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王太子妃に興味はないのに

作者: 藤田菜


部屋の外では、メイドや下働きの者たちがせわしなく行き交っている。これから始まる式典の準備に追われているのだろう。


「――やあ、入るよ」


扉をノックしながら入ってきたのは、私の夫であるレオさま。


「あら……今日の主役がこんなところで何を?」

「なんだか緊張してしまってね。君の着飾った姿を見て気分を落ち着けようかと思ったんだが……すまない、まだ準備の最中だったね」


これから行われる式典は、レオさまが立太子したことを公にするものだ。

式典が終わると、レオさまは正式に王太子になる。

つまり、私は今日から王太子妃――。


「今日はいつにもまして綺麗だよ。あとはドレスを着たら準備は終わりかい?」

「ええ、コルセットまでは自分一人でなんとか頑張ったのですけれど……」

「一人で? メイドたちは?」

「だってみんな忙しそうなんですもの。私の支度は最後でいいから、先に式典の手伝いにいくように申し伝えました」

「君という人は、いつも他人のことばかり考えて……――」


レオさまは寄り添うようにして、私を優しく抱きしめた。


「僕が王太子になるなんて今でも信じられないが……君のように心優しい妻が側にいてくれるのならば、何とかなるだろうという気がしている。これからも王太子妃として、僕を支えてくれるかい?」

「ふふ、もちろんですわ王太子殿下。あなたをお支えすることが、私にとっての幸せですもの」


私は微笑みながら、彼に口づけをした。


「さあ、そろそろメイドたちが戻ってまいります。あなたもお部屋に戻って、式辞の練習でもなさって」

「ああ、そうするよ――」


レオさまが部屋を出ていくと、机の上に積み重なった祝辞や手紙に目を通した。

親戚や友人知人、商人たちなど、みな私が王太子妃になることを祝ってやまない。


"……――愛する娘よ。お前が王太子妃になるなんて、こんなに嬉しいことはない。お前は幼い時から私に似て賢く、男であれば素晴らしい後継ぎになったであろうと幾度思ったことか……。そんなお前をぼんくらな第二王子にしか嫁がせられなかったことを長らく悔やんでいたが、それも今日までだ。王太子妃の座につけばお前のこの先も安泰であろうし、私の商いもこれから更に勢いづくであろう。かねてから献上していた酒の販路拡大についての口添えは、その後どうなっているだろうか。あの酒は特別に蒸留していて……――"


まったく、お父さまは相変わらずだ。

こんな文面をレオさまが見たら何と思うだろうか。


それにみな一様に王太子妃王太子妃と……私は王太子妃の座になんて、興味はないのに。


お父さまの手紙が人の目に触れないよう、ランプの火でそっと燃やす。

あっという間に焦げ散っていく手紙を見ながら、私はふと思い出す。

私が今日こうして、王太子妃になるまでのことを――。





「おはようございます、メアリーさま」

「……――」


メアリーさまは私をあからさまに無視して、ひと睨みして通り過ぎていく。

メアリーさまは義理の姉にあたる人だ。レオさまの兄である、第一王子ロイさまのお妃さま。


「……やあ……いつもすまない……――」

「あら、見ていらしたのですか」


扉の影から、バツが悪そうにレオさまが顔を出す。


「メアリーさまにも思うところがあるのでしょう、気にしてなどおりません。それにレオさまは何も悪くないのですから、そんな顔をなさらないで」

「でもその……いや……」


レオさまはもごもごと、何か言いづらそうにしている。


メアリーさまが私の存在が気に入らないということは、言われなくてもわかっている。それに、その気持ちもわからないではない。


私の父は貿易で身を立てた商人で、商売の成功と共に貴族身分の母と結婚した。

母の家は傾きかけていた貧乏貴族であったから、つまりはお金のために父と結婚させられたのだ。

父は貴族と縁続きになるだけでなく、母の家が持っていた領地をそのまま買い取って、ハリボテの貴族身分を手に入れた。

まあ経緯はどうであれ今も夫婦仲は円満で、それなりに幸せそうではあるのだけれど。


父はとても欲求に忠実な人だ。お金が手に入ったら、その次は身分。そして更にその次には権威を求めた。

私を王家に嫁がせるために、一体どれだけ手を回し、一体どれだけ費やしたことだろう。


商人と貧乏貴族の娘であり、お金の力で妃となった私ーー血筋も身分も財力も兼ね備えているメアリーさまにとったら、大層目障りなことだろう。


「僕が、その……もっとしっかり言えたら良かったんだが……侍女の件だって……」


レオさまは言いにくそうに、それでもあの話題を口に出した。


「ああ、あのこと……」


メアリーさまは私のような女が同じ妃という立場にいることを、認めるわけにいかないのだろう。

私に肩を並べて欲しくはないのだ。


もちろん私はわかっている。

私とメアリーさまでは、何もかも違いすぎる。自分自身の身分も、夫の立場も、考え方や生き方も。

私の夫は第二王子で、王になる可能性はとても低い。だからこそ私のような女が妃として迎えられたのだ。

順当にいけば次の春の式典で第一王子が公に立太子する。そしてゆくゆくはこの国の王になり、メアリーさまは王妃になるのだ。


それでもメアリーさまは、更に確実な差をお求めになられた。

先日辞めたメイドの穴埋めに私の家から人を出すように、レオさま経由で言伝てがあったのだ。

私の家はあくまでも仕える身分であり、妃の身分などおこがましいと、暗にそう仰せなのだ。

本音を言うならば、私をメイドとして仕えさせたいに違いない。


「私、本当に気にしておりません。レオさまや国王陛下のお心遣いで、メイドではなく侍女待遇でお仕えできることになったのですし……アン本人も喜んでおりますもの」


アンは私の父方の従姉妹にあたり、明日からメアリーさま付きの侍女として仕える予定だ。

私の家としてはメイドとしてお勤めに出しても別に構わなかったのだけれど、さすがに妃の縁者を召し使うのはよろしくないと、行儀見習いという建前のある侍女待遇で落ち着いた。


召使いであるメイドとは異なり、侍女はある程度の身分の者がなる。簡単なお世話やお話し相手に、とのことではあったが……メアリーさまのことだ。きっと侍女として扱ってはくれないだろう。

本当は気に入らない私のことを召使いたいはずなのだから、アンへの対応も想像がつく。

まあアンの性格からして、さしたる心配はしていないのだけれど……。


「それよりも、人手が足りずメアリーさまが不自由されていたとは知りませんでした。私、気が利かなくて……」

「いやいや、そんなこと君が気にすることじゃないんだ! 君には気苦労ばかりかけて、本当にすまない……」

「そんなことありませんわ。私、こうしてあなたの妻になれただけで、とても幸せ者ですもの」


レオさまは済まなそうに、ぎこちなく私の手を取ってそっと抱き寄せた。


彼は、兄である第一王子とは全く似ていない。

ロイ第一王子さまは絵画や音楽が趣味でありながら、コンサートやパーティも好む社交的で文化的な方だ。そして王子らしく身のこなしに品があり、とても自信に溢れている。

対してレオさまは内向的な学者肌で、部屋にこもって本を読むことを好み、言われなければ王子たる身分とはわからないくらいに質素な方。第一王子と比べられてきたためだろうか、いつもどこか自信なさげで、一歩引いた態度でいる。


けれどもレオさまは国王や第一王子と違い、女遊びも深酒もしない。そして純粋でまっすぐで、時々すばらしい洞察力をも発揮する。

頼りない、器がない、そんな風に言う人もいるけれど、私はこの人が夫でよかったと、心からそう思わずにはいられない。





食堂に厨房、応接室、そして侍女が住まう部屋。

今日から侍女としてお仕えすることになったアンに、順々に城内を案内していく。


「素敵……! 本当に素敵だわ! なんて立派なお城……!」


アンは目を輝かせながら、見慣れぬ豪奢な作りの調度品たちに目を奪われている。

父の援助もあって、アンの家だってそこそこ立派なお屋敷だ。けれどさすがに、一国の城には敵わない。


「ふふふ、本当に伯父さまには感謝しかないわ。私、今日からここに住めるのね! しかも次期王妃さまの侍女として……――なんて幸せ者なのかしら! ああでもそれに比べてアイリスお姉さまときたら、お気の毒ったらないわ。こんな素敵なお城に嫁げたとはいえ、お相手があんな第二王子なんて……――」


