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『妻なら夫の恋くらい応援しろ』と三年言われ続けたので離縁します。——え、恋のお相手にも逃げられたんですか?

掲載日:2026/08/20

 「妻なら、夫の恋くらい笑って応援するものだろう?」


 朝食の席で、夫はまるで天気の話でもするように言った。


 銀の食器が朝日を弾く食堂。私はそっと紅茶のカップを皿に戻した。


 三年。この台詞を聞くのは、もう何度目だろう。


 「来週の茶会にカミラを招いてやってくれないか。君が仕切る茶会は評判がいいから、カミラも喜ぶと思うんだ」


 ヴィクトルは私の顔を見もせずにパンを千切っている。


 カミラ・フォン・ヘルデン。男爵家の令嬢にして、私の夫の恋人だ。


 そしてヴィクトルは、妻である私がその事実を微笑んで受け入れるのが当然だと本気で信じている。


 「……承知しました」


 三年前の私なら泣いていた。一年前の私なら声が震えていた。


 けれど今日の私は、ただ静かにカップを持ち上げ、紅茶を一口含んだ。


 味はしなかった。もう随分長いこと、この家の紅茶には味がしない。



    ◇



 私がローゼンベルク伯爵家に嫁いだのは、十八のときだった。


 父は侯爵家の当主で、ヴィクトルとの縁談は両家の古い約束によるものだった。政略だけの結婚だったかといえば、そうでもない。夜会で初めて踊ったとき、彼は柔らかく笑って「君を幸せにする」と言ってくれた。その言葉を、私は素直に信じた。


 結婚して一年目の冬、ヴィクトルがカミラという令嬢を連れて帰ってきた。


 「友人だよ」と彼は言った。


 半年後、その「友人」と手を繋いで庭を歩いているところを使用人が目撃した。


 ヴィクトルは悪びれなかった。


 「心配するな、リーゼル。カミラは特別だが、君の地位を脅かすつもりはない。妻は君だけだ。——だから、少しくらい笑って見守ってくれないか」


 特別。その一語が、胸の奥に棘のように刺さった。


 私は特別ではないのか。妻であることは、特別に値しないのか。


 けれど私は黙った。亡き父の遺言があったからだ。


 父は二年前、病の床で私の手を取って言った。


 「ローゼンベルクとの縁を大切にしてくれ。お前が繋いでくれれば、両家は百年安泰だ」


 その言葉が、私を繋ぎ止めていた。


 それに——あの頃はまだ、希望があった。ヴィクトルがいつか目を覚ますかもしれない、と。



 結婚三周年の記念日のことだ。


 私はヴィクトルのために、彼が好きな作家の初版本を半年かけて探した。古書商を何軒も回り、最後は隣国の蒐集家から譲り受けた希少な一冊だった。


 「ああ、ありがとう」


 ヴィクトルは受け取り、そのまま書棚に入れた。表紙を開きもしない。


 翌週。カミラが屋敷を訪ねてきたとき、彼女の首元に見覚えのない首飾りが光っていた。


 繊細な銀細工に淡い青の宝石。以前、王都の宝飾店のショーウィンドウで私が足を止めた品だ。あのとき隣にいたのは、ヴィクトルだった。私が見つめていたのを、覚えていたのだ。覚えていて——カミラに贈った。


 「あの首飾り……ヴィクトル、あれは」


 「ああ、カミラに似合うと思ってね」


 彼は何でもない顔で笑った。


 「君にはまた今度、別のものを贈るよ」


 また今度。


 その「今度」は、三年経った今も来ていない。



 翌月、ヴィクトルは朝食の席でまた当然のように言った。


 「リーゼル、来月はカミラの誕生日なんだ。君、何か良い贈り物を見繕ってくれないか」


 「……私が、ですか」


 「ああ。君はそういうの得意だろう。センスがいいし」


 夫の恋人への贈り物を、妻に選ばせる。


 一瞬、自分の耳を疑った。けれどヴィクトルの顔には、悪意も皮肉もない。心の底から「妻に頼むのが効率的だ」と思っている顔だ。


 「カミラは花が好きだから、花をあしらったものがいいと思うんだ。頼めるか?」


 「……旦那様ご自身で選ばれたほうが、お気持ちが伝わるのでは」


 「俺はそういうの苦手でさ。君のほうがうまくやれる」


 悪意がないのだ。本当に、ない。だからこそ救いがない。


 この人にとって私は「便利な妻」なのだ。恋人のために茶会を開き、恋人への贈り物を選んでくれる、都合のいい存在。


 「……承知しました」


 結局、私はカミラのために銀細工の花のブローチを選んだ。自分でも愚かだと思いながら。



 記念日の夜、私は泣きたい気持ちを飲み込んで領地の帳簿と向き合った。


 ローゼンベルク領の経営は、嫁いだ直後から私が引き受けていた。ヴィクトルは社交には熱心だが経営には興味がなく、前任の管財人は高齢で引退を望んでいた。私は侯爵家で十年にわたり帝政学と財務の基礎を学んでいたから、自然と実務を担うようになった。


