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26話:紺碧の邂逅、あるいは見えない境界線

◆◆◇◇◆◆

1. 静寂の朝と、小さな独り立ち


 シルバーアンカーのリビングには、微かなモーターの駆動音と、規則正しい寝息だけが響いていた。

 ソファの上では、シュティアが長い手足を投げ出し、無防備な姿で深い眠りに落ちている。その傍らには、昨夜レデアにこってりとお説教を食らい、泣きながら「カメラの完全撤去」と「ワックス過剰塗布設定の初期化」を施されたお掃除ロボットが、本来の静かな動きで床を滑っていた。


「……全く。自業自得だというのに、徹夜までするなんて」

 レデア・メイスは、ソファの横に立ち、妹の寝顔を見下ろした。寝不足のせいか、いつもは鋭い美貌もどこか幼く見える。

 レデアは小さく溜息をつき、その前髪をそっと撫でた。

「少しは、反省してくださいね。シュティア」


 普段ならこの指先が触れた瞬間に「お姉ちゃん!」と飛び起きて抱きついてくるはずの妹が、今日はピクリとも動かない。よほど疲れていたのだろう。

 レデアは静かに身支度を整え、メモをテーブルに置いた。

『少しステーションを見てきます。お昼には戻ります。寝ていなさい』


 いつもなら、ハッチを開ける瞬間に「どこに行くの! 私も行く!」という叫び声が追いかけてくる。だが今日は、重力制御の微かなうなりだけが背中を見送った。

 一人で歩くステーションの通路は、驚くほど広く、そして静かだった。


◆◆◇◇◆◆

2. 馴染みの視線と、前方の影


「おや、レデアちゃんじゃないか。今日は珍しいね、一人は」

 商業区の広場に入ったところで、不意に野太い声が掛かった。

 振り返ると、無骨な耐圧ジャケットを着込んだ大柄な男二人組が立っていた。かつて仕事の依頼をしてきた、ガラの悪い——しかし根は悪くない——ベテランのステーション局員たちだ。


「……お久しぶりです。ええ、今日は一人です」

「ははあ、あの過保護な妹さんはどうしたんだい? まさかステーションのどこかを破壊して留置所にでも入れられたか?」

「失礼な。……少し、寝坊をしているだけです」

 レデアが仏頂面で答えると、男たちは顔を見合わせて笑った。


「そうかい。……まあ、レデアちゃん一人だと、変な連中に目を付けられやすいからな。あんまり路地裏とかうろうろしちゃだめだぞ。また仕事がある時はギルド経由で連絡するからな、よろしく!」

 男たちはレデアの頭をポンと叩こうとして、彼女の冷たい視線に気づき、慌てて手を引っ込めて去っていった。


「……もう、私も何でも屋として数々の修羅場を潜り抜けてきた一人前なのですが。なぜ、誰も彼も子供扱いするのでしょうか」

 レデアはぶつぶつと独り言を言いながら歩を進めた。

 そうしていた為か、彼女は前方の曲がり角から現れた人影に、気づくのが一瞬遅れた。


「あ……」

「おっと……」


 ドン、と軽い衝撃。

 レデアは重心を崩し、その場に尻餅をついた。

「すみません、よそ見を……」

 謝りながら顔を上げると、そこには青い髪をルーズなサイドテールにまとめた女性が立っていた。

 身長は百六十センチ程度。シュティアよりは小柄だが、百四十センチのレデアから見れば十分すぎるほど大人びた長身だ。


「ごめんなさい、大丈夫ですか? 怪我はないかしら」

 女性は穏やかな微笑を浮かべ、レデアに細くしなやかな手を差し伸べた。

 その声は、春の陽だまりのように温かく、落ち着いている。レデアはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。