アンは眉根を寄せながら、けれどもどこかおかしそうに私に言う。


「アン、城内でそんな言葉遣いをしてはいけないわ。そしてどこであっても王家の方へは敬意を払わなくては…….――」

「……――やあアイリス妃、ご機嫌はいかがかな」


はしゃぐアンを嗜めようとした私の後ろに、どこからともなく第一王子のロイさまが姿を現した。

アンの失言を聞かれていないかと冷や冷やする。


「やあやあ君かい? 今日から僕たちのところで、侍女として働いてくれるのは」


まだ日も高いというのに、口元からはウィスキーの香りがする。酔っていらっしゃるのか砕けた調子で、お召し物も少し気崩している。

けれどその着こなしや佇まいにも品があって、さすが洒落者や文化人とうたわれるだけのことはある。


「――ごきげんよう、ロイさま。本日からお世話になる、従姉妹のアンですわ。アン、ロイ第一王子さまにご挨拶を」


アンは突然現れた王子然としたロイさまに一瞬怯んだものの、すぐに取り繕ってとても優雅に挨拶をした。


「お初にお目にかかります、ロイさま。私、本日よりこちらで仕えさせていただくアン・ポーターと申します。私ごときが侍女としてお仕えできるなんて身に余る光栄ではございますが……どうかみなさまのお役に立てますよう、精一杯ご奉仕して参ります。どうぞよろしくお見知り置きくださいませ」


ロイさまは品定めするかのように、アンに向かって上から下まで目線を向ける。

そして口元に笑みを浮かべると、機嫌良さそうにアンの頭を撫でながら言った。


「いやあ、随分しっかりした子だ! 妻はいくぶんか気分屋なんだけどね、君ならうまくやっていけそうだ。こちらこそよろしく頼むよ」


……ああ良かった、アンのことを気に入ってくれたようだ。

アンはアンで、ロイさまの言動に対して大袈裟に喜ぶそぶりをする。


「まあ……なんてもったいないお言葉……! 私、ロイさまやメアリーさまにお仕えすることができて、本当に幸せ者でございますわ」


大きな瞳を潤ませて、涙が溢れそうな勢いだ。

その様子を見てロイさまは更に満足そうに頷いて、鼻歌混じりに去っていった。


「なんて優美な方……! 話に聞いていたより、ずっと素敵な方ねロイさまって! 私、早く国王陛下にもお会いしたいわ。陛下も立派なお方なんでしょう? 今日中にご挨拶できる機会はあるかしら? ああそれにしても本当に……アイリスお姉さまはお可哀想! あんな素敵な第一王子がお側にいながら嫌にならないの? 夫が冴えない第二王子なんて!」


アンは先ほど嗜めたにもかかわらず、また口さのないことを言う。

全く、まだまだ子供なのだから。





その日ひと通り城内を案内した後で、無事国王陛下への謁見も済ますことができた。

陛下もアンのことを気に入ってくれたようで、私としては一安心。


メアリーさまは相変わらずの対応だったけれど、おそらくどんな人物であっても、私の家の人間というだけでお気に召すことはないだろう。

国王陛下と第一王子が気に入ってくれたというだけで、十分満足しておこう。

後はアンがうまく役割を務め上げてくれるよう、しっかり支えてあげなくては。


「今日は色々疲れただろう。ゆっくり休みをとってくれ」


その晩、レオさまはいつにもまして優しかった。


「あら、疲れてなんておりませんわ。アンのほうがよほど疲れたことと思います。うまくなじむことが出来ると良いのですが……」

「いやいや、さすが君の従姉妹だよ! 父さんも兄さんもあの子をいたく気に入ったようで、色々と褒めていて……――」


レオさまは更に言葉を続けようとしたけれど、まずいと思ったのかまた言葉尻を濁す。


陛下やロイさまが何と褒めていたのか、何となく察しがついてしまう。

きっと私とは違って優れた見目に身体だと、そう仰っていたのだろう。

白く柔らかな頬に大きな瞳、華奢な身体に豊満な胸。そして口元に艶っぽいほくろを持つアンは、私から見ても魅力的な容姿をしていると思う。

陛下やロイさま、女性らしい女性が好きなお二方の好みでもあるだろう。


「い、いやあ、父さんも兄さんも君とは似ていないと言っていたが……僕は似ている部分を感じたな。たとえばそう……同じ深い色の瞳とか。二人ともその瞳から、なんというかそう……志の真っすぐさを感じるよ。それにほら……そう、骨格! すらりとした手脚なんか、君たちはそっくりだったよ、うん」

「……ふふっ」


思わず笑いが漏れてしまった私を見て、レオさまは申し訳なさそうに頬をかいた。


「…….いやすまない……どうにも僕は口下手で……。でも本当に、君たちは似ていると、僕はそう思うよ。そうだな――……うんそうだ、骨格が似ているんだからコルセットをもっとこう、きつく締めたりして――……」

「ふふ、無理なさらないで。それとも、私が彼女のような見目になったほうがお好みですか?」

「いやいや、違う! そうじゃないんだ、そういう意味じゃ……」


レオさまは慌てて否定する。

もちろんそういう意図で言ったわけではないと、否定されずともわかっている。


「ごめんなさい、意地悪を申しました。レオさまがそんなつもりではないことは、よくよくわかっておりますわ」

「まいったな……でも僕の言い方が良くなかったのは間違いない。僕がその……昔から兄さんと比べられてきたものだから。君も彼女と比べられて、嫌な思いをしたことがあったんじゃないかと……すまない、いらない気を回してしまった」


私はそっとレオさまの手を取って、その嘘のつけない瞳を見つめる。


「私は気にしておりません。だって私にはあなたがいるんですもの。あなたが私の夫で良かった……あなたさえいれば、周りになんと言われようとも気になりません」

「アイリス……こんな僕にそんなことを言ってくれるなんて……なんだか今日は、君の瞳がことのほか大きく見えて……そう、まるで今日来た彼女みたいに……ってああ違う、そういう意味じゃなくてっ……」

「ふふ、わかっております」


この人はこういう人なのだ。

他人のことばかり考えながら、それでいて口下手で、嘘がつけずに純粋な人。


アンにはまだ、この人の良さはわからないだろう。





静かな部屋に、私とレオさまの二人きり。時折り響くのは、二人が本のページをめくる音だけ。


私はふと読んでいた本から顔を上げて、窓際で分厚い本に目を通しているレオさまを盗み見た。

その姿に、自然と笑みが溢れてしまう。


「……?」


私の視線に気がついたようで、レオさまも不思議そうに顔をあげてこちらを見る。


「どうかした?」

「いいえ、なんでもありません。あなたが本を読んでいるお姿を見ていたら、なんだか幸せな気持ちになって……集中なさっていたのに、ごめんなさい」


レオさまは笑いながら私に微笑みかける。


「構わないよ、幸せなのは僕のほうだ。こうして僕の読書に付き合ってくれるなんて……つまらないだろう? 兄のように絵や曲をプレゼントすることができたら良かったんだが……」


ロイさまは音楽や絵画を鑑賞するだけでなく、ご自身でメアリーさまに曲を作ったり、肖像画を描いて贈ったりしているらしい。


「そんなことはありません。レオさまにお勧めしていただいたこの本、とても読みやすくて面白いですわ。私はあまり文芸に詳しくありませんので、お勧めしていただく度に新たな世界が広がっていくようです」

「君はいつも嬉しいことを言ってくれるね。新しい世界を広げてくれたのは君のほうだよ、この本だって……君がお義父上に頼んで遠方から取り寄せてくれたお陰で、ようやく読むことができた。この国の専門書はとても興味深いんだ。研究分野がかなり細分化されているし、最先端の情報がいちはやくまとめられている。これなんか面白いんだ、人体に害を及ぼす毒物についての研究で……――」