 交易路の整備、商会との折衝、税収の管理、祭事の運営。三年かけて、領地の歳入は嫁いだ当初の一・五倍に伸びていた。


 それを知っているのは、私と帳簿と、もう一人。


 「お見事ですな、リーゼル殿」


 交易の定例会合で、隣領のヴァイスフェルト辺境伯——セドリック殿が言った。三つ年上の、寡黙な青年だ。辺境伯という要職にありながら飾り気がなく、いつも地味な外套を羽織っている。


 「今期の交易条件の提案書を拝読した。穀物の価格変動リスクを両領で分散する仕組みは、よく練られている」


 「恐れ入ります。セドリック殿の領地の木材供給が安定しているからこそ成り立つ提案ですわ」


 「そう言っていただけるのは貴女だけだ」


 セドリック殿はわずかに口元を緩めた。この人は笑わない代わりに、言葉に嘘がない。


 帰り際、彼はほんの少し迷ったように言い添えた。


 「……貴女の仕事は、もっと正当に評価されるべきだと思っている」


 深い意味があるのかどうか。考えないことにして、私は馬車に乗り込んだ。



    ◇



 秋の収穫祭は、領主の妻にとって一年で最も大切な行事だ。


 私は三ヶ月前から準備を始めた。出店の配置、催し物の手配、近隣領への招待状、祝宴の献立。去年好評だった子供向けの人形劇を今年も呼び、新たに楽団も手配した。当日の天候を見越して、雨天用の仮設屋根まで段取りしてある。


