1、戦いの始まり
盆地は日が暮れるのが早い。ここに来てからそれなりに経つが、未だに私は時間感覚をつかめずにいる。
時計の短針は左上のあたりを指しているはずだが、もうすぐてっぺんに達する気がする。いや、もう越えたか?わからない。真後ろの壁にかかっている時計を、振り返って見る気力も出なかった。
だが、今日も夜遅くまでの残業なのは間違いない。ため息が出る。
職場の参謀事務室には、参謀やその部下の数だけのデスクが整然と並べられている。参謀のまとめ役の副司令の席と参謀長の席だけ独立して、それ以外は情報部や作戦部みたいな、部門ごとに机がまとめてある。そのうちの一つは私のデスクで、私はそこで作業をしていた。
いい加減に切り上げようかと思い、身体を伸ばすと、誰かが部屋に入ってきた。
「作戦参謀、お疲れ様」
入ってきたのは副旅団長の肩書きを持つ、リリー・ディルメースという、私の上官だ。階級は私と同じ中佐だが、彼女は私の所属する部隊の副司令官なので、立場的には上だ。それに年上だし、給料も私よりもらっている。
軍規に則り、金色のポニーテールを上に折ってまとめた髪型に、何より目立つのは横に突き出た耳だ。エルフの特徴たるその耳を見る度に、寝るのに苦労するのではないかとつい思ってしまう。おまけに身体がちっこい。小学生くらいの年齢に見えて、実年齢が60やそこらの人なのだから、種族の壁というのは恐ろしい。それでもまだエルフの中では若年なのだから、驚きだ。
服装は私と同じ、暗い場所では黒く見える程に明度の低い、紫色の士官用の制服だった。胸には階級からして平均的な数の略章が付いている。一周目の士官ならこんなものだろう。
「お疲れ様です」
私は席を立って、小さな上官にお辞儀をした。
それを横目に答礼を返したディルメースは、自席に座り、自分のデスクのパソコンの画面を見た。
「そろそろ休んだら?もう日付変わってるけど」
画面から視線を離さずにディルメースが言った。
「実はちょうど休もうかと」
「そう」
返事をしたディルメースは、机の上に置いてあった白いマグカップに口を付けた。中には湯気が立っているコーヒーが並々と入っている。部屋を出る前に、彼女が淹れていた物だった。
すると、コーヒーがまずかったのか、それを飲んだディルメースは吹き出しそうになった。
そのまま吐き出すかと思えば、どうにか必死に堪えて、飲み込んだ。
「酸っぱ……。何このコーヒー」
眉を顰め、片手で口を覆いながら、ディルメースが呟いた。やはりまずかったらしい。
「大丈夫ですか?」
聞くと、ディルメースは表情をそのままに、小刻みに首を横に振った。
「……もっとチョコレートとか、緑茶みたいな深みのある味のする物でしょう。コーヒーって」
「ああ……。多分それ、結構前の豆では?」
焙煎したコーヒー豆は、放置していると酸化して、酸っぱくなる。ましてや粉末のまま置いておくと数週間と持たない。せいぜい一週間やそこらだ。ディルメースは既に挽いてある状態の豆、もといコーヒーの粉末を貰っているので、それだけ味が落ちる速度が早いのだ。
「やっぱ私が淹れるとダメね……。コーヒーなら、やっぱあなたの淹れた奴の方がおいしいわ」
「ありがとうございます。ですが、私のレベルのコーヒーなら、気を遣えば誰でも出来る物なんですよ。私のなんて、店のに味も及ばないですし」
「いや、店のよりも美味しいわよ。程よい味の濃さだし」
「それは器具の問題です。私が使うのはコーヒープレスで、店のは大抵ドリップですから」
ディルメースは濃いめの味が好みな様で、彼女はコーヒープレスで淹れたコーヒーを好んで飲む。私は味のこだわりはあまりないが、手っ取り早いので、コーヒープレスで飲んでいる。
ドリップは淹れるのに少し時間がかかるが、コーヒープレスは挽いた豆さえあれば、即席ラーメンと同じノリで作れるのが強みである。粉とお湯を入れて、4分待てば出来上がりだ。
「まあ、いずれにせよ、こんな状況だと美味しいコーヒーが飲める店には行けないし、今度暇な時にでもお願いね」
「その前に暇な時を作ってくれたら、いくらでも作ってあげますよ」
そんな皮肉を言って、私は席を立った。丁度作業のキリが良いので、休憩室に行こう。
立ち上がる身体が重い。脚に必要以上の負荷がかかっている感じがした。私もそろそろカフェインを足さなければならないか。
「ああ、休憩に行く前に一つ聞かせて」
部屋を出ようとすると、ディルメースに呼び止められた。
「このコーヒーの味、どうすれば多少マシになるかだけ教えてくれない?」
酸味の強いコーヒーはディルメースは苦手らしい。それを残さずに飲もうとする神経は、流石はエルフのイメージ通りの質素な性格という感じだが、さて、どうすべきだろうか。
少し答えを迷っていると、ふと、誰かの飲みかけのホットミルクが目に入った。それで思いついた、というより思い出した。
「……ミルクか砂糖でも入れたらどうです?」
「ああ、味変ね。そりゃいいわ。ありがとう」
私は返事がてら片手を挙げて、部屋を出た。
休憩室に向けて歩いていると、副官のロイナス・イルメアン少佐がこちらに歩いてきていた。
彼女は私の部隊の長を務める人の「副官」、平たく言えば司令の秘書をしている人だ。ディルメースは「副司令官」にあたり、厳密な言い方をすれば「副旅団長」なので、役職が違う。企業で例えるなら、イルメアンは秘書で、ディルメースは副社長にあたる。
イルメアンは、副官として見た場合は、結構優秀な部類に入る人で、スケジュール管理の能力みたいな、秘書に要求される仕事は手際良く終わらせてしまう。私は多分、あの人はシャバでも秘書としてやっていけると思う。それくらいには優秀だ。
普段は落ち着いた、クールな雰囲気を漂わせているのだが、そんな彼女は、なぜかこの世の終わりみたいな顔をしていた。
「イルメアン少佐。お疲れ様」
声をかけると、イルメアンはこちらに走ってきた。
「作戦参謀、その、遂にあの国が……」
態度は平静を装いながらも、イルメアンの声は明確に震えていた。
その言葉を聞いて、私も察した。
「やったの?」
「……はい、ご明察の通りです」
「本当に?」
「前線部隊から報告がありました。間違いありません」
遂に始まった。戦争だ。とりあえず腕時計を見ると、時刻は日付を越えた午前1時を過ぎたくらいだった。あれ、もうこんな時間なのかと、開戦の知らせよりも時間の経過の早さの方に驚いた。
すると、外から花火の様な音が聞こえた。砲撃音にも聞こえるので、イルメアン共々咄嗟に身を屈めたが、建物が崩れる様子はなかった。
「……何事ですかね」
「開戦を祝う花火とか?」
そんな冗談を言いながら、私は恐る恐る窓から外を見た。