他国から取り寄せた本の山を指差しながら、レオさまは嬉しそうに話している。


けれどその止まらなそうなレオさまの話を遮って、ドアをノックする音が聞こえた。

ノックの主は、ロイ第一王子さま。


「やあやあ失敬、入らせてもらうよ……――全く、君たち夫婦は変わり者だな。二人してまた本ばかり読んでいたのか? 今にカビてしまうよ」


今日もブランデーの香りをさせながら、ロイさまはそんなことを言う。


「……何の用だよ、兄さん」

「用があるのはお前じゃなくて、アイリス妃さ。部屋を空けていたから、探してたんだ」


ロイさまが私に用事ということは、きっとあのことだろう。


「……以前お話しされていた、絵画についてでしょうか?」

「そう、その件だよ! あの話、進みはどうだい?」


何の話かわからない、という顔のレオさまに、簡単に話の概要を説明する。


「ロイさまがお求めの絵画が父のつてで手に入りそうでして、以前から頼まれておりましたの。あの絵でしたら、うまく話が進んでいるとのことですわ。近日中に良いお知らせができるかと……。そうそう、お待たせしてしまったお詫びにと、別の絵や画集を送ると申しておりました。届き次第お部屋にお持ちいたしますわ」

「おお、それは何とも喜ばしい……! 父君にもよくよくお礼を伝えてくれたまえ! 僕からも早々に礼状を書こう」


ロイさまは、絵を見ることも描くことも集めることもお好きでいらっしゃる。相当数のコレクションをお持ちで、中でも最近はとある画家に凝っているそうだ。私が嫁いだ時に持参した絵画の中の一枚に、レオさまの琴線に触れたものがあったらしい。


上機嫌になりながら、ロイさまはレオさまの読んでいた本を取り上げ訝しげにパラパラとめくる。


「なんだ、この悪趣味でつまらなそうな内容は……よくもまあこんなものを好き好んで読めるな。こんなものを読むくらいなら、絵画を眺めていたほうがよほど有意義だよ。こんな褪せた紙の白とは違って、絵画には何種類もの素晴らしい白が表現されている。抜けるような白に吸い込まれそうな白、透明に近い白に…….――」


こうしてたまに話が止まらなくなってしまうところには、兄弟二人の似た部分を感じる。

今ロイさまが凝っているのは、白色を美しく使うのが特徴的な画家。ロイさまも今白色にこだわっているのだろう。


「――……ああそうだわ、もう一つお伝えを忘れておりました。父が、ロイさまがお好きなブランデーもまた送ると申しておりました。そろそろ以前お送りした分もなくなるだろうからと……」


ロイさまはブランデーをよく嗜む。父は将来国王になるであろう第一王子のために、彼の好みのものを見繕っては贈っているのだ。

もちろん、ワイン好きの陛下にも極上のワインを方々から取り寄せて献上している。


「え? あのブランデーを? それは嬉しい! 実はそろそろ催促しようかと思っていたんだ。近頃はあれでないとなかなか心地よく酔えなくてね。しかしあれの美味さがわからないなんて、全くレオは人生を損している。お前ももう少し酒に強かったらなあ、お前ときたら……――」


ロイさまはまた悪い絡み方をする。

レオさまはお酒に弱く、少しのアルコールでも体調を崩してしまう。国王陛下とロイさまはお酒をよく酌み交わしていて、それもレオさまの劣等感に繋がっているのだろう。

私は無理矢理、ロイさまの話を遮った。


「――……お話し中に申し訳ありません、ロイさま。失礼ながら、どこかお身体の具合がよろしくないのでは……? 実は以前から気になっておりましたの。僭越ながら先日パーティでピアノを披露してくださった時、ところどころ譜面と異なる弾き方をしてらっしゃいましたよね? 素晴らしいピアニストであるロイさまにしては、珍しい指遣いでらっしゃいました。あの日は珍しく悪酔いでもされているのかと思ったのですが、ロイさまくらいお酒が強かったらそんなことはありませんものね。今も少しお顔が赤いようですし、やっぱりどこか体調が優れないのでは……――」


心配そうに問う私に、ロイさまは少し慌てた様子で言い訳をした。


「べ、別にどこも悪くはないよ。少しこの部屋が暑くてね。パーティの時のミスは緊張が原因だ。大勢の前で楽器を披露する緊張感は、そりゃあ君たちにはわからないだろうけど」


そして不機嫌そうに手に取っていた本をレオさまに返すと、再度絵画のことを念押しして部屋から出ていった。


「……ありがとう、助かったよ」


ロイさまの姿が見えなくなると、レオさまはほっとため息をついた。


「いいえ、私は何も……」

「君が話を止めてくれなかったら、いつまで嫌味を言われたかわからない。それに兄さんの頼みも聞いてくれていたようで……――それにしても、君は耳が良いんだね。僕にはいつも通り、パーティでの兄さんの演奏は完璧に聞こえたよ」

「偶然私の好きなワルツを弾いてくださっていたもので……出過ぎたことを申しました」


レオさまは重ねて私に礼を述べたけれど、その後真面目な顔つきになって考え込んでしまう。


「しかし、本当に近頃兄さんは酒を飲み過ぎだ……そういえばパーティの日もかなりの量を飲んでいたんだ。苛立っていることが増えたり、式典中に居眠りをしたりして父上に叱責されていたが、それもきっと深酒のせいだろう」

「まあ……そうでしたか。それは本当にお身体が心配ですわ」

「だろう? しかし酒を止めるように言ったところで、僕の言葉なんて聞き入れないだろうし……」


先ほどのような態度を取られてもなお、レオさまはロイさまのお身体を心配している。


「……そうだわ、お酒を少し薄めてしまうのはどうでしょう? ちょうど父からブランデーが届きますから、それを薄めてお渡しするのです。いつもの量を飲んでも、お身体への害は少なくなるのでは?」

「なるほど、それは良い考えだ! しかし、さすがに兄さんが気づいてしまわないだろうか?」

「そうですね、薄める量に気をつけなければなりませんね。どれくらいなら大丈夫かしら…….――」


それから私たちは一旦本を読むことを止めて、二人して密かにあれこれと話し合った。

日頃ロイさまが飲んでらっしゃる量や、ブランデーの度数を推測したりなどして。


どうか、ロイさまが気がつかないと良いのだけれど。





アンがお仕えするようになってから、しばらく経ったある日のこと。

夕食の席で、国王陛下がふとメアリーさまに問いかけた。


「そういえば新しくきた侍女はどうだ? うまくやっているかね? なんといったかな、あの色白の……」


メアリーさまのナイフとフォークを動かす手が止まった。次いで口元にナプキンをあてて、ご気分が優れないご様子だ。

それを見て、代わりにロイさまがいつもの調子で返答される。


「ああ、あの子ならよくやってくれているよ。失敗をしても落ち込み過ぎないところがいいね。うん、あの子は続くんじゃないかな」

「そうか、それは何よりだ。アイリス妃よ、いい娘を紹介してくれた」

「とんでもございません。あの子が聞けば喜ぶことでしょう」


メアリーさまの鋭い視線が私を射る。

彼女のアンに対する態度は、やはり想像通りのものだった。小間使いのようにさまざまなことを言いつけ、そしてささいな失敗すらきつく叱責する。


きっとメアリーさまは、そんな待遇をすればアンはすぐに逃げ出すだろうと思っていたはず。

そしてそうなったならば、不出来で使えない侍女を寄越したと、私の責として厳しく咎めるおつもりだったに違いない。


けれどアンは、いびられて逃げ出すような娘ではないのだ。

私の家の血を、色濃く継いだ強い娘。私の父によく似て、強い向上心を持つ娘。

メアリーさまにきつく当たられようとも、王家に仕える侍女という特権を手放すはずがない。

元々要領が良く気も回る子だ。仕事もすぐに覚えたはずだし、しばらくすれば叱責を受けるようなわかりやすい失敗もしなくなるだろう。


不機嫌になっていくメアリーさまに気づいてか気づかずか、陛下は水の入ったグラスを傾けながら続けた。


「あまり叱責してやるなよ、メアリー妃。優しくしておやり」

「……もちろんですわ、陛下」





「アン嬢、どうにかうまくやっているようで安心したよ。メアリー妃の元で苦労していないか心配していたんだ」

「ご心配いただきありがとうございます、レオさま。あの子はしっかり者ですので……」

「さすが、君が推薦しただけのことはあるね。ああそうだ、今晩はこれから父上に呼ばれていて……すまないが、先に休んでいてくれ」

「あら、かしこまりました。あ……――そうだわ、少しお待ちになって」


私は棚の引き出しを開けて、取り寄せていた紅茶の葉の入った缶を取り出した。


「これは?」

「先日取り寄せたものですが、香りも味も素晴らしくて。せっかくですから、陛下とレオさまにも楽しんでいただこうかと。それに紅茶を飲むと気持ちが落ち着きますし、頭の痛みにも効くそうですから…….近頃、陛下はよくこめかみを押さえていらっしゃるでしょう? 先ほども珍しくワインではなくお水ばかり飲んでいらっしゃったし……」