 祭の朝。


 広場に向かおうとする私に、ヴィクトルが言った。


 「リーゼル、今日はカミラも来る。特別な客人として迎えてやってくれ」


 「……特別な客人、ですか」


 「ああ。だから主催者席にカミラを座らせたい。——君は裏方のほうが得意だろう? 表に出るより気が楽だろうし」


 三ヶ月間、この祭のために毎晩遅くまで詰めていたのは私だ。


 出店の配置を何度もやり直し、招待状の一通一通に手書きの挨拶を添え、祝宴の献立は試食を三回重ねた。


 それを「裏方が得意だろう」の一言で片付けるのか。


 「旦那様。この祭は私が——」


 「わかってるよ、準備は君がやってくれた。だからこそ、カミラに少し花を持たせてやってくれないか。君は大人だから、そのくらいの器はあるだろう?」


 器の大きさ。


 私の三ヶ月を恋人に差し出すことを「器」と呼ぶのか。


 結局、私は裏方に回った。衣装を着替え、来賓の前ではなく厨房の裏で指示を出した。


 広場の高台から、カミラが楽しそうに手を振っているのが見えた。


 「なんて素敵なお祭りでしょう!」


 彼女は私が三ヶ月かけて設計した祭を、心から楽しんでいた。自分が作ったかのような笑顔で。


 悪意はないのだろう。本当に楽しんでいるだけで、私が裏で何をしてきたかなど知りもしない。


 それが余計に、苦しかった。


 祭の中盤、カミラが裏方の私のところへやってきた。


 「リーゼル様、お忙しいところごめなさい」


 申し訳なさそうに、けれど目は楽しげに輝いている。


 「主催者席からの眺めがとても素敵で……。領民の皆さんも本当に楽しそうで。こんなお祭りを作れるリーゼル様は、すごいですわ」


 褒めてくれているのだ。心からの賞賛だと分かる。


 私の席に座り、私の成果を眺め、そして私を褒める。その構図の残酷さに、カミラ自身は気づいていない。


 「ありがとうございます、カミラ様」


 「あの、よかったらご一緒しませんか? 上の席、まだ空いていますわ」


 空いてはいないのだ。貴女が座ったから、私は空けたのだ。


 もちろん、そうは言わなかった。


 「お気遣いなく。裏方の仕事がまだ残っておりますので」


 カミラは少し残念そうな顔をして戻っていった。


 悪気はない。彼女は本当に、私と仲良くしたいだけなのだろう。だからこそ、どうしようもなかった。


 「伯爵夫人殿」


 声をかけてきたのは、来賓として招いたセドリック殿だった。主催者席ではなく、裏手にいる私をわざわざ探してきたらしい。


 「会場の導線設計が見事だ。人の流れを計算して出店を配置しているな。これは貴女の仕事か」


 「……ええ」


 「やはりそうか」


 セドリック殿はそれ以上何も言わなかった。ただ、高台のカミラと裏方の私を一度だけ見比べて、静かに目を伏せた。


 その夜、片付けの最中に料理長のマルタが声をかけてきた。


 「奥様。今年も素晴らしいお祭りでした」


 「ありがとう、マルタ」


 「……差し出がましいのですが」


 マルタは声をひそめた。


 「奥様がどれだけのことをなさっているか、旦那様はご存じないのですか」


 知っている。知っていて、「裏方が得意だろう」と言ったのだ。


 私は笑って首を振った。


 「大丈夫よ。気にしないで」


 大丈夫ではなかった。


 でも、父の遺言と、まだかすかに残っている「いつか変わるかもしれない」という消えかけの灯が、私をこの場所に留めていた。



    ◇



 冬の初め。


 執務室で交易の報告書をまとめていると、ヴィクトルが珍しく訪ねてきた。


 用件を聞いて、私の手が止まった。


 「カミラに、君の仕事を教えてやってくれないか」


 「……どういう意味ですか」


 「深い意味はないよ。君はいつも忙しそうだろう? カミラは頭のいい子だから、少し教えれば手伝えるようになる。君だって楽になるんじゃないか」


 楽になる。


 「つまり、私の仕事をカミラ様に引き継ぐということですか」


 「引き継ぐというか、負担を分散するというか」


 ヴィクトルは手を振って言った。


 「君一人に領地の実務が集中しているのは、正直あまり健全じゃないと思うんだ。属人的というか」


 属人的。


 三年間、私が夜を徹して組み上げてきた帳簿体系。交渉の末に勝ち取った交易条件。一つずつ積み上げた領民との信頼関係。


 それを「属人的」の一語で切り捨てた。


 「旦那様。カミラ様は会計の基礎をお持ちなのですか」


 「いや、でも君が教えれば——」


 「商会との交渉経験は」


 「それはまだだけど——」


 「領地法の知識は」


 ヴィクトルは少しむっとした。


 「そんなに意地悪く聞くことはないだろう。君だって最初は何も知らなかったはずだ」


 私は侯爵家で十年学んでいる。「何も知らなかった」ことなど一度もない。


 「それに」


 ヴィクトルは腕を組んだ。


 「俺は別に、君を追い出したいわけじゃないぞ? ただ、万が一のことがあったとき困るだろう。君が倒れたら領地が止まる。それは君にとっても負担じゃないか」


 まるで私の身を案じているかのような口ぶりだった。


 「私の心配をしてくださるなら、恋人よりも先に妻の話を聞いてくださいませんか」


 「また、そういうことを言う」


 ヴィクトルは目を逸らした。


