表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

昨今の創作論に対する私見

掲載日:2026/02/22

 親愛なる同志諸君は、今日も創作に勤しんでいるものと思われる。皆が皆、それぞれの思う道をひたすらに歩み進んでいることであろう。


 その道は、必ずしも平坦なものではないであろう。時には急な登り坂を勢いを増した向かい風の中に進んでゆくこともあれば、漆黒の闇夜に視界百もないような濃霧に満ちた状況に置かれることもあるだろう。一面見渡す限り島ひとつない大海原のど真ん中に漂うことも。


 そうした時、道を指し示す一本の道となる頼りとなるもののひとつが、創作論と呼ばれるものと思われる。──此度はそれについて語ってゆきたいと思う。


 とて、わし自身は創作論について述べるつもりは微塵もない。わしはただのドシロートにて、人に語れるほど積み上げた功績なぞ絶無にある。──わしが積み上げたものは、『業』(カルマ)しかない。なにせわしら悪の枢軸とでも呼ぶべき邪悪生命体であるからな。


 では何故此度、そのようなものについて語ろうというのか?──それは昨今、本来ならば道を指し示すはたらきをなすべき創作論によって、逆に迷いを覚えて進むべき道を見失うような事態が幾らか見受けられるためにある。


 読者諸兄がそうした事態に陥らぬことを祈り、本稿をしるすものとする。


 ひと口に創作論と申しても、それは多岐にわたる。古くは、ノックスのしるした『探偵小説十戒』、ヴァンダインのしるした『探偵小説作法廿則』が挙げられる。本邦に於いては坪内逍遙のしるした『小説神髄』や、大江“ノーベル” 健三郎のしるした『小説の方法』などがある。


 このように歴史は古く、時を経るうちに改良、改変、或いは反撥が多々起こり──今現在に至るという次第。故に今現在にてはさまざまな論がある。教えに於ける宗派や、武術に於ける流派のようなものだ。


 故に、『小説たるものかくあらねばならぬ』といったような、唯一にして絶対たる掟は、すくなくとも今現在の世に至っては存在せぬと云える。まるで真逆の方向に進化した論が同時に存在するのだから。たとえば立技打撃系武術と寝技固め系武術との違いのように。


 とは申せ、走って体力をつけるだの、受け身の練習をするだのといった、基礎というものが存在する。これは大切である。おろそかにすると怪我(ケガ)をする。こうしたことは取り入れて実践すべきであろう。


 小説に於ける基礎練習とは何であろうか? それは文法や文字の理解、段落構成や構文といった、国語の勉強の範囲にあるものがまず挙げられよう。地味で辛気くさいが、しかしこれは受け身の練習のようなもので、おろそかにできない。日々反復して行うことが求められる。「まずは書け」「とにかく書け」というは、つまりこういうことである。


 基礎ができたら実践にある。これは武術に於ける型の練習に近いやもしれぬ。──だがこれは流派に於ける差が出やすいところと呼べるやもしれぬ。


 小説に於ける型とは何であろうか? よく見られるは、序破急の三幕構成や、起承転結の四部構成にあろう。──はやくも数が異なるぞおい……


 これは音楽に置き換えてみるとわかりやすいかもしれぬ。つまりAメロ→Bメロ→サビ、の構成にある。ここに、サビの後にソロをもってくるとか、最後にコーダを入れるであるとかすれば、三が四になると。組み合わせの妙技にあるな。だんだん構成がわかってくるとおもしろい。


 さてこの基本構成に、初手からサビをもってくるという大胆なことをやってのけたのがいわゆる小室サウンドだ。当時は爆発的に受けた。──『初手に見せ場を持ってきて読者の心を摑め』という論は、これと共通するところがあると考えられる。