良くは見えなかったが、爆発音なのは確かだ。どこかで火事なのだろうかと見通しを立てつつ、見える範囲を見渡したが、特にどこかが燃えている様子もなかった。そもそも曇り空の夜だと、煙も見えにくい。窓から見ただけでは何が起きたのかは、よくわからなかった。
「……どうです?」
「良くわからないかな……」
窓の影から様子を伺っていると、また先程と同じ爆発音が聞こえた。すると、廊下を照らしていた照明が一瞬だけ消えて、また点いた。
窓から見ると、今度は異変に気がついた。先程まで灯されていた民家の明かりが、全て消えていたのだ。
ここは駐屯地で、曲がりなりにも軍事施設なので、非常用電源もある。先程の一瞬消えた電気は、非常用電源に切り替わったせいだろう。
「停電してる」
私が呟くと、イルメアンも様子を伺う様に外を見た。
「……本当ですね。やはりフラレシア軍が………」
「まさか、国境にも部隊はいるのよ?」
口ではそう言いつつも、私の頭は敵の潜入の可能性を否定できなかった。浸透、および突破。充分にあり得る。
「……とにかく、戻るわ」
「ええ、では」
私はイルメアンと別れて、参謀事務室に戻った。
参謀事務室では、まだディルメースが作業をしていた。彼女は事態を知らないのか、平然としている様子だった。
「ああ、作戦参謀。さっき一瞬、停電したでしょ。おかげで書きかけの書類のデータが飛んじゃったんだけど……」
「ええ、フラレシアがやってくれたんですよ」
私が言うと、ディルメースはこちらをジッと見た。目つきも変わっている。
「……どういうこと?」
「イルメアン少佐から報告を受けました。どうやらフラレシアがついに始めた様です。先程の停電はおそらく破壊工作かと」
この遠征軍の派遣されているアリスレークル共和国。その北方に、フラレシア社会共和国という国家がある。端的に言えば独裁国家で、その国家元首はエレマン・カートレという男である。野心的な領土拡大政策を推し進めている男だ。
その国は、かねてよりアリスレークル軍と我々が警戒している国家であった。領土問題も抱えており、いつかアリスレークルに攻めて来るのではないかと考えていた。そんな状況で、彼らが国境に兵力を集めつつあると言う情報が連日届いてきていた。
そして、実のところ、我々はアリスレークル人ではなく、シャルステル・ウェルス王国という国から来た軍人である。すなわち、アリスレークル人から見たらよそ者だ。
そんな我々が、なんでアリスレークルの為に戦おうとしているか。簡単に言えば、条約がそうなっているからだ。アリスレークルのために戦う事が、シャルステルのために戦う事になると言う。政府はアリスレークルの天然資源と引き換えに、我々の安全を売ったのだ。全く、面倒な話であるが、これも仕事だ。どうせ条約締結の際には、この地で戦争が発生するとは夢にも思っていなかったに違いない。
そういうわけで、私はアリスレークル共和国の北に位置する、盆地にある街、駐シャルステル王国軍ファルロン・エーレ駐屯地の、参謀事務室で勤務をしている。フラレシア軍が来た時、どうするか。それを延々と考えるのが私の仕事だ。
私の言葉を聞いたディルメースは、一瞬固まったかと思うと、事態を把握したのか、目を瞑って、深呼吸をした。
「……とりあえず、私は、要員の人を呼び戻すべきね。命令出してくる」
ディルメースは自分のやるべき事を声に出して確認してから、駆け足で部屋を出た。
ディルメースが出て行った扉から、横に視線をずらすと、部屋の壁の一面に扉付きの棚がある。そこには、様々な書類が詰まっている。一応、整理整頓はされているが、これ以上、紙を挟める状態ではなさそうだ。この中には民間人には見せられない書類も結構あるので、棚の戸全てに鍵穴がある。
私はその参謀事務室の棚から、自分や情報部の人が書いた資料をいくつか取り出し、コピー機にかけた。
私とて内心穏やかではなく、何もしないでいると落ち着かなかったのだ。
人数分の資料をコピー機で量産して、規則通りに機密事項のスタンプを押して、これから使う書類を用意する事で落ち着きを取り戻した私は、まず現状の把握をする事にした。
だが、ここで問題が起きた。デスクの電話がどこにも繋がらなかったのだ。
電話番号を押しても反応がない。それどころか外部にはどこにも繋がらなかった。内線だけは通じたので、おそらく外部へ通じる電話線が切られている。
どこのB級ホラー映画だよと心の中で悪態をつきながら、私は駐屯地の通信室に行き、駐屯地のアンテナから外部とやりとりをしようとした。
だが、これは一部が使えなくなっていた。当直の通信隊員は焦っていたが、私は思いの外、冷静だった。
駐屯地同士の様な、建物同士の通信には、指向性アンテナを用いた無線通信を使っている。通じなかったのは、前線部隊などの、指向性ではないアンテナを用いた通信を使っている部隊だ。部隊は移動する性質があるので、ジャミングに強い指向性アンテナを用いた通信は、こういう相手とは相性が悪い。
そして、その手の無線が通じないなら、敵にジャミングをされている可能性が高かった。ジャミングの電波が強く、何かを言っているのかどうかさえわからなかった。
こうなると周波数の変更が有用なのだが、試してみると、予備の周波数も封じられている様子だった。展開中の部隊は状況不明だが、ジャミングされている現状からすると、おそらく戦闘に巻き込まれているだろう。
ひとまず、私名義で、上位部隊の北方管区司令部に宛てた電報を送って、状況を知らせた。
――宛、北方管区司令部 発、第2旅団司令部
0117時、我が部隊が敵の電子攻撃に晒されている事を確認。フラレシア社会共和国軍との全面的な武力衝突に至った可能性が極めて高い。また駐屯地周辺にて破壊工作の兆候あり。現在、ファルロン・エーレ市内は停電中。警戒されたい。また、外務執政院などの関係各所の動静についての情報を要請する。
――第2旅団司令部作戦参謀 コアネ・レーリンツ
私の名義で電報にサインをして、北方管区司令部に送りつけた。これで、今の我々の状況が上官達の目に入るはずだ。
そんな感じの電報を関係各所に送りつけると、次はデータリンクから来るはずの状況を見に行った。
現代の軍隊の進歩は凄まじい物で、パソコンで検索するノリで状況の把握が出来る。偵察部隊が置いたカメラ一つから、様々な規模の友軍部隊の現在位置に至るまで、パソコン一つあれば完結出来る。
……そのはずなのだが、どうやらインターネット回線もやられた様だった。パソコンの設定画面を見ても、やはり圏外になっており、使えなさそうだった。