 「カミラのことと領地経営は別の話だろう。なぜ君はいつも話を混ぜるんだ」


 別の話ではない。すべて繋がっている。私の仕事を恋人に渡し、私の席を恋人に渡し、私の記念日を恋人に渡す。それを「別の話」と言えるのは、奪う側だけだ。


 けれど、そう言い返す気力すら湧かなかった。


 ヴィクトルにとって、私の十年の知識も三年の実績も、「少し教えれば誰でもできること」なのだ。


 私の存在は——代替可能なのだ。


 「……考えておきます」


 ヴィクトルが出ていった後、一人で執務室の灯りを消した。


 父の遺言。両家の約束。ヴィクトルへの、最後の情。


 それらはまだ、私をこの家に留める理由になるだろうか。


 胸の奥で、何かが静かに、確実に折れた。



    ◇



 年が明けた。


 王都で開かれる大夜会の招待状が届いた。伯爵家に二通。当主と、その伴侶へ。


 これが最後だ、と私は心を決めた。



 「旦那様。一つ、お願いがございます」


 「なんだ」


 「来月の王都大夜会に、私を伴侶としてお連れください」


 ヴィクトルは書き物をする手を止めた。少し驚いた顔だった。


 「珍しいな、君がそんなことを言うのは」


 「ええ。三年間、一度もお願いしたことはありませんでしたから」


 「まあ、そうだな」


 「これが最後のお願いです。夜会の一晩だけ、貴方の隣に伯爵夫人として立たせてください。それだけで構いません」


 ヴィクトルは何か考えるように視線を逸らし、それから言った。


 「考えておくよ」


 十日後。


 答えを聞いたとき、驚きはなかった。


 「悪いが、夜会にはカミラを連れていくことにした」


 「……」


 「カミラを王都の社交界に紹介したいんだ。大きな夜会のほうが都合がいいだろう? 君には留守番を頼みたい。領地のことは君じゃないと回らないからな」


 私の仕事は「属人的で不健全」ではなかったのか。


 「旦那様」


 「うん?」


 「これが最後だと、申し上げたはずです」


 ヴィクトルは小さくため息をついた。あの、困ったような、しかし本質的には何も気にしていない笑い方で。


 「リーゼル。嫉妬は見苦しいぞ。カミラは悪い子じゃない。——君なら分かってくれると思ったんだがな」


 君なら分かってくれる。


 三年間、何度この言葉で黙らされてきただろう。


 「ええ」


 私は言った。


 「分かりました」


 「だろう? 君は聡明だ——」


 「ええ。ようやく、分かりました」


 私は微笑んだ。たぶん、この三年で一番穏やかに。


 「少しお時間をいただきますね」



 翌朝、実家の侯爵家に書簡を送った。兄が当主を継いでいる。事情を記し、離縁の承認を求めた。


 三日後、兄から返書が届いた。短い手紙だった。


 ——遅すぎたくらいだ。こちらの準備はできている。いつでも帰ってこい、リーゼル。


 泣きそうになったのは、むしろこのときだった。


 自分が怒りではなく、安堵で涙ぐんでいることに気づいた。ずっと一人で抱えていたものを、「帰ってこい」の一言が溶かした。


 私は離縁状を書いた。丁寧に、正式な書式で。三年分の感情を一つも載せず、事実だけを記した。


 それから、帳簿と交易記録の引き継ぎ書を整えた。これは領地のためだ。ヴィクトルのためではない。領民に罪はない。


 ヴィクトルが夜会に出かける前日の朝。


 執務机の上に、離縁状と引き継ぎ書を並べて置いた。


 ヴィクトルが執務室に入り、それを目にしたとき、私はすでに荷造りを終えて旅装に着替えていた。


 「リーゼル。これは何の冗談だ」


 「冗談ではありません。正式な離縁状です。侯爵家の承認も得ています」


 「待て。何を——なぜ急に——」


 「急ではありません、旦那様」


 私は最後に一度だけ、まっすぐ彼を見た。


 「三年間、旦那様の恋を応援して参りました。もう十分でしょう?」


 ヴィクトルが何か言いかけた。私は静かに、けれどはっきりと続けた。


 「——これからは、私自身の幸せを応援いたします」


 背を向け、玄関へ歩いた。


 玄関を通るとき、廊下の角にマルタがいた。何も言わなかった。ただじっと私を見て、小さく頷いた。


 その一つの頷きに、三年分のすべてが詰まっている気がした。


 馬車の扉に手をかけたとき、一瞬だけ振り返った。


 ヴィクトルは玄関の前に立ち尽くしていた。追いかけては来なかった。


 離縁状を手にしたまま、困惑した顔をしていた。怒りでも悲しみでもなく——困惑。


 「頭を冷やせば戻ってくるだろう」。そう思っている顔だった。


 馬車が動き出す。ローゼンベルク邸の門が少しずつ遠ざかる。


 涙は出なかった。三年分、とうに全部使い果たしていた。



    ◇



 離縁が成立して最初の一週間、ヴィクトルは何の手も打たなかった。


 「リーゼルは怒っているだけだ。じきに戻ってくる」


 側近にそう漏らしていたと、後から人づてに聞いた。


 だから崩壊は、音もなく始まった。



 最初に止まったのは帳簿だった。


 私が組んだ複式帳簿は、領地の収支を品目別・季節別に管理する独自の体系になっていた。引き継ぎ書は置いてきたが、前提となる知識がなければ読み解けない。ヴィクトルは会計に触れたことがなかった。カミラも同じだ。