「えっ、そうだったかい? 気がつかなかったな……気遣いありがとう、さっそく父上にも薦めてみるよ」

「ええ、そうなさって。厨房にお湯の用意を頼んで参りますわ」


――レオさまが陛下に呼び出されるとは、一体何のお話だろう。


「――……あら?」


厨房を出て部屋に戻る途中で、慌てた様子の人影とすれ違った。


「アン……? 何をしているの、こんなところで」


メアリーさまのお部屋やアンの部屋があるのは別の棟だ。

アンが来た方向にあるのは……――。


「えっ、あっ……アイリスお姉さま……お姉さまこそどうなさったの? こんな遅くに」

「レオさまが陛下にお呼ばれなので、紅茶と軽食の用意を頼んできたところよ」

「ああ、そうだったの……びっくりした」

「近頃はゆっくり話せていないけれど、ここでの生活は慣れた? 辛くはないかしら」


問いかける私に、アンは誇らしげに言った。大きな瞳には自信が満ちている。


「辛いことなんてないわ! 私、このお城で働くことができて本当に幸運よ。でも、今に見ていてお姉さま。私は侍女なんかで終わりたくはないの」


そしてアンは意味ありげに笑みを浮かべると、そのまま足早に去っていった。





次の日、レオさまは少し眠そうな顔をしていた。


「昨夜は遅くまでお話しなさっていたの?」

「ああ、なかなか父上が帰してくれなくてね……遅くまで話し込んでしまった。僕はほとんど父上の愚痴に相槌を打っていただけだったんだがね」


陛下の愚痴は、主にロイさまに関することだったらしい。

式典での居眠りをはじめ、近頃不真面目さが目立つ。酒を飲みすぎているのではないかと、陛下も気になさっていたそうだ。


「その点に関しては、僕たちも対策を考えているんだと言っておいたよ。そうそう、それから君の言う通り、父上はこのところ頭痛に悩まされているらしい。君がくれた紅茶を随分気に入ったみたいだった」

「それは良かったわ。でも陛下のお身体も心配ね……ロイさまのことでそんなにお悩みなのかしら」

「どうだろうなあ。口では愚痴ばかり言っても、父上は兄さんと仲がいいからね。趣味も合うし。兄さんは今、父上の肖像画を描いているそうだよ。まあ、その進みが遅いことについても文句を言っていたけどね」

「まあ肖像画! それは完成が楽しみですわね」


ふふ、と笑う私を見て、レオさまは眉根を寄せて悩ましげな顔をする。

何かを言おうか言うまいか、悩んでいるお顔だ。


「どうかなさいましたか?」

「いや、その……」

「……?」

「言うべきかどうか迷ったんだが……昨晩その、父上の部屋に着いた時なんだけどね……なんというか……その時父上の部屋から……」


レオさまはとても言いにくそうにしている。

私はレオさまの表情から察して、その言葉を継いだ。


「……もしかして、アンでしょうか」


レオさまはその名を聞くと、気まずそうに頷いた。

やっぱりそうか……昨日アンが来た方向の先にあったのは、陛下のお部屋。


「僕が部屋をノックしたら、慌てた様子でアン嬢が飛び出して来たんだ。もしかしたらその、父上とアン嬢は……」


陛下の奥さまであり、ロイさまとレオさまのお母さまである王妃さまは、私が嫁ぐ何年も前にご病気で亡くなられた。

それ以来王妃の座は空席で、陛下は気ままに独り身を楽しんでいらっしゃった。


陛下は色好みでらっしゃるから、今までにも侍女がお手つきになったことがあったと、そんな噂も耳にしたことがある。

アンは陛下の好みの容姿をしているし、アンはアンで陛下の誘いとあらば断ることはないだろう。


昨晩の夕食の時――陛下はアンのことなど素知らぬそぶりでいた。けれど、陛下にしてはどこかわざとらしかったのだ。

聡明な陛下が、仕え始めた侍女の名を覚えていないわけがない。きっとわざと素知らぬふりをしていたのだろう。もしかしたらメアリーさまを牽制するように、アンから頼まれていたのかもしれない。


「大丈夫かい……?」


黙り込んでしまった私を、レオさまが心配そうに覗き込む。


「え、ええごめんなさい……少し驚いてしまって……」

「すまない、こんな話をして……それに父上が君の大切な従姉妹に……」

「いいえ……それにまだそうと決まったわけではありませんもの。折を見て、私からアンに話しを聞いてみます」


ふう、とため息をついて、気を取り直してレオさまに笑顔を向ける。


「それよりも……先日お薦めしていただいた本が飲み終わってしまいました。今日も何かお薦めを教えてくださいますか? 私、以前レオさまが読んでいた本が気になっていて……ほらあの、毒について書かれているという」

「えっ、本当かい?」

「ええ、レオさまが面白そうに読んでらっしゃったから」

「ぜひ読んでくれたまえ、実に興味深かったんだよ。最新の研究では、新たに何種類かの毒物が発見されたらしいんだ。たとえばほら、これなんかは……」


レオさまはさっそく本を開いて、嬉しそうに話し始める。

なんて微笑ましいのだろう。





ロイさまに頼まれていた絵画が送られてきたのは、それから間もなくのことだった。

これを機にロイさまに恩を売っておけと、父はしつこいくらいに手紙を寄越してくる。


「ようやくあの絵が僕のものになったんだね、どれだけ待ちわびたことか!」

「お喜びいただけて何よりですわ。どちらにお運びいたしましょう」

「そうだな、とりあえず僕のアトリエに運んでおいてくれるかい? 僕はこれから少し用事があるものだから」

「ええ、かしこまりました」


ロイさまはアトリエをお持ちで、定期的に篭られては絵を描くことに没頭している。国王陛下の肖像画もアトリエで描かれているのだろう。


荷物を運んできた行商人やその従者たちを伴って、ロイさまのアトリエへと絵を運び入れる。


室内には顔料やブランデーの匂いがたちこめているし、少し埃っぽい。絵を運び入れるまでの短時間ではあれど、バルコニーの窓を大きく開けた。

なんて心地の良い天気。ロイさまはパーティにでもお出かけなのだろうか。それとももしかしたら、またお酒を飲みにお出かけなのかも。

アトリエの中にもブランデーの空き瓶がいくつか転がっている。計画は今のところ順調だ。このままうまくいってくれると良いけれど。


「……では、とりあえずこのあたりに置いていただこうかしら」


アトリエ内にはいくつもの絵画や画材があって、飾られていたり、床に立てかけられたりしている。

新しい絵を置く場所に困るくらい、かなりの量だ。


「どれも貴重なものばかりでしょうから、気をつけて運び入れてくださいませ」


私の言葉に、みな恐る恐る絵を運び入れる。

行商人はロイさまのコレクションを見ながら、感嘆の声を上げた。


「第一王子さまは絵画蒐集がご趣味だとお聞きしていましたが、いやはや想像以上ですな。こんなに著名な作者のものばかり……」

「そうなのですね、私は疎いもので……ロイさまは別室にもたくさんの美術品を飾っていらっしゃいますから、今度私も見せていただこうかしら」


アトリエの中心には、まだ描きかけのキャンバスが置かれている。

細部はまだ描き込まれていないが、モデルは陛下に違いない。陛下の威厳ある髪が、美しい白で描かれている。

やっぱり、ロイさまは白に凝っていらっしゃる。想像通りだったものだから、なんだか面白くて笑ってしまう。

この絵の完成はいったいいつになるのだろう?