それを見て、私は先程の爆発音の正体に気がついた。インターネット回線の基地局がやられたのだ。
やられた。こうなっては完全に状況不明だ。敵はすぐにでも攻めてくるのだろうと判断し、私はディルメースを探した。
しばらくの捜索で、ディルメースは司令執務室で、書類を読んではサインをする作業を行っていたことが分かった。
「副旅団長、ここにいましたか」
私がそう言って部屋に入ると、ディルメースは誰が来たのか確認するため一瞬こちらを見てから、すぐに書類に視線を戻した。
「ああ、レーリンツ。何の用?」
「ある程度の情報が入ったのでお伝えをと思いまして。……旅団長はまだ?」
「ええ。不在だから私が聞くわよ」
旅団長は既に帰ってしまっていたか。すると、ディルメースがここにいる人の中で最も偉いという事になる。
ひとまず、私は先程用意した、フラレシア軍の基本情報をまとめた書類の束を、ディルメースが作業している机の隅にそっと置いた。
「基本情報です。後ほどご覧下さい」
「ええ。ありがとう」
書類に向けた視線をそのままに、ディルメースはお礼を言った。随分と忙しそうだ。彼女にも余裕がない様子が見て取れる。
「では、口頭で報告します。先程の爆発音は、おそらく敵の潜入部隊が引き起こした破壊工作による物だと推測されます。これによりデータリンクシステムにアクセスが不可能になっているのと、外部と電話が繋がらなくなっています。電話線までやられた可能性があります。あと、敵は大規模なEA(電子攻撃)をこちらに実施しています。具体的な規模は不明ですが、最低でも、ここは指向性アンテナを用いた通信以外はダメそうです。また、これにより前線部隊は状況不明です。あと、方面管区司令部には一応、私名義で第一報を入れておきました。現状は、この程度かと」
「本国や管区司令部は何て?」
「私のところにはまだ何も」
「アリスレークル軍も?」
「同様です」
質問に対して答えてというやり取りをしていると、ディルメースがこちらを見た。緊張している様に感じた。状況を理解したのだろう。
「……近傍の基地はどこだったかしら」
「アリスレークル軍ファルロン・エーレ駐屯地が最寄りですが、外部となると、グラーツル駐屯地でしょうか。シャルステル軍に限ると、ゾラニーラが最寄りです」
ディルメースが慌てているのを汲んで、私はそう答えた。
ちなみにグラーツルは40km近く、ゾラニーラは市街地まで行ったら100kmを超える。それもここが盆地なのを考慮すると、かなりの距離だ。歩いて支援を乞うことは、基本的に無理だと思うべきだろう。
ディルメースはそれを聞くと、持っていたペンを机の上に置き、腕を組んで、ぶつぶつと聞き取れない声を呟きながら、俯き、何かを考え始めた。
「……それで、我々がターゲットという事で良いのよね?」
かと思えば、彼女はいきなりこちらを見た。
「断言は出来ませんが、敵が我々か、最低でも前線部隊の孤立を企図している事は想像がつきます」
何せ通信の妨害は、一時的な効果しかない。普通は攻撃側が攻勢に出る際に、今我々がされている様な、指揮系統や部隊同士の連携の一時的な分断を図って行う物であり、継続的な妨害のためにする物ではない。今頃、前線部隊はフラレシア軍の餌食になっている事だろう。どうにも落ち着かない。
「……もどかしいわね。どうする?」
ディルメースは私の目を見て、はっきりと聞いた。
「まずは出ている人を呼び戻すのが先決だと思われます。司令部も、私と副旅団長と、当直の人以外居ませんので……」
「その手続きはさっきしたわよ。最低でも寮の人には非常呼集をかけたから、もうすぐある程度の人手は揃うはずだし、上級司令部経由で旅団長にもお呼び出しがかかっている頃だと思うわ」
「それなら、今後の方針の案出でしょうか」
そう言うと、ディルメースは大きく深呼吸をした。
「……どうするの?作戦参謀」
「まずは、前線部隊は撤退させるか、遅滞防御で時間を稼ぐ方法が取れます」
「まずは今ここら近辺に潜んでいる隠密工作部隊じゃない?ここすらやられたらまずいわよ」
「それは大した問題にはならないかと思われます。敵が我々を狙っていたなら既にここも無事ではないでしょうし、そもそもここの警備に正面から挑んだところで、工作部隊程度の戦力ではたかが知れています。おそらく既に撤退に入っている可能性が高いかと」
隠密工作部隊であるなら、人数的には少数だ。そしてその手の連中は決まって精鋭部隊だ。そんな奴らは決まって身の程を弁えているので、安易に蜂の巣を叩く様な真似をするとは思えない。駐屯地に対する攻撃をするのなら、もっと大規模な部隊がいなければならないが、それなら我が軍の警戒網に絶対に引っかかる。自信を持ってそう言えた。
その一方で、ディルメースはこれくらいの考えが及ばないくらいには慌てている事を、私は察してしまった。察したくはなかったが。まずい。これでは私がしっかりしなくてはならない。
「なら、どう後退させるの?」
「前線に増援を送り、その増援に支援をさせつつ、前線部隊の全てを以って撤退するか、交互に防御戦闘を展開します。これが確実でしょう」
提案したが、ディルメースは不安げな面持ちだった。
「前線部隊はまだ大丈夫なのかしら?」
「統制を保てているかはわかりませんが、生き残りは絶対にいます」
生き残りの兵士を見捨てると、碌なことにはならない。人間的にもまずいし、何より部下達が見捨てられる恐怖に駆られて、極端な行動に出る恐れがある。だから、部下を見捨てる事は、上官が絶対にやってはならない事として教えられる。最低でも見捨てていないという体裁は保たないと、今度は自分が部下に見捨てられる事になる。
「……それで、増援はどれほど送るわけ?」
「最低でも、1個大隊に、諸兵科連合を組ませた物を送るべきだと思います。何が起こっているかわからない以上、様々な状況に対応できる装備が必要でしょう」
「……指揮は誰がやる?」
「規模的に、大隊長は責任が負える階級かは微妙ですね」
「なら、旅団長クラスになるかしら?」
「もし旅団長が無事なら、その方がよろしいかと」
「……とにかく、その方針でいくから、作戦案を練っておいて。用意が出来た部隊から前線に送っていくから、急いでね」
「わかりました。では、他に何もない様でしたらこれで」
「お願いね」
私はお辞儀の敬礼をしてから部屋を出て、参謀事務室に行った。
参謀事務室の自席に座ると、私はパソコンを立ち上げる傍ら、室内に保管されている資料を漁った。前線にどれほどの部隊が取り残されているのかを把握するためだった。作戦を立てるにしても、ある程度でも兵力がわからなければ話にならない。
