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神棚の女神様

作者: yosuga

 長く大切に使われた物には魂が宿るという話。誰しも一度は聞いたことがあると思う。

 一番有名なのは付喪神の話。百年経ったモノは妖怪に変化するという言い伝え。

 妖怪に限らずとも、他にも昔の神話を漁れば、モノと結びついた神様の話には枚挙に暇がない。

 ただ実際のところ、その百年間一人の手で持ち続けることは人間の寿命の関係上難しい。

 得てして家族何代かにわたって大切に受け継がれたものに、魂は宿るのだ。

 きっとどの家も、そんな逸品を持っているに違いない。だから案外、超常的な存在は身近にいるものだ。

 この物語は、そんな不思議な存在と俺──社会人・江ノ島尊の場合の話だ。



「あれ?俺の部屋は?」

 ある夏のお盆休みの初日。数年ぶりに実家に帰ると、俺の部屋がなくなっていた。

「ごめんごめん、帰ってくると思わなかったのよ」

 さらりと答える母さん。

 ──正確に言えば、物置と化していた。

「これから一週間泊まるんだけど、どこで過ごせばいいんだ……」

「そうだ、空いてる部屋あるからそこを使ってよ」

 母さんの提案で、仕方なく俺は客室になっていた和室を使うことになった。それがこの夏の全ての始まりだった。



 荷物を降ろし、布団を敷く。

「まったく、物置にするならこっちの部屋を使えばいいのに」

 俺の部屋は一階でこの部屋は二階。わざわざ上にモノを運ぶのが面倒だから一階の俺の部屋が物置になったのだろうが、ベッドで眠れないのは少々寂しい。

「まあここなら十分か」

 八畳の和室にちゃぶ台もあるし、電源もある。一週間過ごすには困らないだろう。

 夏の暑さに映える畳の香り。一人暮らしの俺の家は全てフローリングだったから久しぶりの感覚だ。爺ちゃん婆ちゃんの家にはこんな和室が沢山あったっけ。

「爺ちゃん婆ちゃんの家と言えば、これもそうか」

 振り返り、部屋の片隅に目をやる。

 その先にあるのは、先祖代々受け継がれてきたこの神棚。ついこの前までは爺ちゃん婆ちゃんの家にあったものだが、最近二人が亡くなってこの家にやってきたらしい。

「それにしても立派な神棚だな」

 使い古されたそれは、神棚本来の乳白色から茶色に日焼けしていた。

 爺ちゃん婆ちゃんの家で何度か見た記憶があるが、うちの家でもこの神棚は荘厳な雰囲気を放っている。

「せめて神様には迷惑をかけないように過ごさないとな」

 そう独り言ち、なんとなく神棚に向かって手を合わせた。一週間この部屋にお邪魔させて頂きます。

「さて、荷解きするか」

 そう言って背を向けた瞬間だった。

「ん?」

 一瞬背中に気配を感じる。振り向くが、そこにあるのは神棚だけ。

「気のせいかな?」

 俺は一人っ子。うちの家族、俺の他には親父と母さんしかいない。この家に、他に誰もいるはずがないのだ。

「まさか俺にも弟や妹ができたりして?」

 子供の頃は兄弟に憧れていた。子供心に一人っ子というのは思ったより寂しいものだ。幼稚園児や小学生の頃の俺は、兄弟や姉妹のいる友達を羨ましく思っていた。

 そんな兄弟が、今できたとしたら?ニ十歳以上歳の離れた弟・妹を想像する。

「そこまで来ると兄弟というよりは最早親子だな」

 現実離れした想像に呆れ笑いが出る。

「ま、今更母さんと親父が子供作るわけないよな」

 二人とも五十歳をとうに過ぎ、六十歳の方が近い。身体的に子供を作るのがそもそも無理だろう。気を取り直し、俺は改めて荷解きを始めた。



 そのまま部屋でのんびりしているうちに、夕食の時間になる。

「どう?あの部屋」

 食事の席でそう切り出したのは母さんだ。

「どうって?」

「特に問題ないかって」

「ああ、大丈夫。もう布団も敷いたよ。一週間過ごすには十分だろ」

 気になることがないと言えば嘘になる。さっきの視線の件だ。だが、まさか「兄弟が増えた?」なんて聞くわけにも行かなかった。

「神棚あるから、あんまり散らかさないでよ。神様がいるんだから」

「神棚ねぇ……」

 部屋の隅にあった神棚を思い出す。

「あの神棚って、爺ちゃん婆ちゃんの家から持ってきたやつ?」

「そうよ。年季の入った大事な代物だからね……そっか、うちで見るの、尊は初めてよね」

「昔見たことあるのは覚えてる。まあ壊したり汚したりしないから安心してくれって」



 風呂も入り終え、部屋に戻る。既に時計は11時を回っていた。

「普段寝不足気味だし休みくらい、な」

 特にすることもないので、そのまま布団に入る。普段は一人暮らしだから、実家のありがたみが染みる。部屋の明かりを消すと、急に眠気が襲ってきた。

(やっぱりベッドの方が柔らかくて良かったなあ……ふわぁ)

 畳の硬さを感じながらも、頭は眠気で満たされる。すぐに瞼は抵抗をやめ、俺は眠りに落ちる。

「おぉ、今夜は布団があるのか」

 夢か現か、そんな言葉が耳に滑り込んできた気がした。



 翌朝。

 ふとした拍子に目が覚めた。やはり普段と違う環境だと、早く目が覚めてしまうらしい。

 窓からは夏の朝の日差しが降り注いでいる。これも目が覚めた原因だろう。

「普段から眠り足りないのに、なんで早く起きちゃうかね」

 眠気まなこを擦りながら時計を確認すると、普段の仕事の日より一時間も早い時刻だった。

「まだ誰も起きてないみたいだし、もう少し寝るか」

 幸いまだ今日はそれほど暑くない。再び眠りにつくことは難しくないだろう。

 そう思って二度寝を決めこもうと思ったのだが……

「ん?」

 布団の中に感じる違和感。

 湯たんぽを抱いて寝ているような、ポカポカした温もりを太腿のあたりに感じた。

 事実、布団のその辺りがこんもりと膨らんでいる。

 何かがいる。俺と同じ布団の中に。

(うちの家には親父と母さんしかいないはず)

 そう考え思い出すのは昨日の想像。

(兄弟……?いやいや、それはないだろ)

 ペットでも飼い始めたのだろうか?

「犬を飼うにしても、せめて布団に潜り込むのは勘弁してくれよ」

 思ったより冷静に振舞う自分に驚きながらゆっくりと布団を捲る。しかし待っていたのは予想から大きく外れたものだった。

「は?」

 現れたのは、和服姿の小さな女の子。

「すぅ……すぅ……」

 小動物のように背中を丸め、静かに寝息を立てて眠っていたのだ。

「誰だこれ……」

 記憶を探るが、こんな女の子は見たことがない。

 長い黒髪に整った顔立ち。そして一際目を引くのは和服姿。イメージで描く大和撫子とはまさにこのことだろうが、和服姿で寝ているとはどういうことだろう。

……そして中々に胸が大きい。体型に不釣り合いな豊かな胸元が、眠っている間に緩んだ服の隙間から顔を覗かせていた。

「犬猫よりある意味厄介かも知れないな、これ」

 この光景を母さんや親父に見られたらどう思われるか。

 股の間で眠る存在に手をこまねいていると、先に女の子の方が目を覚ました。

「ん……朝か」

 ぱちぱちと瞬きすると、その女の子は伸びをする。

「こやつの身体はなかなか温かかったのう」

 俺の方をちらりと見て呟く彼女。どうやら俺のことを言っているようだが、何か違和感を感じる。

(なんだその言い方。俺に話しかけてるわけじゃないのか?)

 まるで独り言のような言い草だ。

「さて、今日も一日頑張るかの」

 立ち上がって神棚の前まで行くと、そのまま手を合わせ始めた。

 彼女の行動に呆気にとられる俺だったが、思い切って声をかけてみる。

「ねぇ、君」

「ひゃいっ!?」

 俺の声にびくりと身体を震わせる女の子。

「な、なんじゃ!?誰じゃ!?」

 勢いよく振り向き辺りを窺う彼女。

「まさかお主、わらわが見えるのか!?」

 眉根に皺を寄せた女の子と目が合う。

「え?あ、うん」

 どう答えてよいかわからず、しどろもどろに答える。一方で彼女の瞳には、期待で染まりつつあった。

「いやぁ久方ぶりじゃなあ、わらわのことが見えるとは」

「見える?」

 まさかお化けとでも言うのだろうか?

