霞草 ~裏社会のドンの愛されない娘モブに転生しましたが、溺愛の化身みたいな婚約者付きの愛娘にジョブチェンジしました~
私は転生者である。
転生特典なのか、聖魔法と魅了魔法を所有して生まれてきた。普通、転生者にプラスしてこのふたつの能力があれば役割は聖女だと思うじゃない?
残念ながら聖女は別にいて──彼女がヒロインで。
私は、世界でその魔法を保持するのは唯一人という個人魔法まで持っている単なる豪華なモブだった。
この世界は、聖女と7人の貴公子という恋愛小説の世界で、聖女をめぐって愛と陰謀がドロドロ渦巻き、そこに私の父親と兄が名前付きのそこそこの端役で登場する。私は、父親と兄のおまけとして御年10歳で死ぬ背景モブ。ほら、背景でいっぱい死ぬシーンで死んじゃう名もなきモブっていうのかな、そういうの。
そんな取るに足らない種々雑多のモブなのに、何故、聖魔法に魅了魔法に個人魔法まで? 小説でも死んじゃうだけで、豪華絢爛な魔法の保持者なんて設定はなかったのだけど、あるものは有りがたく使わないと、ね?
というわけで、生まれたばかりの赤ちゃんの私は、サクッと母親と父親に魅了魔法を大盤振る舞いした。赤ちゃんだもの。愛して大事にお世話してもらえないと、マジで生死に関わってしまう瀬戸際で、倫理観だの魅了魔法の禁忌だの言ってられないって。
だって私が死んだ時。
父親は、「邪魔だ、早く掃除しろ」と部下に命令して。
母親は、「いやだわ、血がドレスについてしまうわ」と私の遺体に触れもしなかった。
こんな両親が私をきちんと養育してくれると思う?
使用人はいるけれども、その使用人に命令をするのは両親なのだから、両親に大事にされていない娘に使用人が心を込めて仕えてくれるとは思えないし。
赤ちゃんって可愛いだけじゃない。お世話してもらえないと死んじゃうのよ。生まれたばかりで、自力で頭も上げられないぐらいに無力なんだから。
ネグレクトママパパから親バカママパパに魅了魔法でミラクルに変身してもらわないと、私の将来お先真っ暗──事実、お先真っ暗な10年後死体予定のモブだし。
ついでに11歳年上のお兄様も、ぎゅっと人差し指を赤ちゃんの柔らかい手で掴んで魅了魔法フルパワー。うっ、と胸を押さえて撃沈するお兄様。
このお兄様は、顔よし頭よし能力あり性格悪しの冷酷なお兄様なのだけど、本当は従兄なのよ。凄く優秀だったから、パパが後継者とするために養子にして、ついでに私の婚約者にしたの。
小説の私のお墓に花を供えてくれたのは、お兄様だけだった。そして、私の好きなその白い花をお墓の周りに植えてくれた。
人間だもの。
いくら血のつながった家族だって、みんな仲良しなんて理想だと理解しているけれども、小説の描写みたいに溶けることのない永久凍土のような冷え冷えとした家族よりも、少なくとも春の微風みたいな緩やかな家族に魅了魔法でなれると思ったのよ。
と、思っていたのだけど。
私の魅了魔法は強力だったみたいで、家族が超仲良くラブラブになりました。
「ルルーリエが生まれる以前は、色のない世界みたいで毎日がつまらなかったが」
「ええ、あなた」
「わかります、父上」
「ルルーリエが生まれてからは世界が色鮮やかになって毎日が楽しい。幸福、これが幸福なのかと思うぞ」
「ええ、あなた」
「わかります、父上」
うーん。
パパとママとお兄様の人生、ちょびっと変えてしまったかも? 反省。猿でもできる反省ポーズをしていると、愛おしさが溢れ出しているような笑顔のお兄様に可愛いと抱きしめられて、パパとママに雨が降るようにチュッチュッされた。
家族が一致団結して私を甘やかす生活は、パパとママとお兄様も幸せそうにしているし。
私も幸せだし。
赤ちゃんだから何もわかりませんって顔してニコニコしておこう、と。家内安全って大事よね。
物事は、見る立場や捉え方によって真実が変わる。たとえば、手のひらを見るのと手の甲を見るのでは同じ手であるのに違うように。小説の家族と現実の家族、私の魅了魔法のせいで異なってしまったけれども、どちらが幸福だなんて本人にしか決められないのだから。その本人が幸せだと言っているのだから、真実と現実が一致しなくてもいいじゃない。
とツラツラ強気で述べたけど、ホントにちょこっと反省をしているのよ。人の心を歪めたのだから。反省ポーズ、第2。
「わぁ、ルルーリエがまた可愛いポーズをしている! なんか可愛くってゴメンね、って感じのポーズで凄くキュート!」
とお兄様に大絶賛されました。
可愛くってゴメンね、じゃない! 反省ポーズなの!