そして、この調査に意外と苦労した。部隊が前線に展開し始めたのがかなり前の話で、それから兵力の増減を探らなければならなかった。人事記録も見なければならない。
その事に気がついた時点で、大体の人数で調査を切り上げる事にして、資料を軽く見た。まとめると、前線に展開されている兵力は、2個魔装歩兵大隊(8個魔装歩兵中隊)、2個偵察中隊、2個機甲中隊に、1個砲兵中隊などからなる諸兵科連合戦闘団で、兵員数的には2000人余りで、後方要員も含めると3000人行かない程度の人数がいるはずだ。
一方、こちらにも同程度の人数がおり、敵の兵力と味方の損害次第ではあるが、撤退作戦自体は、成功させられると思う。
後、気になったのは、やはり敵情だ。情報部が昨晩まとめた報告書があったので、それを見た。
敵の規模は、半年前から昨日に至るまでは集結段階であるとされていたが、昨日の段階で、2個旅団から1個師団程度。編成的には機械化歩兵旅団が2つから、師団規模になった諸兵科連合部隊で、下手するともう少し多い可能性もある。これが本隊だが、問題はその内のどれほどがファルロン・エーレ方面に投入されているかだ。
兵力自体も圧倒的な物なので、我々だけでは太刀打ち出来ないのが現状だ。比率で言うと、敵方が我々の2〜4倍程度の兵数を持っている事になる。防御の目安は3倍の兵力差なので、我々が取るべき行動は必然的に撤退というか、後退となる。
それをわかってはいたので、後退する事を企図した作戦計画は立てていたが、いずれの計画も前線部隊の状況が判然としない今、下手に使える物でもなかった。
遅滞にしろ撤退にしろ、これらの行動は、上手くやるのが難しい部類に入る戦術行動だ。
遅滞の場合は一応訓練はしてある。だが、上手くできるかどうかはわからない。綿密な調整、練度、敵との兵力差や、それに関する情報の共有。未知数な部分はいくらでもある。だが撤退よりはマシだ。
撤退の場合も確実に収容の手立てを講じて、作戦遂行中にも発生するはずの負傷者をいかに収容するか、またいかに敵から早く離れるかなど、考える事は多くあるが、一番難しいのは、殿の部隊が撤退に移るタイミングだ。これが難しい。こちらが逃げ腰だとわかれば、敵は一気に追撃に来る。早すぎればバレるし、遅すぎては逃げられないレベルまで壊滅してしまっている。いずれにしても、そうなってはもう失敗だ。
我々の目的は、前線部隊をこのファルロン・エーレの地に無事に帰す事だ。まず、作戦立案ではそれを念頭におかないといけないので、部隊が取るべき行動は遅滞になる。
それに、作戦地域の地形も重要な要素だ。一応、我々は陸上戦力を率いる身であるのだから、地形も考慮した作戦を立てなければならない。
地形としては、ファルロン・エーレは盆地に位置する。その近辺も山間で、今回の戦場と想定される、ファルロン・エーレより北にある国境地帯も、ほとんどは山岳だが、本隊はその付近にある盆地に展開していた。ファルロン・エーレとその盆地は何本かの山間隘路で繋がれているのみで、その隘路は一本を除いた全てがトンネルを通る必要がある。撤退経路はそこになる。
トンネルは、通る部隊がいなくなり次第工兵に塞いでもらうとして、残る隘路は一本だ。殿にあたる部隊は敵をトンネルに行かせないように誘引しつつ、そこから引いてもらう事になる。こればかりはどうしようもないので、その部隊に防御なり遅滞なりを頼むしか無い。
そこの進行としては、隘路を後方にした防御から始まり、遅滞戦闘を始め、陣地ができるまでの時間を稼いで、このファルロン・エーレまで帰る。至極単純な内容だった。この際、意図に気がついた敵に、我々を撃破させない事。これが重要だ。
敵の出鼻を挫くには、ロケット砲部隊が有用だ。圧倒的な弾幕で面制圧能力に長けるロケット砲部隊が、今回の作戦の鍵を握る事になる。ロケットの雨は固まっている敵歩兵や、攻勢準備射撃、または敵の攻勢発起の段階に効果を発揮する。今回の作戦には最適な戦力であった。タイミングが難しいが、殿の撤退の開始に合わせて、敵が追撃に移ろうとしたところに、ロケットを撃ち込む。これしかないだろう。
シャルステル軍には、「エルスミュール」という、炎の魔法を用いた事で有名な大魔法使いの名家の愛称を持つ自走ロケット砲、L84-ARという物がある。こいつは20発のロケットを同時に発射する事ができるロケット砲で、うちの旅団には5両だけ配備されている。これを全て使わせてもらおう。
後は、憂慮すべき敵の戦力。今回は敵砲兵部隊と隠密工作部隊だ。それに、制空権がない上に、今頃ジャミングで機能していないであろう防空システムはアテにならないので、攻撃機も警戒する必要がある。後は空挺降下やヘリボーンもだ。いずれも作戦の要であるロケット砲部隊の脅威になる敵だ。
攻撃機と空挺、ヘリボーンは対空戦車を持って行けば解決だが、敵砲兵は味方砲兵に対砲兵攻撃をやってもらうしかないだろう。こちらも隠密工作部隊を送り込む方法もあるが、それだと後退のタイミングについて行けず、取り残される恐れがあった。賭けではあるのだが、それしかないと思う。最低でも妨害くらいはしてもらえれば、役には立った事になる。
問題は敵の隠密工作部隊だ。これはロケット砲近辺の警備に人手を割く以外の方法が思いつかない。手持ちの爆薬が尽きている事を祈るばかりだ。
ロケット砲近辺はこれでクリア。すると後は殿だが、どれほどの兵力にすべきだろうか。これは敵の前線展開戦力によるので、とりあえず司令の判断によるとしておいた。
殿の兵力の具体的な配置、配分は定石に従って均等に配置するとして、作戦の資料を書き上げる頃には夜明けになっていた。
現在時刻は午前5時過ぎ。あれから攻撃らしい攻撃はないが、大丈夫だろうか。
ディスプレイから目を離すと、いつの間にか、後方参謀の、フェリア・ノーレリアン中佐が自分のデスクに戻ってきていた事に気がついた。昨日の晩と今日の朝は、彼女が当直だった。
階級は私と同じ中佐だが、序列では私の方が少し上だった。軍隊は同じ階級の中でも、その中でどれほど偉いかどうかまで事細かに決められており、基本的にそれは士官学校などでの成績や勤続年数、人事評価などで序列が決められる。それで座る席も決まってしまう。ディルメースが言っていたが、こういうところは昔から変わらないのだそうだ。
長い黒髪をお団子にして、縁のあるメガネをかけている彼女の役目は、広報や避難誘導計画の立案など、地元住民の関わるあれこれが主な仕事だった。一応、住民の状況も聞いておいた方が良いだろう。
「ああ、後方参謀。いつの間に」
そう話しかけると、ノーレリアンは一瞬、ディスプレイの隙間から私を見てから、作業に戻った。
