異世界は吸血鬼の恐怖をまだ知らない!
夏休み4日目。
いつもはすっきり起き出す那蠍だったが、今日は気だるい感じでベッドから起き出した。
朝のジョギングの準備をしながら、これからの対処を考える。
「思わぬ……、違う。思った以上に異世界は過酷」
異世界の倫理観、民度の問題。
想像以上の悪因悪果。
せいぜい、ちょっと大変。悪人は悪人。善人なんていないけど、普通に日々を暮らしている。そんな程度に考えていた。
違うのだ。
悪事をしないが善行は積んでいない程度の善良な市民は、隙あらば食い物にされ、何もかも奪われてしまうか。
心の中で悪いことと思いながら、仕方ないんだと周囲に迎合して、悪事を働くような少しマシな程度の悪人がひしめき合っている。
那蠍は考えが甘かったと反省する。
裏切られたダイタスが、街の人たちや弟子に復讐しないというならば、それを尊重する。
それはともかく煽動者は対処したほうがいいと那蠍は判断した。
あることないこと切り取り切り貼りして、錯誤させるようなことをいい、さも自分に、聴衆に正義ありと吹き込むような存在は消したほうがいい。
とはいえ、それは後。
思考するため、いつもよりジョギングを長く行い、いつもより遠くへ走る那蠍。
普段より距離が長いため、那蠍の整った顔が上気し、より扇状的な様相となる。
ジョギングのフォームも崩れ、胸の大地震も不規則かつより性的なものとなる。
「ふへ…………ふへ、へ……はあ、はへ……、ふう……あへ、はぁ」
道中、夏休みの朝練に向かう中高生たちが、そんな那蠍を目撃する。新たに性癖嗜好を歪められた少年が増えることとなった。
「お、おい、みろよ」
「もう凶器じゃん」
「バインバインだぜ」
「たまんねぇ……」
異世界について悩み、脳に酸素が足りていない状態の那蠍は、周囲の男たちの声や視線に気がついてなかった。
普段より体力を失った那蠍は、元気なくシャワーを浴び、だらだらと時間をかけて服をきて、いつもの喫茶店へ向かう。
「おはよう。なこちちゃん。今日は遅かったのね」
老夫婦が暖かく出迎えてくれた。
「……ひ、うひ、その。ジョギング、いっぱい、そのしたから」
「そうなんだね。なこちちゃんはえらいわね。早起きして健康的で」
老女は優しく褒め、那蠍も満更ではなかった。
喫茶店のマスターである老紳士は、何も言わずにハニートーストのはちみつを増量し、通常はバニラアイスを載せただけのところに、ストロベリーアイスも追加した。
普通、年頃の女の子相手ならば、カロリー増やしやがって! となるところだが、那蠍はあいにく普通の年頃の女の子ではない。
「あ、ありがと……、はい、あの、いただきます」
小さな声でお礼を言って、迷いなくカロリー爆弾にナイフを刺した。
(ああ……。異世界の住人がみんなここのおばさんとおじさんみたいに…………せめて、その10分の1でも優しく善良なら……)
溶けかけたチョコアイスと、ハニートーストを咀嚼し、脳に糖分が回る。
(そうだった。別に異世界全部が、ダイタムさんのいた街が、特別ひどかっただけってことも!)