 とて、当時からすでに批判はあった。「初手からサビをもってくるのではなく、じわじわと盛り上げてから最後にもってくるからサビが映えるのだ」と。


 うなづける。非常にうなづける。ロック・ファンとしてはとくに。──たとえばブラックサバスの『黒い安息日』などは、雷鳴轟く雨夜に響く鐘の音からはじまり、重く陰鬱なるリフを延々とこれでもかとくり返した後に、サビが大爆発するのだ。「最後の時だ我が友よ!サタンが辻を曲がってやって来た!」──ここで聴取者たる我々はもう、人差し指と小指とを立てた拳を掲げて大興奮である。


 『溜め』の『解放』! こうした流派も存在するのだ。かのジューダスプリーストの『ヘリオン』なぞ、曲そのものが前奏と呼べる。そこから、『エレクトリック・アイ』につながるのだ。数多くのバンドがこれに衝撃を受け、模倣し、取り入れ、後に続いたのだ。ジューダスプリーストよ! わしは歩兵でいい! 我が屍を乗り越えて、栄光の王冠を戴いてくれ!


 ──このように、まったく異なる流派というものが同時に存在するのだ。『唯一ニシテ絶対ナル掟』なぞというものが存在せぬことは明白にある。武道で云うところの型にあたるところについても、そうした認識でよいのではないだろうか。


 よく、『型がなければ型無し』なぞと賢しら顔をして云うが見受けられるが、なるほど基礎練習としての型に関してはそうであろう。基礎は大事。そこに疑いの余地はなし。


 なれど、『我が流派は無型』というも存在する。──またしても音楽に喩えて述べるが、先ほど述べた基本構成。デスメタルなどは、この構成に当てはまらぬものも多いのである。


 デスメタルは上級者向けロックにあるがため、聴く人を選ぶが故に、ここは比較的初心者に近い方々にも聴き易いと思われるエッジオブサニティを例に挙げようか。名盤『パーガトリィ・アフターグロウ』に収められたる楽曲、その結構な割合が先に述べたAメロBメロサビの形式をとらぬ。初手を飾る『トワイライト』からすでに。


 『ブラックティアーズ』なぞは基本構成に比較的近いが、しかしメインとなるは歌と云うよりもひたすらにくり返されるメロディックなリフにあり、ロックにては見せ場となるギターソロは最後にそのリフに乗せて奏でられるものだ。──歌にしても、(リキ)が入っているのはサビよりも数回目のメロだ。もともとメランコリックな歌で基本的に(リキ)は抜かれているがな。


 デスメタルにはそうしたところがある──乱暴なことと恐れずに云えば、「そうしたものだ」と断言してもよいであろう。基本構築に則ったスタイルのデスメタルは、『デスエンロール』と呼んで区別されるまでになっているのであるから。つまり伝統的ロックンロールな、音楽的基本構成で進むデスメタルということだからな。


 他にも、たとえばハードコアパンクの流れを汲む『アナルカント』なぞ、無型の極み。とくに初期作品は。『88ソングEP』を聴くがよい──ロックという概念、或いは音楽というもの自体を根本より破壊したとさえまで云える、斬新すぎるすばらしい音楽を体感することができるぞ!


 こうしたものは、必ずしも一般に受けぬやもしれぬ。それ故にわしも『上級者向けロック』と呼んでいるは事実。──『だが、それがいい』のだ。ひと度、その魅力に取り憑かれ、魂を虜とされたならば、決して抜けられぬ、惹きつけられてたまらぬところがあるのだ!


 こうした魅力を否定することはできぬ。故にこうした流派を否定するようなことを、わしは云わぬ。──そもそもわしはこちら寄り……どころか、完全に『こちら側』なのだ。読者諸兄はそのことを充分に留意した上で読むべきである。さもなくば、気がつけば己の意志と裏腹にこちら側の徒となってしまいかねぬ。


 さてここまで幾らかを音楽に喩えて述べてきたが──だとするならば、わしの側ではない、つまり今現在主流派となっている節のつよい側の創作論とは、何に喩えられようか?