「でもなぜじゃ?なぜわらわが見える?」

「そんなこと言われてもな……」

 見えるものは見える、聞こえるものは聞こえるとしか言いようがない。

「お主、何者じゃ?名を申せ」

 立ち上がり、俺の方に詰め寄ってくる。その小さな身体から発せられる奇妙な威圧感に、俺も一歩、二歩と後ずさる。

「君こそ何者なんだ」

「お主が名乗ったら教えてやる」

 全く引く様子の見えない女の子。

「なんで君が主導権握ってるんだ……俺はこの家の人間だぞ」

「この家の?」

「ああ。俺は尊。この家の夫婦の息子だよ」

「尊……たける……あっ!」

 何かに気づいたのか、大きな声を上げる。

「そうか……お主か」

 一瞬わずかに遠い目をしたような気がしたが、すぐに戻る。

「なんのこと?」

「ん?ああ、あの二人──お前の両親が話してるのを聞いたんじゃよ」

「ああ、なるほど」

 一瞬彼女の目が泳いだ気がしたが、見間違いだろう。

「さて、わらわの話もせんとな」

 さっきまでのプレッシャーが嘘のように物腰が柔らかくなる女の子。

 居住まいを正し、布団の上で俺と彼女は向き合った。

「わらわもまた”この家の子”じゃな」

「この家の子!?」

 目の前の女の子の発言に耳を疑った。

「まさか母さん、本当にあの年で子供産んだのか?」

 昨日の酔狂な想像が頭を過ぎる。

「何考えてんだ……というよりどうなってんだ二人の身体」

 この年になって妹ができるなんて!思わず頭を抱えてしまう。

「まったく、お主は面白いのぉ」

 そんな俺とは対照的にくすくすと笑う女の子。

「”この家の子”とは言ったが、あの夫婦の子とは言っておらん」

「は?」

 言いたい事が呑み込めない。一方で小馬鹿にしたような笑みを漏らし続ける女の子。

 俺はからかわれてるのか?

