をつく。

 ふぅーっと深く吐いた息はため息みたいで、混乱した頭の中で「今幸せが逃げたな」とどうでもいいことが浮かんで消えた。


「ため息ついてると幸せが逃げるぞ」


 靴箱から出しかけた靴を取り落してしまったことはどう言い訳したらいいだろうか。

 さっきまで告白される側に立っていた男子が何でもうここにいるの。

 目のかゆみなどどこかへ吹き飛んで、私はびっくりして目を見開いた。

「出井……」

 おいおい。さっきの告白してきてた女子はどうしたの。置いてきたのだろうか。

 見るつもりはなかったけど見てしまったことは覗きの部類には入らないだろうか。ノーカウントでお願いします。

 聞きたい。けど聞けない。私には聞く権利がないから。

「もう帰るの?」

 だからそう尋ねることしかできなかった。 

 出した声が涙声なのは、鼻づまりのせいだとでもしておいて。

「もう帰るの、ってもう夕方だしほとんど人も残ってないだろ。いつまでも残ってると先生が煩いだろ」

 驚きすぎて落ちた靴を拾おうともしない私の代わりに、翔が落ちた靴を拾って「はい」と差し出す。

 靴を受け取ろうとするも、返そうとする相手が手に力を入れたため、中途半端に見つめ会う形になってしまう。でもこんなことでドキドキしているのは多分私のほうだけ……。


「せっかくだからさ、一緒に帰ろうよ」

 

 何がどうせっかくなんだろうか。家の方向としては同じ方向ではある。

 でもつい今しがたはっきりと恋を自覚した相手と一緒に帰るのはどうだろう。とても正常な態度ではいられないと思う。

 普段通りに接する自信がなくて返事をしぶっていると、帰りに何か奢るからと提案が入る。

「買い食いの共犯になってよ」

 そんなことまで言われたら断ることもできなくて、頷いて返事の代わりとした。

 共犯なんて言葉が出てくるのは翔が私のことをただの友達だと思っているからだ。

 気付いた事実が胸に重くのし掛かる。

 そっか。ただの友達か。ならこっちも普通にしないとな。

 思った瞬間、鼻がむずむずとしだして、横を向いて若干抑え気味のくしゃみを二度連発した。

「風邪?」

「うんにゃ。アレルギー」

「へぇ、何の?」

 あんたのだよ。

 そんなことは言えないので、よく分からないというような言葉で濁してごまかした。

「なんで涙目? それもアレルギー?」

 そこは突っ込んでくんなや。

「そうだよ」

 萎えた気持ちは気付かれたくないという焦りに変わり、いつまでも握られていた靴をぶんと取って足を突っ込んだ。


 途中の道は「あまり近付かないで」と注文をつけつつ二人並んで歩いた。

 離れた距離は一メートルもなくて、始終鼻がむずむずして何度もくしゃみをしては翔に数を数えられた。

「なんで離れて歩くの」 

 言葉の外に「一緒に帰ってるだけなのに何を嫌がってるんだか。変なやつ」と幻聴が聞こえる。

 そばに立たれるとアレルギー症状が出るからだよ。

 言ったらきっと気持ちまで伝わってしまう。

 翔限定に出る症状はそのまま翔だけを想っているのだと気付かれてしまいそうで、

「一緒に帰ってるとこなんて誰かに見られたら嫌だから。次の日にはあいつら付き合ってるぜ、なんて言われるじゃん。そんなの困るでしょ」

 思ってもいない台詞を並べ立てて言い訳に変えた。

 困るのは翔だけだ。私は困らない。本当は。翔と噂になったら、私のことだから表面上では困った顔をするだろうけどきっとものすごく嬉しい。

「そう? 俺は困らないけどなぁ。女子ってわかんない」

 言って後ろから近付いてくる車から私を遠ざけるように車道側に自分の体をすべり込ませてくる。距離は三十センチほどで、嫌でも人のいる圧力を感じざるを得ないものだった。

 帰りはコンビニで安価なスナック菓子とジュースを奢ってもらった。

 緊張しすぎて味なんて感じる余裕もなかった。

 また少し目がかゆかったけど、擦らずに我慢した。そのほうがかゆみが増さないということに気が付くにはもうしばらく経験を積む必要があった。


 その日以降、半径一メートルどころか、翔の姿が視界に入るだけで私のアレルギー症状は起こるようになった。

 症状はひどくなり、近付かれると鼻だけでなく目のかゆみに涙目はデフォルトになってしまい、私は次第に翔から距離を取るようになっていった。

 そばにいられてアレルギーの原因が翔であることに気付かれたくなかった。

 奇異の目で見られるのがオチだ。

 翔の優しい顔が気持ちの悪い生き物を見る侮蔑の顔つきに変わる様子を思い浮かべるのは簡単だった。私だったら好きでもない相手に「アレルギーの原因はあなたです」なんて言われたくない。

