38.もう、ずっと痛い【ディア視点】
カーテンから光が差し込んできたのを確認して、朝になったのだと悟る。朝は好きだ。ミレリアに会えるから。
しばらくすると、リビングから音が聞こえてくるので、じっ耳を澄ましてみる。機嫌の良さそうな鼻歌だとか、時には「焦げたかな!?」なんて焦り気味の声が聞こえてくるのが微笑ましい。
たった今起きたフリをしてリビングへ向かうと、ちょうどオーブンからトレイを取り出しているミレリアがいた。
白いエプロンがふわりと揺れて、俺の方を振り返る。
「ディア、見てください! 今日のクロックムッシュはかなり、会心の出来です……!」
嬉しくて堪らない、といった様子でトレイを見せてくれるミレリア。
「……可愛い」
「え、何か言いましたか?」
「いや。美味しそうだなと思って」
「ですよね! 食べるの楽しみだな〜」
クロックムッシュ、という名前らしいパンを皿に盛り付けてくれているミレリアを見ながら、魔法で紅茶を入れる。
ミレリアがこの家に来てから、それほど長い時間が経ったわけではないのに、すっかりこの生活が当たり前になってしまった。
睡眠なんて必要ないのに、夜は布団に入る。ひたすら風の音を聴いたり、目を閉じて考え事をしながら、時間を潰す。朝になったらカーテンを開けて、意味もなく陽の光を浴びてみる。
フレミリア様がいた頃と同じ生活。まるで人間みたいな暮らし。
ベルに言わせると『健気』な生活は、ミレリアがやってきてから、意味のあるものに変わっていた。
いつから、ミレリアのことを考えない日がなくなったのかは分からない。それでも、きっかけに近いものは覚えている。
◆
ミレリアが襲われる、少し前のことだ。
彼女が家を出ていく日が近づいていることには気がついていた。寿命が長い分、ただでさえ時間の感覚が鈍い俺は、フレミリア様と出会った日を忘れないように標をつけて思い出せるようにしている。ちょうどその日の前日だったから、覚えていた。
ミレリアは、貸していた物置部屋を少しずつ片付け始めた。そして、作ってくれる料理が日に日に豪華で手のかかるものになっていく。まるで俺への餞別みたいに。
──────どうして出ていくんだろう。
ふと、そう思ったのが始まりだった。確かに、亜竜の繁殖期が終わるまでとは言ったけれど、ミレリアがもう少しここにいたいと言えば、いくらでも。
だって、そうだ。あのときとは状況が違う。友達になったのだ。俺は友達を追い出すような真似をするつもりはない。
彼女は、ここを出た後どこに行くつもりなのだろう。そういえば、行く宛も家族もいないと言っていた。それならずっとここにいればいいのに。
俺は毎日、ミレリアがもう少しここにいたいと言い出すことを祈り続けた。もしくは、出ていくと約束したこと自体忘れてしまえばいい。
最初は一日でも早く出て行って欲しいと思っていたのに、気がつけば、こんなことを考えてばかりいる。どんどんおかしくなっている。
せっせと部屋の掃除や荷物の整理をしているミレリアを、見つからないように窓の外から眺めたりして。重い荷物を運ぼうとしたら、たまたま部屋に来たフリをして代わりに運んでやった回数は五回を超えた。
「……俺は一体何をしているんだ」
よく分からないけれど、ミレリアが笑っているのが嬉しくて、何でもしてやりたくなる。
今だって、わざわざ人間のふりをして森の外へ行き、ミレリアが好きそうな食べ物を買ってきたところだ。
ずっと、どうすればここに残りたがるだろうかと考えている。我ながら意味がわからない。こんなはずじゃなかったのに。
買ってきたものに保存魔法をかけてキッチンへ置き、ぼんやりと窓の外を見ているフリをして、ミレリアが部屋から出てくるのを待つ。
しばらくすると、綺麗な紺色の髪を揺らしながら、上機嫌のミレリアがリビングへやって来た。
「あれ、ディア。ここにいたんですね」
「あぁ」
「そろそろお昼ご飯を……えっ! これどうしたんですか!?」
食べ物に気がついたミレリアが、ビックリした顔をして俺の方を見る。思わず口角が上がりそうになるのを抑えながら、冷静を装って返事をする。
「たまたま用があって外に行ったら売っていたから、ついでに買って来た」
「私、このチーズ大好きなんですよ! ありがとうございます! あれ。私がチーズ好きなの知ってたんですか? 言いましたっけ?」
言われていなくても、あんなに幸せそうな顔で食べていたら誰でも分かる。
「……偶然だ」
「えへへ。でも嬉しいです」
これ美味しいんですよ〜、とミレリアはニコニコ笑っている。心臓のあたりで、ズギュ、みたいな変な音が鳴った。