「わらわの”親”はこれじゃ」

 女の子が示したのは、部屋の隅にあった例の神棚だった。

「神棚?どういうこと?」

「わらわは神棚の神様なんじゃ」

「神棚の神様ぁ?」

 意味不明の発言だ。子供の戯言かと思うと、頭が痛くなる。

「君、頭大丈夫?もしかして記憶を失ったり?」

「たわけ!わらわはれっきとした神様じゃぞ!」

 俺の言葉に憤慨する自称神様。

「いきなりそんなこと言われてもな……神様なんて見たことないし」

 確かにこんな幼女の見た目をしておきながら和服を着て年寄りじみた話し方をする存在など、まともな存在ではないのだろうが。

「何か証拠はないの?」

「それなら……これでどうじゃ」

 言葉と共に神様の姿が部屋の空間に溶け、見えなくなってしまった。

「うわっ、マジか…」

 その光景はさながら幽霊。どうやら超常の存在であることは間違いないらしい。

「これでわかってもらえたかの?」

 得意げな声が何もない空間から聞こえる。

「わかった、とりあえず普通の人間ではないってことは信じるよ」

「神様と信じて欲しいものじゃが……」

 神様はまだ不服そうだ。

 このままだと埒が明かない。話題を変えてみる。

「神棚に祀る神様って、神社の神様じゃないのか?」

 神棚を覗くと、有名な神社のお札が置かれていた。

「家でも神様を祀るためのものだろ?神様は誰かの家だけのものってわけじゃないし。うちは神社の家系でもなかったよな?」

 自分の神棚に関する浅い知識を総動員し、自称神様の言葉を理解しようとする。

「あー、言い方が悪かったな」

 ばつが悪そうに頬を掻く神様。

「神様は神様でも、付喪神みたいなものじゃ」

「付喪神?」

「そう。長年大切に使われた道具には魂が宿るというじゃろ?」

「あ~……」

 小説で読んだことがあった……気がする。長年使われたモノには魂が宿るとか、妖怪に化けるとか。

「お札ではなく、あの神棚そのものに宿っている神様ってことじゃ」

「でも付喪神って、妖怪とかその類じゃなかったっけ?」

「わらわを妖怪と申すか!」

 妖怪と言う言葉を耳にした瞬間、プリプリと怒り出す神様。

「数百年前に由緒正しき御神木から作られた神棚なのじゃ。成り方は付喪神と似たようなものじゃが、妖怪ではあらぬ」

「はあ……」

 ややこしい言い回しだが、俺としてはそういうことだと理解するしかない。

「それで、俺の両親は神様のこと知ってるのか?」

「恐らく知らんじゃろ、普通の人間にわらわの姿は見えん」

「そうなのか?」

 記憶を呼び起こす。確かに両親──いや爺ちゃん婆ちゃんも、それらしい素振りはしたことがなかった。

「じゃあなんで俺は見えるんだ?」

「さあ?なんでじゃろうなあ?」

 俺の疑問に神様は曖昧な返事で返す。

「知ってるの?」

「わらわがなんでも知ってると思うなよ?」

「面倒な神様だな」

 まともに取り合っていると疲れそうだ。話半分に聞いておこう。そう思った矢先だった。

「それでここからが本題なのじゃが」

 ずい、と俺に顔を寄せる神様。見た目は幼女にも関わらず、纏っている妖しい雰囲気にどきりとする。

 これが神様の持つオーラなのだろうか。魅入られたように彼女の瞳から目が離せない。

「お主、わらわの相手をしてくれぬか?」

「相手?何の?」

「何って、まぐわいに決まっとるじゃろう」

「は?」

 また素っ頓狂なことを言い出した。

「わらわはこういう身分故、相手がおらんのじゃよ」

「神様同士じゃダメなのか?」

「神様同士でまぐわうことはできるのじゃが、わらわはちょっと事情があってな」

「ふ~ん……」

「わらわの見えるお主なら、当然わらわに触れることができる。抱くことなど造作もないはずじゃ」

 そう言って神様は俺の手に触れる。柔らかい、見た目通りの少女の手だった。

 手と手を介して行われる熱交換。今俺は、神様と繋がっているのか。

「でもいくらなんでもいきなり過ぎるだろ」

「そういいつつ、わらわの身体が気になっとるんじゃろ?」

 俺の心の内を見透かすように、目を細める。

「今もお主から邪な気配を感じるよ。男としてはやっぱりコレが気になるか?」

 そう言うと、小学生サイズの身体に不釣り合いな双丘に手をやる神様。

「別にそういうわけじゃ」

「ほれ」

 神様が帯を緩めると、服の戒めから放たれた胸元が隙間から顔を覗かせた。

 窓から差し込む夏の日差しに照らされ、白い素肌が煌めき、俺の心を誘惑する。

 言葉では反論しながらも、俺の意識は神様の身体に吸い寄せられていた。

「可愛いのう、お主は」

 クスクスと笑う神様。悔しいが、完全に遊ばれている。

「だからってここで、このサイズの子とするのか?」

 神様の身長は小学生サイズだ。そんな彼女と事を致すのは少し気が咎める。それに他の部屋では、親父や母さんが寝ているのだ。

「サイズは関係なかろう!とっくの昔に成人しとるわ」

 憤慨する神様。

「ええい、しない言い訳ばっかり探しおって!」

 怒った神様は勢いよく俺を布団に押し倒す。

 予想外の力強さに俺が怯んだ隙に、神様は俺に馬乗りになった。

「ちょっ……本気かよ神様」

「お主はわらわに任せておけば良い。年上らしくリードしてやるわ」

 抵抗しようと思えばできるだろう。だがやはりこの幼女姿に力を振るうのは気が引けた。

「そうじゃ、それで良い」

 神様から目が離せない。気が付くと俺は、暫くの間神様の為すがままにされていた。



 俺が目を覚ましてから一時間弱が過ぎた。身体を重ねた俺たちは、二人して布団の中で横たわる。

「初めてにしては上出来じゃ尊よ。なかなか気持ち良かったぞ」

 楽しげに笑う神様。

「神様こそ手慣れてるんだな。神聖な存在だと思ってたから意外だった」

「昔から神話なんて愛と肉欲に塗れてるじゃろ。人間と変わらん」

 とんでもないことをさらりと言ってのける神様。

「しっかし、人間と交わるのは格別じゃな」

 満足そうに眼を細めると、こちらに寄りかかってきた。彼女の髪が背中にかかり、少しくすぐったい。

「もしかして、神様の性欲の発散に付き合わされただけ?」

「お主も卒業できたのだからええじゃろ、うぃんうぃんというやつじゃな」

「エロ神様としたのは数にいれていいのか?」

「尊は本当に失礼なやつじゃな」

 そう言いながらも幼児体型には似合わない、優しい眼差しで俺を見る神様。

 何年生きて来たのかは知らないが、その瞳は分厚い歴史の色を湛えていた。

「そういえば、神様には名前ってないのか?神様神様って呼ぶの変じゃないか?」

「そうじゃな……特に名前で呼ばれたことはないな」

 何か考えている様子の神様だったが、やがて俺に目を合わせた。

「お主がつけておくれ」

「ええ?」

 神様の提案に困惑する。

「急に名前をつけろって言われたってなあ、生き物に名付けたことはあるけれど」

「子供もいないお主には難しかったかな?」

「いちいち癇に障る神様だな」

 そう言いながらも改めて神様を見回す俺。小学生サイズの身長に大きな胸、整った綺麗な黒髪に和服。第一印象の通り、一言で言うなら大和撫子だ。

「あぁん、あまりいやらしい目で眺めてくれるな」

「いや、大和撫子ならこんなにでかくないか?」

「何を言うとるのじゃ……」

 呆れる神様。

「見た目からじゃピンとこないな。後は材料になる要素は……」

 そう思い返し、あることを思いつく。

「神様って何の力があるの?」

「力?」

「御利益だよ。神社だと無病息災とか交通安全とか学業成就とか、色々あるだろ」

「むぅ……御利益か」

 暫し悩む様子を見せる神様。

「強いて言うなら、健康じゃろうか」

「健康か……それなら天照大神が一番有名かな」

天照大神──日本神話の中でも一二を争う知名度の神様だ。かの神様は健康も司っていたはずだ。

「随分大きく出たのう。だがわらわほどの神様には申し分ないじゃろ。今日からわらわは──」

てるだな」

 神様の言葉を遮り、先に命名してしまう。

「何じゃと!?」

「流石にアマテラスだと図々しいだろうから、一文字だけ貰おう」

 ノートに筆を走らせ、神様に見せる。

「いい名前じゃろうがアマテラス」

「5文字は呼びにくいしさ、テルの方が馴染みやすくていいと思うよ」

「でも、でも」

 余程アマテラスを期待していたのか、子供のように駄々をこねる神様。

「それに俺に名付けてくれって言ったのは神様の方じゃないか」

「くっ……」

 ダメ押しの一言。そこまで言うと、神様は黙ってしまった。

「これからよろしく、照」

「覚えておれよ!」

 そういうと照の姿は見えなくなってしまった。

 照がいなくなった途端、俺の部屋はすっかり静かになる。

