音を無くしたStringBass
「それじゃ、これからも頑張ってください。…きをつけ、礼!」
「ありがとうございましたッ!!」
私のかけ声の直後の部員一同の挨拶。
これを聞くのも、今のが最後だと思うと、少し寂しい。
こうして、私――小湊 真喜の吹奏楽生活は、儚くも美しく、もといあっさりと幕を下ろした。
中学3年の、10月の事である。
事件は、この約半年後に起こった。
♪――――――――――♪
ブブ…ブブ…
まだ新しい、高校の制服のポケットに入れた携帯が、メールが来た事をバイブで知らせる。
ポケットから携帯を抜き、ヂィスプレイでメールの差出人を確認する。
……由里から…?
メールの差出人は、私が副部長を務めていた、中学校の吹奏楽部の後輩、千足 由里。チューバ吹きで、現在1つ下の中学3年生。
そんな彼女からの突然のメール。一体何の用だろう。
内容は、こうだった。
お久しぶりです。高校生活いかがですか?
今日は、相談したい事が有ってメールしました。
実は、先輩が使っていた方のコントラバスを、瑛史がこの前使おうとしたんですけど、壊れてない筈なのに音が出ないんです。
先輩の空いてる日を教えていただければ、練習日程をできる限り調整します。
コントラバスの音が出ない?
現役時代、コントラバスを弾いていて、人並み以上にはあの楽器の事を分かっている私に、その言葉は理解できなかった。
コントラバスは、音を出すだけなら比較的誰でもできる楽器なのだ。それこそ、触るだけでも音は鳴る。
吹いても音にならない事が有る管楽器とは違う。
私はすぐに、返信画面を開き、部活に行ける日付を打ち込んだ。
♪――――――――――♪
バイオリン属の中で最も大きく、最低音域を担当する4弦の楽器。ストリングベース、ダブルベース、弦バス、アップライトベース、ベース・フィドルなどといった呼称も有る。
それがコントラバスだ。
さて、私はいま、中学校の音楽室へ向かって、校内の階段を上がっている。
戻ってきたのだ。引退し、卒業した、この場所へ。
あちらこちらの廊下からは、パートで合わせている音が聞こえる。ここに来るまでにも、何人かの後輩達とすれ違い、声をかけられたりもした。中には1年生と思われる子達の姿も有った。
「あれ…真喜先輩」
「明日佳じゃん。久しぶり。最近どうよ?」
久保田 明日佳。由里と同じく中3で、バリトンサックス吹き。
明日佳から、大体の近況報告を受け、少しの世間話をした。
「そういえば、バスの練習場所って……」
「あ、3階フロアです。バスパートも、パート練の時に移動する事にしたんです」
「そうなんだ。てっきり前のままかと思って音楽室前廊下まで来ちゃったよ。ありがとう」
「いえ」
そう言って、その場から立ち去る。
3フロか。そっちの棟は通らなかったからな。
この学校は2つの棟からできているのだ。音楽室が有る棟と、3階フロアと呼ばれる場所のある棟は別。
まぁ、棟は違えど、たかが4階と3階。たいした距離ではない。
私達の代の時には、バスパートは音楽室前の廊下で固定だったのだ。チューバ、ユーフォニアム、コントラバスの3種の楽器をまとめて“バスパート”とされている。その楽器の大きさゆえ、拠点である音楽室の前に固定して、移動が楽になるようにしていたのだが、その彼らをパート練のサイクルに組み込んだとは。大胆な事をしたものだ。
「同じ所をもう1回! 1、2……」
♪~
シーゲート序曲。その最初の部分。棟同士を繋ぐ渡り廊下に居た時から聞こえていた。
「さっきも言った通り、まだ遅れがちなので、しっかりメトロノーム見てください」
「瑛史のピッチが先だろう。1年生より悪いってどうゆうこっちゃ」
「うわぁ!? 真喜先輩!?」
危うく、抱えていたチューバを落としてしまう所だった。それくらい驚かれた。心外だなぁ。
「呼び出しておいてうわぁはないだろ、うわぁは。私が小湊真喜以外の誰に見える」
「お久しぶりです」
「久しぶり」
こいつらだけは半年経ってもかわってないみたいだ。1年生は入っているが。
「はじめまして」
「は、はじめまして!!」
1年生と思われる子達に、笑顔で挨拶すると、緊張したような声で返してくれた。
うーん。かわゆいぞ、君達。
「んーでー? なんちゅうピッチしてるんじゃお前はー!! チューナー付けろー!!」
「えー」
相変わらずふてぶてしい奴め。
渋い顔をしながらも、チューナーを取り出し淡々と楽器にチューナーマイク繋いでいくこいつが瑛史こと、“灰倉 瑛史”。私の直属の後輩だった奴。
「それより真喜先輩」
「あぁ…ゲルニカね……」
ゲルニカ――私がコントラバスに付けた名前。ネーミングセンスについては禁句で。ちなみに某RPGの召喚獣から名前を拝借して命名。
「どこに居る? 瑛史がつかってるの、ビットでしょ?」
「楽器庫」
「やっぱ戻るのか……」
楽器庫は、2つの音楽室にはさまれて存在する、吹奏楽部の部室のようなもの。
楽器庫には、私と由里、瑛史の3人で行く事になった。
楽器庫では、パーカスが元気に姦しく練習中。
肝心のゲルニカは、カバー(通称・ボロパジャマ)をかけられて横にされている。
「……久しぶりだね、ゲルニカ」
――「寂しかった……」
えっ…?
今のは…ゲルニカの感情……?
