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6.石鹸

 食事を終えたあと、母と義父はまだワインを楽しむつもりらしく、チーズなどのつまみを頼み始めた。

 子どもたちは退席して自室へ戻ってもいいと言われたため、であれば風呂を借りたいと申し出た。


「借りるだなんて、ここはもう君の家なんだ。好きなときに入りなさい。八神に言えば準備は整うから」

「ありがとうございます。それでは八神さんにお願いしてみます。ご馳走様でした」


 とは言え、引っ越してきたばかりで一番風呂に入るのは気が引ける。八神さんにはシャワーだけを使わせてほしいと伝えて、すぐにバスルームへと向かった。

 食後すぐの入浴は身体に悪いと聞くが、なんせ昨日は入浴していない。それに、誰も入らないであろうタイミングなら気兼ねしないという理由もあった。

 

 大きな屋敷さながらに脱衣場も広々としていた。洗面は二つあるし、風呂場はシャワーブースとバスタブが別になっている。

 マンションとは違って、洗濯機は別の場所にあるようで見当たらない。代わりに大きなクローゼットがあり、八神さんはそこからバスタオルとバスローブを出してくれた。

 

 八神さんが出ていったあと、ではさっそくと服を脱いでシャワーブースへ入った。

 シャワーを出し、さて洗おうとしたそのとき、ようやく洗うためのものをいっさい持ってきていないことに気がついた。

 これまで幾度となく引っ越しを経験してきたというのに、失念していたとは不覚だった。準備もせず突然引っ越してきたのは初めてとはいえだ。

 慌てて見渡したところ、いかにも高級そうなボトルが何本もあった。シャンプーとコンディショナー、それにトリートメントらしきものが三種類、ヘアケア用品やボディソープ、シェイバークリームなど、各種取り揃えてある。見た感じ母と義父、そして久我の三人の分が分けて置かれているようだった。

 見慣れたボトルは母のものだろうと推察するも、勝手に使うと怒られる。義父と久我のものはなおさらだ。

 考えたあげく、一つだけ離れておいてあった石鹸を借りることにして、それで全身のすべてを洗った。なんだかごわごわとした感じがしたけど、洗えればいいわけだから、と流し終えて、ブースを出たところ、目の前に久我がいた。

 心臓が止まるかと思った。

 久我は脱衣場へ入ってきたタイミングだったようで、着替えを手に持った状態で、驚きに顔を青ざめさせていた。


「……入ってんなら鍵かけとけよ」


 ここ数年は母と二人暮らし、というかほぼ一人暮らし状態だったせいで、そういった習慣が頭から抜け落ちていた。

 だからといってうっかりのし過ぎだ。洗面用具に関してといい、高校生という若さでボケが始まってしまったのだろうか。


「ごめん」


 ずぶ濡れで謝罪の声を出した僕に、久我は舌打ちを返しながらタオルを差し出してくれた。ありがたく受け取り、すぐさま水気を取ってバスローブを羽織った。

 そして出ていこうと着替えを持ち、ドアノブに手をかけたときだった。


「おまえ、シャンプー何使った?」


 シャワーブースのドアに手をかけた久我が、こちらへ顔を向けている。

 こだわりのある人は自分のものを他人に使われると、問いただしたくなるほど不快に感じるものらしい。

 これまで義家族になった人たちの中にも、そういった人は少なくなく、経験として学んできていたはずが失態である。


「……久我くんのは使ってない……えっと、お義父さんのも、あと一応、母さんのも」

「は? おまえのは?」

「僕のは急で、持ってきてなくて……」

「じゃあシャワー浴びただけ?」

「……えっと」


 尋問されてしまっている。使ってしまったのは事実なんだから、正直に言うべきだろう。


「もしかして、この石鹸つかった?」


 しかし、僕が答える前に、久我はまさにその僕の使った石鹸を手に問いかけてきた。

 

「……ごめん」

「これ、ラウリル硫酸ナトリウムっていう成分が入っていて、かなり刺激の強い石鹸なんだ。母さんが置いていったやつで、捨てるに捨てられなくて……」

「ごめん、そんな大切なもの……」

「大切とかじゃない。置きっぱなしになっていただけで、今にも捨てていいやつだ」


 久我は手に持っていたそれを、洗面台の足元にあったダストボックスへ投げ入れた。


「お母さんのなんじゃないの?」

「そうだけど、置いてったってことは使わないってことだろ。おまえが勘違いして使う心配があるなら、捨てといたほうがいい」

「……ごめん」

「だから、そうじゃなくて……なかったんなら俺のを使えばよかったんだ。ごわごわしてるその髪はあれのせいだろ? それに肌も洗ったんならスキンケアしないと荒れるだろうし……ていうか、いっそ洗い直せ」

