消防団のほうから来ました
秋の夜。開いた窓から入る風がカーテンをそっと膨らませ、心が安らいだのを感じた。あの小さな膨らみで子供を想像したからだろうか。いいな。いずれ、だが。いや、今夜にでもいいかもしれない。なんてな。
目を閉じる。耳の感覚が鋭くなり、幸せの音を掬い取る。妻が食器を洗う音。それと今、音を立てたのは木製のローテーブルの上に置いたグラスに入った氷。外からは秋の虫の声。恐らく近所の家の庭だろう。この家の庭は人工芝生。いずれ、妻がガーデニングを始めるかもしれないが今はスッキリした状態。新居なのだ。
「あなた、お代わりはいる?」
妻がキッチンから、おれに向かってそう微笑みかける。どこかドラマのようで照れくさい。妻もそう思ったようで、なによぉとまた笑う。
「ありがとう」
「こちらこそよ」
「ははっ」
「ふふふっ」
ローンの返済はきついが、結婚を機に買ってここに移り住み正解だった。
「はい、どうぞ」そう、妻が手渡してきたグラスをおれはテーブルの上に置き、冷たさが残る手を握りしめ――
――ピンポーン
インターホンが鳴り、おれたちは顔を見合わせると口を曲げ、声を出さず笑った。これまたドラマのようなタイミングの悪さだ。
しかし、誰だろうか。近所への挨拶は済ませた。もしかしたらそのお礼に何か持ってきたのかもしれない。もう一度鳴り、妻が玄関へ向かった。
「えっ、あの、今なんて……?」
妻の声。動揺が見られ、少し気になったおれはグラスに伸ばした手を引っ込め、ソファーから立ち上がり玄関に向かった。
「消防団のほうから来ました」
妻が手を添えている玄関ドアの隙間、その奥、外には二人の男が立っていた。一人は中肉中背。もう一人は大柄で二人とも同じ服装をしていた。夜なのでよくはわからないが黒か紺の作業着。それと頭にかぶっているキャップにはオレンジ色の線が入っている。
「えっ、あの……どのような用件でしょうか」
「どうしたんだ?」
妻にそう訊ねると妻は首を傾げ、おれは妻と入れ替わるようにドアを支え応対する。何か妙な感じがしたのだ。
「あ、どうも。ご主人ですね? ああ、まずは新居に引っ越されたそうでおめでとうございます」
「あ、ありがとうございます……えっと消防署の方?」
「いや、消防団ですって……」
「そうです。どうもどうも」
中肉中背の男がそう言う。目がギョロッとしている。蛇のようだとおれは思った。もう一人の大柄の男はムスッとした顔で先程から黙ったままだ。
「あの、消火器なら大丈夫なんで、それじゃ、どうもー」
おれは早々に切り上げようと思いそう言い、ドアを閉めようとした。が、何かに引っ掛かったようにドアが止まった。
「あ、おうちにあるんですか?」
男がドアの隙間に顔を近づけそう言った。ギョロッとしたその目は部屋の中を覗き込むように、おれの肩を越し奥を見ている。
「ええ、まあ、はい。あ、点検とかも大丈夫なんで。やってもらったばかりなので。本格的に引っ越す前に。じゃあ、おやすみなさ――」
「いやね、ご主人にね、消防団に入ってもらいたいんですよ」
「え……? 消防団? だから」
そうです。消防団です。そう言い、ドアの隙間に体を入れずいと迫ってきた男。その勢いと力強さに、おれは思わず仰け反ってしまった。するとそこへすかさずもう一人の大柄の男がドアの縁を掴み、ドアを大きく開かせた。
「え、と、あの、仕事がありますし、その引っ越したばかりなので、もっとこの地域に馴染んでからで……」
「仕事はみんなありますからね。みんなね。それに地域に馴染みたいならさぁ、入らなきゃ駄目っしょ。消防団にさ」
急に砕けた言葉遣いと苛立ちを含んだ声に動揺し、おれはそれはまあそうなのかもしれないが……と、つい目を逸らした。その瞬間、ドアが閉まる音がした。目を向けると気づけば、二人は玄関まで入り込んでいた。
一歩下がったおれは玄関マットの上で足に力を入れた。これ以上は踏み入らせては駄目だ。なぜかそう思った。いや、そう思わせたのはこの二人の異様な圧か。なんにせよ、無駄であった。
「しっつれいしまーす」
「あ、ちょ、ちょっと!」
おれを押しのけ、男が家の奥へ上がり込む。妻とおれはその後を追った。
「ここがリビングですねぇ。ふーん、いいお宅だなぁ。新しい匂いがする。お、このソファーも柔らかいなぁ。新居に合わせて新品ですかぁ? ここでくつろいでいたわけだ」