「……随分、集中してたみたいですね」
「そんな前からいた?」
「結構前からいましたよ」
「それは失礼」
口先ではそう言いつつも、別に申し訳なさは感じなかった。
「それで、ちょっと避難状況について聞きたいんだけど」
「ああ、それですか……」
ノーレリアンはそんな乾いた返事をして、机の上に置いてあったボトル内の水を一口飲んだ。
「……やはり、呼びかけに応じられない人が多いみたいです」
一応、数ヶ月程前から国境がきな臭い雰囲気になってから、アリスレークル軍を中心に我々も避難の呼びかけを行い、避難の手伝いまでしたが、実感が湧かない人が多かったのか、様々な事情で避難に応じられない旨の態度を示している者が意外と多くいた。
それでも、命には代えられないと思うのだが、戦争を経験していない者はそういう思考に至るのが普通なのかもしれない。
そんな状況を参謀の中で一番知っているノーレリアンは、複雑な表情をしていた。何せ逃げてほしいのが本音だが、本人の意思で逃げないのだ。個人の意思は尊重されるべき物だと叫ばれる昨今では、無理に後方に連行する事もできない。
「……そう。ありがとう」
私はお礼だけ言って、作業に戻った。
ノーレリアンの気持ちはわかる。おそらく彼女もそういった住民も含めて救いたいと考えているのだ。優しい考えの持ち主は、そう考えるのだ。
私はどうかと言われると、微妙な気持ちである、という認識が近いと思う。
因果応報と言うこともできるが、やはりどんな人であれ、目の前で死なれたり、誰かが悲しんだりしている姿は、見ていて快いものではない。例えそれが自分の意思であったとしても、わざわざ私の認識できる範囲内でやらなくても良いだろうと思う。
それは迷惑極まりないのでやめてほしいが、そんなところまで考えが及んではいないのだろう。人の気も知らないでと思うが、私が逆の立場になったとき、関係するであろう人すべてに対する考えが及ぶのだろうか?と考えると、おそらく無理だろうとも思う。
そんな矛盾というか、葛藤と表現すべき心理であった。どちらの言い分も正しいが、どちらも満足させることはできないのだ。
作業を進めていると、やがて副旅団長のディルメースが私のところに様子を見に来た。
「作戦参謀、どう?作戦案の様子は」
「大枠だけはどうにかできました。こんな感じでどうでしょうか」
そう言って、私は印刷した作戦案をディルメースに手渡すと、彼女はじっくりと読み始めた。
こうなると少し時間がかかるので、私はディルメースが書類を読み終えるまで、作業を再開した。
「……まあ、良いと思うけど」
読み終えると、ディルメースはそんな感想を言った。煮え切らない感想だと思った。
「けど、なんです?」
曖昧な点は正さなければならない。少し失礼かと思いつつも、私はディルメースに聞き返した。
「ああいや、作戦案に問題は無いけれど……ぶっちゃけ、これに自信はある?」
「なければ作戦案として書きません。気に入らない点があるなら直しますが」
一応念押しをしておきつつ、率直な意見を述べた。すると、ディルメースは考える素振りを見せた。判断を躊躇っている様にも見える。
おそらく、彼女も隠してはいるが、不安なのかもしれない。気持ちはわかる。だが、今の指揮官は彼女だ。しっかりしてもらわねば困る。
ディルメースに判断を急かすタイミングを図っていると、彼女が先に口を開いた。
「……いや、私としてもこれで大丈夫だと思うから、方針はこれでお願い」
ディルメースはそう言って、作戦案の書類にサインをして、渡してきた。
「わかりました」
私は書類を受け取って、そのままコピー機にかけて、必要分の書類を刷った。
ディルメースは不安げにそれを見ていたが、止められてはいないので作業を続けた。
判断が怖いというのは私にもわかる。人という物は元来保守的な物であり、出来るだけ選択を逃れようとする生き物だ。だが、戦場ではとにかく選択をしないと、こちらがやられてしまう。「未来の事は考えるな。過去の事も考えるな。今だけを見るのだ」という箴言や、「遠くを見据えようとするな。振り返るな。ただ前を見るのだ」という名言を思い出す。
とはいえ、あまりにも目に余る態度だったので、少し言う事にした。ストレートに言っても良かったが、ここでは他の人の目もあるので、遠回しに言う事にした。
「副旅団長。……撤回するなら今ですよ」
「大丈夫よ。本当に……これで大丈夫だから……」
その発言は、まるで自分が正気である事を言い聞かせているかの様にも聞こえるニュアンスだった。
「……副旅団長、ご存知ですか?」
「何が?」
ディルメースは怪訝な顔をした。声色的にはうざったい感じが伝わってきたが、それは不安の裏返しにも見えた。
「兵士を扱った作品では、皆、何かしらのものに縋っているんですよ」
「そう」
興味なさげだったが、私は勝手に続けた。
「古来より、こんな恐ろしい戦場では、誰しもが恐怖を覚えるものですし、不安を抱くものです。ですから、何か縋るものが必要になる様で、やはり昔の人も様々な物に縋っていた様です。それは神かもしれませんし、聖書かもしれませんし、お気に入りの物語かもしれません。あるいは、恋人や、戦友や、部下や、他の何か、誰かかもしれません。副旅団長には、何かあったりします?そういう何かが」
「……そういうあなたは、何かあるの?」
少し興味が沸いたみたいだ。私はデスクの上に置いてある本のうち、何冊かを手に持って見せた。
「……確かな知識に縋るのみです」
「……なるほどね。流石は先生」
「どこで聞いたんですか。それ」
いきなり士官学校の頃のあだ名を出されたので、少し驚いた。期別的にはかなり上のディルメースが、私の士官学校時代を知っているわけがないはずだが。
「記録にあったわよ?それにあなたの同期も『先生』とか『コアネ先生』って言ってた人が居たし」
少し困惑したが、そんな昔の話を引きずっている人がいて、しかも人事評価にも書かれているのか。なんだか複雑な心境だった。
「そうですか……。まあ、でも、読書などは気が紛れますから、気が向いた時に誰かから借りてみるのも良いかもしれませんね」
「まあ、ありがとう」
態度は素っ気なかったが、私の意図は伝わっていたのか、お礼を言われた。いや、どうせ伝わってはいないが、気晴らしでもしてもらえればこっちは助かる。
会話を終えると、ディルメースは部屋を出て、どこかに行ってしまった。
私もコピーが終わり次第、関係部隊との調整をしなければならない。これから忙しくなりそうだ。
しばらく調整をしつつ、その合間に暇を見つけて、私は陸上迷彩の作業服に着替えた。