「えっ?」

「いや、待て……さらに洗うのはよくないな」


 久我は洗面台に備え付けられている鏡を扉のように開けて、中からボトルを取り出した。

 そして持ったままバスタブのほうへ行き、壁にある操作パネルをいじってお湯を張り始めた。


「これ、保湿効果のあるバスオイルだから、溜まったらお湯に浸かれ。溜まるまでの間に、その髪洗い直してやる。トリートメントしないとぱさつくから」


 久我を目で追っていた僕は、話しかけているというのに、その言葉が飲み込めず、返答に詰まってしまっていた。

 久我は、そんなあうあうと口から漏らしているだけの僕の腕を掴んで洗面台のほうへ戻り、椅子の前に立つよう促して、美容室でシャンプーをしてもらうときのように後ろを向いて座れと指示をしてきた。

 しかし、置かれてある椅子は木製のスツールで、背もたれもなければ、美容室のようにはできない、と戸惑った。


「これ、濡れちゃわない?」

「……確かに」

「洗い直さなくてもいいよ」

「洗い直さないと乾いたあと爆発頭になると思う」

「爆発頭? ……明日は」

「……学校だ。そんな頭で登校すんな。俺たちの関係がバレたらどうする?」

「言わなきゃバレないよ」

「いつかバレたときに恥をかきたくないんだ」


 もっともなことを言った久我は、舌打ちをしながら服を脱ぎ、僕のバスローブを剥いで、シャワーブースへと引きずっていった。

 つまり、二人とも全裸になったわけである。

 男の裸なんて珍しくはない。ただ、それは自分のを見慣れているだけであって、父もいなければ、義父ができても一緒に風呂になんて入ったことはなく、友人とプールやスーパー銭湯なんかにも行かない僕にとっては……珍しいと言えることだった。

 兄がいて、友人も多くいる久我にとってはなんでもないことかもしれない。だけど、僕にとってはよっぽどのことだ。

 先に入った久我は、僕の手を引っ張り、中へ入れてドアを閉めた。

 二人で入るような空間ではない狭さのそこに入ると、触れ合うほど距離が近づいてしまう。

 裸が見えなくなっただけマシとは言え、二年も遠目から観察していた相手の毛穴まで見える距離にいるなんて、パニックもいいところだ。目を逸らしてもどこへ向ければいいかわからない。挙動不審にも目を泳がせていると、再び久我から腕を掴まれた。


「後ろ向けよバカ」


 そのとおりだ、と遅ればせながらはっとした。

 その手があった、というか髪を洗うために来たのだからさっさとそうするべきだった。

 死にたくなるほど恥ずかしい。

 

「ごめん」

「目、つぶってろ」


 久我の声がした直後に、適温のお湯が後頭部にかかってきた。

 下から上へゆっくりと進んでいく。いきなり頭からかけないところに久我の優しさが垣間見える。

 そしてお湯がとまったあと、ひんやりとした感触ののちに、わしゃわしゃと洗われる感触が続いた。頭皮マッサージをするかのように丁寧な手つきで、まさに美容室で洗ってもらっているかのような感じだった。


「おまえ、前髪……いや、なんでもない」

 

 久我が何かを言ったらしい。しかし、緊張で強張っている頭では、何を言われたのやら理解できなかった。こそばゆいような気持ちいいような感覚と、恥ずかしさと申し訳なさでぐちゃぐちゃで、意識が散漫してしまっている。


「おまえたち親子が来るんなら処分しておくべきだった。それはこちらの手落ちだ。おまえが自分の分を持ってこなかったのも悪いけど、それを見越して用意させておかなかったのは、うちが悪いわけだし」


 なにやらぶつぶつと言いながら、丁寧に洗い終えてくれた久我は、今度はトリートメントなのか、何かをなでつけ、再びシャワーが頭にかかってきたあと「これでいくらかマシになっただろ」と言った。