でも赤ちゃんだから、よだれ垂らしてホニャニャホニャと喃語になってしまった。
この気持ちよ伝われ、と反省ポーズの改良に改良を重ねて5歳の頃には、反省ポーズ第101まで出来てしまった。全てお兄様に可愛い! と大絶賛されてしまったが。
しかもお兄様は私の反省ポーズを、〈ルルーリエの可愛くってゴメンねポーズ〉と勝手に名付けたものだから、私の反省はちっとも伝わることはなかったのである。
努力する方向が違った、と5歳になってようやく思ったがもう遅い。仕方ないので、努力する方向を反省からご奉仕方向へコースチェンジした。
ご奉仕と言っても、聖女みたいに清く正しく美しくなんてタイプの滅私奉公ではなく、手の届く範囲で人の役に立とうかな、て。
しかし5歳児には、人手もお金も権力もない。
なので、たっぷり持っているパパにおねだりすることにした。
お兄様から贈られた白いウサギのぬいぐるみを背負い、パパからプレゼントされた子どもサイズのワゴンをコロコロ押して、厨房へ行く。
「パパとお茶をするので、お菓子を頂戴です」
「はい、ただいまご用意いたします」
料理人がテキパキとワゴンにポットなど一式と茶菓子を載せてくれる。
「サンドイッチも欲しいです」
「おや、お腹がすいているのですか?」
「パパとお兄様の分なのです。この前にお茶をした時、食べるものも欲しいと言っていたのです」
「かしこまりました。では肉系のサンドイッチがよろしいかと」
サンドイッチが追加されると、小さなワゴンは上段も中段も下段もいっぱいとなった。
「ありがとう、明日もよろしくです。では、出発!」
コロコロ。
私はちっちゃいので、ワゴンだけが動いているように見えるらしい。たとえるなら、ちまこい小学一年生がランドセルにおんぶされてピコピコ動いているみたいな?
周囲の使用人が、唸り声をあげて鼻を片手で覆って後ずさる。屋敷の使用人たちは定期的に鼻血を噴き出す者が多いのだ。
「ルルーリエ様、尊い……っ!」
私は白いもこもこのウサギ付きなので、超ラブリーなのである。お兄様、わかっているね。幼児とぬいぐるみの組み合わせは最強だもの。
しかも私がアイデアを出して、お兄様がぬいぐるみリュックとして販売。品切れ続出の大人気商品となっていた。
トントントン。
「パパ、ルルーリエとお茶の時間なのです」
勢いよく扉が開いて、
「パパのルルーリエちゃ~ん!」
と、部下の前では思わずひれ伏したくなるような覇気を漂わせているパパが、蜜のような甘さの滴るデレッデレの顔をして私を抱きしめる。私もパパに抱き返す。ぎゅ~。ココ大事ね。お花に水や栄養をあげないと枯れてしまうように、愛情にも栄養が必要なの。一方通行のノーリターンではダメなのよ。それに、人と人との絆は目に見えないから、目に見える形にすると相手も安心するしね。
「一人占めは禁止ですよ、父上」
パパの腕の中からお兄様が私を奪い取って、自分の膝の上に乗せる。柔らかな曲線を描く薄い唇から発せられる声は、うっとりするほど麗しい。
「あ、ずるいぞ」
「ずるくなどありません。僕はルルーリエの婚約者ですから」
小説で、神が御手でつくりし美貌と表現されていたお兄様を生で拝めるなんて。しかも現世でも婚約者。光り輝くような眩しいご尊顔に、思わずちっこいお手手を合わせて南無南無しちゃうわ。
「おや、〈ルルーリエの可愛くってゴメンねポーズ第55〉だ。これはおねだりポーズだったね」
間違っているけど、正解。
今日はおねだり目的で来ているからね。
だから可愛く上目遣いで、
「パパ、お願いがあるの」
とウルルンと見つめればパパは相好を崩して大きく頷いた。
「ルルーリエのお願いならば何でも叶えてあげるよ」
「ありがとう、ルルーリエ嬉しい。パパ大好き」
コレも大事。