「いえ、こちらこそ……不注意でした」

「いいえ、お怪我がなくてよかったわ。とっても可愛いお嬢さんだもの、何かあれば大変だものね」

 女性はレデアの服に付いた埃を優しく払ってくれた。

 年の頃はシュティアと同じくらいだろうか。だが、妹のような「焼き付くような熱」はない。代わりに、深い海のような静謐さと、揺るぎない知性がそこにはあった。


◆◆◇◇◆◆

3. 瞬きの護身、あるいはアスフィ・リュード


 その時だった。

「どけえええ! どけっ、邪魔だぁ!!」

 広場の向こう側から、怒号と悲鳴が聞こえてきた。

 見れば、大柄な男が女性のカバンを抱え、こちらに向かって猛スピードで走ってくる。ひったくりだ。


「危ない……!」

 レデアが身構えた、その瞬間。

 目の前の青髪の女性が、スッと一歩前に出た。


 男が彼女を突き飛ばそうと腕を振り上げる。

「どけっ、このアマ!」

 刹那。女性の指先が、流れるような動作で男の脇腹を突いた。

 パチッ、という短い放電音。


「……え?」

 レデアの目には、彼女がいつの間にか手にしていた小型のスタンガンを、最小限の予備動作で叩き込んだのが見えた。

 男は悲鳴を上げる暇もなく、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


「……あら、転んじゃったのかしら」

 女性は事も無げに言うと、落ちたカバンを拾い上げ、駆け寄ってきた警備兵に男を預けた。あまりに鮮やかで、無駄のない手際。

 彼女は驚きで固まっているレデアに振り返り、また優しく微笑んだ。

「驚かせちゃったわね。大丈夫? 怖くなかった?」


「……驚きました。今の、……鮮やかでした」

「ふふ、しっかり見ていたのね。護身用にね」

 そして女性は、広場の時計を見て、ハッとした表情を浮かべた。


「カノアちゃんの迎えに行かなくちゃ! ごめんなさい、急いでいるの。……それじゃあ、私はこれで失礼しますね」

 彼女は去り際、足を止めてレデアをじっと見つめた。

「最後に、可愛いお嬢さん。お名前を聞かせてもらってもいいかしら?」


「……レデア、メイスです」

「レデアちゃん、ね。私はアスフィ。アスフィ・リュードよ。……あなたの様なかわいいお嬢さんの事は忘れないわ。またどこかで会いましょうね」


 アスフィは優雅に手を振ると、風のように人混みの中へと消えていった。

 レデアはその場に残り、自分の手のひらを見つめた。

 シュティアとは違う。けれど、どこか通じる「何か」を持った、不思議な女性。


◆◆◇◇◆◆

4. 狂気の鼻、あるいは残留思惑


 ドックの居住区に帰宅すると、玄関ハッチが開くのと同時に、地を這うような低い声が聞こえてきた。


「……お姉ちゃん。……どこに行ってたの?」

 廊下の暗がりに、ボサボサの頭をしたシュティアが立っていた。瞳にはまだ眠気が残っている。


「起きましたか。……少し散策に行っていただけです。メモは読みましたね?」


 レデアの言葉に、シュティアの瞳がカっと見開かれる。


「読んだけど! 納得いかないよ! お姉ちゃん、ダメだよ一人で外出しちゃ! ステーションには悪い奴がいっぱいいるんだから、さらわれて、私の知らないところで泣かされたらどうするの!?」


「話が飛躍しすぎています。……ほら、離してください。お昼にしましょう」

 レデアがシュティアの横を通り抜けようとした、その時。

 シュティアの鼻が、ぴくりと動いた。


「…………くん、くん。…………くんんんん!?」

 シュティアの顔色が、一瞬で変わった。

 彼女は獲物を見つけた犬のような勢いでレデアに肉薄し、その肩口や髪の匂いを執拗に嗅ぎ始めた。


「な、何をするんですか! やめてください!」

「……女。……女の匂いがする。お姉ちゃんの石鹸の匂いの下に、別の、知らない女の匂いが混じってる……! それも、すごく落ち着いた、……なんだか鼻につく、いい女風の匂いが!!」


 シュティアの猛攻が始まった。


「どういうこと!? 誰なの!? 誰にお姉ちゃんの手を握らせたの!? 誰がお姉ちゃんに触れたの!? お姉ちゃん、白状して! その女の名前を教えて!

そいつどこに住んでるの!?」


「……ただ、ぶつかっただけです! 落ち着きなさい、シュティア!!」


 シュティアの凄まじい追求を逃れるべく、レデアは慌ててキッチンへと逃げ込んだ。


 背後で「お姉ちゃああああん! 浮気はダメだよおおおん!」と絶叫する妹の声を聞きながら、レデアはふと、アスフィの穏やかな微笑みを思い出し——。


(……あの人も、怒るとちょっと怖いのかもしれません)


 そんな予感を覚えつつ昼食の準備を始めるのだった。

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