 そんなの耐えられない。だったら友達でいることすら自然消滅でも構わない。

 その頃の私は本気でそう思っていた。  


 ※ ※ ※


症状3:気道閉塞


 翔とは高校は離れて、そうして奴のことは良い思い出としてこのアレルギー症状ともおさらばだ。

 目指せ第二の恋。高校デビューだ。やってやるぜ。……なぁんて思っていた時期が私にもありました。

 すぐに消し炭になって風に飛んでいったけど。


 高校受験のシーズンになり、私は自分のレベルに合わせた地元にあるほどほどの進学校を受験することにした。

 担任からは合格確実だと太鼓判を押してもらい、同中の友達も一緒に受験すると言ってくれて心強くも思っていた。

 翔は成績の良いほうだから、もっと上の高校を狙っているとばかり思っていたのは私の完全なる油断だった。


 順調に試験を受けて合格通知を受け取り、いざ入学式という段になって私はクラス発表の紙を前にして一人氷漬けになっていた。

 特に行先を尋ねることもしなかったのが運の尽き。

 あいつも違う学校で今頃は入学式だろうなぁ。なんてしんみりと思っていたところにあるはずのない名前を見つけた。

『井出 翔』

 あ行から並んでいるので奴の名前はクラスのトップだった。続けて下のほうに自分の名前を見つけ、ついでに仲の良い友達の名前も発見するも喜ぶどころではなかった。


 な・ぜ・奴・が・こ・こ・に・い・る!?


 同姓同名がそうそういるわけもない。目を丸くして何度も名前を確認してもその文字配列は「出井 翔」以外のなにものにも見えなかった。

 

「なぁんか俺たちって腐れ縁だよな」


 ぽんと肩に重みを感じた途端にむずむずとし始める鼻。

 こわごわと振り向く私の視界に入ったのは、間違えようもなく私の知っている出井 翔だった。

「っ……はっくしょんっ。な、何でこの学校に、っくしゅっ。いるの!?」

 連続するくしゃみの切れ目に尋ねる。

「何でって、俺この高校受験したから。そんでもって合格したから。ついでに志望動機はここの制服が着たかったから。オッケー?」

 返す言葉が思い浮かばない。

 志望動機が制服ってあんたは女子か。

 翔の言うように、学校指定の紺色のブレザーはやや高めの身長の奴にはとても似合っていた。


「まあ、また三年間よろしくな美鶴」


 しれっと昔の呼び名で呼びかけてきた翔は口の端を上げてにやりとわらった。

 その顔は人懐っこい犬というよりは、昔見た不思議の国のアリスのアニメに出てきたチェシャ猫のようだった。


「よ、よろしくなんてしてやんない!」


 むずがる鼻を抑えながら翔の奴を睨み付け、私は悔しまぎれの捨て台詞を吐いてその場から退散した。

 これは逃げたんじゃない。戦略的撤退だ。

 奴を目の前に涙は決壊寸前。くしゃみの猛威から己を守るための戦略的撤退なのだ。

 断固としてそう自分に言い張って去っていく後ろで翔が言う。

「美鶴。そんな顔他の奴の前でしないほうがいいぞ」

 鼻を赤くして目を充血させる私の顔は注意を促すほどに酷いってか。あぁ、そうかい。変な顔を見せて悪うございましたね!

 その場を逃げたところで奴から逃げられるわけもなく、私は片思いをずるずると引きずって高校二年生へと進学した。

 二年生になってやっと文系と理系にクラスが分かれ、理系の翔とはクラスが離れたことだけが救いだった。

 去年の一年間は本当に最悪だった。

 年柄年中くしゃみに鼻づまり、始終目に涙を浮かべる私には担任を通じて保健室から病院行きを指示された。 


「アレルギーっていうのはね、症状は様々で坂木さんみたいにくしゃみや鼻づまり、目のかゆみなんて軽度のものから重篤なものだと慢性的な喘息の症状まで出ることがあるんですよ」


 そう教えてくれたのは保険医の吉原先生だった。

 まだ二十代半ばと若く、生徒からなつかれてはいたものの、舐めてかかられていないのは肝心なところできちんと線引きのできる先生だったからだ。

 授業をサボろうとする生徒に対しては説教くさくないほどのけれど厳しさの混じった言葉で教室に戻らせ、本当に体調の悪い生徒に対しては手厚く看護に当たる。知るようになったのは、私が常連とまではいかずともちょくちょく保健室に顔を出すようになったからだ。 

 吉原先生は私がアレルギーで困っていることを知っている。アレルゲンに関しては言えなくても、一番翔と行き会う危険性のある学校内で相談できる相手がいるということは私にとても安心感を与えてくれた。


「植物や毛虫に触れてかぶれることがあるでしょう? あれもアレルギーの一種なんです。特に大変なのはアナフィラキシーショック。そうなったら即病院行きです。坂木さんの場合は今は呼吸器でも鼻のほうに主に症状が出てるけど、気道のほうに感作してしまったら気道閉塞も出てしまうかもしれません。きちんと病院で検査をしてもらっておいたほうがいいですよ」