ソファーに腰を下ろした男はそう言いニヤニヤした。やらしい手つきでソファーを撫で、おれは先程、妻と二人、そこで始めようとしてたのが気付かれたと思い、後頭部が熱くなった。
だが、男の冷ややかな視線に肝まで冷えた。くつろいでいた。おれたちが地域のために働いている間もなぁ。そう言いたげであった。
「あ、あの、なんで家に」おれはそう訊ねる。
「んー、新居って意外と火事が起きやすいんですよぉ。だから、その安全確認ね。それにさぁ、玄関で立ち話もなんじゃない。おれら先輩なんだからさぁ!」
ソファーの背もたれに両手を回し、突然、声を張り上げた男におれと妻はビクッと背筋を伸ばした。
後ろからドスドスと部屋の中に入ってきた大柄の男が窓を閉め、そのまま室内を歩き回る。
「……茶は?」
「えっ」
「茶ぁ!」
「あ、はい……あ、頼むよ」
「あ、うん……」
おれがそう妻に促すと、妻は何か言いたげな眼差しをし、おれは顔を逸らし頭を掻いた。わかってる。早く追い出せと言いたいんだろう。
「あの、それで消防団の件なんですけど……」
おれはソファーに座る男に近づき、そう言った。見下ろした帽子の鍔は薄汚れていた。服も、靴下も恐らく薄汚れているだろう。おれは嫌な気分になった。
「様、ね」
「……はい?」
「消防団様ぁ! 敬称を略すなよ!」
男が顔を上げ、おれに怒鳴った。怒鳴り慣れているとそう感じた。そして、おれは慣れていない。先程から探しているのだが、おれの中に闘争心の類が未だ見つからない。
「あ、そのすみません……。消防団、様……」
「ふん、で、なに?」
「あの、やっぱりまだ通勤とかもう少し慣れてからに」
「あ、待って。どう、あった? え、ない? ない!? ちょっとアンタ。消火器は? 置いてないの?」
男の視線の先を追う。あったのは妻を押しのけ、キッチンの棚を開け首をすくめる大柄の男の姿。どうやら消火器を探し歩いていたようだ。
「え、いや、その……」と、おれは言葉を詰まらせた。そうだ、この家にはまだ消火器はないのだ。
「おい、アンタさっき消火器はあるって言ったよな? おれに嘘をついたのか?」
「いや、嘘と言いますか……」
「じゃあ、あるのかよ」
「いや……」
「ないんだな」
「はい、あっ、え!?」
何が起きたのか分からなかった。調理中、高温の油が跳ね、顔に飛んだような。徐々に現れる頬の痛み。叩かれ、おれはそれが信じられず目を見開いた。しかし、それ以上に男は目を剥き、顔を紅潮、血管が浮き上がり歯を食いしばりワナワナと震えていた。
「消火器! ないのかよ! アンタ! 嘘つき! 嘘つきだ嘘つき! 火事になったらどうすんだよ! この家が燃えるだけならまだいい! ご近所さんの家が燃えたらアンタ責任取れんのかよ! お年寄りもいるんだぞ! 足が悪くて逃げ遅れたら死ぬんだぞ! そうなったらアンタどうすんだ! 死ぬのか! 死んで詫びるのか! 今詫びてみろ! ほら謝れよ! 謝れ! 謝れよ!」
「え、あ、すみません……」
「すぅみぃまぁせぇんってなんだよぉ……誠に申し訳ございませんだろ! アンタ、本当に社会人かよ! 会社どこだよ。教えろよ。クレーム入れるからよぉ。お宅の社員は防災意識が著しく欠如してる危険な存在だってよぉ」
「いや、それは本当に」
「本当になんだよ! 会社に火をつけてやるぞ! おれじゃない! アンタだ! アンタが火をつけるんだ!」
「お、大きな声はや、やめてくださいよ……」
「やめてほしいのはこっちだよ! なんだよ、泣いてんのかよ! 怖いか? こっちが怖いよ! 地域の安全を脅かす非常識人間と顔合わせてんだからさぁ! 怖いだろ! アンタは猛獣だよ猛獣!」
泣いてなどいなかった。しかし、そう言われると涙が出そうになり、おれは顔を背けた。
「きゃあ!」
「え、ど、どうした」
突然、妻が悲鳴を上げたのでおれはそっちを向いた。妻の後ろにはべったりと張り付くように大柄の男が立っていた。
「な、あ、あんた、なにしてんだ!」
「おい! おれとの話がまだ終わっていないだろ!」
「で、でも、あいつ、あの人が妻になにか……」
「なにかってなんだよぉ……なにか言ってみろよそのなにかをよぉ。なにかなにかなにかなにかナニナニナニ。それは火事になるかどうかより大事だって言うのかよぉ!