相手は思考の読める超能力者ではないのだから、きちんと言葉にするべし。家族だからというのは、ある意味言い訳。別個の人間なのだからお互いに尊重と意志疎通は怠らないこと。
特に、魅了魔法を使って後ろめたい私は相手への愛情を示すことと会話をすることを重要視していた。家庭円満って大切だもの。
私はウサギのリュックから10センチ四方の紙を2枚取り出すと、パパとお兄様へ1枚ずつ渡した。
「これは、聖魔法か?」
さすが天才と名高いお兄様。一目で紙に描かれた複雑怪奇な魔法陣を聖魔法だと読みとった。我ながら幼児の落書きレベルの魔法陣だから、誰も理解できないと思ったんだけれどな~。
「ルルーリエの魔法陣ですね。ルルーリエのものならば、床に落ちた髪の毛一本でもルルーリエのものだとわかりますよ。ましてやこの紙にはルルーリエの魔力が残っていますしね」
髪の毛一本……。お兄様の愛が深すぎる。
「ええ? この紙にルルーリエの魔力は感じられないが? わたしの感知魔法は最高値なのだが」
うんうん。ちゃんと魔法の痕跡を消したからパパの方が正しいはず。パパもママも私への愛情が天元突破しているけれども、お兄様はちょっと異常なんだよね。でも、そんなところも大好きなんだけど。
「お兄様のおっしゃる通りなのです。私の個人魔法で作った魔法陣なのです」
「ルルーリエの個人魔法は『定着』だったね。しかし『定着』はたいして役に立たない魔法だったのでは?」
パパが首を傾げる。
個人魔法は、世界で唯一その人だけが所有する希少魔法。
所有者は、だいたい千人に一人だけど能力の落差が激しい魔法であった。人体を一瞬で再生できる個人魔法もあればお鍋に空いた穴を一瞬で塞ぐ個人魔法まで天と地ほどの差があり、人それぞれに種類が幅広くある。
なかでも私の『定着』は、せっかくの個人魔法なのに使い方のわからない魔法だった。私に前世のファンタジーやゲームの知識がなければ、生涯役に立たない魔法として忘れさられていただろうと思う。
「あのね、パパもお兄様も見ててです」
私はウサギのリュックから真っ白の紙をテーブルに出して、そこに手を置いた。
「『定着』」
ピカッと豆電球のように紙が光り、私が手を離すと紙には複雑怪奇な魔法陣が『定着』していた。
「私の聖魔法を『定着』を使って紙に残すと、聖魔法の魔法陣になるのです。パパとお兄様が怪我や病気をした時に私が側にいれば治療できるけど、私がいない時にパパとお兄様が怪我や病気をしたらどうしようと心配だったのです。それで頑張ってこれを作ったのです」
「ルルーリエ、なんて優しい娘なんだ!」
とパパは目をうるうるさせて、
「ルルーリエ、僕の婚約者は優しすぎる!」
とお兄様は片手で顔を覆って天を仰いでいる。
「それでパパにお願いというのは、この魔法陣のことなのです。魔法陣は一回使いきりなのですが、ルルーリエはたくさん作ることができるので、パパの裏の部下さんたちにパパをいつも守ってくれているお礼にあげたいのです。それとパパの表の商会で、高い治療費を払えず神殿で聖魔法を受けられない人たちのために安く売って欲しいのです」
「ルルーリエは聖女だったのか……っ!」
とパパが涙を流して悶絶し、
「父上、ルルーリエはもともと天使ですよ」
とお兄様が寒気をおぼえるような美しい微笑で厳かに宣言する。
「任せなさい。ルルーリエの存在を隠して販売するから、安心しなさい」
パパは王都における裏社会のドンだけど、表の顔は王都有数の大商人なのだ。
「私の聖魔法は、これからもずっとナイショなのですか?」
「発覚すれば神殿がうるさいからな」
「王家や貴族も煩わしくなりますよ、父上」
「「可愛いルルーリエは誰にも渡さん!!」」
パパとお兄様が声を揃える。
