盤上遊戯
イストア王国。
幾つもの公爵領と侯爵領が王冠を取り囲み、諸侯の忠誠など銀貨一枚より軽い――そんな時代であった。
イストア王国では、王妃が歌劇を好んでいた。
それだけのことが、二つの公爵家を滅ぼす原因になるとは、誰も思わなかった。
歌姫を擁すること。
それはすなわち、王妃の後ろ盾を得、王国の中枢になる事も夢ではない。
最初に動いたのは、南方フィロッツィア領のフィレンザ公爵家。
「緋の歌姫ロゼッタ」
領主お抱えの劇団にいた娘だ。
燃え上がるような熱で歌い上げる。
そして北方からも、一人の歌姫が王都へ向かう。
「碧の歌姫レティシア」
北方の村の協会で歌っていた娘。その歌は、深い水底から響いてくるようだった。
それを、ブランシャール公爵家が見出した。
二人の歌姫は、王都ロミナを目指した。
だが――彼女たち自身は知らなかった。
自分たちの足元で、すでに戦争が始まっていることを。
*
「ロゼッタを王妃に売り込む」
フィレンザ公爵は言い放った。
公爵は嘲笑した。
「そうして我が家が宮廷の実権を握る」」
その言葉を聞いていた男がいた。
ヤギイ侯爵。
フィレンザ公爵家と長年の同盟関係にある、西方海岸の大領主である。東方より流れ着いた血を引く家系だという。
ヤギイは暖炉の炎を見つめながら、静かに口を開いた。
「誰が王妃のお抱えになるかなど、まだ決まっておりませんよ。北も歌姫を擁してきています」
「何が言いたい?」
「……盤上に駒が二つあるならば――」
ヤギイは指先で卓上の駒を滑らせた。
「片方を進めるだけでは足りない」
緋い駒が、王妃の駒へと近づく。
そして碧い駒を、盤の端へと追いやった。
「もう片方を、動けなくすればよいのです」
公爵は黙し、やがて呟いた。
「……殺すというのか?」
「いいえ」
ヤギイは薄く微笑んだ。
「ただ、歌えなくしてしまえばいい。それだけです」
――この国を守ることに、ヤギイは何の興味もなかった。
*
王都ロミナ。
宮廷では、緋と碧の歌姫が競演を繰り広げた。
ロゼッタの歌声は、炎だった。
聴く者の胸を焼き、酔わせ、奮い立たせる。
レティシアの歌声は、水だった。
静かに流れ、心の奥へと染み込み、忘れかけた記憶を呼び覚ます。
王妃は二人の歌声を愛した。
南方の諸侯はロゼッタを支持した。
北方の諸侯はレティシアを支持した。
商人たちは勝ち馬へ金を張り、聖職者たちは都合のよい側へ祝福を与えた。
そしてヤギイ侯爵は、その全てを静観していた。
緋か、碧か。
ヤギイはどちらにも荷担しない。
彼が見つめていたのは、歌姫のどちらが勝つかではなく、この欲望に眩んだ二大公爵家を互いに喰らい合わせ、腐敗したイストアの構造そのものを崩壊させる未来であった。。
言葉や金では動かぬ者も、歌姫の生む狂熱になら容易に踊らされる。
ただの領地争いならば諸侯の損得勘定で手打ちとなるが、歌姫であれば諸侯のみならず民衆までもが熱狂に巻き込まれ、対立はもはや後戻りできぬところまで燃え上がる。
そうして両公爵家と諸侯を同士討ちさせる最良の「触媒」――民を狂わせる極上の毒だった。
歌姫たちの歌が純粋で圧倒的に美しければ美しい程、そのぶんだけ宮廷の裏側は泥臭くなる。
二人の歌姫がもたらす諸侯の疲弊。
二人の歌姫に入れ込み、それに振り回される宮廷の混乱。
ヤギイはただ黙って、権力者たちが自滅していく様を見つめていた。
さて、北か南か……迷う必要はない。
ブランシャール家の後ろ盾は薄い。崩すなら、脆い方からだ。
──とはいえ、自滅を待つだけでは足りぬな……。
*
最初に起きたのは、ミルスク領の反逆疑惑だった。
次いで、ブランシャール家が隣国と密約を交わしたとする書状が王都へ届けられる。
さらに、レティシア自身が王暗殺を企てたという証言までが浮上した。
レティシアに身に覚えはなかった。だが、それが濡れ衣であることを証明する者も皆無だった。
ブランシャール家は関係ない、とレティシアを切り離した。
そうして、首謀者として捕らえられたレティシアの処刑が決まった。
「どうして……」
レティシアは膝を震わせた。
ヤギイは冷ややかに見下ろす。
「最後に一つくらい、望みは聞いておきますよ」
「……歌わせてくださいますか?」
「……良いでしょう」
案内されたのは、夜の闇に静まり返る、誰もいない劇場。
客席には誰もいない。
王妃もいない。