 曰く、『摑みを初手にもってゆく』、『簡潔で平坦にわかりやすく』、『今現在の流行りに乗って』、『読者側と倫理観が乖離せず』『需要に応えて』──といった論は。


 これは、ポップスの考えかたに近いと云えよう。ポップスとはいわゆる大衆音楽。──我々が書いているものはほとんどが大衆小説の仲間に属するため、共通、或いは近いというは当然のことと云えるやもしれぬ。


 ポップスに於ける理論は音楽面もそうであるが──此度は音楽理論について深くは述べぬ。専門分野の領域に入る上に、此度の本題から逸脱するためだ。先に述べた小室サウンドが主にポップス面の話であることと、クラシックよりはジャズの構成のほうがどちらかと云えば近いということくらいを知っておけばそれでよい。──だいいちそれは本題ではないのだ。


 重要なのはもうひとつの面。つまり先に述べた、ポップスの考えに近いと述べた例の後半にある。『今現在の流行りに乗って』以降のこと。──これらは、マーケット面の理論にある。


 今現在主流派とされる創作論の実態は、マーケット論が多くを占めるところがあるということにある。


 この、マーケット論に基づいた考えを否定する意志はない。わしは嫌儲主義者でも共産主義者でもないのであるから、資本主義経済に於けるマーケット論に異論を差し挟むことはできぬし、する気もない。


 しかしながら、これが、他流派の者らに反感を買う、或いは買いやすい点となっているも、また事実。──あまりそうした、売買関連の話が前面に出すぎると、どうも鼻白(はなじろ)むところがあるという人はそれなりにいるであろう。ましてや嫌儲主義者や共産主義者ならばなおさらに。


 かく云うわしとて、反撥心がないわけではない。

「売れれば正義だと思っているのか」

「この拝金主義者め」

「唾棄すべきブルジョワとなり下がったか」「資本主義者の豚めが」

Смерть(スメルチ) буржуям(ブルジュヤム)(ブルジョワに死を)!」

Революция(レボリューツィヤ)!」といった、赤く熱い心が血に騒いでしまうは、しかたのないことだ。心の奥底で永遠の眠りについている同志書記長が墓よりよみがえって叫び出すのだ。あまりにも市場意識がイキスギィたものを眼にしては。


 乱暴にひと口で云ってしまえば、反商業主義的精神であるな。マーケット論に反撥する心の動きとしては。これはもしかすると大なり小なり誰しもが持っている本能的なものなのかもしれぬ。


 無論、本邦は資本主義をとっており、音楽にせよ出版物にせよその原理に基づいて存在している。故に全否定はできない。しかしながらあまりにも前面に出すぎると鼻につき腹も立つ。程度や節度というものはある程度必要であろう。──先に述べた、本能的な心の動きによるものなのであれば。


 だとすればこうした、反撥する者らの主張にも、ある程度耳を傾けて聞く必要があるのやもしれぬ。無論、あまりにも過激でイキスギィたものは除外したほうがよいと思われるが。何事もイキスギィてはならぬ。


 そこで、反撥する者らの主張のうち、骨子と申すか大まかな筋を抽出してみれば、以下のようになる。


 ひとつは、『需要に応えすぎた結果、似たようなものがあふれて多様性が失われる』というものにある。基本的に、これが核をなすと呼べよう。たとえば『現行最新スタイルに属さぬ、古き良きスタイルや独自スタイルで構築されたものが隅に追いやられて埋もれてしまう』といったものも、これに付随するものと云えるからだ。『良い悪いの判断基準が売れる売れないで決まってしまう』というも、この延長線上にあるのやもしれぬ。


 こうした論を、無価値な外野の雑怨と切って捨てるは些か乱暴なことと思われる。小説のみならず、音楽にてもこうした論が起きているからだ。


 今現在に於ける、現行最新ポップスの話。とくに世界有数の大規模を誇る北米市場に於いて、『簡潔でわかりやすく人の心を摑みやすい』音楽が求められている。市場の需要のみならず、レコード会社の求めとしても。


 これに基づいて、『曲は長いのは困る』『前奏はみじかく、可能ならばないほうがよい』『摑みのサビははやく、できれば初手で出してほしい』『ギターソロは嫌厭されがちなのでなくしてほしい』『聴取者に共感するものを求める』『故に聴取者の感覚と乖離した倫理観は避けてほしい』『反社会的メッセージなぞもっての他』というが、求められているという。