ただ一言だけ聞こえた、泣きそうな少女の声。
「真喜先輩? どうしました?」
「え…聞こえなかったの…? 声が……」
「声?」
由里には、聞こえていないらしい。確認すると、瑛史も。
「じゃあ、瑛史。弾いてみてくれる?」
「音、出なくても…」
「構わん」
それを確認すると、バスパート用の棚から弓を取り出し、張る。ゲルニカ用の弓だ。
去年に比べて、毛を張る手付きなどがだいぶ慣れたものになっているのが見て分かる。
続いてカバーを外した事により、ゲルニカの姿が露になった。
去年、私が引退した時と全く変わらない姿。
薄めの茶色の、コントラバス。
壊れている箇所は、ざっと見た限りでは、無さそうだ。
とりあえずその事に安堵。
そして、瑛史が弦に弓を当て、引く。当然ながら、弦が震える。
だが、それでも。
「……鳴らない…?」
瑛史は確かに、今も弓を動かし続けている。それでも聞こえるのは、パーカスの練習音のみ。
「噓ッ! どうして!? 瑛史、ちょっと貸して」
「はーい」
瑛史から、弓を受け取る。
そして、ゲルニカを受け取る。
――「やっと弾いてくれるんだね……」
また聞こえた。ゲルニカの声。
「……うん。弾いてあげるよ…」
頭の中に、現役生活2年半で演奏した曲のレパートリーを思い浮かべる。せっかくなのだから、たとえワンフレーズでも、曲を弾いてやりたい。
私は、中でも特別思い入れの有る曲を選んで、弓の構えをピッツィカートのそれに構えなおす。
♪~
ベルト・アッペルモントの、「ガリバー旅行記」2楽章、ブロブディングナグ。
ベースメロディ部分。
私が選んだのは、それだった。
高校で吹奏楽部に入らなかった私にとって、最後のコンクール曲の一部。
重々しいベース音が楽器庫を響かせる。
♪……
結局、2楽章の終わりまで弾いてしまった。
つまり、瑛史の行った、弓を使ったアルコ奏法も使ったという事。
ピッツィカートも、アルコも使った。
「……瑛史」
「はいー?」
「松ヤニ塗りすぎ」
「すみませーん…」
でも、そこまでやっても、彼にはこの子の音が出せなかったという事なのだ。
それなら、彼を責めても仕方有るまい。
「でも…」
「鳴りましたね……」
鳴ったのだ。ピッツィカートも、アルコも。
余計に不可解な事になってしまった。
瑛史だと音が出なくて、私だと音が出る。
……私が弾けば、音が出る?
――私の弾いた音が……
「“私の弾いた音が、アンタの最後の音になればいいのにね”…?」
私が引退直前に、実際に口にした言葉。
私の未練が思わせた、わがままこの上無い台詞。
もしかして、これは表面だけでも至極単純な事なのか?
「まさか…あんな呟き、守っちゃってくれてるの……?」
そうだとしたら、本当にまさかだ。
無生物が、自我を持って、挙句、自らの音を消すなんて。
でも、そうだとしてしまえば、つじつまが合ってしまう事も確かだ。
私以外の音が出ない事。私にだけ、あの声が聞こえる事。
「私の……私の所為なのね…ゲルニカ……」
返事は無かった。触っても、なでてやっても。
本来はこれが当たり前なのだが、今はそれがたまらなく寂しい。そして、恐い。
無言で肯定されているようで。私が原因だと、そう言われているような錯覚に陥る。
“否定されない”という事が、こんなにも恐い事とは思っていなかった。
「なんっちゅう戯曲だか……。最初から最後まで、私の所為じゃん」
「先輩?」
馬鹿みたいだ。
私のわがままを、この子は叶えていただけなのだ。
私のわがまま1つに、瑛史を巻き込んで、由里を巻き込んで…もしかしたら、吹奏楽部全体を巻き込んで、誰よりも――ゲルニカを巻き込んで。
原因の私が、1人知らんぷり。
更に、ゲルニカは言っていた。
“寂しかった”と。
「本当に…馬鹿だな、私」
1度、ゲルニカを床に横たえる。
その近くに、私も座る。
「……あんなわがままい言って、ごめんね。それから、ありがとう。わがまま、聞いてくれて。……だから…もう、歌って…? 私はあなたの声が聞きたいよ…。寂しい思いをさせたのは分かってる。でも、私はもう…何もしてやれないから……」
そして、そっと、優しく、精一杯の愛を込めて。
触れた。
――「私はきっと、真喜を忘れないよ?」
「私も、忘れたりなんかしないよ…。アンタは、私の最初で最後の、最高のパートナーなんだから」
私とゲルニカの思いが、はっきりと、しっかりと、交差した瞬間。
「ありがとう」
♪――――――――――♪
「今日はありがとうございました」
「いや、いいの。原因、私だったし」
自転車を押しながら、由里とそんな会話をした。
部活帰りのため、由里は言わずと知れて徒歩だが。
今回の出来事は、私の歪んだ愛を、ゲルニカが純粋に受け止め、歪ませて実現させた事により起こった事象。
ゲルニカとは、また会う約束をした。
現役時代、私がゲルニカに見せた以上の愛と忠誠を、ゲルニカは私に見せてくれたのだ。
約束くらい、守らねば。
「無事に瑛史も音出せましたしね」
「私は、音じゃなくて声だと思うな。楽器の音は、イコールで声。歌声。だから、大事にしてやらなきゃね?」
自ら歌う事のできない、歌姫達の歌声を。
こうして、この出来事は、私の吹奏楽生活同様、儚くも美しく、もといあっさりと幕を下ろした。
私の心の中に、わずかに吹奏楽生活の余韻を残して……