「本当は簡単にパスタとか作ろうかと思ってたんですけど、今日はこれでフォンデュパーティーにしちゃいましょう! ディア、大きめのお皿ってありましたっけ?」
「その上にある」
棚の上を指差すと、ミレリアはお礼を言ってパタパタとそちらへ向かった。魔法を使えば直ぐなのに、と思ったが、以前彼女に「手伝わないで欲しい」と言われたので、大人しく座って待つことにする。
便利すぎてここを出た時に弊害が出る、とか何とか言っていたが、それなら出ていかなければいいだけの話だと思う。俺がいないと生きていけなくなればいい。本人には言わないけれど。
「……取れそうか?」
「大丈夫です。あともうちょっと、で」
ミレリアの指が皿に届き、皿を動かした途端、奥の方に積まれていた調理器具が崩れたのが見えた。
「危ない!」
「……っ、え?」
魔法を発動している時間はない。
急いで、丸い皿を大事そうに抱き抱えていたミレリアの上に覆い被さる。俺の上に大量の調理器具が降って来たのは、すぐ後だった。
「ごっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか!? 怪我! 怪我してませんか!?」
「あぁ」
生憎、こんなもので怪我をするような貧弱な身体には産まれていない。肩や背中に乗っていた調理器具を振り払い、地面に落とす。
そんなことより、咄嗟にミレリアを庇えて良かったと思う。落ちてきた調理器具には角が鋭利で重みのある物も多い。きっと彼女の上にこれらが落ちていたら、それこそ怪我をしていたことだろう。
俺の身体にすっぽり収まり、上目遣いでこちらを見てくるミレリアは、ひたすら心配そうな顔でこちらを見ている。
うっすら涙が滲んでいるようにも見える。辛そうだ。俺の目には無事そうに見えたが、もしかすると怪我でもしたのだろうか。
「お前は平気だったか?」
「おかげで私は全然大丈夫です。っていうか、ディア! 怪我はないとしても痛かったですよね!?」
「……痛かった?」
「やっぱり痛いですよね。痛むところ、見せてください。もしかしたらディアが気づいていないだけで怪我しているかも。早く手当てしないと!」
「…………は?」
もしかして俺の心配をしているのか?
こんな、怪我する方が難しいようなことしか起こっていないのに?
自分より格段に丈夫だと分かっているはずの俺を、なぜ心配する必要がある?
ミレリアが何を言っているのか理解できなくて、眉を顰める。しかし、ミレリアは俺の様子を、どこかが痛んでいるのだと勘違いしたらしく、早く椅子に座るようにと促し始めた。
よく分からないまま椅子に座ると、ミレリアは俺の背後に周り、ペタペタと背中や頭を触って何やら確認をしている。
「よし、たんこぶは出来てないですね。怪我はなさそうで良かったです」
「……だから怪我なんてしていないと最初から言っている」
「それでも確認は大事です」
「……まぁ、これでお前の気が済んだならいい」
そう言って立ちあがろうとすると、ミレリアが頭を撫でてきた。今度は一体何なんだ。
「痛いの痛いの飛んでけ。……ちゃんと守ってくれて、ありがとうございます」
ミレリアは優しく俺の頭を撫で続ける。柔らかそうに見えて、案外硬い手が、ゆっくり頭を掠める。努力をしてきた人間の手だ。
髪の毛流れを乱される感覚は、ゾワゾワと背中を走るのに、不思議と嫌じゃない。
「……頭を撫でられる、のは」
「あ、ごめんなさい。嫌でした?」
「違う。……その、久しぶり、だったから」
覚えていないぐらい前に、フレミリア様に撫でてもらって以来だ。
よく分からない高揚感が背中を伝う。頭から背中まで同じ神経が通っていることを思い知らされる。
どうして自分より弱い人間に心配されて、頭を撫でられて、痛かっただろうなんて言われているのに、大事にされている、なんて。そんなことを思って、どうして涙が出そうになるのだろう。
「嫌、じゃない」
じわじわと目尻から液体が滲む。
「もっと、してもいい」
「いいんですか?」
「あぁ。もっと、」
こぼれ落ちそうになった言葉を、途中で止める。
自分でもおかしくなっているのは分かっている。それでも、優しい手で柔らかく撫でられたいと、どうしようとなく思ってしまって。
顔まで熱いから、そんな情けない姿を見られたくなくて、ミレリアから見えないように顔を俯けた。
「大丈夫ですよ」
「……何が」
「すぐ痛くなくなります」
もう、ずっと痛い。心臓が痛いんだ。
それなのに、ずっと、心地よくって堪らない。やっぱり何かの病気なのかもしれない。