「全く、なんだったんだ」

「あれ、もう起きてるの?」

 部屋の外から聞こえるのは母さんの声だ。

「なんだか朝から物音が聞こえた気がするけど」

「ああ、ごめん。ちょっとゲームしてて」

 慌てて取り繕う。照の声は聞こえてないはずだが、俺の声や行為の物音は聞こえていたのかもしれない。

「早く起きてきなさいよ。休みだからっていつまでもダラダラしていたらダメ」

「わかってる」

 そう言うと、母さんの足音は遠ざかって行った。

「とりあえず、後始末しておくか……」

 散らかった布団の上を一人寂しく片付ける俺だった。



 朝食を終えると、母さんも親父も出かけてしまった。

 がらんと静かになった我が家。自分しかいないことを確認すると、神棚に向かって呼びかける。

「おーい照、出てきてくれよ」

「わらわは照で納得したつもりはないんじゃかな」

「うわ、びっくりした」

 畳の上で胡坐を掻く照。何もない空間からヌッと現れるのは心臓に悪い。

「それで、何の用じゃ?」

「何の用じゃ?じゃないでしょ」

 俺も布団の上に腰を下ろす。

「とりあえず、照のこともっと色々教えてくれよ」

「先にお主の方から語るのが筋じゃろ」

 ふんと鼻を鳴らす。余程アマテラスが良かったんだろうか。

「気難しい神様だなあ」

 仕方なく、俺は自分の身の上を語る。普段は一人暮らしで、お盆休みにこの家に帰ってきていること。趣味のこと、仕事のこと。……そして、独り身であること。

「時代は変わったものじゃなあ。人間なんぞ昔から年端も行かぬころからまぐわっていたと言うのに」

「そんな目で俺を見るなよ……」

 憐みや同情の色を含んだ照の視線。幼女の姿でその視線を向けられるのは、心に刺さる。

「俺ももう少し昔に産まれてたら、彼女いたのかなあ」

「まあええじゃろ、わらわとまぐわったのだから。神様と身体を重ねるなんざ、そうできる経験ではあるまい」

「確かに」

 初めての俺にとって、十分すぎるほど刺激的な体験だった。

 それに照の身体だ。リアルでは早々お目にかかれないスタイルだけに、倒錯的な感覚に襲われた。

「余程わらわの身体が気に入ったと見える」

「別にそんなんじゃないよ」

「口元が緩んでおるぞ」

「うるさいな……」

 勝ち誇ったように邪悪な笑みを浮かべてみせる照。

「またしたくなったら相手してやるぞ?」

「照がしたいだけなんじゃないのか?」

「し、失礼なことを言うでない!わらわはお主のことを思ってだな」

「アマテラスじゃなくて恋愛や色欲の神様から名付けた方が良かったか?アフロディーテとかエロスとか」

「なんじゃその神様は……」

 その後も俺は照に自分のことを話し続けた。



「それじゃ、今度は照の番だな」

「とは言っても、さして語ることはないぞ?」

 腕を組む照。知ってか知らずか、その豊かな胸が持ち上がる。

「わらわはずっとこの神棚と一緒にある。良くも悪くもな」

僅かに照の顔が曇る。

「そっか、付喪神……」

 照の言葉を思い出す。彼女はこの神棚に縛られているのだ。

「家の外に出られたのは、この家に来た時のように受け継がれる時だけ。その時だって、トラックの中じゃったしな」

「なかなか難儀だな」

 悠久の時を生きる存在でありながら、行動圏は非常に狭い。変わり映えのしない毎日が、何十年単位で続くのだ。

「だからわらわが語ることができるのは家の歴史だけじゃよ」

 皮肉っぽく笑う照。その表情が痛ましくて、俺は努めて明るく振舞った。

「いいじゃんか、歴史。俺たち人間には大昔の話なんてできないからな。照の話、聞かせてくれよ」

「お前も物好きじゃな」

 ふっと笑う照。そうして彼女は自分の生きてきた『歴史』を語り始めた。



「驚いたな……江戸時代から生きているのか」

 曰く、江戸時代初期に照という存在は成立したらしい。

 照が語った話が本当かどうか俺には確かめる術はない。だが目の前にいる超常的な存在と身体を重ねた俺は、今更疑う気持ちにはならなかった。

「ざっと三百年から四百年じゃな。木の時代も含めれば一千年レベルじゃが、わらわがわらわとなったのは神棚ができてから暫くしてからじゃし」

「気が遠くなる時間だ」

 現代人の寿命で考えても、四、五倍を生きていることになる。そんなもの、創作上の存在でしか見たことがない。

「この神棚と一心同体ってことだから、もしこれが壊れたり燃えてなくなったら照もいなくなっちゃうってこと?」

「そういうことじゃな」

 我が子のように神棚を撫でる照。

「経験した戦争は太平洋戦争くらいじゃったが、ここまで生き永らえたのはひとえに代々の家系のお陰じゃ」

「大事にされてきたんだな」

「わらわが長生きしていたお陰で──おほん、なんでもない。とにかくお主も大事にするんじゃぞ」

「は~い」

 俺も神棚に手を合わせた。

「そうじゃ尊、丁度お盆だしアレを作ろう」

 何か思いついたらしく、照の顔が明るくなる。

「アレ?」

「精霊馬じゃよ、精霊馬」

「精霊馬?」

「なんじゃ、知らんのか」

 呆れて鼻を鳴らす照。

「きゅうりとナスで作る置物じゃよ」

「ああ、アレのことか」

 ようやく合点が行った。

「確かにうちでは作ったことがないな。俺が覚えている範囲で親父や母さんが作っているのも見たことがないと思う」

「罰当たりじゃなあ……それじゃ今から作るぞ」



 キッチンで冷蔵庫の中を漁る照。

「よしよし、きゅうりもナスもあったぞ」

 戦利品を両手に喜ぶ照。その子供らしい仕草に、俺も自然と目尻が下がる。

「今更なんだけどさ、照」

「なんじゃ?」

「俺は照のこと見えてるからいいけど、他の人からはどう見えてるんだ?きゅうりやナスが浮いて見える?」

「なんじゃ、そんなことか」

 長い黒髪を掻き上げる。

「簡単な理じゃよ。わらわの手で触れているものは見えなくなり、離れると見えるようになる」

「つまり今この光景を見てる人には、そのきゅうりとナスは見えなくなっているのか」

 ポルターガイスト現象のようなことが起こっているのかと思ったが、その辺りは問題ないらしい。

「わらわもモノに触れる時は人がいない時にと気を遣っているよ」

「ならいいけどな。母さんや親父に見つかったらびっくりするだろう」

「ただ二人とも、時折ものの場所が動いているから首を傾げておる」

「おいおい……」

 頭が痛くなる神様だ。



「これでよし、と」

 精霊馬作りは簡単に終わった。

「ご苦労、簡単じゃったろ」

 作った精霊馬を飾ってみる。

「なんだかバランスが悪いな」

 割り箸の切り方が雑だったせいか、俺の作ったナスの精霊馬は若干前傾姿勢になってしまった。

「ふふっ、尊は不器用じゃの」

 これ見よがしに照は自身のきゅうりの精霊馬を俺の作ったものも隣に並べた。こちらはきっちり四本の足でしっかりと立ち、バランスが取れている。

「流石ベテラン」

「もっと褒めても良いのじゃぞ?」

 二頭の精霊馬を改めて眺める。

「初めて作ったけど、風情があるな」

 テレビや写真でしか見たことがなかったが、これはなかなかどうして絵になる。

「そうじゃろ?」

 誇らしげに言う照。

「わらわが生まれた頃には人間は皆やっておったぞ。ご先祖さまを敬う文化が根付いておった」

「ご先祖を敬う、か」

 俺が面識のあるご先祖は母方の爺ちゃん婆ちゃんだけだった。子供の頃はよく遊びに行って可愛がってもらったのを覚えている。

「まあ昔と今じゃ考え方も違うからな。寂しいが時代の流れかも」

「そんな大昔の話でもないわ。お主の爺様婆様なんざ事あるごとに神棚や仏壇に向かって祈っておったでな」

「はいはい。まあせっかくだし俺もしっかり祈っておくよ」

 そう言うと精霊馬に向かって手を合わせる。目を瞑り、ご先祖様を思い描き──と言っても直接知っているのは爺さん婆さんだけだが──簡単にお祈りをする。

「今後ともよろしくお願いします」

「うむ、それでよい」

 満足そうに頷く照。

 こうして俺の夏休み二日目は幕を閉じた。



「暑い……」

 帰省三日目。

 今日は朝から30℃をゆうに超え、うだるような暑さが俺たちを苛んでいた。

 開け放った窓を通し、外からは絶えずセミの鳴き声が響いて来る。夏の風物詩ではあるが、その騒々しい音は暑さを増幅させている気がしてならなかった。

 こんな日は何もする気にならない。

「ほんとじゃ……いつからこの国はこんなに暑くなったんじゃ……」

 照も布団の上でぐだぐだしている。

「今更だけど、暑さや寒さは感じるんだな」

「感覚は人間と同じようにあるぞい」

「あ、そっか」

 身体を重ねたことを思い出す。

(あの時もあったかいとか言ってたっけ)