「ではみなさん運んでいただきありがとう。大変助かりましたわ」


退出時に再び窓を閉め直して、陛下の肖像画に別れを告げた。

このアトリエは、ロイさまとメアリーさまのお部屋がる棟にある。

もしも帰り際にメアリーさまにお会いしたら――そう考えている最中に、くしくもメアリーさまのお姿が見えた。


「……ごきげんよう、メアリーさま。ロイさまに頼まれていた絵画を、ただ今こちらにお運びいたしました。よろしければメアリーさまも……――」


私は精一杯愛想良くお声をかけたけれど、メアリーさまは相変わらず。お返事はもちろんないし、喋りかけないで、と言わんばかりの冷たい視線。

これもまた想像通り。


アンは大丈夫かしら。そうだ、せっかくこちらまで来たのだから、アンの部屋に寄っていこう。

様子を見たいし、この前の話もしなくては。


ちょうど通りかかったメイドに行商人たちのお見送りを頼むと、アンの部屋へと向かった。


「ごきげんよう、アン」


部屋をノックすると、アンは元気そうな顔で歓迎してくれた。


「どうなさったの、アイリスお姉さま。わざわざお部屋まで訪ねてきてくださるなんて」

「少しこちらへ用事があったものだから。調子はどう?」

「問題ないわ。メアリーさまは私のことが気に入らないみたいだけど、私はここがとても気に入ったの!」


メアリーさまから辛くあたられた侍女たちはみな、しばらく経つと顔色が悪くなったり体調を崩したりしていた。見たところ、アンはいたって健康そうだ。


「それなら良いのだけれど……もし辛いことがあったなら、いつでも相談するのよ。私はあなたの味方だから」

「ふふ、私は大丈夫よお姉さま。それよりも私はお姉さまのほうが心配よ! 第二王子は頼りにならなそうだし」

「そんなことないわ……――それでねアン、今日はあなたに話があるの――……国王陛下とあなたのことよ」


陛下の名を聞くと、アンはぴくりと身体を震わせた。

そしていたずらが見つかってしまった子供のような表情をして、口元のほくろを触りながら形のいい唇を開いた。


「なんだ……もう気づかれちゃったのね!」

「じゃあやっぱり……――」

「そうよ、すごいでしょう? 私、陛下から寵愛を賜っているのよ。女としてこれ以上の幸運ってあるかしら!」

「アン……あなたは若いし、嫁ぎ先だってまだ決まっていないのに……!」

「そこらへんの家に嫁ぐよりも、陛下の愛妾のほうがよっぽどいいじゃない! この国一番の女になったってことなのよ? 見てよこれ、陛下が愛の証にってくださったの」


陛下からいただいたというブローチを自慢げに取り出し、それをうっとりと眺める。


「よく考えてアン。陛下は再婚なさるおつもりはないのよ? 今までにも何人かの侍女を寵愛なさっていたけれど、誰も王妃にはとりたてていないもの。それにロイさまやレオさま、国民もみな許しはしないわ」

「かまわないわよ、そんなの。陛下から聞いているわ、今までの女たちは再婚を迫ってきたからお別れしたって。でも私は王妃の座なんて望まない、愛妾で十分なの。だって妾だとしても、できることはたくさんあるもの!」


陛下の寵愛を賜ったことに、アンはすっかり浮かれてしまっている。

しばらくは誰から何を言われようとも聞き入れないだろう。


「……あなたの気持ちはわかったわ。でもそれならそれで、立ち回りには気をつけるのよ。口に出すのは恐れ多いけれど……陛下は嫉妬深いお方だとお聞きしたことがあるわ。お手つきになったメイドが下働きと通じていたことがわかって、ひどくお怒りになって追い出したこともあるそうよ。それからメアリーさまの侍女としてのお勤めは変わらずに励んで…….――」

「わかってる、わかってるわよ! お姉さまは心配性なんだから。私はうまくやるわ、大丈夫。それよりもお姉さまこそうまく立ち回らないと! メアリーさまが王妃になったら、今まで以上の扱いを受けるのよ! なんなら私から陛下に進言して差し上げてもよろしくてよ?」

「……私のことはいいの、気にしなくて。今は自分のことだけ考えて」


……レオさまには、何とお伝えすればいいかしら。





翌日、私はレオさまに陛下とアンのことをお話しした。


「そうか、やはり……」


悪い予想が当たってしまったと、レオさまは眉を顰めた。

レオさまは他人の問題や悩み事を、まるで自分のことのように考えてくださる。陛下のように普段弱音を吐かない方でも、レオさまには愚痴をこぼすというのも納得だ。


「そんな顔をなさらないでくださいませ。アンは幸せそうですし、陛下の寵愛を賜るなんて光栄なことですもの」

「いやしかし、父上のお手つきとなるとアン嬢の今後が心配だ。父上は独占欲の強い方だから、もし彼女にいい縁談がきても許しはしないだろう。だが正妻にする気もないだろうし……」

「そう、ですわね……」


陛下は色好みでいらっしゃるけれど、その線引きはきちんと出来るお方だ。妾はあくまで妾であり、正妻にとりたてることはない。

陛下は王妃の務めや品位を重要視していらっしゃるし、妾を正妻にして王妃に取り立てでもしたら、民衆の反発は必至。陛下はこの国の行く末をよく考えていらっしゃるのだ。


「アンは今の立場で充分だとは申しておりましたが……今まで陛下の寵愛を賜った方も、きっと初めはそうだったのでしょうね」


初めて陛下から寵愛を賜った時は、その類稀なる幸運に感謝し、妾でも構わないと思うのだろう。けれど人の欲に限りはない。愛を受ければ受けるほど、妾という立場では満足できなくなっていく。

アンだってそのうち、ブローチ一つでは満足できなくなるはずだ。


「……ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません。私から今一度、アンに身の振り方を話してみますわ。陛下の寵愛を賜ったからには、その立場に相応しい言動をするようにと」


妾の立場ほど脆いものはない。陛下の愛がなくなってしまえば、その立場は瞬く間に崩れてしまうのだから。


「――そうだわ。もう一つ、レオさまにお話ししたいことがございました」

「……なんだい?」


真面目な話の後で何の話題かと、レオさまは少し身構える。


「先日お話に出た、ロイさまが描かれているという陛下の肖像画を拝見いたしました。陛下の御髪がとても美しく表現されてはおりましたが……たしかにあれでは、完成がいつになるやらわかりませんね」


微笑みながら言うと、レオさまもつられて笑った。


「ああ、父上が完成を待ち侘びている例の肖像画か! やはり完成は遠そうかい? 僕も早く見てみたいのだが……」

「ええ、まだ少し時間がかかりそうです。ですが途中経過を見るに、素晴らしい作品が完成するに違いありませんわ。陛下がはやる気持ちがよくわかります」

「父上は何度も進捗を覗きにいっているらしいよ。だが兄さん曰く、ついつい酒に手が伸びてなかなか筆を進められないんだそうだ。この前の計画通りに、兄さんの深酒も少しは改善されているといいんだが……」

「まあ……陛下のためにも、早く計画がうまくいくと良いのですが……――そうだわ! ロイさまが描かれているところを、実際に見せていただくのはいかがでしょう? ロイさまが描かれている様子を、見学させていただくのです。陛下にもお声をかけて。あらかじめ日を決めてしまえば、ロイさまも筆を進めずにはいられませんわ」


私の発案に、レオさまはなるほどと頷いた。


「たしかに父上もデッサンの時しか立ち会っていないそうだから、兄さんが実際に描いているところは見てみたいだろうね。だが、兄さんが何と言うか……」

「ちょうど先日届いた絵画のお披露目がまだですから、お披露目会の余興にどうかとお伝えしたらいがでしょう? ロイさまのサロンにもお声かけして、新しい絵画とともにロイさまの絵の腕前を見ていただいたらどうか、と」


ロイさまの画力は、収集されている名だたる画家たちにもけして見劣りするものではない。王族でなければ、絵で身を立ていたのではないだろうか。

それにロイさまは人前で何かを披露することを厭わないし、むしろ目立つことを好む方だ。

先日の絵画を早く芸術仲間に披露したいことだろうし、もしかしたら既に声をかけているかもしれない。


「なるほど、その言い方なら兄さんはきっと乗り気になる! さすがだよ、そんな良い案を思いつくなんて……父上も肖像画が進んで喜ぶことだろうし、僕も父上から聞く愚痴が減って喜ばしい!」