地球でも世界を見渡してみれば、時代ごとに倫理観が大きくことなる。
同じ時代でも、海を超えればまったく違う倫理観で、隣国とは様相が変わる。
他の国を調べてみようと、次の目標が決まった。
「ありがとう! 元気でた!」
増量ハニートーストを食べ終え、普段より増量した那蠍は、喜び勇んで退店していった。
「あの子のあんな大きな声、はじめてきいたわ」
見送る老女の言葉に、無言でうなずく老マスター。
明日から、はちみつ増量。アイス追加の那蠍専用特別メニューを決める老マスターであった。
やめてさしあげなさい。
肥える。
+ + + + + + + + +
喫茶店から走って帰宅した那蠍は、さっそく異世界改造に取り掛かる。
鏡に市民の民度などは表示されない。
日本を100として、とかそんな相対的なものではないからだ。
候補は二つ。
一つは宗教。
宗教は一見、面倒臭いようだが、いや実際に面倒臭いのだが、大衆の個人個人が倫理観を丸投げするにはよい。
神がそう言っている。とか、教義でそうなっているとか、教養がない人物でも宗教指導者がそういってるのだからと納得できる社会。
一定の効果が認められる以上、宗教は悪いものではない。
むろん多様性や、さらなる文化向上は望めないし、なにより異教徒への不寛容さにもつながるので良い面ばかりではないが……無軌道よりは遥かにマシである。
融通は聞かなくなるが、一定の品性と倫理観を担保できる。
マイナスよりはいいか、という判断だ。
しかし、宗教については後回しだと那蠍は判断した。
異世界の宗教を、まだ理解できていないからだ。
もう一つの候補は、国家。
「指導者が健全で、国が安定していて、そこに住む人々が温厚、品性方正、あるいは牧歌的など……」
『ないのでは?』
しもべの中で、もっとも容赦ない羽斑が、那蠍に至極真っ当な意見を突き付けた。
「……異世界は可能性の塊なんだよ!」
那蠍は自分を、いや異世界を信じて鏡をスワイプし始めた。
+ + + + + + + + +
なかった。
そんな都合のいい国など、異世界にも現実にもそうそうあるはずがなかった。
「貴重な時間を浪費してしまった……」
実に2時間。ただひたすら条件に合う国を探し、精査するため消費してしまった。
ソファの上に裸の身体を投げ出し、出しっぱなしの異世界への鏡を気怠く眺める那蠍。
『主上、次、次いきましょう!』
普段から前向きな足高が、那蠍の肩を小さな前足で叩いて元気付ける。
「次って? 国探しはもういいよ。もしかして、次って宗教?」
『たぶん、それで』
「たぶんって……」
元気付けようとした足高だったが、具体的なビジョンはなかった。
那蠍は、しもべの無責任さに呆れながら、少しだけ元気が出た。
「も、もういい。切り替えて、ダイタムさんのところ見に行こう。ウェヒヒヒ。クライロウネちゃん、どうしてるかなぁ」
那蠍はちゃんと服を着てから、ダイタムの住む古城に鏡を繋ぐ。
鏡には古城を掃除しているスケルトンとなったカルハントが映し出された。
クライロウネへの土産のお菓子と、追加の日用品を手にして那蠍は鏡をくぐった。
「これはナコチ様! ようこそおいでくださいました」
光の中から急に現われた那蠍を見て、カルハントは掃除の手を止めて歓迎するように膝をついた。
「こんばんは、カルハントさん。ダイタムさんは?」
「ただいまお部屋におります。ご案内いたします」
カルハントは掃除を中断し、急に来訪した那蠍を案内する。
古城は作りはしっかりしており、カルハントがやったのかごく一部が補修もされ始めている。
「旦那様、ナコチさまがいらっしゃいました」
掃除が行き届き、おおよそリビングらしくなった部屋にダイタムがいた。
テーブルは那蠍の実家から持ち込んだ物で、椅子はこちらで購入したのか、作ったのか。簡素な椅子に座って、血を満たしたグラスを傾けていた。このグラスも那蠍の実家からの持ち込みである。
「おお、ナコチ様。5日ぶりで」
グラスを置いて、椅子から立ち上がってから改めて跪き那蠍を出向かる。
「ウェヒヒヒ……。さっそく血を飲んでいるようで、結構結構」
森の外縁部にある町で、誰かを襲ったのか。
たった数日であの善人だったダイタムが吸血鬼らしくなったものだ、と那蠍は感心した。
……が、ふと気が付く。
(ん? さっき5日ぶりって?)
「ええ。最初は血を飲むことに抵抗がありましたが、これは良いモノですな」
計算上、7日経っているはずだがと、思った那蠍だったが、すぐにダイタムが返事をしたため思考が途切れた。
那蠍は会話中に、同時にあれこれと思考することが苦手だった。これが会話の苦手にも繋がっている。
ひとまず、那蠍とダイタムの会話に集中する。
「ウェヒヒヒ。クライロウネは飲めるようになった?」
「いえ、まだですな。ナコチ様より頂いた食料品に夢中でして」
「ああ、そうなったか」
美味しものがあるなら、無理に血を試してみるつもりも起きないのだろう。那蠍はそう受け取った。
「血を飲むなど、どうしたものかと思いましたが、これにより正確な診断を行えるようになりました」
「それはよかった……。ん?」
会話中、那蠍はわずかな違和感を覚えた。
その時。
「あ、どうも。ダイタム様。ありがとうございました」
木こりらしき風体の男が帽子を取って、部屋の戸を開けて廊下から挨拶をしてきた。
ノックもせずマナーがなってないのは、この異世界らしいのでよいとして、あの木こりは何者だ? と那蠍は戸惑った。
「うむ。気をつけて帰りなさい」
「はい。大丈夫です。慣れておりますので。本当にありがとうございました」
木こりは何度も感謝の言葉を繰り返し、それはそれは嬉しそうに古城を後にした。
「……ダイタムさん、いまの人は?」
「はい。西の村、ホラートという村の木こりでタラムというのですが、治療を受けに来ましてな。後で対価として、古城の修理改築用の木材を持ってきてくれるとのことです」
「木材。それはいいことけど……。治療?」
ここでも医師としてやっていくつもりなのだろうか?