 わしの個人的感想を述べる。「ロックンロール精神の欠片(カケラ)もねぇな! ロック全否定かよ! ファック野郎どもめ! Сказочный(スカーザチヌィイ) долбоёб(ダルバヨーブ)(幻想的な痴呆症患者、すなわち素晴らしいほどのボケども)!」──まったく、わしの求めるものと相容れぬものである。


 こうした、わしのように、現行最新の流行りと大きく乖離した好みを持つ者にとっては、受け容れ難い現実を喉元に、匕首(あいくち)のごとくに突きつけられたと感じてしまうのである。つまり快くは思わぬというわけだ。好みというものは理屈ではないからな。


 たとえ頭では理解していたとても、心が理解をせぬ。すくなくとも納得はできぬ。──とくにこの、多様性が建前として高々と掲げられた今現在の世にては。


 流派対立! いや宗派対立と呼べるやもしれぬ。互いの存亡を賭けた、価値観の押しつけ合いだ! 立ち上がれ同志諸君! 武器を取れ! このクソッタレな風潮に風穴を開けるべく突撃するのだ! Ууурааааа(ウゥゥルァァァ)!!


 ──とて、わしは今更そのようなことで噴き上がりはせぬ。そうしたことは若い頃に散々やったからだ。'90年代末期よりはじまり、'00年代から'10年代に吹き荒れたメタル氷河期に於いて。とくに'00年代には、わしも若く血の気が多かった。現行最新の流行りを否定するを続けて20年。──なにが「我々は三年待ったのだ」だ! お前の前にいるのは20年間待ち続けたブラックメタルの徒だぞ!


 ──まあそれはよい。すくなくともわしはそうした経緯があるがため、今更現行最新の音楽にどうこう文句をたれる気は微塵もない。アレらはアレら、わしらはわしらで好きなものを聴けばよいという境地にいるからだ。──悟りか諦めかはわからぬが。


 故に、小説に於ける創作論対立に参戦する気もない。中立的な立場から手前勝手な意見を発するのみにとどめている。──まあこの中立は、瑞西(スイス)的中立、つまり全方位喧嘩型中立であるが。


 と、云うわけで喧嘩を売ってゆく。


 ぬうぅわにが、『読者や聴取者と乖離しない倫理観』でや! ンンンなもん知るッけや! そもそも倫理観なんざァ人それぞれ一匹一匹で(ちゃ)うやろげや! 頭ァ下げたらそれ以上追撃しやせん(もん)もおれば、サンマルチノ式マシンガンキックで追撃しまくる(やと)もおる。ダブルアームスープレックスでぶん投げるんもおもしろいがねや!


 この倫理とか云うもんで、作り手の行いにまで踏み込んどる(やと)も目立つが──何を求めとるんぞお前らは、と。やれ誰やらが問題行動をしたじゃあ、誰やらが未成年とはめたやら。──どうでもええがや。所詮、被害者なんざ顔も名前も知らん有象無象や。んな(やと)のことをいちいち考えたりするけや?──したとて、たとえば親じゃ兄弟じゃ親類縁者じゃ近所の誰やらとおんなじように心痛めるけや? せまいげや!


 だいたい、わしは、手前の好きなバンドの面々なぞ人間ブチ殺しとったり、ナチ愛がイキスギィて敵国に寝返ってもと祖国に銃向けてドンパチやりよる連中やぞ?──それに比べてどんだけちいさいことでうじゃうじゃ云よんぞちんまいケツ穴しおって! そのこまい穴に雷竜ロボット突っ込んで(ひろ)げたろか?