王もいない。
諸侯もいない。
ただヤギイだけがいる。
レティシアは、静かにアリアを歌いあげる。
深い水底から響いてくるような、美しく切ない歌声が空間を満たしていく。
権力争いの道具にされた彼女の、ただ純粋な歌。
レティシアは途中で歌を止めた。
しばしの静寂の後、レティシアはヤギイを見た。
「……あなたは、何を守ろうとしているのですか?」
ヤギイは答えない。
「そうですか」
レティシアは微笑んだ。
「では、せめて最後までお聴きください」
暗闇の中で、再び響き渡る歌声。
ヤギイは最後まで黙って、その歌を聴いていた。
歌が終わり、長い沈黙が降り立つ。
ヤギイの瞳には、言葉にならない衝撃と、消えることのない賞賛が浮かんでいた。
すべてを悟り、己の死を受け入れたレティシアが儚く微笑む。
政治の外側に立つ彼女の歌声と問いは、ヤギイの中に残り続けた。
*
翌朝。
レティシアは断頭台の露と消えた。
彼女が最期まで何も弁明せず、ただ静かに微笑んで空を見上げていたという報告を、ヤギイは無言で受け取った。
こうしてロゼッタが王妃のお抱え歌姫の座に就いた。
王妃は喜んでロゼッタを皆にお披露目した。
鐘が鳴る。
花びらが舞う。
楽士たちが眩い旋律を奏でる。
誰もが笑っていた。
ただ一人、ヤギイだけは笑っていなかった。
*
レティシアを失い、様々な疑惑の目を向けられたブランシャール公爵はなりを潜めた。
そのため、フィレンザ公爵家とロゼッタは一時期の栄華を誇った。
だが栄華の頂点にありながら、ロゼッタのその瞳は、いつしか遠い海を見つめることが増えていた。
――そうして、わずか三年後。
王の心は王妃から離れ、美しい寵妃サフィラへと移っていた。
王妃もまた、歌姫たちへの関心を失い、王と寵妃の動向に心を奪われていった。
宮廷では、新たな派閥争いが勃発。
夜の回廊で、宰相ヴァルデマールがヤギイに囁きかける。
ヤギイは静かに微笑むと、胸元から一枚の告発状を取り出した。
そこには、フィレンザ公爵家がかつてヴェスパ港で行った密貿易と、王家に対する不敬の証拠が精緻に記されていた。
ヤギイが三年かけて仕込み、最良の機で売り払うために温めていた「商品」である。
「潮目が変わる……。緋の歌姫の時代は、とうに潰えた」
ヤギイは重く息を吐く。
彼もまた、ロゼッタが王妃に擁された時から遠くを見つめる時間が増えていた。
フィレンザ公爵家は失脚。
かつてロゼッタをもてはやした諸侯たちは、手のひらを返して彼女を切り捨てる。
それにより、あれほど華やかに迎えられたロゼッタは、幽閉された。
王を取り囲んでいた巨大な両公爵家は崩壊し、権力構造は解体された。
こうして彼の「目的」は完遂された。
――が、満足感など、どこにもなかった。
「王冠も命も、歴史という潮の満ち引きに弄ばれた泡沫か……この俺も、またその一つ」
そう言い残し、ヤギイ・ソウタは権力の中心から姿を消した。
北にある高い塔から静かな歌が聞こえてくる。
かつて、王妃の前で燃えるような熱を持ち歌われた曲……今は、静かに水底から響いてくるような響きになっていた。
そのメロディを、塔へ食事を運ぶ侍女が覚え、口ずさむ。
「緋の歌姫」も「碧の歌姫」も、二つの公爵家の栄枯盛衰も、すぐに人々の記憶から姿を消していった。
そうして、宮廷の権力者たちは目まぐるしく入れ替わり――。
*
十年以上が過ぎた――。
街道沿いの雑多な酒場。
安酒の匂いと人々の騒光のなかで、ヤギイは一人、酒杯を傾けていた。
ふと、片隅からリュートの音色と歌声が聞こえてくる。
(……この歌は)
ヤギイの手が止まった。
その曲は、かつてロゼッタが宮廷で、王妃の前で華やかに歌っていた曲。
ただし、もう全然違う曲調になっている。
かつての絢爛豪華な宮廷歌謡の面影はない。
華やかな宮廷歌謡ではなく、旅人向けの素朴な旋律。
ヤギイは静かに立ち上がり、吟遊詩人のもとへ歩み寄った。
「……その歌を、どこで知った?」
吟遊詩人は歌を止め、不思議そうに振り返って答える。
「さあ? 昔の宮廷歌謡ですよ。今じゃ誰でも知ってる」
そう言って、詩人はまた素朴で温かい弦の音を鳴らし、歌を再開した。
ヤギイはたたずみ、しばらくその旋律に耳を澄ませていた。
そうして小さく微笑むと、胸元から硬貨を取り出して投げ与え、人ごみのなかへと静かに去っていった。
ーお話はここまでー