「次は俺が洗うから、おまえはバスタブに浸かってろ」

「……わかった……ありがとう」


 ふんっと鼻を鳴らした久我の声を背に、シャワーブースを出て湯船に身体をつけた。

 いまだばくばくと猛り狂う心臓は収まることがなく、身体を動かすにもぎくしゃくとしてしまう。

 しかし、温かくいい匂いのするお湯は、そんな緊張で強張っていた身体を優しく包みこんでくれた。

 ライムとバジルっぽい香りがする。久我からふわりと香ってきたことが頭によぎり、常用しているのだろうかと、思い浮かぶ。

 母もこういったオイルをよく使っているものの、いつも先に済ませる僕は馴染みがない。癒される、とはこういうことなのだろうか。

 普段はシャワーで済ませることが多く、長風呂はしないほうなんだけど、久我の常用しているオイルなら、すぐに出るにはもったいない……って、何を考えているんだ?

 まるで久我のファン……いや、好意を抱いているかのように嬉々とするなんて。

 久我を見ていたのは創作意欲を刺激されるからというだけで、他に理由はない。というかそもそもが、クラスメイトであること以上の感情を抱いてはいけない相手だ。義兄弟である事実すらまともに受け入れてはいけないのに。

 久我にとって僕は、空気のように映らなかった存在で、僕と義兄弟になってしまった今や、その事実を否が応でも隠したい様子なのだから、不快かつ嫌悪していると言ってもいいはずだ。

 それくらい、彼にとっての僕は無意味で無価値な存在で……いや、空気ですらなくなったことで憎まれてすらいるかもしれない。


「どう?」


 久我の声がして、はっと顔をあげた。すると目が合った瞬間に久我はぎょっとしたように眉根をひそめた。


「肌が痛んできた?」

「……えっ?」

「泣くほど痛い?」


 泣く?

 泣いてなんていない。


「大丈夫、痛くないよ。熱くなってきたからそろそろ出る」


 久我の顔を見ないように立ち上がって、バスタブから出た。


「じゃあなんで泣いてるんだ?」

「……汗だよ。色々ありがとう。肌がもちもちしてきた気がする。……髪も、さらさらになったぽい」


 近くにかけておいたバスタオルで身体を拭きながら横を通り過ぎる。


「鏡の裏に、ディオールのソバージュって書いてある黒いボトルがあるから、その保湿液使え。俺のだから、好きに使ってくれていい」


 ドアを閉めるタイミングで聞こえてきた声に、返事をできないまま勢いで閉めてしまった。

 開けて返事をし直すほどの勇気はない。

 どきどきした胸を抱えて、急いで全身を拭いた。

 

 親切な久我。

 態度は崩していても、まるで生徒会長そのものの、友人たちに向けているかのように、優しい久我。

 保湿液を好きに使えだなんてまさかと思いつつ、おそるおそる鏡を開けてみると、そこには確かに黒のボトルがあった。

 手にとって、なんともなしに匂いをかいでみると、ふわりと久我の香りがした。さっきのバスオイルに足りなかった成分はこれだ、と気づく。

 それに気づいた瞬間、湯船に浸かっていたとき以上に身体が熱くなった。


 僕は久我を見ているだけだった。彼のすべてを記憶するかのごとく見つめていたけど、それは絵に表現したかったからで、匂いなんて関係ない。

 

 石鹸を使ってごわごわになった頭を見られたら困る、というところまではなんとなく理解できた。

 でもまだ関係に気づかれていないわけで、髪だけでなく肌まで気遣ってくれたことは理解できない。

 しかも、久我自ら洗ってくれて、僕を心配して、親切にしてくれたなんて、いまだに信じられない。

 信じられないけど、洗ってもらった頭や掴まれた腕に、久我の感触が残っている。


 ボトルを戻したあと、拭いきれていない水気に構わず服を着て、逃げるように脱衣場を出た。顔をあげず足早に、誰ともすれ違わないよう祈りながら向かった。

 誰にも見られたくなかった。

 熱が出たときみたいに熱くて、走ってもいないのに心臓がばかみたいに激しく脈打っている。

 

 ──なんで泣いてるんだ?

 

 泣いてなんていない。

 だけど、泣きそうな顔はしていたかもしれない。

 しかしそれはなぜなのか、混乱してぐちゃぐちゃな頭では考える余裕がなかった。

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