 急いで雇い直した管財人が「この帳簿体系は初めて見ます。解読に数ヶ月はかかるかと」と匙を投げたのが十日目のことだったらしい。


 次に離れたのは商会だった。


 ローゼンベルク領と取引のあった三つの有力商会のうち、二つは私が個人の信用で契約を結んでいた。商品の品質保証、納期の調整、不作時の価格据え置き。すべて、私が交渉の席で一つずつ言葉を重ねて勝ち取った条件だ。


 「伯爵夫人との信頼に基づく契約でしたので、あらためて条件を見直させていただきます」


 商会としては当然の対応だろう。だが再交渉を担える人間が、あの屋敷にはもういなかった。


 決定的だったのは、辺境伯領との交易だった。


 セドリック殿が、ローゼンベルク伯爵家との交易見直しを正式に通告した。


 ヴィクトルは慌てて面会を申し入れたという。


 セドリック殿の返答は、一行だった。


 ——この交易は、リーゼル殿との信頼関係の上に成り立っていた。伯爵、貴方と組んだ覚えはない。


 一ヶ月で、領地の交易収入は三割落ちた。


 ヴィクトルが事態の深刻さを認識し始めたのは、このあたりだったようだ。


 「リーゼルに連絡を取れ」と側近に命じたが、侯爵家は「離縁は成立済みです。ご用件は正式な書簡にてお送りください」と返した。


 カミラに領地の実務を任せようとしたが、カミラは正直に「私にはできません」と答えた。「属人的」と切り捨てた仕事を代わりにできる人間は、結局どこにもいなかった。


 使用人たちの動揺も広がっていた。副管財人のハインリヒが辞表を出した。


 「奥様が去られた以上、この領地に私が残る意味はないと判断いたしました」


 ヴィクトルは驚いた顔をしたらしい。


 「大げさだ。リーゼルがいなくても——」


 「伯爵閣下」


 ハインリヒは穏やかに、しかしはっきりと言った。


 「税収の管理、交易先との契約更新、祭事の予算。すべてリーゼル様が設計されたものです。私はそれを実行していただけで、設計者がいない今、何が正しい手順なのかも分かりません」


 「俺に聞けば——」


 「閣下は一度も、帳簿をお開きになったことがございません」


 ヴィクトルは言い返す言葉を持たなかった。


 ヴィクトルは自ら商会との再交渉にも臨んだ。


 「条件は以前と同じでいい。そのまま契約を更新してくれないか」


 商会の代表は困った顔で答えた。


 「伯爵閣下、以前の条件はリーゼル様が粘り強く交渉してくださった特別なものでございます。不作時の価格据え置き、品質保証の範囲、納期の柔軟対応……通常ではありえない好条件です」


 「なら通常の条件で——」


 「通常の条件ですと、お取引量を三割ほど減らしていただくことになりますが」


 「三割? なぜだ」


 「リーゼル様は、木材と穀物の需要予測を季節ごとにご提出くださいました。それに基づいて我々は生産量を調整していたのです。予測なしでは在庫リスクを抱えるわけにまいりません」


 需要予測。その言葉すら、ヴィクトルは初めて聞いたのだろう。


 「……リーゼルに、戻るよう伝えてもらえないか」


 商会の代表は一拍置いて、静かに首を振った。


 「閣下。リーゼル様は、もう貴方の奥方ではございません」



 私はその頃、兄の侯爵領の一角で静かに新しい暮らしを始めていた。


 侯爵家の帳簿整理を手伝い、空いた時間には新しい交易の構想を練った。


 ヴィクトルが困っているという話は風に乗って聞こえてきた。


 胸が痛まなかったかと聞かれたら、嘘になる。三年暮らした場所だ。使用人たちの顔が浮かんだ。特にマルタの。


 でも、もう私が戻る場所ではない。


 あの人は私を「代替可能」だと言った。なら、私がいなくても回るはずだ。



    ◇



 ローゼンベルク伯爵の醜聞が王宮に届いたのは、春の花が咲く少し前のことだった。



 王妃の私室に隣接する小さな茶室。その日集まっていたのは、侍女頭のエルザと数名の高位貴婦人だった。


 「ねえ、ローゼンベルク伯爵の話はお聞きになって?」


 口火を切ったのは公爵夫人のクリスティーネだった。扇で口元を隠しながら、しかし隠す気のない声で。


 「恋人のために妻に茶会を開かせ、収穫祭の席を恋人に譲らせ、結婚記念日の贈り物まで恋人に渡していたんですって。あげく『君の仕事を恋人に教えろ』と言って、奥様が離縁なさったそうよ」