 気道閉塞というものがどういう状態なのかはよく分からなかったけれど、きっと呼吸がとても苦しい状態なんだろうと思った。

 先生の話は興味深く、アレルギーといえばくしゃみや目のかゆみなどといった花粉症の症状を思い浮かべていた私の常識を改める良い機会となった。

「アレルゲンが日常的に切り離すことができないものなら、それと上手く付き合っていくことも考えないといけませんね」

「上手く付き合っていくって、たとえばどういう?」

「うーん。一番はアレルゲンを隔離することなんですけど……それができないのなら遠ざけたり触らないようにする、でしょうか」

 アレルゲンと上手く付き合っていくという言葉は重く私にのし掛かる。

 私のアレルゲンは翔だ。

 翔を私の日常から切り離せばこのアレルギー症状ともさよならできる。

 吉原先生に紹介してもらった病院から処方された抗アレルギー作用のある内服薬と目薬は私の体によく合っていたようでとてもよく効いた。

 効いたといっても症状が軽度で済む程度だ。

 アレルゲンに接している限り症状が収まらないということは普通のことで、それは翔を私の生活圏から切り離さなければアレルギー症状から逃げられないということを意味していた。

 アレルギーは不治の病ほどに重傷な病気ではないが、一生付き合っていくにはやっかいな病気だということはこの五年間で身に染みている。

 この病気とももう五年の付き合いになる。無自覚の頃を含めた翔に対する片想いの期間と同じ計算だ。


 私の体のすべてが翔を拒絶している今、心だけが翔を求めている――。


 ※ ※ ※


 うちの学校には通年行われる行事というものがある。

 一般的なものでいうと運動会や学園祭。

 それら心浮き立つ行事の中で、参加者からは取り分け不評のある行事。

 秋も深まる頃になると行われる二年生限定のマラソン大会。

 翌年に迎える受験というマラソンを乗り切るための強い身体と精神を育成するためという名目で執り行われるのだが、とにかく全員歩いてでもゴールしましょうというのが最終目標だ。真面目に走る生徒は半分もいない。

 大抵の生徒からは嫌がられるその大会が来週に迫っている中、本日の体育の授業はそれに向けての慣らしの走行だった。


 体育の授業は二クラス同時に行う。組み合わせは女子の数が多い文系クラスと男子の数が多い理系クラスとで。

「っくしゅっ」

 別々のクラスとはいえ、理系クラスの翔と体育の授業の組み合わせでは一緒になるというところでつくづく腐れ縁だなと出てくるくしゃみを噛み殺す。

「女子は五周。男子は八周な」

 寒くなっても半袖で通す体育教師からの指示が入り、ぶーぶー言いながらもみんなそれぞれのペースで走りだす。それに合わせて、私は奴の姿を目にいれない、を呪文のように心で唱えながら決められた周を走り始めた。

 

 なんとか五周を走り切り、乾燥した空気にぜえと鳴る喉をおさえて乱れた息を整える。乾いた空気は思った以上に喉にくる。

 こんなことでマラソンなんて完走できるんだろうか。今翔を見たら呼吸が苦しくなるだろうな。

 思ったところに、

「出井くんはやーい」

 黄色みを帯びた声があがって「美鶴も見てみなよ」と話を振られた。

 そうなると目に入れないとか言っている場合ではない。変に意識していると思われたくはない。

「えっ……」

 やや緊張しつつ顔を上げると、白い線の引かれたトラックではなく、白い布が視界いっぱいを覆っていた。


「おや坂木さん、顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」


 にこやかな笑顔。

 でも覗き込んでくる顔は心配というよりは好奇心に満ちていて、なんでここにと思うには十分な怪しさだった。

「先生……なんでここに」

 先生を振り切って走る男子を見る勇気もなくて、見るはずだったものが視界に入ってこないことに安堵する。

「仮にも保険医ですからね。大会当日のコンディションに不安のある生徒がいないかどうかのチェックを仰せつかっているんですよ」

 からりとした声で「はい、ゆっくり深呼吸。息を整えて」と自分も合わせて深呼吸を始める。

「生徒の健康を管理するのが僕の仕事ですからね」

 偉いでしょうなんて胸を張る姿が年相応に見えなくて笑みをこぼすと、ふふっと笑い返された。

 校庭で白衣なんて衛生上どうかと言うと、しまったという顔になってしいっと口元に指を当てる仕草がまた子供みたいに見えておかしかった。


「美鶴っ」


 聞きなれた声。男子で私をそう呼ぶのは翔だけだ。

 鼻がむずがる。

 最近ではこの声を聞くのが辛い。

 クラスが離れたことによって、いずれは離れてしまうんだと嫌でも知らされた。

 それでなくても翔は私のアレルゲンだ。そばにいてどうしてもアレルギー症状が出てしまうなら、取るべき対策は自分から距離を置くことしか導き出せない。 

 行き場のない想いだけがふわふわと漂って私の症状を進行させる――。

 まだ乾いている喉がひくついて乾いた咳がけほっと出てきた。


「やあ出井くん。走りは順調なようですね。当日は足をくじいたりしないようしっかり柔軟を行なっておいてくださいね。それから――」


 白い布が前に立つ。見えるのは翔の足元だけだ。

 翔の顔が見えなくてよかった。吉原先生がいるせいで真っ直ぐに見られないという言い訳が立つ。

 私は一方的に話を続ける先生の後ろでただじっと翔の足元を見つめていた。

 やがて翔の友達が周回のタイムはどうだったかと寄ってきて、こちらに向いていた足が遠ざかる。

 返事をする翔の声音はとても低くてむっとしていることが分かった。

 呼ばれてすぐに去って行ったことから大した用事はなかったんだろうと勝手に解釈する。むっとしていたので、あからさまな私の反応に何かしら思うところはあったのかもしれない。