「ふふ。お二人のお役に立てたなら、私も大変喜ばしいですわ」

「さっそく提案してみることにするよ!」





ロイさまは予想通りに、レオさまの提案を快諾してくださった。

先日届いた絵画のお披露目会は滞りなく終わり、ロイさまはとてもご機嫌だ。


そして国王陛下にお二人の兄弟と妃、そしてロイさまのサロンの面々がアトリエに会し、余興が始まる。


「できれば完成まで公開はしたくなかったんだが、たまにはこういった余興も面白いかと思ってね」


肖像画のキャンバスにかけられていた布を、ロイさまが颯爽とめくる。

未完成ではあれど、その筆使いや色の美しさに感嘆の声が上がった。


「素晴らしい……! さすがはロイさま、並の筆使いではございませんな」

「全く完成が待ち遠しい」


陛下も満足そうな顔をしているし、メアリーさまも面々の反応に誇らしげである。


「皆が喜んでくれて、この催しは大成功だよ。全て君のおかげだ」


レオさまはそっと私に耳打ちした。


「そんなことはありません。さあ、さっそくロイさまがお描きになられますわ。私も楽しみにしておりましたの。ロイさまがどのようにキャンバスを美しく染めていくのかを」


ロイさまは慣れた手つきで色を準備していく。

私は以前この肖像画を目にした時から、お聞きするつもりだった問いをロイさまに投げかけた。


「未完成とはいえ、色使いの素晴らしさに目を惹かれてしまいます。特にその陛下の御髪の色――先ほど拝見した絵画に勝るとも劣らない、美しい白ですこと。この色は何とおっしゃいますの?」

「よくぞ聞いてくれたね、アイリス妃! この白は特にこだわっている部分なんだ、この色はシルバーホワイトといって――……」


ロイさまは嬉々として述べていくけれど、私は聞き覚えのあるその名にばかり気がいってしまった。


「シルバーホワイト……――?」


大きな声を出した私にみなが訝しげな顔をする。

私は今度は小声になって、そしてレオさまに目で訴えた。 


「レオさま、シルバーホワイトといえば……」

「……シルバーホワイト? ……あっ……!」


ロイさまは、私たちに話を遮られたことに苛立たれている。


「何だ、二人して。シルバーホワイトがどうかしたか?」

「ええと、その……――」


言い淀む私たちに、陛下も少し苛立ったのが続きを促す。

口を開くべきか否か逡巡を感じさせつつも、レオさまは言いづらそうに言った。


「――……その……先日読んだ書物にその色についての記載があったもので、つい……シルバーホワイトというのは、鉛が原料では? その書物には国内外の最先端の研究がまとめられていて、その色は毒だと……いや、鉛は身体に悪影響を及ぼす物質であるという研究結果が出たと、そう載っていたものだから……兄さん、体調に変わりは……?」


そう、先日私たちが読み終えた毒物に関する書物に、その記載があったのだ。


「……何だって? 毒?」


陛下はロイさまが手に持っているパレットと、描きかけの肖像画を見て静かに仰った。

ロイさまは突然のことに、頭が追いついていなさそうだ。


「毒? この美しい白が毒だって?」


和やかだった場に緊張が走る。

サロンの面々はざわざわと驚きを口にした。

陛下はレオさまに問う。


「……レオ。この毒はどのような害を為すのか」

「その……まだ研究途中のようではありますが……咳や眼病、食欲不振、あとは気分の落ち込みや……頭痛だとか……――」


レオさまの言葉は、だんだんと小さくなっていった。陛下が近頃頭痛を訴えていることを知っているため、ロイさまに気を遣ったのだろう。


けれどレオさまの気遣いは無意味に終わり、アトリエ内に大きな音が響いた。

陛下が、キャンバスをスタンドから叩き落としたのだ。描きかけの肖像画は、その衝撃で無惨な姿になっている。


「――っふざけるなロイ! お前はこの私に、毒を浴びせ毒を塗っておったのか!」


陛下は怒号とともに、私たちを残してアトリエを出ていってしまった。

ロイさまはシルバーホワイトにこだわって、丁寧に鉛を砕いて色を作っていた。陛下はこの絵の進捗具合をこまめに覗きに来ていたというから、その際にこの色の粒子を吸い込んでしまった可能性はある。


ご兄弟二人の顔は青ざめ、サロンの面々はおろおろと、互いの顔と無惨なキャンバスを見やっている。メアリーさまは扇子で顔をお隠しになっていて、その表情は読めない。


ひとまずこの場の空気を変えなければと、私は室内の窓を大きく開けた。

風と共に入ってくる新鮮な空気を、大きく吸い込む。


「……たしか書物には大量の鉛を身体に取り入れることが良くないのだと、そう書いてあったように思います。いかがでしたでしょうか、レオさま」

「え? ああ……たしかにそのように書いてあったはずだ」

「ではこの場で鉛を吸い込んだくらいでは、お身体に症状はでないのではないかと存じます。私も以前この部屋を訪れたことがありますが、至って健康ですもの」


アトリエ内に新しい風が舞い込んだことで、少しばかり場の空気も柔らかくなった。

その隙にレオさまにこっそり耳打ちをして、この場を一旦収めたいただくようにお願いした。


「え、ええと……せっかくお集まりいただいて申し訳ないが、本日はここでお開きにさせていただきたく……後日改めてお詫びを遣わすということで……よろしいでしょうか、兄上?」

「え? あ、ああ……」


ロイさまはまだ心ここに在らずの様子で、レオさまの言にどうにかうなずいた。

サロンの面々は気まずさを隠しきれないまま、退室の口上を述べて部屋を後にしていく。

メアリーさまは変わらず扇子でお顔をお隠しになっているが、その手は少し震えているようだ。


さて……これからどうしよう。





――いけない、急がないと……。

アイリスお姉さまと話し込んでしまったから、陛下の元へ伺うのが遅くなってしまった。


髪を梳かして、ほんのりと紅をさす。


夕刻までメアリーさまの使いに出ていたから、私は今日の催しに参加できなかった。

お姉さまから聞くに、陛下はかなりご機嫌を損ねているみたい。ロイさまやレオさまがお部屋を訪れても、扉を開けてくれないほどだという。

今の陛下を癒すことができるのは、この私だけ。


「ふふっ」


鏡の中の自分を見ながら、思わず笑みがこぼれる。


ここで陛下の怒りを鎮めることができたなら、私の地位は更に向上するはず。メアリーさまやアイリスお姉さまどころか、ロイさまやレオさまだって私に一目置くはずだ。

私は侍女なんかで終わるつもりはない。陛下の愛妾になって、この国一の女になってみせる。


いつも以上にウエストを絞り、胸元を強調させる。


今日は特に頑張らないと。

陛下の横には私がいるのだと、みなに見せつけてやらなくちゃ。私という存在を無視できなくさせてみせる。


「――……やあ、いるかい?」


準備が整ったところで、コンコンと誰かが部屋のドアを叩く音がした。


この声はロイさま――……ああそうか、私に陛下との仲を取り持つように頼みに来たのだろう。

少しだけならお話をする時間はある。

私は扉を開けて、にこりと笑みを作った。


「こんばんは、ロイさま。どうなさったのですか? こんな夜更けに」

「やあ……今日の君は特に美しいね。僕のために着飾ってくれたなんて、嬉しいよ」

「えっ?」


ロイさまは言うなり部屋に押し入って、私に抱きついてきた。


「ちょ……――ロイさま……! いったいどうなさったのですか!」


慌てる私に構うことなく、ロイさまは訳のわからないことを口にしている。


「今日は散々だったんだ。でも嬉しいよ、君が僕に会いに来てくれて、癒してくれると言ってくれて……」


ロイさまからは、かなりのアルコール臭が漂っている。酩酊されているのだ。


「ロイさま、お気をたしかに。私はアンでございます」

「ははは、知っているさ。君だろう」


……どうしよう、今のロイさまには話が通じない。

ロイさまは腰を優しく抱きながら、麗しい指で私の髪から頬を撫でる。

酩酊しているのに、なんて優美な仕草だろう。


どうする? ここで流れに任せてしまう? ロイさまのお顔立ちは近くで見ても美しい。それに所作だって陛下とは全然違う。それにロイさまは第一王子なのだから、ここで寵愛を賜ればいずれ私は王の愛妾。でも今は現国王の愛妾という立場だし……ああでもロイさまのお顔立ち、やっぱり素敵。でもでも今日の出来事でロイさまは陛下のお怒りを賜ったというし、ロイさまのお立場はもしかして今危うかったりする? 妾に愛を捧げる余裕はあるのかしら。これが一度きりのお通いだとしたら? 陛下と違って若くて自由もあり見目麗しいロイさまは若い娘も選び放題だし、他に愛妾が何人いるかわからない。今だってもしかして私と誰かを間違えているのかも。国王になった途端お払い箱にされる可能性もあるし、そもそもメアリーさまに知られたらすぐに追い出されてしまう。隠し通せる? 私は大丈夫だけどロイさまは? 逆にお通いが頻繁になったとしても、それはそれで関係が明るみになってしまう確率が上がってしまう。もし陛下に知られてしまったとしたら……――。