 俺との交わりに温かさを感じていた照。温覚は備わっているらしい。

「な、なんじゃ尊。口元が緩んでおるぞ」

 怪訝な顔をする照。

「ぅあっ、ごめんごめん」

 追及されるのも面倒なので話を戻す。

「やっぱり昔はこんなに暑くなかったのか?」

 昨今は温暖化だのなんだので気温が上昇していると言われている。

「そうじゃな、今より風もよう吹いておった。水浴びも簡単にできたし」

「確かに江戸時代には機械とかないしな、建物も多くないから風の通りも良かったのか」

 二酸化炭素排出の増加の要因の一つに産業革命が挙げられる。江戸時代は蒸気機関などはなかったから、今よりずっと涼しかっただろう。

「それじゃそんな照に……ほい」

 冷たい麦茶をグラスに注ぐ。

「お、気が利くのう」

 グラスを掴むと、そのまま豪快に飲む照。

「ぷはぁ、暑い日は麦茶に限る」

「女の子らしさの欠片もないな……」

「やかましいわい」

 そのまま一気に飲み干し、空にしてしまった。

「尊、この部屋は冷房はないのか?」

「普段人が使わない部屋についてるわけないだろ……扇風機で我慢しろって」

 部屋の隅で回っている扇風機を指差す。

「これじゃ気休めにしかならんのじゃ」

「そうか?あるかないかで全然違うと思うけどな」

「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”」

「子供か」

 こういうところだけ見ると、本当に子供だ。夏休みで遊びに来た親戚の子供にしか見えない。

「他の部屋で冷房をつけるのはどうじゃ?」

「朝からつけてると母さんがうるさいんだよ」

「難儀な家じゃなあ」

 そう言うと、照は自らの着物の帯に手を掛ける。

「ちょ、何やってんだよ」

「せめて服を脱ごうかと」

「脱ごうかと、じゃないんだよ。俺がいるだろ」

 俺の反応とは対照的に、鼻で笑う照。

「一度身体を重ねた仲じゃろうに。今更そんなことを気にするのか尊よ」

「あのなぁ……」

「そうじゃ、尊も脱げばよい。そのまま気が向いたら身体を重ねて……」

「照」

「冗談じゃよ」

「どうだかな」

 呆れてものも言えないとはこういうことだ。神様は人間より余程煩悩に支配されているらしい。

「それならシャワーでも浴びるか」

「風呂で水浴びか。確かに風呂なら脱いでも問題あるまい。善は急げじゃ、行くぞ尊よ」



 早速風呂場で服を脱ぐ俺と照。

「そういえば照って普段お風呂に入るのか?」

 ふと頭に湧いた疑問を口にする。

「昔は川で水浴び、最近は人が誰もいない時に気が向いたら入るようにしとるよ」

「ニートみたいだな……」

「まあ風呂に入らなくとも迷惑は掛からんからな。普通の人間には匂いがするわけでもあるまい」

「俺と一緒にいる間はしっかり入ってくれよ。臭いの嫌だし」

 昨日は特に感じなかったから、風呂に入っていたんだろう。

「全く、淑女のわらわに匂いで説教とは失礼極まりないのう。お主こそわらわを抱きたければ清潔にするんじゃぞ?」

「人間である以上当然の責務だよ、それは」

 服を脱ぎ終わる。やはり裸になると、大分涼しく感じられる。

「それなら尊と一緒に入るのが面白そうじゃな」

 また楽しみを見つけたというようにけらけらと笑う照。

「尊、服を脱がしてたもれ」

「はいはい」

 緩んでいた帯を解くと、着物の前が開き白い素肌が露わになる。

「おお……」

 一度目にはしているものの、その体躯に見合わない果実に再び目を奪われる。

「ふふん、もう尊はわらわにめろめろじゃな」

「まあこの身体は実際凄いと思うよ」

 現実で探してもそうそうおるまい。人間ではないからこそ成立した奇跡の産物。

「触りたいか?ほれほれ」

 わざとらしく身体を揺する照。だがここで挑発に乗れば照の思うツボだ。

「はいはい、みんな戻ってくる前に風呂に入るぞ」

 脇に手を回すと、ひょいと照を持ち上げる。

「軽っ!」

「あ、こら尊!子ども扱いするな!」

 抗議の声を無視し、そのまま照を抱えて風呂場に入る。

「はい、シャワー」

 取っ手を捻ると、冷たい水が勢いよく吹き出す。

「ひゃわっ……あぁ~、気持ち良いのう」

 椅子に座った照の頭からシャワーをかけると、犬のように気持ちよさそうに目を細める照。

「こうやって風呂に入れてると、父親と娘みたいだな」

 照は胸以外は平均的小学生サイズだ。傍から見れば仲睦まじい親子に見えるに違いない。

「年齢的には婆さんと孫どころの差ではないのじゃけどな……尊、頭洗ってくれ」

「はいよ」

 シャンプーを手に取り、シャカシャカと照の頭を洗う。

「これ、乙女の髪じゃぞ。もう少し丁寧に洗わんか」

「乙女って辞書で引き直してこい……それにしても長い髪の毛だな」

 腰辺りまである髪を先まで洗ってやる。

「昔は長い髪の毛は美の象徴だったからの」

「それはまあ今も変わらないんじゃないか」

「それじゃ尊は長髪と短髪、どっちの方が好みじゃ?」

 そう言って振り返った照は、意地の悪い笑みを浮かべていた。

「髪の長さで好き嫌いを判断するような男じゃありません」

「言いよるのぉ」

「だけど照の髪は好きだよ、さらさらして綺麗で。ずっと触っていたいな」

「あぐっ!?」

 奇妙な悲鳴を上げ、身体をびくりと震わせる照。

「ど、どうした?」

「どうもこうもない……お主がいきなり妙な事を言うからびっくりしたのじゃ」

「妙な事?」

 素直に褒めたつもりだったが、直撃してしまったらしい。

「意識せずに言ってるのならとんだ女殺しじゃな。そういう言葉は無暗に言うものじゃないぞ」

 照のジト目を見ながら己の言葉を反芻する。自分の身体の特徴を異性に褒められて気分を良くしない者はいないだろう。

「そ、そうだな。気を付けるよ」

 そんな話をしている間に髪は泡塗れになった。

「それじゃそろそろ流すぞ……って」

 肩越しに照を見ると、豊かな胸元に泡が沢山零れていた。

「どうした?……ははん、まーたわらわの身体を見ておるのか」

「別にそういうわけじゃ」

「ではわらわの背中に当たっておる固いのはなんじゃ?答えてみよ」

「うぐっ」

 正直な話、洗面所で着替えている時から俺の心は苛まれていた。なんとかここまで堪えていたのだが、この艶姿にトドメを刺されてしまったのだ。

「ふっふっふ、案ずるな尊。悠久の時間で培われたわらわの技でお主をまた一歩大人にしようではないか」

 くるっと振り向くと、獲物を前にした獣のようにニヤリと笑う照。蛇に睨まれた蛙。俺は照を前にして、どうすることもできなかった。




「風呂ですれば始末も簡単で楽じゃな」

 散々はしゃいだ後、改めてシャワーを浴びる。

「全く、2日連続じゃないか」

「わらわは何百年ぶりだと思っておるのじゃ。これくらい許せ」

 さらっと言ってのける照。

「それにお主も気持ち良かったんじゃろ?良い声で鳴いておったではないか」

「まあそれは……」

 熟練の技と言っていたが、その言葉に偽りはなかった。

「今までどのくらいまぐわってきたんだ?」

「おっ、やはり気になるか?」

 待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる照。

「やっぱりいいや」

 藪を突いてしまったことに気づき後悔するがもう遅い。

「そうは行かぬ。先に訊いたのはお主じゃろ」

「はいはい、聞きます聞きます」

 仕方なく耳を傾ける。

「なーんて勿体ぶってはみたが、こればかりは乙女の秘密じゃ」

「なんじゃそりゃ」

 そりゃないだろう。

「お主こそ、今身体を重ねた女の恋愛遍歴を聞いて嬉しいのか?だとしたら相当の物好きじゃな」

「……おっしゃる通りでございます」

 照の恋愛語りを聞いて興奮できるほど、俺の性癖は歪んでいない。

「まあ生きてきた年数が年数だからな、一度や二度ではないとだけ言っておくよ」

「まあそりゃそうだよな」

 ふっと息をつく。そもそも最初に身体を重ねた時点でわかっていた話だ。

「なんじゃ?処女じゃなくて幻滅したか?」

「ばーか。その年で処女の方が余程怖いよ」

 そう答え、エッチで汚した身体を泡に塗れた手で洗ってやる。

「ひゃうっ!た、尊!くすぐったいっ!やめんか!」

「いつでもしたくなった時のために、きっちり洗っておかないとな」

 後ろから腋の下に手を差し入れると、そのままつるりとした肌を指先で”洗ってやった”。

「覚えておけよおおほほほほほほっ!」