 以前だったら、くしゃみが出ても涙目になっても追いかけて何の用事か尋ねに行った。無視することになってしまったことを謝りもしただろう。

 今はそうできない。そんな勇気も無邪気さもとうに消えてしまっていることが哀しかった。


「大変ですよね、坂木さんも」


 先生が振り返って他の人の耳に入らない程度の音量で話し掛けてくる。

 何が、と聞く前に寄ってくる白衣の色が目に眩しい。


「アレルゲンを遠ざけようとしても向こうからやってくるんですから」

 

 ずっと前、入学式の日に見たチェシャ猫の笑い方だった。

 その後もふらふらと生徒の間を渡り歩く先生の姿をぼんやりと目で追いながらも、私は硬直してしばらくの間動くことができないでいた。


 ※ ※ ※


 そしてマラソン大会当日。

 天気は快晴。風が多少あるものの、マラソンをするには恰好の良い天気となった。

 スタートは女子から。十分後に男子が出発する。

「頑張ってくださいねぇ」

 並ぶ生徒たちに向けてひらひらと手を振る保険医はスタート地点兼ゴール地点で待機だという。


 あれから保健室へはすっかり足が遠のいていた。

 誰にも言っていなかった、ばれるはずがないと思っていた秘密を知られていたことの気まずさから吉原先生が徘徊しそうな場所は極力避けて生活していた。

 先生の語るアレルギーの講義に熱心に耳を傾ける私の姿はさぞ滑稽に映っていたに違いない。

 そう思うとどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。


 マラソンコースは車通りの少ない住宅地を抜けて学校へ戻り、女子は校庭を一周して男子は三周して終了となる。

 途中に立っている先生たちからエールを送られながら、私はどれほどペースを落とそうとも走ることを止めなかった。

 たかだか高校のマラソン大会ごときも走りきることができないなんて情けないね、と意地っ張りな私が囁きかけていた。それに応えて走ろうとする私も大概意地っ張りだと思う。

 ただ、これを走りきったら何かが少しだけ変わるんじゃないか、五年間引きずってきた片想いの形に変化をもたらすことができるんじゃないかと思っていた。

 いつかは区切りをつけなければいけない恋だ。それならば自分が頑張った後がいい。

 意地だけで走ってようやく半分。

 女子の折り返し地点(男子はもう少し先に行ったところが折り返し地点)に待つ先生の姿が見えてきたところだった。


「あと半分。頑張れ」


 通り過ぎるときに頭にぽんと手が乗る。

 とっさに下を向いても、声と手の感じで分かる。分かってしまう。

 私は斜め前に来た翔の足元だけを見つめて、上を向こうとする顔を上げまいと懸命に下を向いた。そうしないと翔を見てしまいそうだった。

 どうして私が心を決めようとするときに限って近付いてくるのバカ。優しくするのずるい。


「うるさい。翔のバカ」


 出井ではなく翔と呼んだのは久しぶりのことだった。

 翔がこちらを向く気配を感じたけれど、見ることはせず、ちょうど折り返し地点であったことを良いことに背中を向けた。

 鼻がすんと詰まって苦しかった。


 止まるな。走れ。そう自分に言い聞かせてゴールしたときには足はガクガク、喉はカラカラになっていた。

 後ろに続く人達の邪魔にならないところまで行って地面にへたり込む。

 いがらっぽい喉に入り込んでくる風は冷たくて痛かった。

 ペースは遅かったけれど、走ることは止めなかったので、順位としては真ん中くらいのところだった。

 私の後にも続々と女子がゴールしていき、そのうちトップを走る男子たちも校庭に戻ってきて順次校庭を周っていく。

 十人ほどがまとまっていて、その中には翔の姿もあった。

 見つけるのはすぐだった。翔の姿は私には浮き上がって見えるから。

 同時に目がかゆくなる。

 一周、二周と走っていくうちに翔がペースを上げる。

 さすがに陸上部の部員の足には敵わないようだったけど、それでも充分に早かった。 

 