「パパ、もう一個お願いしたいです。魔法陣の売上の一部でスラムの子どもたちが暮らせる孤児院と通える学校を作って下さいなのです。それで適性のある子には、特別に医師と薬師の教育をして欲しいのです。ルルーリエの魔法陣は便利ですけど、突然に魔法陣が販売されなくなっても後々困らないように」
魔法陣は、きっと庶民の生活における万一のための必需品になると予測できるけど、私は10歳で死んじゃうかもだから。
「それからね、魔法陣を1枚から数枚ずつ箱に入れてね、救急箱って名前で売りたいです。パパ、お兄様、ルルーリエのお願いを聞いてもらえますか?」
「「もちろんだとも!!」」
再び声を揃えたパパとお兄様だった。
結果として。
救急箱は爆発的に売れに売れた。
聖魔法を独占している神殿が激怒して、国王に販売禁止を求めたくらいだった。しかし大勢の高位神官がバタバタと病気とか事故死とかしたために、神殿は火が消えるみたいに沈黙した。ついでに神殿とシンクロしてギャアギャア叫んでいた貴族たちも連続して病気と事故死したので、国王はひっくり返って寝込んだらしい。
くわえて神殿は聖魔法の値段を大幅に下げてリーズナブルな価格にしたので、人々は大喜びだった。
世の中、喧嘩をふっかけてはいけない相手っているんだよね。魔王様とかパパとか、特にお兄様とかお兄様とかお兄様とか。
だって小説の私が死んだ後、王都は文字通り血の雨が降ったからね。お兄様はコワイのよ。でも、そんなところも素敵なんだけど。
小説では、現世のようにお兄様から溺愛されていた様子はなかった。が、小説のお兄様も深く愛してくれていたんだろうな、きっと。
それからは順調に。
スラムから、お腹を空かして道端に座り込む子どもや餓えて犯罪に走る子どもの姿が消えて。孤児院で、お腹いっぱい食べて暖かい布団で寝て清潔な服を着て。学校で、読み書き計算の教育を受けて色々な技能を教わって。その中の幾人かは、医師や薬師の道へ進んでくれた。
救急箱は、私ひとりで作っているので枚数に限りがある。毎日、即日完売だがパパの部下さんたちには優先的に与えられていたので、部下さんたちの生存率は大幅にアップした。
よきかな、よきかな。
そうして私は10歳となり、私が死亡予定の数日前に前世のことをお兄様に打ち明けた。
私は自分が死んでしまうことよりも、お兄様が悲しむことの方がもっと嫌だったからだ。
「僕のルルーリエ、かわいそうに。怖かっただろう。大丈夫、そんな運命なんて神が相手でも許しはしない」
青い瞳に冷たい炎を滾らせたお兄様の笑顔に、先日に神殿から発表された新しい聖女となったヒロインの危険を察知した。
「お兄様、お兄様。ヒロインはまだ何もルルーリエに危害となるような事はしていないです」
「世界中の金銀財宝をかき集めたよりも貴重な僕のルルーリエ、何かあってからでは遅すぎるんだよ。危険があるならば芽のうちに摘んでしまわないと」
「それに、あの新しい聖女はオカシイんだ」
お兄様の頭の中は、あらゆる情報の宝庫だ。
「今、ルルーリエの前世を聞いてやっとわかった。聖女もルルーリエと同じく転生者だ。神殿長が違う、攻略対象者との出会いの場面がない、神殿の権威を高めるために人々の前で祈るはずなのに、なんで神殿の奥で祈るだけなの、あたしは人々にチヤホヤされて攻略対象者に一途に愛されて、お姫様のような贅沢な生活をするはずなのに! なのにどうして? 設定が狂っているわ! と毎日ぶつぶつ言っているらしい」
うわぁ、もしかしてお花畑系の転生ヒロイン?
──つまり、ヒロインはヒロインとしての自覚があるにも関わらず小説の舞台を始めようとしていたの?
あの小説では、腐敗した神殿の権力闘争に巻き添えになって、私も含めてたくさんの無関係な人々が死んでしまうのに?
知っていて、自分の幸せのために他人が死んでもいいと思ったの?