『……陛下は嫉妬深いお方……――』



考えを巡らせる中で、いつかのアイリスお姉さまの言葉が頭の中に響く。


やっぱり駄目だ、流されては駄目。


もし陛下のお怒りをかってしまっては、今まで築き上げたものがなくなってしまう。ここはやんわりといなして、ロイさまとは良い距離感を保とう。

陛下だけではなく第一王子から愛を賜るなんてさすがは私だけれど、ロイさまとの関係は、後々ロイさまが国王になってから進展させるほうが間違いない。今は陛下という存在を盾にして、気持ちがないわけではないと暗にお伝えするに止めよう。


名残惜しいけれど、ロイさまの腕を押し返す。


「いけませんわロイさま。私、これから陛下の元へ参りませんと……ロイさまも、きっとメアリーさまがお待ちです」

「何を言っているんだ、君が僕を誘ったくせに。それに近頃メアリーは特に機嫌が悪いんだ、気分が悪いってね」


ロイさまはなかなか離れてくれない。

駄目だ、やんわりとした否定では断りきれない。


「本当……いけませんわ。今、私には陛下がおりますもの。どうかお手をお離しください」


ロイさまは私の話を聞いていないようで、私を抱きかかえたまま奥のベッドへと進んで行く。

困ったことになってしまった。私も抵抗するけれど、さすがに力では叶わない。それにロイさまの端正なお顔立ちが、逆らう気力をなくさせてしまう。


「いけませんロイさま、酔いをお醒ましになって!」


ベッドへ倒れ込んだ時、少し大きな声でそう言った。けれどこれはもう流れに任せるしか……――。

そう覚悟を決めたところで、ギギっと音がしてドアが開いた。


「――アン、いるの? 大きな声を出してどうかした? 入るわよ」


いつの間にかノックを聞き漏らしていたみたい。

開いたドアの方を見ると、硬直しているアイリスお姉さまと目が合った。


「アン……!? それにロイさま! 一体何をしているの!」


お姉さまは驚きながら目を見開いて、この状況を掴もうとしている。

……いけない、このままでは私の立場が危うくなってしまう。


急いでロイさまを押しやって起き上がり、乱れた髪を整えて釈明をする。


「違うわ……! 違うのお姉さま! ロイさまは酔ってらっしゃって……私はそんなつもりはなくて……どうしようもなくてっ……!」


お姉さまはこちらに駆け寄ってきて、慌てながらも優しく私を抱きしめた。ふんわりと、親しみのある柔らかな香りが私を包む。


「大丈夫……大丈夫よアン、落ち着いて」


そしてようやくベッドから起き上がったロイさまに質問した。


「ロイさま、これは一体どういうことでしょうか」

「やあアイリス妃……まいったな、こんなところを見られるなんて。どうしたもこうしたも見たままだよ、この娘が僕に気があるというものだから」

「ち、違うわ! ロイさまの方が部屋を訪れていらっしゃって……」

「何を言うんだ。君が部屋に来て欲しいと誘ってきたんじゃないか。君も悪い女だ、父上というものがありながら……まあ仕方ないさ、僕の前ではみなそうなる。初めて会った時から、君の熱い視線には気がついていたよ」


ロイさまは少し乱れた髪をかきあげながら、やれやれといった様子で仰った。


「そんな、違っ……」


助けを求めようとお姉さまを見ると、お姉さまは変わらず私を優しい眼差しで見ていた。


「恐れながらロイさま。アンはそのような娘ではございません。アンは今別の方を……陛下のことをただ一心にお慕いしておりますもの。ご様子から察しますに、今夜もずいぶんお酒を召し上がったのではございませんか? きっと深く酔っていらっしゃるのです。今夜のことは私たちの胸にしまっておきますので……どうかお部屋にお戻りくださいませ」

「お姉さま……」


お姉さまは、私のことを信じてくれている。相変わらず人を疑うことなく、運も欲もないお姉さま。

私が国一番の女に上り詰めた暁には、もっと取り立ててあげよう……。


「……全く、興が覚めたよ。今日はなんて酷い日だ」


ロイさまはため息をつきながら、やれやれと立ち上がって部屋の外へ出た。


「……お待ちになって、お部屋までお送りしますわ」


酩酊状態のご様子を気遣って、お姉さまは扉の外までロイさまを追いかける。


扉の外にはトレーを持ったメイドが控えていた。軽食とティーセットが乗っている。そうか、お姉さまは私にあれを陛下の元へ持っていくよう言付けに来たのだ。


「あっ、ロイさま! 大変っ……――!」


けれど二人が扉の外に出たと思ったら、ロイさまの身体が大きく揺れてメイドにぶつかった。

グラス類の割れる音が廊下に響き、夜分何事かと近くの部屋の扉が開く気配がする。


いけない、もし大事になって陛下のお耳に入ってしまったら……どうしよう、陛下が私の言い分を信じてくださらなかったら……先ほどした悪い想像がどんどん膨らんでいく。

ああどうしよう、どうしようどうしよう……――。





「何度もすまない……開けてもいいだろうか?」


ちょうど支度が整ったところで、再びレオさまがいらっしゃった。


「あらレオさま。もうお時間?」

「いやまだ時間はあるんだが、一人でいても緊張してしまって……そばにいても構わないだろうか?」

「ふふ、もちろんですわ」


扉を開けると、レオさまはいつになく緊張した面持ちだった。


「お気持ちが落ち着くように、温かい紅茶でもお入れしましょうか? それとも何か甘いものでも……」

「いや……どちらも不要だ。君の姿を見たら、なんだか緊張がどこかへいってしまったよ。今日は本当に、いつにもまして綺麗だ……! ああ、君も支度を手伝ってくれていたのかい?」


レオさまは隣に控えていたアンを見つけて礼を言った。


「とんでもございませんわ。王太子妃さまのお支度をお手伝いできたのですから、私のほうがお礼を申し上げなくては……何より私が今もこうしてお仕えできるのも、あの時レオさまとアイリスお姉さまが陛下にとりなしてくださったおかげですもの。本当に、なんとお礼を申し上げて良いのかわかりません」

「いやいや、僕は何も。礼ならアイリスに言ってくれたまえ。それにしても本当に……見違えたよ」

「アイリスお姉さまは素材を無駄にしているんですわ。お髪もお肌もお美しいのに、日頃は髪型やお化粧がおざなりなんですもの。コルセットだって、今日くらいはもっと締め上げたほうが良いのに……!」


アンは私の装いに納得がいっていないようで、あれこれと何か言っている。


あの日――ロイさまとアンの騒動は、結局陛下の知るところとなった。

ロイさまは一貫してアンのほうから誘ってきたのだと仰っていた。けれど、アンはそんなことはしていないと、私にはわかる。

私やレオさまのとりなしが、どれだけ陛下のお心に響いたかはわからない。日頃のロイさまの言動やあの時のご様子から、アンの言のほうをお信じになったのかもしれない。


毒を用いられた挙句に愛妾にまで手を出される……陛下のロイさまに対するお怒りは非常なものだった。

第一王子が王に毒を用い、王のものに手を出した……そのお怒りは当然であろうし、いくら息子とはいえ、これを罰しなければ王の沽券にかかわる。

一件を知るサロンの面々やメイドたちがいるために秘匿は出来ず、これを許せば王家の権威が揺るぎかねない。


そして――――陛下は大きなご決断なさった。


王家のしがらみや王という立場、これまでの出来事にこの国の行末、そしてご自身の嫉妬心、愛情、父性……。

陛下は思慮深いお方だから、きっと悩みぬかれたことだろう。そして様々なことをお考えになった末に、こう仰ったのだ。


王太子の位は第一王子ではなく第二王子に、と。


これはあの時の一件が決め手になったとはいえ、全ての積み重ねがあった上でのご決断だと思われる。

近頃のロイさまの深酒や式典での粗相、浪費癖に民からの評判、そしてレオさまの資質等々……全てを鑑みてのご判断だろう。


今日の式典にロイさまとメアリーさまのお姿はない。陛下によって、片田舎の別荘に蟄居を命じられているからだ。

聞くところによると、ロイさまは別荘地周辺の風景画を描いたり、新しい曲や詩を書いたりと、それなりに満喫をしているようではある。けれど、気がかりなことは……。


「……ねえレオさま。メアリーさまは、今頃どうしていらっしゃるかしら。あの辺りは、メアリーさまにとって楽しみも少ないんじゃないかしら」

「え? まあ……彼女にとっては、楽しい地ではないだろうね……」

「きっとお辛い日々をお過ごしですわ。周りに頼れる方もいない中でご出産に臨まなければならないなんて……もし……もう少し日が経って陛下のお気持ちが落ち着いたら……メアリーさまとお子さまだけでも、この城に呼び戻せないでしょうか? 陛下もお辛い決断をされましたけれど、メアリーさまの妊娠がもう少し早くにわかっていたら、きっともっと柔軟なご判断を下されたはずですわ」


