極楽
極楽では人の悲鳴が聞こえない。それは酷く悲しいことだと思った。澄んだ美しい水面を見つめていると、膝を着く私の正面から微かに鈴のような、また朗らかな太陽のような音が聞こえる。お立ちになって、お釈迦様は嬉しそうに微笑まれた。
「貴方にそう言われると自分を信じられなくなります。あなたより素晴らしい方は居ないはずだから」
お釈迦様は無辜なままの表情で頷かれた。謙虚ではない私を高く見積もりすぎているのだ。ただ、誰かが悲しんでいる上で、味わう幸福なんか純粋じゃないと思っただけだ。きっと、その事をこの方は十分存じ上げて居られる。その上で、罪人共を見えるところに落としたままにして居られるのだ。お釈迦様は平坦な地面をゆっくり滑って、私の方にいらっしゃった。
「修行なんて大層なものをお授け頂くのは光栄に存じますが、なんだかずっと息苦しいように感じます。貴方の正しさを証明することはまるで貴方を疑うという立場に立たなければいけない。嘘でも仮定でも、私はそう在りたくありません。ただ、この無知な私にたった一つ簡単なお答えを頂ければそれで十分に満足致します」
お釈迦様は寂しそうに頭を振った。ずっと変わりゆくべき世界に対する私の在り方を悲しんだのだろう。私はそれがお釈迦様の楽しみなのかも知れないと考えた。今、私がお釈迦様を満足させるには一度人間をし、その答えを一つ私の中に作らなければいけないのだろう。私はまだ、何も出来ない小さな若い蓮の葉だった。それがあの御方の退屈を少しでも埋められたならどれだけ幸福なことだろうか。
「先程、ご提案していただいた様に、私を世に落として頂きたい。今はまだ、若いだけの蓮で御座いますが、立派に修行を成し遂げて、きっと貴方の元へ立派に還ってくるでしょう」
お釈迦様は満足そうに私の方を見て、ゆっくり頷いた。それから両手で私を掬い上げ、優しく口元にお当てになった。
瑞々しい春の朝に目が覚める。何もかもを新鮮に、何もかを鮮やかに、私の人生は始まった。霞かがった窓の外はまだ寝惚けていて、のちの通学路はまだ静けさの中にある。手のひらを眺めて、それから強く握り締めた。私は今とてもやる気に満ちている。もちろんお釈迦様とのお約束のこともあるけれど、それ以上に、なんだか胸の奥から溢れる様な未知の活気が私の身体を強く奮い立たせている。人間とはこんなにも美しく気高く、そしてなんでもできる予感がするものなのだ。
階段の下から良い匂いが漂ってくる。朝食の準備をしてくださったのだろう。私の事をお釈迦様の使いと知らずともこんなにも尽くしてくれる。もしかしたらそのことを密かに知っているのかもしれない。そうでなければ、人間とは本当に純粋で善良であると思う。私は早くも結論を出してしまいそうだった。もっと一生懸命に良いところも悪いところも沢山探そう。お釈迦様と同じくらい、沢山の人を見て、その心に触れて、きっと御満足頂ける答えを見つけよう。
食卓では兄と父が先に朝食を食べている。水の激しく流れる音と陶器の摺れる音がキッチンの方から聞こえ、母が居るのだとすぐに分かる。
「おはよ。お兄ちゃん、お母さん、お父さん」
一瞬家族みんなが私を見てくれた。兄と父は今まで一生懸命にいじっていたスマホから目を逸らして。母は水を出しっぱなしにして。
「おぉ、ハスミか。おはよう」
返してくれたのは父だけだった。兄はなんだかとても悲しそうな顔をする。母の表情はどうしても見えなかった。父の言葉をきっかけに、また家族共々忙しく朝の準備に戻る。私は母が用意してくれていた朝食を食べて、歯を磨き髪型を整え、それから荷物を確認し、軽くお化粧をし、鏡を見て、もう一度髪型を整え、あぁ、なんて忙しい。とにかく息をつく間もなく準備をした。
玄関に到着して、ローファーを履き終えたところで突然母が話し出した。
「ハスミ、学校行くのね。無理、しなくていいのよ」
「お母さん、私今とっても学校が楽しみなの。行ってきます」
扉が閉まる。母と目が合った。母の目は、私の事を強く睨み付けていた。
「蓮実、あんたなんか今日変だね」
「そんな事ないよ、ユウカちゃん」
ユウカは私の目を見つめる。私はユウカの目を見ていた。花の咲く体育館裏。蓮実とユウカがいつも居た場所。ユウカの目を見ていると不思議な気持ちになる。魅力的で、美してくて、煌めいていてずっと見ていたい。しかしこれはどうも性愛では無い。とても落ち着いていて心地が良い。あの場所で浮かんでいた時のような優しい気持ちになる。
「偽物?」
ユウカが呟いた。
「違うよ」「嘘。蓮実なら、私と見つめ合ったら冗談のキスをする」
ユウカの唇に私の唇をあてた。
「今のハスミはなんだか前よりずっと純粋過ぎるよ。蓮実の不純さをそのまんまひっくり返したみたい」