 喉がひりついて上手く呼吸ができない。

 それでも目を離すことはできなかった。

 だから見ないようにしてたのに……。

 目がかゆみを通り越して痛くなる。涙で視界が滲む。

 ひゅうと喉が鳴ったけれど、目を離すことはしなかった。

 一度目に入れると離せなくなるのが翔だった。

 私は翔の走る姿を目に焼き付けるように瞬きすら忘れてじっと見つめた。

『気道のほうに感作してしまったら気道閉塞も出てしまうかも――』

 吉原先生の言葉が頭をよぎる。


 けほっ


 一人がゴールして、二人目がゴールした。どちらも陸上部員。

 三人目はもつれあいで、翔と他に男子が二人前後しながら走っていた。

 ラストスパートをかけた翔がぐっと前進する。

 好きだ。

 もう目が溶けてなくなってしまっても構うもんか。だってこれが最後かもしれない。じっと翔のことを見つめていても誰にもおかしいなんて思われない機会は。

 すごく好き。

 このまま息ができなくなっても構わない。


 けほ、けほっ……ごほっ


 咳込んだ分の空気が上手く戻らない。

 私の体はこんなにも翔のことを拒絶しているのに、私は――

「坂木さんっ」

 張りつめた吉原先生の声がして、視界を白い布が覆った。

 先生、校庭で白衣はやっぱり衛生上問題ありだよ。

 

「せんせ……翔、そばに……来させないで」

 細く浅い息の合間に訴える。

「分かってます」

 脱いだ白衣で上半身を包まれてそのまま抱え上げられた。

 遠く、翔が私を呼ぶ声が聞こえた。幻聴かもしれないけど、呼んでくれたのだったら嬉しい。

 でも見ないで。翔のこと全身で嫌がってる私を見ないで。

 私は掛けられた白衣の隙間から先生にしがみついた。全身で翔を拒絶する私を見られたくなかった。

 

 ※ ※ ※


 保健室へ連れていかれてもなかなか落ち着かない私のそばで、先生は根気強く背中をさすって励ましてくれた。

「大丈夫、ゆっくり呼吸して」

「今は何も考えないで。ここには誰も入ってこられないから」

 かけられる言葉のひとつひとつが優しくて、私はぽろぽろと涙をこぼした。

 涙が止まるまで背中を撫でてくれた手をやたらと心強く感じていた。


 ※ ※ ※


「先生は私のアレルゲンが翔だって知ってたんだよね」


 呼吸の乱れが収まり、涙もひっこんだところで、先生がハーブティーを淹れてくれた。

 気持ちが落ち着く作用があるというハーブティーは先生オリジナルのブレンドなのだという。

 すうっと鼻を通る爽やかな香りは確かに心が落ち着く。

 調合の比率は内緒。今回は特別だと先生はしいっと口元に指を当てた。

 香りだけでなく、カップの温かさにも気持ちはほぐれる。


「最初は翔がそばに来たときだけだったの」


 私は両手でカップをはさんで、ハーブティーの秘密を分けてくれた先生に私の秘密を洩らした。

「鼻がむずむずしてくしゃみが止まらなくなって。そのうち翔の姿を見掛けるだけでもダメになっちゃった。目はかゆくなるし、涙は出るしですごい大変で……」

 私の症状は先生も知るところだったので、うんうんと頷いてくる動作は「分かっているよ」と言ってくれているみたいだった。

「治るどころかどんどん症状がひどくなってる」

 年々症状は重くなっていっている。

 今日に至っては呼吸まで苦しくなった。

 翔を好きな想いが強くなるほど、体は翔を拒絶する。まるで好きになるなと言っているみたいだ。


「アレルギーってそのうち治るんだと思ってた……」

 どうにかならないかと先生の話を聞きに来て、知識を得るに連れて翔のそばにはいられないと知る。

 治ればそばにいても許されると思っていた。――でも誰に?

「そばにいるだけで、姿を見るだけで体全体で自分を拒絶するような奴、私でもゴメンだもん。翔だってきっとそう」

 私はきっと翔に許してほしがってる。このままでもいいって。でもそんなの絶対にない。

 うんざりだっていう顔をされるくらいなら、自分から離れたほうがずっと楽だ。

 本当はこのアレルギーが治る方法を知っている。

 でもその方法を選択することができなくて、私はずるずると迷っていた。


 外でカタンと物音がした気がした。

 気になって立ち上がりかけると、先生が私と扉の間に入ってきて視界を塞がれる。

 手が伸びてきて、こぼれた髪をすくわれて耳にかけられた。


「苦しいなら、僕のことを好きになりませんか?」


 言って先生は持論の展開を始めた。

「僕の見識によると、坂木さんのアレルギーは好きな人に対して発症するもののようです。多分相手を想う気持ちが体内のアレルギー物質の分泌を誘導しているのでしょう。治療には根気が要ります。僕ならきみを受け止められる。気も長いほうだから、そばにいることが叶わなくてもゆっくり症状と向き合っていけると思いますよ」