 「まあ……」


 「奥様は侯爵家のリーゼル様でしょう? あの有能な方を、よくそんな扱いができたものね」


 エルザが静かに紅茶を傾けた。


 「王妃様もお耳にされたわ。侯爵家への非礼は看過できないと。次の宮廷行事に、ローゼンベルク伯爵の招待状は出さない方針だそうよ」


 クリスティーネが肩をすくめた。


 「自業自得ですわ」


 別の貴婦人が首を振った。


 「リーゼル様とは以前、お茶会でご一緒しましたの。聡明で、それでいて温かい方でした。あの方を失って困らない夫がどこにいますか」


 「しかも恋人の世話まで妻にさせていたのでしょう? 茶会の手配に、贈り物の選定……妻は恋人係ではありませんわ」


 エルザがカップを置いた。


 「根の問題は、あの伯爵が奥様を『何をしても許してくれる便利な人間』だと思っていたことでしょうね。恋も仕事も、妻なら受け入れて当然だと」


 「その『当然』が全部消えて、ようやく気づいたというわけね」


 その場の誰も、異を唱えなかった。



 噂は社交界を一息で駆け抜けた。


 「妻に恋人を応援させた男」。その一文で、ヴィクトルの三年間はすべて裏返った。


 彼のもとに届く晩餐会の招待状は目に見えて減り、これまで親しくしていた貴族たちも一人、また一人と距離を置いた。


 「妻をあんなふうに扱う人間は、同盟相手としても信用できん」


 それが、社交界の静かな総意だった。



 そして——もう一人、その噂を耳にした人間がいた。


 カミラ・フォン・ヘルデンは、ヴィクトルの執務室を訪ねた。


 ヴィクトルは疲れ切っていた。領地の経営は悪化の一途をたどり、社交界から孤立し、かつて笑顔を絶やさなかった男の目の下に深い隈が刻まれている。


 「カミラ。よく来てくれた」


 彼は力なく笑った。


 「今、少し大変でね。君がいてくれると助かる」


 カミラは黙って彼を見ていた。以前の柔らかさは、もうその目にはなかった。


 「ヴィクトル様。一つだけ伺わせてください」


 「なんだ」


 「リーゼル様に、なさっていたこと。噂の通りですか」


 「……大げさに伝わっている部分もある」


 「記念日の贈り物を、私にくださったのは本当ですか」


 「……ああ」


 「収穫祭で、リーゼル様を裏方に回して私を上座に座らせたのは」


 「それは、君に楽しんでほしくて——」


 「リーゼル様のお仕事を、私に引き継がせようとなさったのは」


 ヴィクトルは黙った。


 カミラは小さく息を吐いた。目を伏せて、ゆっくりと言葉を選んだ。


 「私、ずっと怖かったのです」


 「——怖い?」


 「奥様をあのように扱う殿方が、いつか私にも同じことをなさるのではないかと」


 ヴィクトルが目を見開いた。


 「大切にされている間は、気づかないふりができました。でも、もう無理です」


 「カミラ、待ってくれ。君は違う——」


 「リーゼル様も、きっと同じことを言われたのでしょう? 『君は特別だ』と」


 その一言で、ヴィクトルの口が止まった。


 カミラは静かに頭を下げた。


 「今までありがとうございました。——けれど、妻を大切にできない方を、私は信じることができません」


 扉が閉まった。


 ヴィクトルは一人、崩れるように椅子に座り込んだ。


 領地は傾き、社交界の門は閉ざされ、そして最後の拠り所だった恋人にも去られた。


 すべて、自分が蒔いた種だった。「当然」だと思っていたものが、一つ残らず消えていた。


 リーゼルは嫉妬していたのではなかった。


 三年間、尊厳を踏みにじられ続けていたのだ。


 その理解は——何もかも手遅れになった後で、ようやく訪れた。



    ◇



 春が来た。


 私は兄の侯爵領の一角に、小さな執務室を構えていた。


 侯爵家の交易部門の一部を任され、新しい取引先の開拓を進めている。ゼロからの出直しではない。三年間で培った知識と人脈がある。今度はそれを、自分自身のために使う。


 穏やかな日々だった。


