第四章 魔王様が王子様を殴ってしまいました
あの事件の日以来、大きく変わったことが二つある。
一つ目は、アイシア様がリーサ様、リーサ様、とわたしを追い回してくることだ。
どうやら、”二人だけの秘密”というどこか禁忌じみていて危なげなワードが、アイシア様の心に刺さってしまったらしい。人目を気にせず、腕を組んだり、抱きついてきたり。そして、『わたくしは、みなさんの知らないリーサ様の一面を知っていますのよ』とでも言いたげなドヤ顔で、周囲の学生たちを見るのだ。
目立つのは嫌いだと言ったのに。どうやら、そんなことは、アイシア様の頭からはきれいさっぱり抜け落ちてしまったらしい。
アイシア様と仲良しのラフィーナは、そんなわたしとアイシア様を見て、大層怒っていた。みんなが見ていないところで、「なんでアンタとアイシア様が仲良くなっているわけ!?」と足を踏んづけられたが、わたしは、「わたしにもわからないよ」と苦笑するだけにとどめた。
そして、二つ目は……
「こんにちは、リーサ様」
わたしが図書室で試験勉強をしていると、なぜか、どこからともなく現れたフレイド王子が隣に座ってくるようになったことだ。
「ごきげんよう、フレイド様」
「卒業試験の勉強ですか? リーサ様は、本当に努力家ですね」
アイシア様がわたしに懐いてくるのは理解できるけれど……なんでフレイド王子まで? 今までは、ラフィーナ関係の話があるときしかわたしに近づいてこなかったのに。
『リーサ、気を付けろ。この長ネギ王子、ぜってえ裏がある』
そして、魔王様は、あいかわらずフレイド王子のことが嫌いな様子である。
「卒業試験は明後日ですから……。わたしは落ちこぼれなので、がんばって勉強しないと」
「リーサ様が落ちこぼれ? そんなことはないでしょう。少なくとも、私にはわかりますよ」
「……?」
何やら意味ありげにほほ笑むフレイド王子。
この人が何を考えているかはわからないけれど、一つだけわかることがある。それは、わたしは、ちゃんと試験勉強をしないとほんっとーーーにまずい!ということだ。正直、フレイド王子と世間話をしている場合ではない。というか、勉強の邪魔をしないでほしい。
『そうだそうだ! 言ってやれ、リーサ!』
魔王様も応援してくれるが、もちろんそんなことを王子に面と向かって言えるわけがない。
「ところで、リーサ様は、どの属性の魔法が得意なんです?」
「え?」
まさか、そんな質問をされるとは思ってもいなかった。もしかして、フレイド王子は、わたしのマナがどの属性魔法にも優位性がないことを知らないのだろうか。
「えっと、わたしは……」
言いかけたわたしの言葉をさえぎって、フレイド王子はわたしの耳元でささやく。
「リーサ様なら、使えるのでは? かつて”賢者”が使ったとされる”闇魔法”を――」
…………え?
時が、止まった。
なんでそれを、とわたしが口にするより早く、フレイド王子の唇が、わたしの耳に触れた。思わず、ひゃ、と声がもれる。そのまま、腰を抱き寄せられ、耳にふーっと息を吹きかけられる。そして、彼の唇は、わたしの首筋へ。
「ちょっ……」
「知りませんでした。まさか、リーサ様が、あんなとんでもない魔力を隠し持っていたとは」
その瞬間、すべてに合致がいった。
少し考えれば、わかることだった。あの日、フレイド王子は、わたしよりも早く寮を飛び出していった。ラフィーナを探し回るうち、白ローブを追いかけるわたしを見つけ、そのあとをつけたのだとしても、不思議ではない。
「み、見てたんですか……?」
「はい。しっかりと拝見しました」
……見られてた。
いや、でも。だからなんだというんだ。フレイド王子は、ラフィーナの婚約者だ。バルコニーであんな熱烈なキスをして、ラフィーナがいなくなったときは、血相を変えて探していた。フレイド王子は、たしかにラフィーナを愛している。わたしは、その双子の姉というだけ。なら……こうして迫ってくるのは、なにが目的なの?
「……フレイド様、やめてくださいっ」
わたしは、力の限りで王子を突き飛ばした。
「おっと。意外と力が強いのですね」
「わたしは、あなた様の婚約者の双子の姉です。見境のない行動はお控えください」
「いやだな。あなたは気づいていると思っていました。私とラフィーナの間に愛なんて存在しないことに」
「……え?」
思わず目を見張ったその瞬間だった。突然、また”あの感覚”がやって来た。
あっ、と声をあげる間もなかった。気づいたときには、わたしは……いや、魔王様は、フレイド王子の頬をグーで殴っていた。
『キャーーー!!!』
と、これは、わたしの心の声。
ちょっと魔王様!? 何してくれちゃってるの!?