 だから出井くんのことはやめて僕のことを好きになってはどうですか、と先生は提案した。

「ははっ。先生ってば冗談きついって」

 断ろうとする私の表情を読んだ先生が先手を打つ。

「けっこう本気ですよ。きみが涙したら、こうして拭ってあげたいと思うくらいには」

 頬を指がすべる。

「どうです? まだ二十代半ばですからね。おじさんではありませんよ」

 乾いた涙を拭う素振りはやわらかさと甘さを持っていた。


「待てこらっ。この変態ロリコン教師がっ! 四捨五入で三十歳は十分おっさんだ。美鶴に手ぇ出したらただじゃおかないからな!」


 扉が外れる勢いで入ってきたのは、今一番目に入れたくない人物だった。


 ※ ※ ※


治療過程:逃走・捕縛……そして


 私は走った。

 マラソンで酷使した足はガクガクだったけど、それでも走って校舎の角を曲がって階段を駆け上り、また走る。


 乱入してきた翔が吉原先生の胸倉を掴みあげるまでの間、私は頭が真っ白になって動けなかった。

 でも翔の姿を見て反射的に出てきた小さなくしゃみによって金縛りは解け、と同時に私は彼等の横を抜けて駆けだしていた。

「待て。待てって、美鶴!」

 翔が待ったをかけたけれど、止まらなかった。

 私の足で翔を振り切ることなんてできるわけもなかったけれど、捕まりそうになるたびに体を捻って捕縛の手を逃れた。


 廊下を抜けて、渡り廊下を走って、階段を下りて走ってまた階段を上がって――。

 捕まったのは屋上へと繋がる階段を上りきったところだった。 

 屋上へ出るための扉に手を掛けたところで、私よりも大きな翔の手がかぶさる。

 咄嗟に手を引いて、手で顔を覆った。

「こっち向けって」

 肩を引かれて翔のほうに体を向けさせられる。でも手をどけることはしなかった。

「こっち見ろよ」

「やだっ」

 翔は保健室の外で聞いていたんだろう。

 でも実際に翔を見て症状が出るまでは決定打にはならないはずだ。悪あがきのように思って、頑として翔を見ないようにする。 

「なんで」

 聞かないでよ。翔に聞かれたら答えなきゃいけなくなる。嘘を言ったって、ごまかされてはくれないんでしょう。

 真実を聞き出すまでここから動かない、という翔の意志を感じた。

 下唇を噛む。そうでもしないと涙が出そうだった。


「聞いたでしょ。私、翔を見るとアレルギーが出ちゃうの。何度も翔のこと見ないようにしようって思ったけどダメだった。どうしても見ちゃうの。見ると苦しいのに……。くしゃみは出るし、目はかゆくなるし、涙は出ちゃうし。知ってる? アレルギーって異物を排除するための体のメカニズムなんだって」

 アレルギーとは体内に存在する免疫機構が体を守ろうとして起こる反応なのだそうだ。

 それを知ったとき、私はあまりのばかばかしさに笑った。

 私は翔のことが好きなのに、肝心の私の体は翔のことを異物だと認識しているのだ。こんなおかしな話ってあるだろうか。

「おかしいでしょ。体はこんなにも翔のこと拒絶してるのに、私……翔のこと好きなの」

 笑ってもいいよ。そう言いかけて言葉が詰まる。


 この症状を治める唯一の方法。それは私が翔のことを好きではない状態になること。

 アレルギーに関して多くを知る前から薄々とだがそう考えていた。 

 でも私にはその選択を選ぶことができない。そのことに今気付いてしまった。

 人の心は流動的で、いつ気持ちが変わるかは分からない。他人の感情についてはそんな風に冷静に見ているくせに、自分が翔のことを好きではなくなる日が来るなんて想像もできないのだ。

 翔が私にうんざりって顔をする様子は簡単に描けるのに、自分が翔にうんざりって顔をする様子は微塵も描けない。

 好きだ。翔のことが好きだ。


「お願い見ないで。翔のこと諦めたらこの病気も治るって分かってる。でもできないの。翔のこと好きじゃなくなるなんてできない。だからせめて翔のこと嫌がってる私を見ないで」


「分かった。もういい」


 首を横に振り続ける私のそばから翔がすっと離れていく。

 否定的な言葉に絶望的な気持ちになる。

 区切りをつけようとした私の片想いは、こんな悲惨な形で終わったのか――。

 ぎゅっと押し当てていた手の力が緩んで下に落ちる。

 全力疾走した疲れが一気に押し寄せてきて、そのまま床に座り込んだ。

 呼吸が苦しかった。でもこの苦しさはアレルギーのせいではなく、私の胸の痛みからくるものだ。

 水滴が頬を伝って落ちていく。我慢はきかなかった。


「もう見なくていい」


 最後通告が下されて心にヒビが入った感触が確かにした。冷たい床が氷のように凍てついて私の足を冷やしていく。

 もう見るなって言われてしまった……。じゃあもう何も見たくない。

 思ったとき、ふわりと温もりがかぶさってきて視界が真っ暗になった。目元を翔の手で覆われているのだと気付いたときには唇を塞がれていた。

 吐息が合わさる。頭がじんとしびれて、かろうじて分かるのは翔と今まさにキスしているという事実だけだった。

「美鶴、好き。すげぇ可愛い」

 唇が離れた瞬間に囁かれる声に全身の力が抜ける。床に沈み込みそうになったけれど、それでも体勢を崩さなかったのは、翔が体を支えていたからだった。

 何度もついばまれ、息も絶え絶えになったところでようやく解放される。ただ手だけは依然として目元に当てられていた。


「美鶴、体は俺を拒絶してるって言ってるけど、それって心は俺のこと欲しいって言ってるって受け止めてもいい?」

 耳元に寄せる唇から出てくる声が私には甘すぎて、「ダメ」と答えると「美鶴の否定の言葉は全部肯定に聞えるから無理」とダメと言った言葉は相殺された。

「だってやっと捕まえたんだ。何のために高校まで追いかけてきたと思ってるの。俺の執念なめないでよね。ゆっくりじわじわ責めようって思ってたところに、美鶴はなんか俺を避けるようになるし邪魔は入るし、目の前で他の男に連れ去られるし」