 もう、何ぞね? 誰やらがちいと品のない言葉使(つこ)うたくらいで、まるで人間ブチ殺したかのようにわぁこら騒ぎおってから。ガイジのどこがあかんねや云うんぜ? んなもん、わしらのおる西側では四半世紀前から当たり前のように使われとる言葉や。最近、Webで流行りだしただけやが。──そもそもな、むかしは『気違い』て云よったんや。き・ち・が・い。それが基地外とか既知外とか別の字ぃ使うようになって、それでもあかん云われたけん、知的障害の略で知障、次に池沼て別な字ぃ使うようになったんや。──そこから、うちらで使いよるガイジ云う言葉に切り替わっただけやぜ。


 (なん)な? それを使うな云うんは、言葉狩りやぜ? さらに云うたら方言狩りやぜ? 沖繩でやりよったことの再現けや?──それとも、(なに)や? 沖繩でやるんは許されんが、関西でそれやるんはええんけ? ええ云うんけや?──ファッ! ()直球の差別やげ! おんどれらこそ差別主義者やが! ネオナチの息子がァ……


 だいたい、ガイジ云う言葉消したかてて何ァんも変わらん。別の言葉がそれに置き換わるだけや。「ショーガイやが」じゃの、「頭みぃちゃんやげ」じゃの、そんなもんや。無意味や。徒労や。シーシュポスのブロック積みや。死ぬまでやりよれや!


 ──と、今述べたようなことはまこと極端な例の極みにあるが、このように、倫理なぞというものは個体差が大きい。世代や地域によっても大きく変わる。唯一にして絶対なる掟なぞでは断じてないのだ。


 これは好みでも同じこと。流派にしてもまた同じ。それぞれ、異なる。特定のなにかを唯一にして絶対なる掟として押しつければ必ずや反撥を招き、最終的にはそれぞれの倫理や流派の押しつけ合いとなる。終わりのない宗教戦争のはじまりだ。どちらかが壊滅しても必ずや後に続く者らが現れて、皆が残らず死に絶えるまで続くのだ。

 

 そうならぬようにするには、どうすればよいのか?


 やはり異なる流派への、最低限の敬意を表するということになろう。有効的な態度を示し、おだやかな言葉にて語るならば、たとえ選んだ道は違えどもめざす頂は同じ同志なのであるから、そう敵対することもあるまい。──それでも喧嘩を売ってくるのであれば、開戦の已む無きに至るもしかたがないが。


 そのためには、異なる流派や価値観、倫理観への理解というものが必要であろう。向こうにだけ歩み寄りを強く、これは、いけない。こちら側からも歩み寄りをみせねばなるまい。


 わしは小説のことをそこまで深く広くは知らんので、またしても音楽に喩えさせてもらうが、先に述べたポップスの流派とは異なる流派にある音楽は幾らもある。


 『曲は長いのは困る』と云われても、ドラゴンフォースの曲なぞ6分7分を超えるは当たり前。かのピンクフロイドの『エコーズ』なぞ、20分を超える。Xの『アートオブライフ』なぞ30分に迫り、スリープの『エルサレム』なぞ50分を超えておるのだ。


 『ギターソロは嫌厭されがちなのでなくしてほしい』と云うは、メタル全否定にある。メタリカが『セイントアンガー』でギターソロをなくした際、ものすごい勢いで反感の嵐が吹き荒れたものだ。


 『聴取者に共感するものを求める』『故に聴取者の感覚と乖離した倫理観は避けてほしい』と云われても、倫理観なぞ地域差や個体差が大きい。西海岸ギャングスタラップの倫理観と、欧州社会派パンクの倫理観は異なるのだ。──聴取者は「これがいい」と思って聴いているのだから、そこを強制することはできない。


 『反社会的メッセージなぞもっての他』なぞ、ヒップホップやロックを完全否定である。──なるほど、反権力で弱者のために歌い戦うという印象がどちらにも強いという面はあるが、それは限られたごく一部の範囲にすぎぬ。


 小中学生レヴェルの下ネタを連呼してゆくのも、ヒップホップのうち。(2ライヴクルー、並びにそのラッパーたるルーク=スカイウォーカー)

 特定の個人に対する誹謗中傷を連呼しまくるのも、ヒップホップのうち。(と、云うよりそれがラップバトルのスタイルじゃ)