 毎朝、自分のために紅茶を淹れる。誰かの恋を応援しなくていい朝。誰かに席を譲る必要のない日。それがどれほど贅沢なことか、以前の私は知らなかった。



 ある晴れた日の午後、来客の報せが届いた。


 ローゼンベルク伯爵。ヴィクトル・フォン・ローゼンベルク。


 いつか来るだろうとは思っていた。



 応接間で向かい合ったヴィクトルは、以前とは別人のようだった。頬はこけ、覇気がない。あの自信に満ちた柔らかい笑顔は消え、代わりに疲労と困惑が貼りついている。


 「リーゼル」


 「お久しぶりです、ヴィクトル様」


 様、と呼ばれて彼は少しだけ身じろぎした。以前は名前で呼び合っていたから。


 長い沈黙の後、ヴィクトルが口を開いた。


 「俺は——間違っていた」


 「……」


 「君がどれだけのことをしてくれていたか、ようやく分かった。帳簿も、商会との関係も、祭の運営も。全部、君の手の上にあった。君が抜けて初めて、それに気づいた」


 もっと早く気づいてほしかった言葉だ。一年前なら泣いたかもしれない。


 でも今は、不思議なほど凪いでいた。


 「カミラにも去られた」


 「そう伺いました」


 「社交界にも出られない。領地の経営も立て直せない」


 ヴィクトルは両手で顔を覆った。


 「全部、俺のせいだ。君の言う通りだった。俺は、君に甘えていた」


 ここまでは——正直に言えば、予想通りだった。


 次の言葉も。


 「リーゼル。もう一度——」


 「いいえ」


 ヴィクトルが言い終わる前に、私は穏やかに首を振った。


 「ヴィクトル。貴方の謝罪は受け取ります。甘えていたと認めたことも、嬉しく思います」


 「俺は変わる。今度こそ、ちゃんと君を見る。だから——」


 「ヴィクトル」


 私は穏やかに、けれどしっかりと遮った。


 「貴方は今、変わろうとしているのかもしれません。でも……私がいなくなって困ったから変わるのと、私を大切にしたいから変わるのは、違うものです」


 ヴィクトルが唇を噛んだ。


 「それは……」


 「三年間、ずっと待っていました。記念日の首飾りをカミラ様に渡したとき。収穫祭で裏方に回されたとき。『属人的だ』と言われたとき。どのときでもよかった。一度だけ、一度でも、『すまなかった』と言ってくだされば」


 「リーゼル……」


 「でも貴方は、離縁届を出すまで何も感じなかった。私がいなくなって、困った。……それは愛ではなく、やはり甘えです」


 ヴィクトルは言い返せなかった。


 「でも、もう戻りません」


 ヴィクトルの目が見開かれた。


 そしてすぐに——あの、見慣れた表情が浮かんだ。


 「……君なら、許してくれると思ったんだ」


 ああ。やはり。


 三年前から何も変わっていない。「君なら分かってくれる」。「君なら受け入れてくれる」。反省の言葉の奥に、同じ甘えが透けている。


 怒りは湧かなかった。悲しみも、もうなかった。ただ、静かな確信があった。


 「許していますよ、ヴィクトル」


 「なら——」


 「でも、許すことと、もう一度貴方の隣に立つことは、別のものです」


 ヴィクトルの言葉が止まった。


 「三年間、旦那様の恋を応援する妻でした。その役目はもう終わりました。——そして貴方も、私の隣にいるべき方ではなかった。それだけのことです」


 「リーゼル……」


 「三年間、ありがとうございました。辛いことだけではなかったと思います。——どうかお元気で、ヴィクトル」


 最後に一度だけ微笑んで、席を立った。


 あのときと同じように、彼は追いかけてこなかった。


 けれど今度は、それを寂しいとは思わなかった。


 応接間を出て、廊下を歩く。窓から春の風が吹き込んで、髪を揺らした。


 深く息を吸った。


 三年間、ずっと胸の底に沈んでいた石がようやく消えて、呼吸が楽になったのだと気づいた。



 翌日の朝。


 私は執務室で、いつものように交易計画の書類を広げていた。窓の外には新緑の丘。兄が「好きに使え」と言ってくれた土地に、小さな商会の拠点を建てた。「リーゼル商会」。大層な名前だと自分でも思うが、自分の名前で仕事をするのは悪くない。