 俺がどんだけへこんでたか分かる? とすねた口調で訴えられる。

 見えなくても翔がどんな顔をしているのか分かった。私の頬はすごく熱いけど、今の翔もきっと熱いに違いない。

「美鶴がアレルギーで苦しもうがどうしようが構わない。美鶴は体全部で俺を拒絶してるって言うけど、俺はそうは思わない。アレルギーって体に害のないような反応しなくてもいいものに対しても過剰反応することがあるんだ。美鶴の体全部が心以上に俺に反応してるってすごくそそる」

 こんな熱烈なアピールってないって、と翔は頬に唇を寄せて笑った。これまで私が固執してきたことはなんてちっちゃなことだったんだろうと思う。凝り固まった思考を簡単に打ち砕いてくれる翔のことが好きだと思った。

「美鶴が好きだ。俺のこと見てくしゃみするとこも涙目になるとこも全部好き。できれば苦しいの我慢して俺のこと見てくれたらすっごく嬉しい」

 さっきみたいに呼吸困難で倒れられたら困るけど。そう翔は付け足した。

「ダメ? まだ俺のこと見るの怖い?」

「ううん。苦しくても我慢する。だって翔が私のこと好きだって言ってくれたから。次の瞬間に息が止まってしまっても構わない」

 置かれた手をそっと外す。

 開いた視界の中心で翔が見える。見てほしいと言ったものの、私の症状がどう出るか不安でそわそわしているのが分かって、初めて翔のことを可愛いと思ってしまった。

「なに?」

 吹き出す私に翔が不思議そうに首を傾げる。基本属性が犬の翔はそうしていると本当に飼い主を前にした犬みたいだ。

「いや意外と大丈夫だな、と思って」

 翔を見ても鼻はむずむずしなかった。くしゃみも出てこない。目のかゆみも襲ってこなかった。

 今まで涙でずっと滲んできた翔の姿はクリアに映っていて、あぁこれで真っ直ぐに翔のことを見ることができると思った。

 思ったままを言うと、

「やばい。俺の心臓のほうがどうにかなりそう」

 また唇を塞がれた。

 

 ※ ※ ※


 十二月二十四日。

 クリスマスイブの今日はうちの学校では終業式に当たる。

 私は一足先にホームルームを終えて、翔のクラスが終わるのを保健室で待っていた。

 出されたハーブティーは今日も温かく冷えた私の指先を温める。


「――坂木さんのアレルゲンの真実は好きな人を前にしたときの不安感から来るものだったんでしょうね。不安感による体内環境の変化を免疫機構が異物の侵入である誤認していた……。症状が止まったのは一時でも好きな相手を失なったと思ったことが大きかったんでしょう。出井くん、つまり異物の消失を免疫機構が認識して排除すべき異物を見失ってしまった、と――」


 保険医の吉原先生とは今では仲の良い茶飲み友達となっている。

 こうして持論を展開させるのは先生の癖のようで、私はお茶をすすりながらその講義に耳を傾けた。

 マラソン大会後の週明け、マラソンを走り終えた私を襲った呼吸困難は先生の仕掛けたものだったと謝罪を受けた。

 あれはアレルギー症状ではなくある種のパニック症状だったと先生は告白した。

 あのときの症状は、アレルギー関連の話の中で私に吹き込んだ知識によって、走り終えたときの呼吸の乱れを翔を見たことへのアレルギー症状であると私が思い込んだ結果出た症状なのだという。

 多感な時期の子に余計な知識を植え付けた際に予測できる事態について深く考えていなかった、反省しています。そう先生は机に額をこすりつける勢いで謝ってきた。

 勘違いしたのは私なのに謝られるなんて、と恐縮する私に翔は

「全部こいつが悪い。いらないことをして美鶴を困らせたんだ。ついでに美鶴に手を出そうとしたことを俺に謝れ」

 と尊大に言い放っていた。


 実は翔と吉原先生とは父親同士が従兄弟関係にある親戚筋に当たるそうだ。

 時々表情が似てるなと思っていたので、こういう理由があったからなんだと納得する。

 先生と会話をするときは物言いが乱暴になっていることは自分でも気付いているようで、指摘すると「あいつはライバルだから」と唇を尖らせていた。

 そういうところで翔は子供っぽい。

 可愛いなんて言ったらまた怒りそうだったので、心の内だけで呟いておいた。 


「ねぇ、坂木さん」

 先生が椅子を引いて私の前に座る。

 その笑い方はいつか見たチェシャ猫の笑い方で、もし翔のことを好きにならなかったらきっと先生のことを好きになっていたかもしれないなと思った。


「今は症状が落ち着いているからいいものの、いつまた症状が出てくるか知れません。出井くんがきみを不安にさせることもこれから先出てくることもあるでしょう。どうですか? 今からでも僕のことを好きになってみませんか?」