 身体を流し終えるまで、風呂場には照の笑い声が響いていた。



 四日目の朝。

「たまには外に出ないと、ねぇ」

 帰って来て既に2日が経っていたが、まだ一度も外に出ていないことに気づいた。

 母さんにそれを言うと、近所までおつかいを頼まれたのだ。

「そんなこと言っても、この暑さじゃ外なんか出たくないよな」

 玄関から一歩外に出る。風があるから若干涼しいようにも感じたが─

「日差しがギラギラすぎるな」

 帽子を被り直し、改めて外に出る。目的地は近所のスーパーだ。

「それじゃ行くか……お?」

 家の裏手から物音が聞こえる。

「庭の方かな?」

 うちには小さな庭がある。ここで母さんが家庭菜園をしていたはずだ。

「あれ、照じゃん。こんなところにいたのか」

「お、尊か」

 庭にいたのは母さんではなく照の方だった。庭の隅でしゃがみ込んで何かやっていたようだ。

「何やってんだ?」

「見ればわかるじゃろ?土いじりじゃ」

 そういって照は小さな鉢を見せる。土の中から高さ50cmほどまで何かの植物が丈を伸ばしていた。

「随分でかいな」

「母上に秘密でこっそり育てておるのじゃ」

 にっと悪戯っぽく笑う照。

「これ……もしかして向日葵?」

「ご名答。ここまで育てば、もう数日で咲くはずじゃ」

 得意げに笑う照。

「向日葵って大きいし目立たないか?これだけでかくなったら、そろそろ母さんに見つかりそうなもんだけど」

「尊は甘いのう」

 そういうと、照は家の屋根を指差す。

「屋根の上で育てれば見つからん」

「なるほど……ってアホか」

 そのまま流されそうになったが、なんとか突っ込む。

「変な家だと思われるだろ!」

「そうか?一々他所の家の屋根なんて誰も見てないじゃろうて」

「そんなことないだろ」

 俺も屋根を見上げる。あそこに向日葵の植木鉢が一つ置いてあったとしたら……

「うん、絶対おかしいよ」

 現代芸術の家か何かと思われるに違いない。

「それに落っこちて人の頭に当たったらどうすんだ」

「ええ~、いいじゃろ、もう少しで咲きそうなんじゃよ」

 上目遣いで俺を見る照。その目はずるいだろう。

 娘にせがまれる親の気持ちとはこんなものなのだろうか。

「仕方ないな……上手いこと目立たないようにしといてよ。落ちないように固定もしておくこと」

「話がわかる男は大好きじゃぞ」

 俺の渋々の返事に、照は嬉しそうに笑う。

「それにしても、なんで向日葵なんだ?」

「夏と言ったら向日葵じゃろう」

 空を見上げる。サンサンと降り注ぐ太陽が眩しい。

「一夏の間太陽を目指して生きる向日葵の趣深さと儚さが気に入っておる」

「神様にもそういう感覚はあるんだな」

「向日葵が日本にやってきた時は大層人気になったものじゃ」

「そうなのか」

「江戸時代に入ってきたんじゃよ。わらわが生まれてまもなくだったと思う」

 意外な情報だ。やはり照の話は面白い。

「咲くのを楽しみにしておれ」

「こっちにいる間に咲くといいな」

 そこまで言って本来の目的を思い出す。

「俺、これから近くまで買い物行ってくるよ。照は行く?」

「阿呆が。わらわは外に出られんといったじゃろ」

「っとそうだった、ごめん」

 無神経な発言だった。

「それじゃお詫びに何か買って来てやるよ。何がいい?」

「それなら冷たいものを買って来ておくれ。今日も暑くて敵わん」

 ぱたぱたと着物の袖で顔を仰ぐ照。

「了解、ちょっくら行ってくるわ。熱中症にならないように気をつけろよ」

「その言葉、そっくりそのまま返してやるわい」



「ふー、生き返るなぁ」

 片道十五分歩き、ようやくスーパーまで辿り着く。冷房がよく効いた室内に入ると、纏わりついた熱が引いていく。

「くしゅん!……ただこれはこれで効きすぎかもな」

 寒暖差で風邪を引いてしまいそうだ。Tシャツ一枚で来たのが仇になりそうな冷え加減だ。

「外に出たくないけどあんまり長居するのも身体に悪そうだ」

 そう考えると、すぐに買い物を始めた。



 母さんに頼まれた品物を買い物かごに入れていく。

「ざっとこんなものか……あとは照へのお土産だな」

 冷たいものを頼まれたことを思い出す。

「冷たいもの冷たいもの……アイスにしようかな」

 売り場の巨大冷凍庫には所狭しと様々なアイスが並んでいる。

「棒にカップ、パックタイプ……何でもあるな」

 どれを買うか考えながら、照がアイスを食べる姿を想像する。

『尊~、もう一本持って参れ』

「神様の威厳も何もあったもんじゃないな」

 だらけた照の姿を想像し、苦笑する。何個かまとめて買っていくことにしよう。


 会計を終え、スーパーを出る。

 外に出た瞬間、熱気が身体に叩きつけられる。

「うげっ、勘弁してくれよ」

 時計は既に十一時を回っていた。お昼が近づくにつれ太陽が上り、気温もここに来た時より上昇していた。

「ちょっと荷物多くなっちゃったな……買い過ぎたか」

 両手の買い物袋はぎっしり。重さも中々だ。この猛暑の中帰るのはしんどいが、他に手はない。

「アイスが溶ける前に早く帰らないと」

 俺の帰りを待っている照を思い浮かべる。早くアイスを食わせてその駄目神様姿を拝んでやりたい。

 保冷バッグに入れてはきたが、のんびりしていると溶けてしまうだろう。

 俺は足早に歩き始めた。



 炎天下の中、帰りの坂道を上る。

「こんなに買うんじゃなかった……」

 母さんからの頼まれもの以外に、照のアイスなど色々買った重みがのしかかる。

 買い物バッグの持ち手が食い込み、千切れそうになる。歩くスピードは一向に上がらず、のろのろと歩を進める。

「親父が帰って来てからにすればよかったな」

 車は朝から親父が使っているせいで歩かざるを得なかった。隣を悠々と通り過ぎて行く車が恨めしい。

「はぁっ、はぁっ……」

 次第に息が上がって来る。身体中の汗腺から汗が吹き出し、肌を滑り落ちるのが分かる。

 先程までよく冷えた部屋にいたことで余計に身に応えているのかもしれない。

「ったく……もう少し節電しろっての」

 そんなどうしようもない悪態も、立ち昇る陽炎の中に消える。

「はぁっ……はぁっ……」

 なんとか坂を上り終えると、うちの家が見えてきた。

「あとちょっ……とだ」

 しかし俺の身体も異常を訴え始めていた。

「ひゅぅ……こひゅっ……ふぅ」

 息が細い。呼吸で取り込む酸素量が足りないのだ。

(なんでこんな時に……って、原因は明らかか)

 空を見上げる。照と見上げた時は風情があるなんて思っていたけど、今は明確に俺を苦しめている太陽が恨めしかった。

 それでも、一歩また一歩と歩みを進める。

(弱いな、俺の身体)

 酸素を満足に吸い込めない胸を掴む。もう少し頑張ってくれよ。

 しかし俺の願いは虚しく、双眼鏡のように視界の端が黒く侵食されてきた。

(これは本格的にまずい……)

 頭の中でサイレンが鳴り響く。これ以上はまずい、危険だと。

 それでも、家の敷地を跨ぐ。

(なんとか、帰ってこれた)

 そう安堵した瞬間、足の力が抜ける。緊張の糸が切れるというのはきっとこういうことを言うのだろう。

「─けるっ!」

 買い物袋を落とすと同時、視野が暗転する。その直前、誰かの叫ぶ声が聞こえた気がした。



 その時、俺は夢を見ていた。

(ここは……)

 見慣れた日本家屋。間違いない、爺ちゃん婆ちゃんの家だ。

(身体は動くみたいだな)

 記憶を頼りに、家の中を探っていると、

(あれは……)

 数ある和室の一室にいたのは爺ちゃんと婆ちゃんだった。

 だが、何か違う。

(俺の知っている二人より若いような……)

 そう思いふと視線を反らすと、丁度カレンダーが目に入った。

(二十年以上前じゃないか、どういうことだ?)

 俺の年齢で言えば、まだ幼稚園にも入る前だ。

 改めて視線を二人に戻す。

(何やってるんだろう)

 何か口にしている二人だが、その声を聞くことはできない。ただ何をしているかはわかる。

 祈っているのだ。

 二人して何かに向かって手を合わせている。が、その何かはぼやけて見えない。

(あれは……)

 幼い頃の記憶を呼び起こす。そう、あの部屋のあそこにあったのは─

(なんだ?)

 思い出そうとした瞬間、身体に走る異変。

 胸の辺り、内側からぽかぽかとした温もりが湧き上がる。

(なんだこれ)

 明らかに超常現象ではあるが、悪い感じはしない。証拠はないが、本能的にそう感じる。

(ああ、気持ち良いな)