作戦立案のため、同僚のレテシア・ウェステーリスという、我が部隊の情報参謀と話しに、情報分析をしている部屋に来ていた。階級は私の1個下の少佐だが、年齢的に近いため懇意にしている。
早速、彼女がいる会議室に入ると、ウェステーリスは椅子に座って何かの書類を読んでいた。
ウェステーリスのよく手入れされた焦茶色の髪は、長いので団子にまとめてある。解くと背中に達する長さだ。普段の勤務中は邪魔になるし、軍規的にもよろしくないので、団子にしている。その点、ショートヘアは気楽で良い。洗いやすいという利点もある。
「あら、レーリンツ中佐。ご機嫌よう」
ウェステーリスは相変わらず、上流階級のアクセントが抜けない様で、私の入室に気がつくと、席を立って敬礼をしながら、そんなお上品な口調で挨拶をしてきた。実際、ウェステーリスという家系は魔術の名家だったはずだ。分かる人には分かる程度の知名度だが、専門的な内容の歴史書には名前が出る程度の家柄の末裔だ。
「お疲れ様。大丈夫だった?」
「それはこっちのセリフですわよ。ここが攻撃されなくてよかったですわね」
「全くね。それより、状況を確認したいのだけれど」
聞くと、ウェステーリスの表情が一気に曇り、困った様子で頭を掻いた。
「……まあ、事が起こったのは確かですわね」
ウェステーリスが一瞬言い淀んだ様子を見せた事で、大方察しがついた。情報分析を担う彼女でさえ、大した情報は持っていなさそうだ。
「他には?」
「あいにく、通信が落ちたせいでわたくしの仕事も捗りませんの」
ウェステーリスは気まずそうに言った。
「やっぱりそうなのね」
情報担当すらその程度の情報しか持っていないのなら、ここにいても得られる情報はなさそうだ。いっそのこと、自分らが前線に出た方が良い様に思える。
「とは言え、全てではありませんわよ?」
そう言いながら、ウェステーリスは、書類で散らかった机を探り、その上に置いてあった書類の何枚かを手に取って、私に差し出して来た。
受け取って見ると、国境付近の部隊と、こことの通信履歴が書かれた書類だった。
これによると、最低でもつい1時間ほど前に敵から奇襲攻撃を受けて、味方が応戦している程度の事は理解できた。それ以外の事は混乱している様で、同じ部隊の事を書いているはずなのに、「潰走した」という報告と「応戦中」という報告があるなど、矛盾した情報ばかりなため、あまりアテには出来ない。
「前線とは通じるのね」
「そうですわね。これらの報告は一応有線ですし。ただ、混乱しているみたいですから、あまりアテにはなりませんけれど」
ウェステーリスはため息を吐きながら言う。それは書類を見ていると察しがつくが、実際のところ、現場はどうなのだろう。無線があの様子なら、前線部隊もまずくないだろうか。
いずれにせよ、彼女の部下の姿が見えないあたり、おそらく詳細な情報分析は、まだ行われていないだろう。
これ以上、ここで得られる物も無さそうなので、私は部屋を出ることにした。
「……まあ、状況はわかったわ。ありがとう」
「ええ。では」
短く挨拶を交わし、私は部屋を後にした。
さて、わからないのでは仕方がない。わからないなりに作戦を立てなければならない。私は参謀事務室に戻って、作業を再開した。
後は一連の戦闘中や、戦闘が終わった後の兵站状況を探らなければならない。どれほど補給ができるか、補給できたらどの程度かなど、考えることは結構ある。正直、兵站参謀がいない中で探るのはかなり煩雑な作業に思えたが、来ていない以上は仕方ないし、どうしようもない。
「レーリンツ中佐、遅くなりました!」
一人で作業を続けていると、誰かが声をかけてきた。見ると、背後に私の部下の一人が立っていた。テトーナル・リファレールというドラゴニュートだ。
一般的に、ドラゴニュートは体格が大きく、素で怪力を発する種族だ。白いツノと、コウモリの様な角張った翼が生えており、身体の一部は拳銃弾を弾くほど硬い鱗に覆われている。人間と龍の混合種と言われているが、実際のところは不明だ。
性格もそれに従い、大らかで豪胆だとされるが、リファレールの場合は例外で、随分と自信がない性格をしている。気弱でもあるので、すぐに誰かに気圧されてしまう。交渉や意見具申みたいな、相手に物申す系が出来ないクチの奴だ。
「ああ、来たのね。とりあえず、座ったら?」
リファレールを見ながらそう言ってみたが、彼女は戸惑うだけだった。
「ええと……今、どういう状況ですか?」
「司令が不在だから、副司令の命令に従って、ここの部隊を前線に移動して、前線部隊を後退させる準備。司令が来たらすぐにでも移動できる様に」
私がリファレールの質問に答えると、ようやく座ってくれた。最近の子はどうして座るのを躊躇うのだろうか。
「司令は今どこに?」
こんな時に司令がいないのが不満なのか、リファレールは少し不機嫌そうな、不安そうとも取れる口調で聞いて来た。そんなの私が聞きたいけれど、だからと言って部下に当たるのはよろしくないので、あくまでも理性的に振る舞った。
「寮じゃない?まあ、時間も遅かったし、仕方ないわよ」
一応、司令に対するフォローも入れつつ答えたが、リファレールは不安げな様子だった。
「……それで、その後退の後の行動はなんです?」
リファレールは私を見ながら聞いてくると、私はホワイトボードに貼ってある地図に視線を移した。2万5千分の1スケールの地形図は結構な大きさなので、室内でも随分と存在感を示している。
「状況次第だけど、方針としては防御かな。援軍が来ないことには何も出来ないと思う」
「そんなに敵は強いんですか?」
リファレールも地図を見つめながら、聞いて来た。
「強いというか、多いのよね」
私は手元に置いてあった、左上にステープラーで留められた紙の束を手にした。表紙にタイトルとウェステーリスのサインが書かれ、機密事項である事を示すスタンプが押された、敵の編成が書かれた資料だ。紙を捲っていき、所定のページを探した。
「ありゃ、どこだっけ……」
リファレールに見せるべきページを見つけるまで時間がかかりそうだったので、先に口頭で説明をする事にした。
「……まあいいや。多分だけど、敵の主力が機械化歩兵基幹の旅団なのよ。それに歩兵旅団やら何やらが合わさって、師団か、下手したら軍団規模になってる。兵数だけで言うと2〜4倍ってところかな」
ページを行ったり来たりしていると、ようやく目当てのページに辿り着いたので、そこを見せる様に、リファレールのところに差し出した。
「ああ、これこれ。編成の上では、当面の敵はこいつらね。この一部が写真に撮られてて、フラレシアの領内を行き来するトラックとかの量からしても結構な部隊がいるのは間違いない」