私達はずっと近い距離で見つめ合っていた。校舎裏に咲く桜は意味深な程美しく咲き誇る。もし、ユウカに私のことがバレたら、私はこの子を隠さなきゃいけない。お釈迦様にお願いして、誰にも見えないところに追いやって、私の修行が終わるまで。
「まぁいいよ。昔の蓮見、なんか怖かった。ずっと壊れそうなところが」
私はユウカの頭を撫でた。この子はなんていい子なのだろう。やはり、人間は天国に居るべきだ。例えユウカが悪事を働いても、赦してあげるべきだと思った。ユウカは擽ったそうにして、私の手を退けた。私達はまた、見つめ合う。さっきよりもずっと純粋な気持ちで。さっきよりもずっと愛おしい気持ちで。
「ねぇ、私の人生奪って楽しい?」
「誰?」
背中からする笑い声は、確かに私を心底馬鹿にしていた。後ろを振り返っても誰も居ない。下校の道。アイスを咥えたユウカが不思議そうに私を見ている。もうじき夏だからとか、もう暑いからとか、なんだかそう言う話の末に、ここへ来た事を覚えている。しかし、さっきの言葉が頭から離れない。その言葉が生まれた瞬間から、それ以前の事が夢になったみたいに。
「大丈夫? ハスミ」
「大丈夫よ。優花。やっぱり貴方、良い子ね」
私の肩に冷たい手が乗る。耳元で囁く声は、甘ったるくて冷たいこの安っぽいアイスに似ていた。背筋に細い針が一本刺さったように、私の全身の毛が不気味に逆立つ。まるで初めて感じた悪意だった。母のあの目を思い出す。私を睨んだあの恐ろしい目。あの目に宿る深い愛情とそれを起点にした怒りが、この悪意には全く無かった。ただ、ずっと恐ろしさだけが固定してあるようだった。
人間にはこういうのも居るのかと不安になった。ずっと奥の深い闇の様だった。私は蓮実の事が知りたくなった。蓮実の背景を、蓮見の心を、蓮実の人生を知る事こそがこの修行の終着点なのかもしれない。
「貴方には分からないわ。蓮。貴方のご主人様にだって分からない事よ」
「お釈迦様が分からないことなんか無いよ」
甘い吐息が耳にかかる。耳朶の柔らかい産毛を撫でて、耳の奥の鼓膜を揺らす。唇が耳に触れそうになって、私の心臓は跳ねるように脈動した。人間的だと思った。きっと蓮実は真の人間なのだろう。思い返せば皆一枚の皮で自分を隠していた。それこそが人間の正体なのだ。蓮実はそのままだというふうに思った。だからこそ、蓮実を底知れない存在に持ち上げて、私の理解から遠ざけた。
「ハスミ?」
「大丈夫、本当に大丈夫だよ。ユウカちゃん」
ユウカの目に宿っていたのは心配だった。しかし、その口元に宿る期待感を私は見逃さなかった。もう何処にも蓮実は居ない。私の内側にも、外側にも。皆ずっと寂しいまま終わるのだ。
「昔の蓮実に戻ったみたいだったよ」
「ずっと私だって……」
僕が天野 蓮実と出会ったのは運命だった。中学受験での成績不振で、一人喘ぐ夜の街角。下を向いて歩く僕は、人の気配に立ち止まる。
貴方は羽衣を纏って現れた。「ねぇ、君。それ楽しい?」たった一言で僕を救った。アイスを頬張る彼女の、片手間の救済。それまで自分の価値基準は世間の価値基準で、楽しい楽しくないに重きを置いていなかった。僕にとってそれは大きな革命だった。街灯の光は彼女を透過し、羽衣の様な薄いフードを煌びやかに彩る。初夏の空気が対流して熱を十分に彼女の元から僕の元へ運んだ。
下を向けば見える単語帳。しかし、前を見ると美しい救いの天女がいる。彼女の手をとると、崩れてしまいそうなほど華奢で、その時初めて女性の手というものを知った。
私はその一夜、彼女と様々な場所を見て回った。皆が帰った後のゲームセンター、騒がしいばかりの飲み屋街、欲望の尽きないホテル街。どれもこれも新鮮で、手を引かれるままに着いていけば空だって飛べる気がした。汚い人間達と対照的に活発な街の様子は印象派の絵の様に美しい。
最後に行き着いたのは何のだか分からない高いビルの屋上だった。もうすぐ昇る太陽を見る為だった。
「蓮実さんはいつもこういう所に居るんですか?」
蓮実は黙ったままだった。彼女の横顔は、背景の朝日なんかよりずっと綺麗だった。しかし、ずっと寂しい様子だった。
「僕が、蓮実さんを救ってあげますね」
「何度救われても、人はダメなものよ」
僕はムキになった。「何度だって、救いますよ。貴方の事を」
目の前に広がる血の海。血で滑る包丁。貴方をあの忌々しい男達から、貴方自身の性欲から救う旅。死ぬ前に僕は生き返った貴方をもう一度殺した。
お釈迦様は何も無い真っ白な空間でたった一人美しく在られた。そしてまた、産まれたばかりの蓮の葉に近付いて、丁寧に掬いあげて下さった。
「人間は様々ですね。蓮の葉のように一律じゃない。私はあの男に怨みなど決して有りません。けれど、罪は罪で御座います。私は、あの寂しい男と、それからあの寂しい女と共にここで苦しみましょう」
お釈迦様は頷かれて、私を池にお戻しになられた。
「やっぱり貴方には分からないのですね。私のことも彼らのことも」




