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キュウリ④

 急ブレーキがかかったというよりも、時間そのものが止まったみたいだった。

 周囲も「なんだ」「どうした」とザワザワし始める。


「ふぇ」


 は?


「ふぇ……」


 さっきまで全く変化しなかった部長の表情が、徐々に歪んでいく。

 その顔は、文字通り僕の目の前にある。

 生物的本能が今すぐ逃げろとエマージェンシーコールをけたたましく鳴らすが、あまりの事態に僕は茫然自失状態だった。

 息を吸い込み、部長の顔がのけ反る。

 もう既に、全てが手遅れだった。


「ぶへっくしょーい!!」


 顔に生暖かいものが大量に付着して--…

 そこまで認識したところで、僕は思考を強制停止させた。


「「「ヒャハハハハハハハ!!!」」」


 狂ったような笑いの嵐が、僕の鼓膜を揺らしに揺らす。おそらく30人弱……もれなく全員のものだろう。


「ふじまくん……これ」


 横から、沢田先輩の声。同時に、僕の右手におしぼりが握らされる感触がした。

 さすがマネージャーだ……。今この場にいるただ一人の味方かもしれない--


「だ、大丈……ぶ、ぶふっ……」

「…………」


 僕は瞬時に心を閉ざし、顔の拭き取り作業を始めた。

 入念に。ひたすら、入念に。後でトイレで顔も洗おう。


「いやぁ、最高。死ぬほど笑ったわ」

「ふざけんなよ……ほんとに……」

「はぁ腹筋鍛えられたわぁ」


 僕の肩に手を置いて呼吸を整えるハジメに、ありったけの思いを込めた恨み節を呟くが、全く効いている気配はない。部員の中にはひっくり返って腹を抱えているヤツまでいる始末だ。


「いや、でもこれは樺沢の反則負けだよねー」

「なぁにぃ!? 絶対おれの方がたくさん食ってたぞぉ!?」

「あんた、途中で口離したでしょーが」

「ぐぬぬ……。藤間ぁ! 次はぜってぇ負けねぇぞぉ!」

「もう二度とやりませんよ!」


 切実すぎる僕の叫びに、再び周囲がどっと沸く。

 ともあれ……健闘を讃える意味も込め、僕の二次会強制参加については免除になった。取れ高は十分すぎるということだろう。


「トイレぇー?」

「あぁ。顔洗ってくるついでにふきんもらってくる。テーブルとか座敷汚れちゃったし」

「あ、悪りぃな!」


 幸いにも、トイレは並ばずに入ることができた。顔を洗うついでに用も足し、ふきんをもらおうと店員さんを探してウロウロする。


「あ、あの人……」


 そして一番に見つけたのは、彼女……すずさんだった。客が残していった食器をせっせとお盆に載せて片付けている。初め少し躊躇(ちゅうちょ)したが、作業中の彼女に声をかけることにした。


「あの、すみません」

「はーい!」


 作業していた手を止め、彼女が振り返る。


「ふきんをお借りしてもいいですか?」


 その途端、彼女の笑顔が硬直した。


「あの……?」

「…………」


 彼女は何も言わず、持っていたダスターをズイッと突きつけてきた。

 その表情は、険しい。僕はおそるおそる、ダスターの端っこをつかむ。

(何か、怒ってる……?)


「…………あなたたち、最低」

「えっ……」


 ボソリと、彼女がそう呟くのが聞こえた。

 呆然とする僕をよそに、食器が載ったお盆を持ち上げる彼女。そのままこちらには一瞥(いちべつ)もくれず、厨房の中に消えていった。

(そりゃ、怒るのも当たり前か)

 あれだけバカ騒ぎしたわけだし……。申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。だが、わざわざ謝りに行ってもそれはそれで迷惑だろう。胸の内にモヤモヤしたものが残ったが、僕はみんながいる座敷部屋に足を向ける。

 部屋に戻ると、他のメンツは何事もなかったかのように、ワイワイと飲み直していた。


「おー! サンキューサンキュー! オレ拭いとくから貸して!」

「あぁ……」

「? どした?」

「いや、なんでも」


 出かかった言葉を呑み込み、ハジメにダスターを手渡した時、


「……これ」

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