私のレオさまへの提言を聞いたアンは、驚いて反対した。


「何を言うのお姉さま! あのメアリーさまに情けをかけるなんてっ……!」

「駄目よアン、前から言っているでしょう? どこにいても王家の方に対して敬意を持つようにと。ねえレオさま、あんな寂しいところでは気持ちも沈んでしまいます。メアリーさまのお身体に響かないか心配で……こちらに呼び戻せたなら、ゆくゆくはお子さまに良い家庭教師をつけて差し上げることもできます。あそこの地ではなかなか、優秀な教師も呼びづらいでしょう?」

「お姉さまは本当に……人が好すぎるわ!」


アンは呆れ返っているが、レオさまはにこりと微笑んでくれた。


「君は本当に人が好すぎるね。だがそんな君に、メアリー妃も救われることだろう。そうだね、もう少し落ち着いたら、ぜひ彼女をこちらに呼び戻そう」


ああ良かった、これで気がかりが少し減る。


「ありがとうございます、レオさま……!」


……それにしてもレオさまもアンも、二人して私をお人好しだなんて――……メアリーさまをこちらに呼び戻すのは、人質になっていただくために決まっているじゃないの。

お人好しはどちらのほうだか。


今でこそロイさまは表だった人望も人気も無くしたけれど、いつ王位継承者として担ぎ出されるかわかったものではない。お子さまが出来てしまったのなら尚更だ。

レオさまの立太子に納得していない、ロイさま派の王侯貴族はまだいるのだから。


メアリーさまとお子さまがこちらにいれば、城に反乱を起こしにくくなる。お子さまの教育についても、どうにかこちらで担いたいところだ。メアリーさまよりも、私に懐いてもらえるように。

少しでも可能性の芽を摘んで、レオさまの王位を盤石なものにしなくては。


メアリーさまはお美しくも気高く、生まれながらの妃だ。でもだからこそ、民の気持ちに疎くあられる。

半分庶民の血をひく私にあからさまに冷たくあたったら、民たちはどのように思うだろうか。民の多くは庶民なのに。


メアリーさまは、商人やメイドの前でも私への態度を崩さなかった。王家の内情について下々は興味津々だと、お気づきではなかったらしい。あんなにわかりやすい態度をとれば、国内に悪評が広まるのは必須だ。

それは国王陛下の耳にも入り、決断の後押しに一役買ったかもしれない。

メアリーさまの影が濃く長くなるほどに、私は一層輝ける。


メアリーさまに妊娠の兆候を見た時は焦ったけれど、強行策がうまくいって何よりだ。

ロイさまのお世継ぎが生まれてしまっていたら、陛下がご決断を下すことは難しかっただろう。


――きつく締めたコルセットに、普段はつけぬ白粉とつけぼくろ。

大丈夫、全てはもう処分済み。


レオさまがいつか言っていたように、私とアンは実は似ている。骨格や目鼻立ちが似ているのだ。幼い頃は双子に間違われたこともあったくらいに。


普段私たちは装いや振る舞いが異なっているから、似ている要素は見出しにくいだろう。

けれど今だって互いに装いや振る舞いを寄せたならば、双子とは言えないまでも、似ている姉妹くらいにはなる。近しい間柄でなければ、私たちを見間違えてしまうかもしれない。

それが酩酊状態であれば、なおのこと。


あの日――ロイさまは予想通りにかなり酩酊されていて、忍んで部屋を訪れた私をすっかりアンだと思い込んでいたっけ。そして私が誘ったままに、アンの部屋へと来てくれた。


お気の毒ではあるけれど、ロイさまにとっては別荘地での生活も悪くはないだろう。

絵画や画材の融通も今まで通りにしているし、ブランデーも欠かさず贈っている。


もっともブランデーに関しては、今までのものより度数を下げているけれど。

少しずつ中身の度数を上げていっていたから、最終的にはかなりの高度数になっていたはず。それをあんなに常飲していたら、依存状態になるのも不思議ではない。

度数を上げていっていたことも、そこから逆に元の度数に戻していっていたことも、気づかれなくて何よりだ。

居眠りや癇癪といったアルコール依存からくる症状も、改善していくと思われる。


そういえば、ロイさまは今もシルバーホワイトを使っているだろうか。それとも陛下に配慮して、もう他の白を使っているだろうか。

陛下の不調の原因はシルバーホワイトではないだろうけれど、うまく勘違いしてくださっているから。


あそこまで微量の鉛を吸い込んだくらいでは、あからさまな症状はでないはず。

きっと陛下に鉛中毒の症状が出た原因は、いつも飲まれているワインだ。甘みがあり心地よく酔えると好まれていたが、あのワインには甘みを出すために鉛が加えられている。

この国ではまだ鉛の害は知られていないから、知らずに多量摂取してしまうのも仕方ない。レオさまにも気づかれぬよう、ワイン関連のことが書かれている書物は取り寄せていないのだし。


父に頼んで特に鉛が多く含まれている銘柄のワインを贈ってもらってはいたけれど、目的は果たしたので別のものに変えてもらおう。

鉛を含まず陛下好みで最上のもの……どれが良いかしら。


陛下にはまだやっていただきたいことがある。

ロイさまにも、メアリーさまにも。

それまでは元気でいていただかないと。

みな私の予想の範囲内の言動をしてくださって、何ともありがたいことだ。


私は王太子妃に興味はない。私が欲しいのは、()()という位だけ。

せっかく女に生まれたからには、その頂を目指さずにいられようか。

そのために私は、レオさまをどこまでもお支えしよう。


私の夫がレオさまで良かった――もし私の前に立ちはだかるのがレオさまだったら、ここまで上手くはいかなかったかもしれない。

女遊びも深酒もせず、純粋でまっすぐで、時々すばらしい洞察力を発揮してしまわれるから。


さて……私がこの国一番の女になるために、まずは民衆の心をしっかり掴まなくては。今は相対的に支持されているだけなのだから。

民衆を思う気持ち、為政者たる資質、尊敬の念を集められる容姿。まずはこの辺りを示していかねば。

いつもは出過ぎないように伏し目がちにしているけれど、今日はぱっちり大きく目を開く。人目を惹きつけられるように。


「……ではレオさま、そろそろ向かいましょうか?」

「あ、ああ。そうしようか」


私たちは連れ立って部屋を後にした。


「そうだ……会場へ向かう前に、少しバルコニーへ寄ってもいいだろうか? 民たちが僕らを祝うために、早くから集まってくれているそうだ。待たせてばかりで申し訳ないものだから、感謝の意を示したいんだ」

「まあ……! さすがレオさまですわ。この国の民のことを、一番に考えていらっしゃる」


レオさまの仰る通り、城の庭園には多くの民が集まっている。新しい王太子と王太子妃を祝うために。

その気配はバルコニーの前に立つと、より一層強く感じられた。


メイドたちによってバルコニーの扉が開かれると、眩しい陽の光ととともに、大きな歓声が私たちを包む。

この私が、思わずたじろんでしまうくらいに。


「アイリス……みなが、こんなにたくさんの民が、僕らを祝ってくれているよ。共にこの国を、良い国にしていこう。これからも、僕を支えてくれるかい?」

「……ええ。もちろんですわ、王太子殿下。あなたをお支えすることが、私にとっての幸せですもの。私の夫があなたで良かったと、本当に、心からそう思います」

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