「お兄様、聖女の結界は必要です」
聖魔法は、治癒、浄化、結界、の三大魔法が有名だ。使い手もそれぞれに得意とする魔法があって、私は治癒魔法特化でヒロインは結界魔法特化だった。
「そうだな、では聖女には神殿の奥でこれからも、聖女らしく清らかな清貧で昼夜を問わず働いてもらおうか」
と、ぞっとするほど冷酷な嗤いを浮かべてお兄様が言った。
そして、5年前の救急箱の時にパパとお兄様の大粛正で利権争いが下火になっていた神殿は、私の死ぬ予定だった日になっても穏やかな湖のように波紋ひとつなく静かだった。
この日は、ずっとお兄様が私を抱き抱えていた。抱擁は優しいのに、回された腕は私を閉じ込めるみたいに拘束していて、一秒だってお兄様は私を離すことはなかった。
「ルルーリエ、ルルーリエ」
と言葉はそれしか知らないように私の名前を繰り返し呼んで。その声は目を閉じていても、私に対してどれほど愛情を抱いているのかわかるような狂おしい声音で。
私の存在を確かめるみたいに柔らかく愛おしむ仕草で撫で続けてくれたお兄様の手は、少し震えていた。お兄様の胸を占めるのは焦燥と怒りと、私をこの腕から喪う可能性への恐怖で。
「ねぇ、お兄様。お兄様は私が魅了魔法を使ったことを怒ったりしないのですか?」
「むしろ感謝しているよ。魅了魔法が僕の気持ちの箍を外してくれたんだ。僕の美貌を崇拝したり心酔したりする者は数多くいても、僕自身に寄り添ってくれたのはルルーリエだけだった。魅了魔法のおかげでルルーリエを独占できるなんて、嬉しすぎるくらいだよ」
とお兄様が煌めくサファイアのような青い瞳を蕩けさせて微笑んだ。生きた人間とは思えない蠱惑的な眼差し。身震いするほど甘かった。
まるで毒のような壮絶な艶。
視線が合うと甘やかに細まり、私の胸がきゅんと鳴った。
お兄様、10歳児にその致死量の色気の直撃はギルティです! でも、そんなところもトキメイテしまいますけど!
お兄様が、開いた窓の外へと視線を向けた。
月から吹いてきたかのような夜の風が、さざなみの如く葡萄色のカーテンを揺らす。
月は天空高くにあり、もうすぐ今日という日が終わることを告げていた。
「ああ……、運命から逃れることができたね」
ほぅ、とお兄様が安堵の息を吐いた。
「愛しいルルーリエ、僕をおいて死んだりしないでね。死ぬ時はいっしょだよ」
青い瞳に縁取る長い睫毛に涙が溜まり、透明な滴が白い頬を伝い、私の上に落ちた──海の下、奥の奥で眠る人魚がこぼした涙の一粒の真珠のように。
食い入るように私をみつめるお兄様の目元を、そっと拭い、私は小指を差し出した。
「いっしょに生きて、いっしょに死にます。約束します」
お兄様は、誓いの指輪のようにお互いの小指を絡めた。
「約束だ。天が落ちても大地が割れても僕はルルーリエの側から離れないからね。永遠に僕の名前だけを呼んで」
お兄様、そういうブラックホールみたいなところも愛しています。
やがて私は16歳となり、小指の誓いが本物の誓いとなる日がやってきた。
季節を染めていくように風が吹きわたり。
小鳥のさえずりが聖歌のごとく奏でられ。
木々の葉は拍手するがごとくざわめいて。
花々が、祝福してくれているみたいに色とりどりに咲き匂っていた。
陽光を集めたステンドグラスの光の結晶が、太陽の欠片のように月の破片のように煌めく下を、私は極上のレースと繊細な刺繍の施されたロングトレーンを長く後ろに流してしずしずと歩く。
神殿の婚儀の間は一面に霞草で埋めつくされて、花野のごとく美しく飾られていた。
床にも、壁にも、椅子にも、あらゆる場所に白い霞草が群れ咲くようにあどけなく花開いている。支柱には蔓を伸ばして絡み付くスイートピーが蝶々のように添っていた。そこにシルクやサテンが瑞々しい緑色のアイビーとオリーブを伴って結ばれ、幾つもの蜜蝋の蝋燭の火が反射して彩り鮮やかだった。
彫刻の刻まれた豪華な扉で待ってくれていたお兄様は、至福の表情を湛えている。神殿の天使の彫像よりも数倍神々しいお兄様の手には、霞草の純白のブーケ。
私の一番好きな花。
──小説のお兄様が、私のお墓に供えてくれた白い可憐な花。
ブーケを受け取り、涙の止まらなくなった私をお兄様は嬉しげに両手で枷を嵌めるみたいに抱き上げて、白い霞草の中をゆっくりと進み、祭壇の前まで歩いて行ったのだった。
読んで下さりありがとうございました。