食事
眼下に広がるのは、数えきれないほどの--光。
それはまるで、宇宙に煌めく無数の星々を映す、巨大な鏡のようだった。
曇一つ見当たらないガラス越しにそれを眺めつつ、私は料理の到着を待つ。
全席個室の、六本木の高級フレンチ。学生の“契約者”と来るようなことは、まずない。二人分払ったら、1ヶ月分のアルバイト代が吹き飛んでしまうような価格設定だ。
さらりと肌に心地よい、真っ赤なドレス。
それに全身を包まれていると、ラグジュアリーな気分が高まる。こういうお店で食事するなら、それ相応の格好をしないと。
私よりも歳上のビンテージワインが満ちたグラスを、ゆっくりと傾けていると、目の前に座る大柄な男--蘇芳が、口を開いた。
「さすがにまだ、ドレスに着られてるな。“お嬢”」
「なにそれ。似合ってないって意味?」
「いいや。口を閉じていれば、十分及第点だ」
「あっそ。別にどうでもいいけど」
蘇芳は私より7、8歳くらい上だし、持っている知識がとにかく幅広い。どこぞの俳優と比較しても遜色のないような甘いマスクで、饒舌にそれを披露すれば、大概の人間の女はイチコロだろう。
だけど食べ物に関する知識だけは、私の方が上だという自負がある。
「お待たせいたしました」
そこに料理が到着した。マトンの赤ワイン煮込み。ゴロリとした大きい肉が、芸術的なあしらいで皿に盛り付けられている。真っ白な厚手のテーブルクロスの上にそれが置かれると、食欲を猛烈に刺激する香りが、鼻の中に充満した。
「いただきます」
ナイフを入れると、まるで待ちかねていたように、ほろりとお肉が崩れる。口に入れると、私の頰のお肉が崩れ落ちそうになった。
(美味しすぎる……っ!)
「美味いのかい? ラム肉ってのは」
「蘇芳。これはラムじゃなくてマトン」
「何が違うんだ?」
「んー。ラムの方が柔らかくてクセが少ないから食べやすいけど……。マトンの方は旨味がギュッて詰まってる感じなの。私はどっちも好き!」
「さすが詳しいね、お嬢」
蘇芳はそう言って、手慣れた所作で赤ワインのグラスを傾ける。
「蘇芳の家はお金持ちでしょ。羊のお肉食べたことないの?」
「蘇芳家は牛肉と仲良しなんだ。そんでもって浮気はしない主義らしいんだな、コレが」
「もったいないな~。こんなに美味しいのに!」
「俺としては、みんなと仲良くしたいんだがね。全く面倒な家だよ」
心底うんざりした様子でそう言った蘇芳は、スーツの胸ポケットからタバコの箱を取り出す。
「食事中にタバコはやめて」
「一本くらい許せよ。こっちは毎日、お前さんのために汗水垂れ流してんだぜ」
「食事中は駄目」
「へいへい」
蘇芳はやれやれといったふうに、ライターを探っていた手を止めた。そして口に咥えたタバコを名残惜しそうに箱に戻しながら、言う。
「で、どうなんだ」
「何が?」
「今回の標的--例の、哀れな子羊<ラム>くんのことさ」
誰のことを言っているのかは、明白だった。
「別に。いつも通りだけど」
「それにしちゃ、随分とご執心なんじゃないか?」
「……どういう意味?」
「『契約』に2ヶ月もかけるなんざ、らしくないじゃないか。お前さん、いつもなら早々に見切りつけちまうだろ」
「……引き際を見誤っただけ。結果的に『契約』できたんだし、文句ないでしょ」
「文句は無いさ。そんなのは畏れ多くて、とてもとても」
そう言ってわざとらしく肩をすくめる蘇芳。言ってることとは裏腹に、恐縮した雰囲気を微塵も感じない。
そして蘇芳はワイングラスをテーブルに置き、続けた。
「で、“言葉”の方はしっかり食べてるんだろうな?」
思わず、手が止まる。
……実を言うと、最近の“言葉集め”は難航している。
(特にあの人間は--…)
件の契約者--藤間悠也は、今までの男の中でもかなりの曲者だった。
「必要な分は食べてるよ」
「お嬢、いつも言ってるだろう。《言素》は常時多めに摂取しておけ」
「私、食べ物はお腹8分目までって決めてるの」
「8分目も食ってないだろう」
「…………」
「わかってるだろ? お嬢」
蘇芳の声が、部屋の空気を、重たく揺らす。
「《言素》を切らしたら、お前さん--お陀仏なんだぞ」
「……わかってるよ」
蘇芳から目を逸らし、再び窓の外に目をやる。
何百万、何千万という人々の“言葉”に溢れた世界。
私にとって“言葉”は--この料理と同義なのだ。
わずかに力を込めたナイフが肉を断ち、カチャン……と皿を鳴らした。
ここまで読んで頂いた方、ありがとうございました。
誠に勝手ながら、小説の連載はここで終了とさせて頂きます。
現在、小説とは別の形で発表できるよう、邁進していきたいと考えております。
どこかでお会いできましたら、またお付き合い頂けると幸いです。
ありがとうございました。




