異変①
「誰かあああああああ!!」
「……!?」
(あの人は--!)
涙声で助けを乞いながら路地の曲がり角から現れたのは、さっきの金髪男。
その姿は、無惨だった。
暗くてはっきりは見えなかったが、自慢のブランド物のシャツはビリビリに破け、ところどころ出血しているようにも見える。
そして、だらりと垂れた右腕は--ぶらぶらと揺れていた。
「ああああああああああああ!!」
「ちょ、ちょっと!?」
僕が声をかける前に、男は路地を突っ切って反対側の道に消えてしまった。こちらには全く気がつかなかったようだ。
あまりの出来事に思考が止まり、しばらくその場で立ちすくむ。
ハッと我にかえり、慌てて男の消えた場所まで向かうが、その姿は既にない。
(右腕……折れてたよな、あれ)
男が走って行った路地に入るが、思った以上に道が入り組んでいて追跡が困難だった。しばらく周囲を探してみたが、収穫はゼロ。
結局、男の姿を見つけることはできずじまいだった。
「……と、とりあえず交番に」
周囲に怪しい人影は……ない。
僕はそれを確認してから、もと来た道を急いで引き返した。
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「なに考えてるの?」
ハッと我にかえる。
横を歩く立花さんが、不思議そうな表情で僕の顔を覗き込んでいた。
……結構な時間、考え事をしてたような気がする。
「ごめん、ちょっとその、感傷に浸っていたというか」
「ん~?」
「……初めて会った日のこと思い出してた」
立花さんはそれを聞いてキョトンとしたかと思うと、すぐにニヤ~ッと小悪魔っぽい笑みを浮かべる。
「ちょっと~、なんかエモいんだけど~。いきなり泣きじゃくったりしないでよ?」
「そんなんするわけ……」
「ほんとに~? 怪しいなぁ。……あれ、目尻にちょっと涙にじんでない?」
「いやいや、にじんでないでしょ!」
「あははっ! ムキになった~、やっぱ怪しい!」
恥ずかしさやら何やらで顔に血が昇る。サーモグラフィーを通して見たら、そこには顔面完熟トマト男が立っているのではなかろうか。
「エモくなる気持ちもわかるけどね~」
「そ、そうでしょ?」
静かな夜の公園に響く、サァーッという波の音。心地よいその音に包まれていると、感傷に浸りたくもなるというものだ。
「そういえば……」
「なに?」
「金髪の彼の調子はどう?」
「あぁ。あの人ね」
思い出したついでに、聞いてみることに。
あのあと僕は、急いで交番に駆け込んだ。お巡りさんに自分が見たことを話していると、程なくしてあの男を保護したという通行人から電話が入って、僕はお役御免になった。男はどうやら、そのまま救急車で運ばれたようだった。
そして肝心の何が起こったのか、ということなのだが……。
(結局、よくわかんなかったんだよな)
端的に言うと、謎の人物に突然襲われたらしい。
暗い路地で襲撃された上に、向こうは黒のパーカー姿でフードを目深にかぶっていたらしく、顔はおろか性別すら定かではないようだ。
本人は、誰かの恨みを買うような覚えはないと言っていたらしいが……。それは少し怪しい気もする。
「入院したってのは聞いたけど。それっきりだよ」
「バイトにはまだ来てないの?」
「ありゃ、言ってなかったっけ。わたし、バイト辞めたんだよね」
「え、そうなの?」
「最初っから長くやるつもりなかったしね」
「そっか……」
あんなことが起きるくらいだ。帰りは家族か誰かに迎えに来てもらってるみたいではあったけど、女の子がバイトするには、いい環境とは言えないだろう。僕としてもその方が安心だ。
「何にしても、通り魔とかだったら嫌だね。早く捕まるといいけど」
「……そうだね」
あまり気のない感じの返事だった。
(もう少し、危機意識持った方がいいと思うんだけどなぁ)
立花さんみたいな女の子は、一番そういうのを気をつけるべき人なんだから。
そんな話をしながら散歩していると、アーチ状の小さな橋が目に映り始めた。その周辺一帯は開けたスペースになっていて、橋の上からは視界いっぱいに海が見渡せそうだ。ちょうど周囲に人影もない。
橋の中央まで行ったところで、僕たちは足を止めた。
僕たちのすぐ目の前に、広大な太平洋が広がっている。頰に吹き付ける海風は、結構冷たい。
「夜の海っていいよね~」
ん~っ、と伸びをしながら彼女がそう言う。
「立花さん、寒くない?」
「ん、まぁ……ちょっと?」
「よかったら俺の上着…… 」
「それじゃあ君が寒くなっちゃうよ」
「いや、でも」
「いーの! でも、ありがと」
「……うん」
僕の提案は彼女の言葉によって、静かに拒否されてしまう。僕としては、できれば上着を受け取って欲しかったのだが。
「でもこれだったら、昼に来た方が良かったかもね」
「なんで?」
「え、いや……昼の方があったかいから……」
「……夜の方がいい」
「そう?」
立花さんは海を見つめながら、何だか神妙な面持ちでそう言った。
が、すぐに明るい表情をこちらに向ける。
「だって夜の海の方がロマンチックだもん!」
「あ~。それはまぁ、そうだね」
「なんていうか、いつもと違う特別な気分にならない?」
「特別な気分……か」
シーンとした夜の空気の中、しばし海の音に耳を傾ける。
スゥーッと引いては、ザァーッと寄せる波の音。一定周期で繰り返されるそれは、まるで海が呼吸しているみたいだった。
周囲を包む夜の静けさは、より一層鮮明に、僕たちの住む星の息遣いを感じさせてくれた。
そして、僕の隣で海を見つめる、彼女の息遣いも。
「……でもね」
しばらくして、彼女の声が沈黙を破った。
「いくら夜の海がステキでも、一人じゃこんな気持ちにならないだろうなーって思うの」
「そう……なのかな?」
「そうだよ」
ほんの少し考え込んでから、結局、何とも煮え切らない回答をしてしまう。
「--君と二人だから、こんな気持ちになるの」
完全に、不意打ちだった。
立花さんが僕の左腕に体を寄せてくる。