 温もりが全身に広がるにつれ、なんだか眠くなってきた。夢の中で眠くなるとはどういうことだろうと苦笑してしまう。

 最後に俺の目に入ったのは、祈りを終え笑う二人の顔だった。



 夢の中で意識が途切れた瞬間、現実で目が覚める。

 飛び込んできたのは、心配そうな照の顔だった。

「尊!気づいたか!」

「照……か」

 辺りを見回す。いつの間にか俺は自分の部屋で寝かされていた。

「身体の方は大丈夫か?」

 ゆっくりと身体を起こし、軽く動かしてみる。若干だるさはあるものの、問題なさそうだ。

「多分大丈夫。ごめん、心配かけて」

「全くじゃこの馬鹿者!もっと身体を労らんか!」

 よく見ると照の目は真っ赤に腫れている。

「ほんとにごめん、照」

 俺は思い切り照を抱き締める。

「な、なんじゃ尊」

 わたわたともがく照を気にせず、俺は暫くの間、照の温もりを感じていた。



「気は済んだか?」

「ああ、落ち着いた」

 改めて照に向き直る。

「もしかして、照がここまで運んでくれたのか?」

「他に誰がおるのじゃ」

 ふんす、と胸を張る照。

「屋根の上で向日葵を弄っておったら、お主が帰ってくるのが見えたのじゃ。手を振ろうと 思って立ち上がった途端、お主が倒れたんじゃよ」

「ああ、そうか」

 意識が途切れる寸前、俺を呼ぶ声が聞こえた。あれは照だったのか。

「助けを呼ぶにも誰もおらんし、仕方なくわらわがお主を運んだんじゃよ」

「そうだったのか……ありがとな、重かったろ」

「まったくじゃ。こんなか弱い淑女に重労働させおって」

 照にもいつもの調子が戻ってきた。

「ほれ、麦茶飲んでおけ」

「ああ、ありがとう」

 グラスを口元に運ぶと、一気に呷る。

「それにしてもぶっ倒れるとはなあ、完全に熱中症だ」

 元々体力に自信がある方ではない──むしろ不安がある方だが、近所のおつかいで倒れてしまうとは思わなかった。

「今日はもう休んでおれ。母上父上が帰ってくるまではわらわが面倒見てやる」

「すまないな」

 母さんも親父も今日は夕方まで帰ってこない。

「わらわが昼ご飯を作ってやる」

「……大丈夫なの?」

「勿論じゃ。いつも人間が料理するのはずっと見ていたからの」

「はあ……」

 不安だ。物凄く不安だ。

「俺も手伝うよ」

「ダメじゃ。病人は寝ておれ」

 布団から出ようとする俺を遮る照。こうなると梃子でも動かないだろう。

「何かあったら大声で呼ぶんだぞ」

「はいはい、尊は心配性じゃなあ」

 そう言って照は出て行った。彼女がいなくなったのを確認して、溜息を吐く。

「全く、これじゃダメだよなあ」

 情けない自分の身体に不甲斐なさを感じざるを得なかった。



 三十分後。

「尊、できたぞ」

 照がお盆に料理を載せて戻ってきた。

「うどんか」

 お椀の中を覗くと、卵で綴じられた温かいかけうどんが湯気を立てていた。

「病人にはうどんと昔から相場が決まっておる」

「別に病人ではないんだけどな」

 お椀と箸を受け取り、食べ始める。

「熱っ!暑い中熱々のうどんとは気が利いてるな」

「文句があるなら食わんでええぞ」

「冗談だって……」

 冷ましながら口に運ぶ。

「あれ、普通に美味しい」

「当然じゃろ。何年生きてると思っとるのじゃ」

 不服そうに俺を睨む照。

「ごめんごめん、料理する機会なんてないと思ってたから」

 そのまま二口、三口と箸を進める。

「味も良く染みてるし、文句ないな……ただやっぱり熱い!」

 口の中でもうどんの熱は収まらず、落ち着かない俺。

 その様子を見た照は、何やら邪悪な笑みを浮かべていた。

「それならわらわが食べさせてやる」

「え、おい」

 俺から箸をかっさらうと、うどんを持ち上げる。

「ふぅ……ふぅ……ほれ、これでいいじゃろ」

 そのままうどんを俺の口元に運ぶ。

「人間の”あ~ん”ってやつじゃろ?」

「よく知ってるな」

「いいから口を開けい」

 ”あ~ん”を敢行する照。これはまるで……

「恋人みたいなやりとりだな」

 何気なくそんなことを言ってしまったのが間違いだった。

「っ!?」

「あづっ!?」

 顔を赤らめた照の手元がぶれ、口ではなく頬にうどんが着弾する。

「何すんだよ!」

「お主が変な事言うからじゃろ!」

 羞恥に染まった表情で照も抗議する。

「……意外と初心なのか?経験豊富だって息まいてたのに」

「尊に言われたかないわ!」

「もしかして純粋な恋愛はなかったり?」

「ほぉ、そういうことを言うんじゃな尊」

 照の顔が引き攣る。俺もまずいと気づいたが、もう引き下がれない。

「そこまで言うのなら見せてやる」

 照の雰囲気が変わる。再びうどんを掴むと、顔を上げた。

「どうぞ、尊さん。”あ~ん”」

「!?」

 上目遣いで口調まで変えてきた。

「それともうどんより私の方を御所望ですか?」

 するりと着物の帯を緩める。胸元から照の白い素肌が顔を覗かせた。

 既に二度は見ている照の身体。だが今までとは違う照の帯びる妖艶な雰囲気が二人の間を支配する。

「さ、どうします?」

 ずい、と身体を覆うようにして照が追い詰める。

「あ、う」

 熱を帯びる視線に言葉が出ない。これがさっきまでやいやい騒いでいた女の子なのか。

「ぷっ。ふはっ、ははははははははっ!わらわの勝ちじゃな、尊よ」

「ふへ?」

「わらわがちょっと本気を出せばお主なんぞイチコロじゃ。よく覚えておけ」

「むぐっ」

 そのままうどんを俺の口に押し込んだ。


「そうじゃ、わらわは尊のお土産でも食べようかの。尊、食べ終わったらさっさと風呂に入って来いよ」

「あ、ああ」

 そう言うと照は部屋を出て行ってしまった。部屋に一人残される俺。

「……敵わないな」

 少し熱の冷めたうどんを啜りながら、そう思った。



 夕食を終えた後の話。

「そういえば尊、まだあまり調子良くないの?」

 食器を片付けようと立ち上がると、母さんに呼び止められた。

「薬が出しっぱなしになってたよ」

「ああ、それか」

 うっかりしていた。要らぬ心配──いや、今日倒れたことを考えれば決して要らぬ心配ではないかも知れないが──を招いてしまったのかも知れない。

「あっちで暮らし始めてからだいぶ楽になったよ。やっぱり都会よりは田舎で暮らす方がここにはいいみたい」

 そう言って自分の胸を叩いてみせる。

「ただ完全に良くなったわけではないからまだ飲んでた方がいいってさ」

「そうなのね」

 俺は生まれつき肺が弱いらしい。だから他の人に比べて息はすぐに切れるし、排ガスも苦手だ。

 それが原因で、小さな頃一度大きな病気で入院したこともあるらしい。物心つく前の話だからほとんど記憶はないのだが。

 それもあって、今は都会にある実家から離れた自然の豊かな地方都市で一人暮らしをしている。

「子供の頃は本当に大変だったものね」

「ああ」

 友達と遊んだり、体育の授業を普通にやるだけでもしんどくなっていたことを思い出す。

「まあでも入院した時のことを考えれば、生きてるだけ儲けものかしら」

「ひどい言い草だ」

「実際のところそうだったんだから仕方ないじゃない。お医者様も驚いてたんだから」

「ふーん」

「あの頃に比べたらこれだけ健康体で暮らせているのだから感謝しないとね」

「誰に?」

「……さぁ?神様にでもお礼しておきなさい」

「ぶふっ」

 ”神様”という言葉でつい照を連想し、吹き出してしまった。

「何よ、気持ち悪いわね」

「いや、こっちの話だよ。ただこれだけ暑いと身体に悪いから無理はできないな、今日もしんどかった」

 倒れたことまでは伏せておく。

「あんまり無理しちゃダメよ」

「はいはい、それならおつかいなんてさせないでくれよな」」

 そう言って俺は部屋に戻った。



 夏休み五日目。

「あれ、照?」

 今日は朝から照の姿が見当たらない。起床し朝食を終えて部屋に戻っても照の姿は見えなかった。

(どこに行ったんだろう)