 女性蔑視的な暴言を堂々と吐き連ねるも、ヒップホップのうち。(これまた通常運転で多すぎて絞れぬ)

 同じく女性蔑視的な暴言や下ネタ満載オゲレツな歌詞を述べてゆくも、ロックのうち。(ショックロック勢)

 ナチ、及び総統閣下を讃美しまくるのも、ロックのうち。(アブサードらナチブラックメタル勢)

 ナチ愛がイキスギィるあまり、交響楽団を雇ってナチ党時代の演奏を再現するのも、ロックのうち。(ヴォルフナハト)

 ファシスト党を讃美するのも、ロックのうち。(フランガー)

 共産党や共産主義を讃美するのも、ロックのうち。(エシュロンなど)

 移民への差別や迫害を主張しまくるのも、ロックのうち。(デッドコミュニストらヘイトコア勢)

 特定の個人に対する誹謗中傷、暴言を堂々と吐き連ねるのも、ロックのうち。(アナルカント)

 特定の宗教を罵倒し否定するのも、ロックのうち。(悪魔主義ブラックメタル勢)

 基督教を否定するあまり教会に放火して全焼させるのもロックのうち。(バーズム他悪魔主義ブラックメタル勢)

 人間ブチ殺すのも、ロックのうち(悪魔主義ブラックメタル勢の他ナチブラックメタル勢にも)


 ──と、このように、やべぇほど強すぎる反社会的メッセージはおろか実行している連中もいるのである。それに対する支持者も多い。──このわしもそのひとりだ!


 こうした尖りまくった連中は必ずしもヒットチャート上位には来ないかもしれないが、しかし熱狂的なファンを摑むに成功しているもまた事実。皆に受けていることだけが、アルバムを何万枚売ったということだけが良し悪しの価値判断基準ではないのだ。


 そこを、ポップス的な流派を良しとする者たちは理解しておらぬ、或いは理解が浅いのではないか? とぞも思う。


 ついつい、売れていること、ファンを多く抱えていること、それを唯一にして絶対なる基準と、無意識のうちに考えてしまってはいないだろうか。


 どうしても多数派故に、少数派に対して優位に立ってしまっている面が存在してしまう。──すると少数派からみれば、「我々は多数派による迫害を受けている」と、受け取ってしまうこともあるのではないか。──その場合、双方ともに起こした悲しいすれ違いと云うに他ならぬ。悲劇である。


 まあこれはそうした論を提唱した者と云うよりも、その論の支持者らが引き起こすことが多いが。そうした支持者同士が意見の違いから対立し、過熱して交戦状態に入るという例が多く見受けられる。


 ──無論、提唱者にもやたらと断定口調にて、『かくあらねばならぬ』などと唯一にして絶対なる掟のごとくに語る者もおるが。──こういうのは最悪の極みだ。ほぼ間違いなく他流派の者らと諍いを起こす。故にそうした者らからは距離を置くのが無難やもしれぬ。


 たとえそれがどれほどの実績を積み上げてきた者とても。──すぐれた文学者がすぐれた創作論者とは限らぬのだから。野球やサッカーでも名選手が名監督とは限らぬと同じことが云える。


 ここまで長々と書き連ねてきたが、結論を述べると、それぞれ好みや価値観が異なる以上、創作に唯一にして絶対なる掟なぞというものは存在せぬ。各々が各々の信じる道をただひたすらに突き進めばよいのだ。誰に遠慮が要るものか。


 今現在の流行りに合わせるも、そうしたものに背を向けて己の好みをひたすらに追求し続けるも、各々の自由なのだ。


 己の意に沿わぬ論なぞ、鳥の囀りと思って聞き流せばよいのだ。すべて、外野の雑怨なり。ロバ親子に要らんことを好き放題勝手に云う有象無象どもである。──そう思っていれば、気になるまい。


 皆、己の思うままに、創作活動に励んでくれい。


 本稿が多少なりともその助けになれば、幸いである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