そう言って見せると、リファレールは書類を受け取り、不安げな顔で見つめた。
「……勝ち目はあるんですか?」
「だから逃げるんでしょ」
敵との技術格差はさほどない。こちらに多少の優位がある程度だし、相手は仮にも正規軍なので、ゲリラを相手するのと訳が違う。制空権は不明。空軍の情報が入ってこない以上はどうしようもないが、見積りを見る限りは、おそらくは芳しくはないのだろう。兵数優位と主導権も敵方だし、ジャミングやサイバー攻撃も受けているし、こちらが対抗策を講じているのかどうかさえ怪しい。確実に勝っていると言えるのは海上戦力だけではないだろうか。
しばらく、部屋には秒針の音だけが虚しく響き渡っていた。戸惑うリファレールと、次にどういう質問が出てくるかを伺う私。いたずらに時間だけが過ぎていった。
質問が無いようなので、私は隷下部隊に持っていくべき命令書のうち、既に完成していた一つの束をリファレールに手渡した。
「じゃあこれ、隷下の部隊長の人達に渡しといて」
リファレールは不安そうだったが、それを受け取って、立ち上がった。
「では、持っていきます」
「ええ。お願いね」
私が言うと、リファレールは敬礼をして、部屋を出て行った。
それからしばらくすると、もう一人、誰かが部屋に入ってきた。ちょうど、私が命令書の用意を終えたところだった。
入ってきたのは、リファレールじゃない、もう一人の私の部下。メリーナ・ロネリースという人だ。目が開いているのか閉じているのかわからない程細いのが特徴だ。それと、よくボケる。無意識のうちに喧嘩を売る様な奴で、よく言えば天然、悪く言えば厄介者でもある。私としては、個性の強い部下が持てて、毎日退屈せずに済んでいるのが幸いだろうか。
そんな彼女は、実は意外と頭が良い。歴史が得意なのだそうで、戦史の成績はかなり良かったそうだった。
「お疲れ様ですー」
南西の方の訛りが抜けきらない口調で声を掛けてきた、航空迷彩の明るい灰色の作業着を着ているロネリースは、到着早々、自分の机に、持っていたバッグを放り投げた。
「あら、意外と早かった」
私が感想を言うと、ロネリースは慌てた様子で、私の方に勢いよく体を向けた。ロネリースのショートのくせっ毛の金髪が、遠心力でふわっと舞う。これを見る度に触り心地の良さそうな髪質だと思ってしまう。
「メリーナ・ロネリース。ただいま戻りましたー」
そう言って、ロネリースは帽子のつばに触れるように、挙手の敬礼をした。少しタイミングが遅い。私はともかく、他の上官に対してこういう態度だと、何か言われかねないので、私からも少し言っておく事にした。これも仕事だ。
「はい。お疲れ様。入室の際に敬礼じゃなかったっけ?」
私もお辞儀の敬礼を返しながら、そう注意をした。
「一瞬、忘れてましたー……」
ロネリースは愛想笑いをしながら言った。まあ、ここは軍規に厳しい士官学校ではないし、何より忙しいので、深く追及しない事にした。
「まあいいや。で、本当に今来た感じ?」
「はいー。でも、リファレール大尉から少し事情は聞きましたよー。大変みたいですねー」
そんな当事者意識の欠ける発言をするロネリースは、今日もいつも通りの様だ。とは言え、私も実際、戦争に巻き込まれている実感が薄いので、気持ちはわからないでもない。
「でも、私らもこれから大変になるから」
私はそう言って、先程用意を終えた、積んである命令書の紙束の一番上の1部を、ロネリースに差し出した。
「これを隷下部隊に渡しておいて」
私は書類の山をポンポン叩きながらロネリースに言った。
彼女は私から書類の束を受け取ると、さっきとは打って変わって仕事モードに切り替わり、書類をパラパラと捲って中身を流し見た。
「……準備命令ですねー?」
何度かページを行ったり来たりして、書類の概要を掴むと、ロネリースは書類のページを初めに戻してから、今度は精読しながら聞いてきた。
「そうそう」
「それにこの量……。司令の裁可はなしですかー……?」
ロネリースは机の上に積んである命令書の山を見ながら聞いた。
当たり前だが、命令書という物は司令の裁可が無いと、隷下部隊に対して効力を発揮しない。命令書の作成は、我々、参謀の業務だが、それに対して効力を発揮させることが出来るのは、その部隊の指揮官だけだ。いくら命令書の名前が付いた書類を作ったところで、それに司令のサインが無ければ、ただの紙切れに過ぎない。
とは言え、命令の法的な効力が無くとも、隷下部隊の指揮官に対して、参謀の方から依頼や打診が出来ないわけではない。隷下部隊の指揮官が納得すれば、彼らの判断で動いてもらう事は出来る。事態は一刻を争うのだから、「勝手な行動をしやがって」などと言われる事を恐れてはいけない。最も、直属の上官がそんな事をほざく人であるのなら、私含め、参謀らはまともに働くつもりはないはずだが。
「旅団長のサインは後で貰えば良いわよ。それよか、まだ来てないの?」
「何してるんでしょうねえー?」
怒り半分、呆れ半分といった感じだろうか。ロネリースは若干強い声調でそう言った。
「来ていない人の事を考えても仕方ないわよ。わかったらこれを持って行きなさい。私からも――」
「作戦参謀、いるー?」
急かしておくから、と続けて言おうとすると、誰かが私の声を遮る様にして部屋に入室してきた。どうやら私を探している様だ。少し粗雑な口調だが、軍隊において、仮にも中佐の私に対して、そんな口を聞けて、会話を遮る事が出来るくらいに利口な人は、そう多くはない。ディルメースの声ではないので、大方察しがついた。
「私ならここですが、何か御用でしょうか?」
私が比較的丁寧な口調でそう返事をしながら、入り口を見ると、入ってきたのは、少し背丈の高い女性だった。
ウェステーリスよりも明るい茶色、人によっては赤髪と見えるかもしれないほど明るい、そんな色のお団子を、後頭部に下げている髪型だ。若干跳ねているので寝起きなのかもしれない。
服は迷彩柄の作業服だが、私と同じ陸上迷彩の服だ。襟元の階級章の線は、彼女が大佐である事を示している。片手に帽子を持ち、私の姿を見ると、空いた手を上に上げて挨拶をしてきた。
「おお、いたいた。お疲れさん」
私とロネリースはその姿を見るなり、反射的に敬礼をする。長年の訓練で、軍隊において最も怖いのは上官だと教え込まれた結果の産物だ。
「お疲れ様です」
私が挨拶したのに続いて、ロネリースも一言だけ挨拶をして、大佐の答礼を確認してから、気をつけの姿勢でその人を見る。
紛れもなく、その人はフィンファーレル・ジュレーニーツ大佐、待ちに待った、うちの旅団の指揮官であった。
「まあ楽にしなよ。そんな暇じゃないでしょ?」
「ようやくお出ましですね」