 約束の時刻に、控えめな扉の音がした。


 「おはよう、リーゼル殿」


 セドリック殿だった。辺境伯領との交易交渉。ローゼンベルク時代から続くただ一つの仕事上の繋がりが、今では私個人との取引になっている。


 「おはようございます、セドリック殿」


 向かい合って座り、書類を広げる。


 「木材の供給量について、来期の提案をまとめました。三項目に分けてありますので、ご確認ください」


 「拝見する」


 セドリック殿は提案書を受け取り、いつものように丁寧に目を通した。途中で二度質問し、私の意図を正確に汲み取ろうとした。


 ヴィクトルは、一度も私の提案書をこうして読んでくれなかった。


 「よく考えられている。三項目目の価格安定化案は、うちの領地にとっても大きい」


 「ありがとうございます。セドリック殿のご意見も伺いたいのですが」


 「もちろんだ」


 対等な議論が交わされる。互いの事情を踏まえ、譲るところは譲り、守るところは守る。どちらかが裏方に回ることも、どちらかの席を誰かに明け渡すこともない。


 打ち合わせが一通り終わった。


 マルタが淹れてくれた紅茶を飲む。マルタは離縁の後、自分から「奥様についていきます」と言って、ローゼンベルク家を辞めた。ヴィクトルは引き止めなかったらしい。


 穏やかな沈黙が流れた。


 ふいに、セドリック殿が口を開いた。


 「リーゼル殿」


 「はい」


 「……ずっと、言おうと思っていたことがある」


 彼にしては珍しく、少し言葉を探しているようだった。いつも簡潔で迷いのない人が、紅茶のカップを見つめたまま。


 「貴女が離縁されたと聞いたとき、正直なところ、安堵した」


 「安堵、ですか」


 「あの伯爵は——いや、他人の家庭のことを言う立場にはないが」


 セドリック殿は一度言葉を切り、それから静かに続けた。


 「交易の席で貴女と話すたびに思っていた。この人はもっと正当に遇されるべきだと。収穫祭の裏方に追いやられている貴女を見たときは——」


 彼は少し唇を引き結んだ。感情を抑えているのだと分かった。


 「怒りを覚えた。部外者として口を出す権利はなかったが」


 あの日、裏方にいた私を探して来てくれた人。帳簿の設計を「見事だ」と言ってくれた人。いつも言葉は少ないのに、嘘だけは決して言わない人。


 セドリック殿がまっすぐ私を見た。耳の先がわずかに赤いのが、なんだかおかしかった。


 「貴女の代わりは、誰にもできない。仕事の上でも——」


 一拍。


 「それ以外でも」


 私は紅茶のカップを両手で包んだ。温かさが指先に伝わる。


 「セドリック殿は、いつもそうですわね」


 「……何がだ」


 「大事なことほど、短い言葉でおっしゃる」


 セドリック殿は少し面食らった顔をした。


 「……無口なだけだ」


 「いいえ。嘘のない言葉は、短くても重いのです」


 セドリック殿の耳がまた赤くなった。私はそれを見て、少し驚いて、それからゆっくりと笑った。


 三年ぶりだった。何のわだかまりもなく、心の底から笑ったのは。


 「セドリック殿」


 「……なんだ」


 「今度の茶会に、お越しいただけませんか」


 一瞬、自分が何を言おうとしているのかがおかしくなった。かつて夫の恋人のために開かされた茶会。今度は自分のために、自分が招きたい人を呼ぶ茶会だ。


 「仕事の話は、抜きで」


 セドリック殿の目がわずかに見開かれた。


 それから、初めて見る穏やかな笑顔が浮かんだ。


 「……喜んで」



 窓の外には、私がこの場所に来て初めて迎える春が広がっている。


 自分の手で整えた小さな庭に、若い木が芽吹き始めていた。大きな木陰はまだできない。けれどいつか、この木の下で紅茶を飲む日が来るだろう。


 それは誰かに与えられた庭ではない。


 私が選んだ場所で、私が植えた木だ。


 マルタの紅茶を一口含んだ。


 とても、美味しかった。


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― 新着の感想 ―
馬鹿旦那以外、カミラすらリーゼルを正当に評価してるのが良かった とは言えカミラは立場に甘え腐ってた図々しさがあるので「調子良いなあ、そして気を見るに便だなこの女w強かが過ぎるwww」とも思いましたが
実際のところ帳簿に関してはめちゃくちゃ属人的だったのは確かなのがすんごい気になりました。 外部から雇ったとはいえ専門家と思われる管財人ですら、引き継ぎ書が残されていても読み取るのに数か月を要するほど…
一番の大罪は父親かな。 古くからの約束だからといって、どんな男か調べる事を怠ったのだから。 領地の運営も出来なず、全部俺のせいだと謝ってきたけど、今更かい!って思ってしまうほどクズ男だったのだから。
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