「ええ。本当に医師として、この吸血鬼というものは良いものですな」
医師として吸血鬼が良いもの?
那蠍は首をひねった。
「先日、村に挨拶に行ったおり、那蠍様より頂いた【診断】の魔法を使ってみたのです。診断の一貫として、採血をしたのですが……。いや、お恥ずかしい。つい手をつけてしまいまして」
恐縮するダイタム。
なるほどと那蠍は合点がいった。
彼は医師としてやっていこうとした矢先、欲望に敗けて採血の血を飲んでしまったようだ。
「そして血を舐めてみたらなんと! 【診断】の魔法の効果がさらに高くなりましてね。血を飲んで調べることで、より多くの情報を得られるようになりました」
「た、たしかに血液検査は、基本の基本だけど……」
「ええ。なので、病気と健康の診断のため、提供された血は、こうして嗜好を満たし、同時に医師としての行為にもなるのです。ミコチ様! このようなお力をお授けくださり、ありがとうございます」
「え、ええぇ?」
「これでもっと多くの人を助け、より多くの病理を知ることができます! ここまでお考えになって、私を吸血鬼になさったのですね?」
「いや、違……」
「ナコチ様! どうか見守りください! かならずや人々を病魔の脅威から救い出してみせます!」
吸血鬼としての特性、那蠍が授けた【診断】の呪い、そしてダイタムの医師としての使命感が、奇跡的に合致してしまった。
見事なご采配と、賞賛するダイタムに、那蠍は否定しようと思っても勢いで負けてしまう。
「え、でも、その。ウェヒヒヒ。血を飲むのを、村の人たちは怖がりませんか?」
「は? まあ……医者は変わってるなあという反応をされましたが、症状を言い当て、治療を行うことで払拭されると思います」
那蠍は、ここでやっと気が付く。
この世界は吸血鬼に対して先入観がない。
那蠍が思うような吸血鬼に、ダイタムがなるはずもない。またなる必要もない。
そして一般人も、吸血鬼が襲ってきて、血を吸っていくなどというイメージもない。
嫌悪感こそあれ、変わった治療法だと受け入れられてしまったようだ。
民間療法や呪術医療がまだ蔓延る世界である。
血を舐めて診断するなど、まだ理解の範疇であったのだろう。
さらに医師であるダイタムは、血を飲んでテイスティングすることで、【診断魔法】へと昇華させてしまった。
加えて吸血鬼は、眷属を増やすことができる。
噛みついて血を吸いつくした相手を、同じ吸血鬼にできるわけだが、同じというのが重要である。
ダイタムと同じように、血をテイスティングすることで【診断】できる吸血鬼が増えていくということである。
これの懸念を、ダイタムに説明すると──。
「す、すばらしい! 私と同じような医師を増やせるということですな!」
「い、いや。吸血鬼の用法と用量を正しく守って使用してください」
おもわず薬の使用上の注意みたなこと言い出す那蠍。
「たしかに。無軌道に増やしてはいけませんね。弟子のなかでも見込みのあるものだけ……」
「くっ! 吸血鬼の用法としては間違ってるけど、医師として正しすぎて否定できない!」
ダイタムは確実に、良いことを成そうと決意をしている。
これに横やりを入れるのは、無粋というほかない。
吸血鬼医師。
やがて、この世界では医師の最高峰といえば、吸血鬼。そう言われるようになる可能性が出てきた。
「ウェヒヒヒ。これ……ここを医師の学校にしたら大変なことになるんじゃ」
「おおっ! 流石はナコチ様! 素晴らしいアイデアです! 今すぐにとはいきませんが、将来的にそれを目指すことにいたします!」
那蠍は余計なことをいった。
確実に運命の歯車を、素手でギアチェンジして加速させてしまった。
「これ……。将来、この世界にチート転移者が来たら、混乱するのでは?」