じゃあいいよ。そっちずっと向いてろよ。ぜってー振り返るなよ。たとえ焦げた臭いがしようが煙が出ようがずっとてめえの奥さんと乳繰り合ってろよ! その間にみんな死ぬんだぞ! 全員だ! お前の親も死ぬ! 馬鹿な息子がご近所さんを巻き込んですみませんでしたって首を吊るよ!」
「い、いや、あ、あのですね。こ、この家には消火器がいらないというか消火システムがありまして……」
どうどうと宥めるようにおれは手を前に出し、笑顔を作りそう言った。
「消火システム?」
「は、はい、なので……」
「あの上のやつがそう? 天井についてるあのプロペラ」
「ふふっ、プロペラってあれはシーリングファンで、うっゲホッゴホ! オエェェ!」
男と一緒に上を見上げていたはずが、おれの顔は床に鼻がつきそうなくらいの位置にあった。こんな苦しみはいつ以来かと瞬時に脳内、記憶を検索するが見当たらなかった。
「苦しいだろ? そうだよ。煙を吸い込むとな。それくらい苦しんだ」
「ゲホッ! 今、あ、あんたがゴホッ! 喉をゲホッ、殴ったから……」おれは男を見上げ、そう言った。
「消火システムだ? なんだよ。それがあるからうちは安心です。消防団には入りません。地域の防災なんかどうでもいいですってか? アンタ……もう、おれ、言葉が出ねえよぉ。こんな自分勝手な人間がこの世にいていいのかよ……」
「そ、そういうわけじゃ……ゴホッ、でも今は家以外にも町の至る所にあるセンサーが火事を、異常を感知して、ロボットが迅速に駆け付けてくれますし消防車もすぐに。だから消防団は……」
「現場に迅速に駆け付け、ロボットを指揮する者が必要だろうが」
「ロボットの後から来て、ですか? ふふっ、ウゲッ! ゲホッゴホッ!」
「消防団に対する不遜な態度は許さない。ゆるさなぁい!」
まただ。また喉を殴られた。ソファーから立ち上がった男は、逆光で黒い塔のようだった。
「ゲホッ、でもそれは、あ、あんたたちが好き勝手、ゲホッ、団員に支払われるはずの報酬を宴会費に充てたり、無理な勧誘や寄付をうぅ!」
男は今度はおれの腹を蹴った。妻の悲鳴が上がったが、それは今の暴力に対してだけではないとおれは思った。妻が大柄の男に体を弄られるのを想像し、嫌悪感を抱いた。
「ネットで拾ったような文句を垂れやがって、とことん、しょーもない野郎だなぁ……」
「で、でも、それが理由で今ではほとんど解体って……元々いらなかったから誰も惜しまず、うっ!」
「その気の緩みが危ないって言ってんの! わかるか! わかれよ!」
「あ、あの、どうずれば、い、いいんでじょう……」
「あのぉ、どうすればぁ、いいんでちょー。はぁ……入るしかないでしょ。消防団」
「え……あの、入団したら……もう帰っていただけますか? あ、ひ、すみません……殴るのはもう……」
男は腰を落とし、おれの前で、うーんと唸りながらパシッ、パシッと拳を手のひらに叩きつける。苦痛の間であった。もう、今の状況から抜け出せるのなら入団もいいか、おれはそう思い始めていた。
「まあねぇ、こっちは防災意識をね、高めて欲しかったからさ。だってさ、ご近所さんにも迷惑が掛かるじゃない? それをね、わかってほしくてさ。ちょっと熱が入っちゃったかな。ははは、ごめんね!」
「あ、いえ、はははは……」
「で、入団費。二十万円ね」
「え、に、二十万!?」
「なに?」
「あ、いえ、その、ちょっと高いといいますか……」
「ほら、装備をね、整えなきゃいけないじゃん? 最新式の。消火器代も含めてさ」
「最新式……」
消防団に必要なのか? とは言えなかった。もう殴られたくない。これでこの悪夢が終わるならとおれは金を払った。
「じゃあ、これ。はーい、どーもねー」
玄関の外に置いてあったのだろう、男から渡された消火器は明らかに古い物だったがそれも指摘するできず、またする気も起きず。おれは夜に溶け込んでいく男たちの背中を見届け、ドアをしっかりと閉めた。
後日。この地域に消防団はないと知った。恐らく詐欺であったのだが、おれたちは心底ほっとした。