ロネリースが皮肉混じりに笑顔でそう言うと、ジュレーニーツは愛想笑いで答えた。私はそんなロネリースを肘で小突いた。
「すまなかったね。んで、状況を把握したいから、来てる参謀を呼びつけたいんだけど、忙しいかな?」
「私は別に構いませんが、他の方はどうでしょうね」
おそらく全員揃ってはいないし、嘘をつくのもよろしくない。わからない事はわからないと伝えて悪い事はない。これは私が大学時代に学んだ処世術の一つだった。
「それなら、知ってる範囲でいいから、今の状況だけでも」
「ええ。それではこちらを」
そう言って、私はさっきリファレールに見せた資料のページを開けて、ジュレーニーツに見せた。ジュレーニーツはさっきの愛想笑いから打って変わって、一瞬で真剣な表情になり、資料を手に取って見た。
「ご存知かもしれませんが、フラレシア軍がついにやってくれました」
「規模は?」
「その資料の通り、我々は楽観的に見積もっても、その機械化歩兵旅団2個……実質、1個師団を相手取る必要があります」
「悲観的には?」
「そこに諸兵科の旅団が合わさって、最終的には軍団規模になっている可能性もあります」
私がそう報告すると、ジュレーニーツの顔が険しくなった。これは、私が何かやらかした時の反応だ。
「ここらは国境付近も山岳で、山間隘路も少なくないけれど、軍団で来るわけ?」
書類と地図を鋭い視線で見比べながら、ジュレーニーツはそう質問をした。
「あくまでも最悪の場合は、です」
私はロネリースからも何か言う事はないのかと思い、ロネリースを見つめた。
ロネリースは私の視線に気づくなり、私を二度見して、そこからジュレーニーツに視線を移した。
「……相手は何も機械化歩兵だけではありませんからねえ。空挺部隊やヘリボーン部隊などの機動力に長けた部隊を、こちらに送ってくる可能性もあり得ますから……」
ジュレーニーツはその鋭い視線をそのままに、ロネリースにそれを向けた。部下にとって、上官の視線はまるでライオンに見られるかの様で、少しおっかない。ロネリースは少し動揺した様で、身体が少しだけビクッと動いた。
「根拠は?そんなにここは重要かな?」
「ええと……」
ジュレーニーツにそう聞かれると、ロネリースが言い淀んだ。資料をちゃんと見ておかないからそうなるのだ。
司令に意見するのはロネリースには少し早いかと思いながら、私がフォローを入れた。
「――それは私から」
そう言って、私はジュレーニーツの視線をこっちに移した。
「先程、旅団長の仰った通り、国境付近は山岳地帯です。山間隘路も多く、地形の特質上、侵攻側がここを重要な補給結節点と見る公算は、充分にありえるかと」
ここら辺の地域は基本的には山であり、そこに兵士に物資を補充するための拠点や集積基地を作るのはかなり難しい。
そんな山ばかりの地域に、突如現れる盆地、それがファルロン・エーレだ。他でもない、ここの事だ。住居や商業施設などがあり、私達がそうしている様に、街の規模としても駐屯するには悪くない。おまけにアリスレークル軍やうちの軍の側面を取る事が出来ると来れば、敵もここを軽んじて見ないに決まっている。
更に、ここは盆地だ。守りやすく、攻めにくい地形である。取られると、最悪、取り返しのつかない事になる。
「つまり、ここが作戦術上の、『死命を制する要点』になってるって事を言いたいわけね?」
ジュレーニーツは戦術用語で私の分析の内容をひとまとめにすると、ようやく普段の目つきになった。
「はい。その通りです」
「なら、重心は?」
「ゾラニーラです。正確には、そこにある北方管区司令部でしょうか」
ゾラニーラはこのファルロン・エーレの東、100km行かない程度の距離にある都市である。そこには我が軍の重要施設、北方管区司令部がある。これはうちの旅団の上位部隊で、少将たる者が管区司令部の指揮官を担当する。ここがやられると作戦レベルの作戦立案ができなくなり、我々は統制の取れた行動が出来なくなり、撤退せざるを得なくなる、というわけだ。おそらく敵の狙いはそこにあり、司令部を奪取する腹積りだろう。そして、ゾラニーラはこのファルロン・エーレと直接繋がっているので、ここを取られると面倒な事になるのは、さっきの通りだ。そういう意味でもここは重要な場所なのである。
「そうか……。厄介だね」
どうやら司令には納得いただけた様で一安心した。とは言え、納得してもらったところで、自分達がどれだけ追い詰められているのかを強調しただけに過ぎないので、別に安心は出来ないのだが。
「その割に軽視されていたのは、レーリンツ中佐やトリアル少佐が上申していたのですが……」
そう。ロネリースが言った様に、以前に私と、レテオス・トリアルという通信参謀の人と共同で、「通信網が貧弱過ぎる」とか、「駐屯部隊数が足りない」とかいう旨の事を、上層部に意見具申という名の文句を申し立てていたのだが、近隣住民を刺激するとかなんとかで認可が降りなかったのだ。部隊数の増強は確かに過度ならば地元住民や仮想敵国を刺激するが、通信網の増強に関して言えば、「ただの工事で一体誰を刺激すると言うのか」と、通信参謀のトリアルが特に腹を立てていた。結局、そのままなあなあにされて、問題は改善されず、今こうして混乱が起き、被害が多く出ているのだ。これがなければ、私達はこんなに苦労しなかっただろうし、犠牲者も少なくて済んだだろう。
「……まあ、過ぎた事を言っても仕方ないよ」
そう、いくら文句を言ったところで、結局はジュレーニーツの言う事が正論だ。今からではどうしようもない。
溜息を吐いてから、ジュレーニーツはこちらを見た。
「それで、こちらの状況は?」
「司令部要員諸共、現在、非常呼集をかけているところです。この司令部にもまだ来ていない参謀も居ますし……」
「国境近くの味方の兵はどうなの?うちらの部隊も戦闘に巻き込まれたでしょ?」
「ええ。それは間違いありません。ですが、状況不明です」
私が淡々と報告をすると、ジュレーニーツは「うー」とも「んー」とも取れる声で唸った。
「……それで、うちらはどうする?」
「それについてはこちらを」
私は先程作成した作戦案を、ジュレーニーツに差し出した。
彼女は書類を読み始めて、しばらくするとうなずいた。
「……ディルメースはなんか言ってた?」
「これで大丈夫だと思う、と」
「ならこれは遅滞で行こう」
そう言って、ジュレーニーツは遅滞の方の作戦案が書かれた書類にサインをして、元あった場所に置いた。
「では、そのように」
これで後戻りは出来なくなった。この作戦が成功してくれると良いが。私は部下が上手くやってくれる事を祈る事しか出来なかった。