 先生は時折こうしてちょっかいをかけてくる。

 もちろん翔が怒ることを見越してだ。この人は年下の彼をいじめるのがお好きなようだ。

「ふざけんな」

 走ってきたのだろう。息を切らせて翔が私の体を引き寄せて先生を威嚇した。開け放たれた扉から入り込む風が寒い。

 先生を前にすると翔はかなり余裕がなくなるらしい。その姿すら可愛いと思ってしまうのだから私の翔好きもかなりの重症だ。

 翔の腕の中から先生に笑いかける。

「先生ありがとう。でも私、もしまたアレルギーが出て苦しい思いをしても大丈夫」

 だってそれは翔がもたらしてくれるものだから。

「アナフィラキシーショックで呼吸が止まってしまっても、きっとそのときの私はすごく――」

 続きは翔にぎゅっと抱き締められて言うことができなかった。


「ごめん。続きは俺に向かって言って。他の奴に向かって言わないで」


 見上げると翔の耳が赤い。

 私の言葉ひとつで動揺するこの同い年の男の子のことがすごく好きだ。

 私を包む腕の中で身じろぎして振り返る。

 爪先立って耳元に顔を近付けて、先生には聞こえないように手を添えた。

「あのね……」

 翔がすごく期待して私の言葉を待つ。そんなにウキウキされるとイタズラ心が首をもたげる。

「やっぱり言わないでおく」

 えぇそんなぁ。がっくりと肩を落とす翔が可愛くて愛しくて、笑うとつんとそっぽを向かれた。

 

 保健室を出てからも「言ってよ」としつこく食い下がられる。

 仕方ないな。

 後で渡そうと思っていたクリスマスプレゼントにと用意していた手袋を出すと途端にせっついていたことも忘れて飛び付いてくる。

 片方の手だけにはめて剥き出しの手のほうで手を繋がれた。

 こんなに距離が近くなっても、アレルギー症状は出てこない。先生が言ったように、それは今のところという注釈が付くのかもしれない。

 でも今のところは――。

 手に汗をかいたりしないかな。そんな普通のことだけを心配していたらいいという幸せを噛み締めていようと思う。

 握り返した手の温もりにほうっと息を吐く。それは何かを諦めるためのため息ではなく、隣に好きな人が立っているという幸福から漏れでる吐息だった。

 

~終~




追加処方:


 ポットに残っていたハーブティーをカップに注ぐ。

 彼等はこれから手を繋いで駅前のイルミネーションが点灯するまで一緒に過ごすのだろう。その前にゲームセンターで時間を潰したりファミレスで食事をするかもしれない。

 高校生らしい子供のデートだ。

 自分ならば綺麗な内装の店で美味しい食事をご馳走し、そのあと車でドライブにでも連れ出しただろう。

 想像をして首を振る。そんな見た目ばかりを気にしたデートを彼女が喜ばないことは知っている。

 

「あんた美鶴のことけっこう本気だったろ」

「けっこうじゃなくてかなり本気だったよ」

 先日翔に聞かれて答えたことはけっして皮肉ばかりで出たものではなかった。


 初めは厚意。続けて興味。厚意が好意に変わる予定ではなかったのに……。

 彼女が年下の親戚に想いを寄せていることはすぐに気付いた。同時に彼のほうも彼女を想っていることも。

 真っ直ぐに彼に向けられる彼女の視線を子供らしいなと思いながらも、それを受ける彼を羨んだ。

 仮に彼女の心が自分に傾いたとしよう。

 そのとき彼女はおそらくアレルギーを発症しはしないだろう。

 全身で彼の存在に過剰に反応する彼女。

 絶対に自分には向けられないであろう症状をそれでも一度は欲しいと思ってしまった。


「僕じゃ彼女のアレルゲンにはなれないんでしょうね」


 すすったハーブティーはすっかり温くなってしまっていた。

 しばらくは失恋の痛手を長年の片想いを成就させた彼等にちゃちゃを入れることで癒やすことにするか。

 残りの液体を一気に飲み込んでカタリと置いた。





翔は一歩間違えると粘着ストーカー(笑)

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― 新着の感想 ―
[一言] とても良かったです! 翔くん視点でも書いて下さい!(^^)!
[一言] ボクシングデイの今日に『キミアレルギー』読みました とても面白かったです! これ読んで自分の高校も一昨日のイブに終業式だったな〜って思ってました(* ̄∇ ̄*)>
[良い点] キミアレルギー、なってみたいな・・・。 [一言] はぅ、素敵なプレゼントにくらくらです。 彼も彼女も報われて良かったです。
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