王子を拳で殴るなんて、下手したら……いや、下手しなくても、不敬罪だ。
「てめえ、よくも……っ!!」
と、こちらは、怒り心頭の魔王様の声。
その一方で、フレイド王子は、殴られた頬をおさえて、なぜか可笑しそうに笑っていた。
「なんて愉快なかただ。まさか殴られるとは思いませんでした」
「殴られて当然のことをしたと思え! このエロ王子が!」
『ちょっ!? 魔王様!! 王子になんて口の利き方……!』
しかし、魔王様は、止まらない。
「だいたいなあ、俺様は前からてめえが気に入らなかったんだよ。人から見えるあんな場所で婚約者とベロチューかましやがって……!」
『や、やめて! 魔王様、お願い!』
「それに、こいつの気持ちも知らねえんだろ!? こいつが、どんな気持ちでいると思って――」
『魔王様ッッ!!!!』
これ以上は、本当にだめ……! わたしの願いが通じたのか、魔王様は、押し黙った。
少しの間を置いて、身体が戻ってくる感覚。おそらく、魔王様が、理性を働かせてわたしに身体を返してくれたのだろう。
「……な、なーんちゃって、です」
どう言い訳すれば良いかわからず、わたしは、笑ってぺろりと舌を出してみた。
「ここまでは全部冗談です、申し訳ございません! そ、それでは、わたしは試験勉強をしなくてはならないので、ここで失礼します……!」
フレイド王子がどんな表情をしているかは、怖くて確認できなかった。わたしは、荷物をまとめ、逃げるように図書室を飛び出した。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
わたしの意思じゃないけど、わたし、フレイド王子の頬にグーパンしちゃった。しかも、あんなひどい言葉遣いで、あんな暴言まで……! 不敬罪で島流しになるかもしれない。最悪の場合、処刑だって……
『リーサ、悪かったよ』
めずらしく、しおらしく魔王様が謝ってきた。いやいや、謝られてももうどうしようもないんですけどね!?
『つい、カッとなった』
『だ……大丈夫ですよ! 魔王様、わたしのために怒ってくれたんですもんね。ぜんぜん問題なしです!』
本当は、ぜんぜん大丈夫じゃないし、問題ありありだけど。でも、魔王様が、わたしのためにフレイド王子に怒ってくれたのは、事実だ。悪気があったわけじゃない。
***
その後しばらくは、びくびくしながら生活していたが、わたしが不敬罪で捕らえられることはなかった。それどころか、フレイド王子は、何事もなかったかのようにわたしに接してきた。ラフィーナや周囲の人間に、わたしのことを話した様子もない。
わたしは、王子が何を考えているのか、ますますわからなかった。
そして、そのまま、卒業試験の日がやって来た。
試験の日の朝、寮の自室を出ると、またしても見知ったブロンドに出くわした。どうやら、彼女も、登校するタイミングだったらしい。
「あーら。おはよう、リーサ」
「お、おはよう」
なんとか無理矢理な笑顔をつくり、ラフィーナに挨拶を返す。
「今日は、卒業試験ね。どの属性魔法にも優位性がないあなたは大変でしょうけれど……ふふ。共にがんばりましょうね」
まただ。また、あのわたしを見下すような蔑むような嘲笑うかのような目。
この子は、どうしてわたしのことをそんなに嫌うのだろう。魔法も、頭も、容姿も、どこを取っても明らかにわたしよりも優れているのだから、わたしのことなんて放っておいてくれればいいのに。
卒業まで、あと一ヶ月たらず。卒業したら、ラフィーナは、フレイド王子の元に嫁ぎ、ゆくゆくは国の王妃となる。わたしとは、なんの関係もない人間になる。だったら、最後に聞いてみるのも悪くないと思った。
以前だったら、こんなふうに思うことはなかった。でも。
「ラフィーナ。ひとつ聞いてもいい? あなたは、どうしてわたしをそんなに嫌うの?」
「……は?」
まさかわたしがそんなことを尋ねるとは思ってもいなかったのだろう。ラフィーナは、大きく目を見張った。
「わたしたち、双子の姉妹でしょう? なのに、どうしてそんなふうにわたしにきつく当たるの?」
「……っそんなの、」
ラフィーナは、きゅっと唇を噛みしめた。どうやら、答える気はないようだった。
本当は、少しだけ期待していた。最後に、ラフィーナと仲直りできることを。ラフィーナが、また小さい頃みたいに屈託のない笑顔をわたしに向けてくれることを。お姉さま、と親しみをこめた声色で呼んでくれることを。でも、どうやらラフィーナには届かなかったようだ。
「どいて。せいぜい足掻くといいわ。今日の試験、あなたは絶対に合格できないから」
ラフィーナは、冷たく言い放ち、無理矢理わたしを押しのけて行ってしまった。
『なんだよ、あの女! ほんっとーにどこまで行っても腹立たしい女だ!』
魔王様が、またラフィーナに対して怒っている。
フレイド王子の頬を殴ったあの日以降、魔王様は、ほんの少しだけ大人しくなった。……と思ったのだが、どうやら一日限定だったようだ。次の日、目覚めると、いつもの魔王様に戻っていた。それどころか、以前にも増して元気になってしまった。
『いいか? 今日こそ、あの女に目にものを見せてやる。そうじゃねえと俺様の気がおさまらねえ』
『ちょっと。何するつもりですか? この前みたいな暴力はやめてくださいよ……?』
『わかってる。暴力も暴言も、もうしねえ。正攻法であの女を黙らせてやる。あの女だけじゃねえ。てめえを見下してた人間、全員をだ』
……なんだかよくわからないけど、そう言い切ってくれた魔王様は、最高にかっこよくて、最高に頼もしかった。その正攻法というのが、どんな方法なのかは不安でたまらないけれど。