 親父や母さんのいる手前、声に出して呼ぶのは憚られた。

 そんなことを考えていると、

「……何の音だ?」

 隣の部屋から物音が聞こえる。

「俺の部屋からだ」

 正確には元、俺の部屋。今は物置部屋になっている俺の部屋から物音が聞こえた。

「照がいるのか?」

 俺の部屋を覗く。

「なんだ、母さんか」

「なんだじゃないでしょ、尊」

「ん?」

 母さんの声音には非難の色が混じっていた。

「あんた、片付けてあったもの漁ったでしょ!」

「へ?」

「机の引き出しにしまってあったお土産とか写真とか出しっぱなしになってるじゃない」

「え?知らないよそんなの」

「じゃあ誰が他にここ漁るのよ、あんた以外にいないでしょ?」

「そんなこと言われたって──あっ」

 そういうことか。

「思い出した、昨日俺が広げちゃったんだ。ごめんごめん」

「全く、しっかりしてよね。片付けておいて頂戴」

 そう言い残すと、母さんは部屋から出て行った。



 一人部屋に残される俺。

「照、いるんだろ?」

 そう呼びかけると、部屋の片隅から照が現れた。

「すまんの、尊。気になって見ていたら、急に母上が入ってきての」

 ばつが悪そうに謝る照。

「別に大したことじゃないからいいけどさ」

 机に出ていたのは、俺が旅行の度に取っていた写真やお土産。

「この前話したからか」

 初めて会った日、俺は自分のことを話した。その中には今俺が住んでいる街や、趣味の旅行のことも含まれていた。

「ちょっと気になってな」

「悪い、デリカシーが足りなかったな」

「お主が気にすることではない。面白い話を訊けて嬉しかったのじゃ」

 写真を手に取り、羨ましげに見つめる照。

「ただ結局、何百年も生きてきたところでわらわは神棚と一心同体。せいぜい家の周りが限度なんじゃよ」

「照……」

 その儚げな表情を見ていたら、居ても立っても居られなくなった。

「なあ照、明日出かけないか?」

「出かける?」

「そう。いきなりじゃ遠出は難しいかもしれないけれど」

「話を聞いておったのか?今まさに出られないって言ったばかりじゃろう」

 照の声に力が籠る。

「だったら、神棚でもなんでも持っていけばいいだろう?」

「は?」

 呆気にとられた様子の照。

「リュックでもカバンにでも神棚をつめて行けばいい。そうすれば一緒に出かけられるだろ」

「それは……そうじゃが……」

 口をぱくぱくさせる照。

「じゃが、迷惑じゃないか?」

「初めて会った日に躊躇した俺を容赦なく押し倒したのは誰だったかな」

「それは……」

「しない言い訳を探すなって言ったのは照じゃないか」

 照の手を取る。

「照のはじめてのお出かけ、俺に手伝わせてくれ」

「尊……」

 照の瞳は、涙に濡れていた。

「ありがとう、尊」

「うおっ」

 照は俺に抱き着くと、俺の胸に顔を埋めてすすり泣いた。

「よしよし」

 さらさらの髪の毛を撫でる。

「こうしていると、娘でもできた気分だよ」

「馬鹿にしおって……100年早いわ」

 涙に塗れながらも憎まれ口を叩く照。そのいじらしさが愛おしかった。



 その後、照と二人で散らかった部屋を片付ける。

「それにしても随分漁ったなあ」

 そう言いながら、俺もついつい手に取って見てしまう。こういうことをしてると、片付けは終わらないのだ。

「あーこれ懐かしいなあ、みんなで北海道に行った時かな」

 ページを捲るごとに写真の中の俺は幼くなっていく。

 小学校……幼稚園……そしてその前。

 最近では写真を現物で残すという習慣がなくなったから、とても懐かしい気持ちになった。

 そんなことを考えていると、ある写真で手が止まる。

「これは?」

 うんと小さな自分。恐らく生まれて1、2年くらいの頃だろう。俺と爺ちゃん・婆ちゃんが映っている。そしてその奥には照の神棚が映っていた。

「きっと爺ちゃん婆ちゃんの家で撮った写真なんだろうけど……」

 なんでわざわざこんな写真を撮ったのだろう?家で写真を取る

「これ、一昨日の夢に似てる?」

 あの夢の中で見た爺ちゃん婆ちゃんの姿

「尊、どうしたのじゃ?」

「ん、ああいや、なんでもない」

 さっと写真を抜くと、ポケットにしまう。

「まだまだ片付けは残っとるのじゃ。手を休めるでないぞ」

「散らかしたのは照だろ……」

 苦笑しながらアルバムを閉じた。



「ねえ母さん」

「どうしたの?」

 リビングでくつろいでいる母さんに声をかける。

「整理してたらこんな写真が出て来たんだけど」

 そういって、ポケットから例の写真を取り出し、目の前に差し出した。

「これって何の写真?」

「どれどれ?」

 母さんは写真を手に取ると、顔を近づける。

「また老眼ひどくなった?」

「そんなことないわよ」

 言い返しながら、写真をじっくりと見つめている。

「これ、多分爺ちゃん家だよね?かなり小さい頃の写真だと思うけど」

「う~んと、これは……思い出した、あの時よ」

「あの時?」

「だから、あんたが入院した時の話よ。退院祝いで撮った写真だったはず」

「退院祝い?」

 どうもしっくりこない。

「退院祝いで家の神棚で撮るか?」

 大体病院の前だったり、ご馳走を囲んで、とかじゃないのか。

 その疑問は、母さんの答えがすぐに解消してくれる。

「父さんと母さんが神様のお陰だって喜んでたのよ、あの時」

「神様?」

「あんたが入院してる間、毎日一生懸命お祈りしてたらしいの、二人とも。しかもあんたの回復が奇跡的なものだったから、神様のお陰だなんだって大騒ぎよ」

 写真を改めて眺める。事情をよくわかっていない幼い俺とは対照的に、爺ちゃんも婆ちゃんも大喜びしているのがわかる。

「元々信心深かったけど、あれ以来一層神社やお寺に行くようになったなあ。まあ怪しい宗教にハマったわけじゃないから良かったけどね」

「ふ~ん……神様、か」

「この前の話、私の父さん母さんからすれば、神様に感謝しなさいって言ったでしょうね」

「神様に感謝……あっ」

 そういうことだったのか。

「どうしたの?」

「いや何でもない、ありがとう。これでわかったよ」

「???」

 怪訝な顔をする母さんから写真を受け取り、俺は自分の部屋に戻った。

「照─って、もう寝てるし」

「すぅ……すぅ……」

 こういう日に限って照は既に夢の中だった。

「まあ、もうすぐわかることだしな」

 幸せそうな寝顔を見ているとこちらの頬も緩んでしまう。

「お休み、照」



 翌日、夏休み六日目。

 俺はスーツケースに神棚を詰めて、照と出発する。

「それにしても、急に旅行に行くだなんて」

 昨日の今日の話だから、母さんも驚いていた。

「ああ、思い立ったが吉日ってね」

 照のことには触れられないから、適当にごまかす。

「何を考えてるのか知らないけど、明日には帰るんだから気を付けてね」

「あ、そうだった」

 夏休みは一週間。照にかまっているうちに、あっという間に休みは終わりに差し掛かっていた。

「それじゃ、行ってくるよ」

「はいはい、お気を付けて」

 母さんが部屋を出ると、照が姿を現した。

「そうじゃ、お主は明日帰るのか……」

「聞いてたのか」

 悟ったような照の表情を見ると、心が締め付けられる。

「いなくなったらまた寂しくなるのう。父上母上もわらわのことが見えたらいいのに」

 ふっと息をつく照。

「これから出かけるのに水を差してしまったな」

「気にするなって。念願のおでかけなんだからさ」

「そうじゃな、ありがとよ、尊」

 玄関の扉を開け、外に出る。

「そういえば、普段はどこまで外に出られるの?昨日は庭で土いじりしてたけど」

「家の敷地が凡その境界になっているんじゃ」

 そのまま並んで歩き、道路に出る一歩前で止まった。

「よし、それじゃ行くぞ。準備はいいか照」

 隣を見ると、照の足は僅かに震えていた。

「大丈夫か?」

「尊、手を握ってくれぬか?」

 ゆっくりと差し出される照の左手。

「任せとけ」

 俺は右手で力強く握り返す。

「ありがとう」

「行くぞ、せーの!」

 二人で息を合わせ、最初の一歩踏み出した。

 小さな一歩。だが照にとっては生まれて以来、数百年越しの夢の第一歩だった。

「照、特に身体に問題はないか?」

 隣の照に言葉をかける。みるみる表情が崩れていく照。

「ああ、問題ないぞ尊!」

 興奮を抑えられないのか、今まで見てきた照とはまた違う様子を見せる。目は爛々と輝き、楽しそうに俺を見つめる。

「遂に……遂に家から出られるのじゃな!」

「よし、それならこのまま行くぞ。準備はいいか?」

「おう!」

 一歩、また一歩と歩みを進める。この様子なら問題はなさそうだ。

 そのまま駅に向かって歩みを進める俺と照。

「どんどんうちが遠ざかっていくぞ!」

 何度も後ろを振り返りながら、嬉しそうに叫ぶ照。

「ああ、上手くいったな。でもこれからが本番だぞ」

 はしゃぐ照の頭を撫でる。



 そのまま俺たちは電車に乗る。

「はぁ~、こんなに人がおるのか」

 今日は比較的空いているようだが、電車や人混みそのものが初めての照は目を丸くしていた。

「これで驚いていたら、満員電車に乗ったら卒倒しそうだな」

「言葉や知識としては知っていたが、実際に見るとな」

 子供のようにはしゃぎ、車窓から外を眺める照。

「それで、わらわたちはどこに向かっておるのじゃ?」

「それはだな……そろそろ見えてくると思うぞ」

「なんじゃと?……おおっ!」

 俺たちの目に飛び込んできたのは、夏の太陽の光に煌めく太平洋。

 遥か彼方まで広がる水平線に、照は歓声を上げる。

「もしやあれが『海』か!」

「そうだよ。照は海の見える家にいたことがなかっただろうと思ってさ」

「海……あれが海か」

 食い入るように海を見つめる照。

「照が夢中になった時は子供らしくてやっぱり可愛いな」

「また子ども扱いしおって」

「ごめん、純粋に可愛いなと思ったんだよ」

「うぐっ……あんまり連呼するでない」

 顔を赤らめる照。その様子を見ていると、俺もなんだか恥ずかしくなってきた。

 他の人から見たらバカップル?それとも親子?

「一応忠告しておくが、周りの人間にはお主の姿しか見えておらず、お主の言葉しか聞こえてないからな」

「しまった!」

 俺の部屋で話す時の感覚そのままで話していた。さっきからどうも周りの視線が気になるのはそのせいか。

「傍から見たら独り言で愛を語る気持ち悪いやつじゃな」

 誰のせいだと思ってるんだ。こうしたやりとりすらもおかしな行動に見られているに違いない。

「ご乗車ありがとうございました。次は──」

 そんな俺に垂らされた蜘蛛の糸。丁度良いタイミングで駅の降車アナウンスが流れる。気づけば目的地は間近に迫っていたようだ。

「そ、そろそろ到着だな。降りるぞ」

 小声で囁く。

「はいはい、仕方のないやつじゃ」

 照は暫く笑いが止まらなかった。



 家を出ておよそ1時間半。俺たちがやってきたのは海沿いの観光地だ。

「ん~~っ、着いたのう!」

 高台にある駅の改札を出ると、眼下には車窓から見えた海が広がっていた。

「これが海なのじゃな」

 照が声を弾ませる。

 俺も照にならって深呼吸する。海辺の街らしい潮の香りが鼻をくすぐる。

 俺にとって海は珍しいものではない。だが照にとっては違う。

「青、青、青。見渡す限りの青じゃ」

 両手を広げ、全身に海を感じる照。

「知識として知ってはいたが、こうして実際に見ると感動するの」

「ここで見ているのもなんだし、もっと近づいてみようか」

 照の手を取ると、彼女はニヤリと笑った。

「全く、尊はわらわの手が好きなんじゃから」

 強く握り返してくる。

「それならしっかりエスコートしてたもれ」



 駅前を通り過ぎ、海に向かう商店街を歩く。

「迷子にならないようにな、手を離すなよ」

 お盆ということもあり、海辺の観光地であるこの街はそれなりに混んでいた。

「これが店か、なんでも売っておるのじゃな」

「よく考えたら海だけじゃなくてお店も何も初めてなんだよな」

 照の行動圏は家の敷地までということを考えれば、どれだけ長く生きていたところで街や社会を目にしたことはほぼなかったのだろう。隣を歩く照は周りのあらゆるものに目を輝かせている。

「尊、あれ買っておくれ」

「はいはい」

 目に映るもの全てが見たことのないもの。俺が知らない国を訪れるようなものだろうか。

 照に引っ張られてやってきたのは屋台。

「しらすのコロッケか」

 他にも海辺の港町らしく、魚を使った料理のお店が立ち並んでいる。

 一個買ってやると、隣でわくわくしている照に渡してやる。

「熱いから気を付けろよ」

「あちっ……ん~っ、ホックホクで美味しいのぅ」

 初めて食べる味に幸せそうだ。

「あれお兄さん、もう食べちゃったの?」

 振り向くと、店主が目を丸くしていた。

「え、あっ……はい、つい美味しくて」

 照に渡す瞬間を見られていたのかもしれない。照はまたけらけら笑っていた。



 そんな調子で、俺たちはのんびりと浜辺まで辿り着いた。

「遂に来たぞ……行くぞ尊!」

「慌てなくても海は逃げないぞ」

 裾を持ち上げ、砂浜を散歩する。

「ひゃあ!冷たっ!」

 穏やかに寄せては返す波打ち際。踝あたりまで水に浸かり、気持ちよさそうな照。

「風呂や水浴びとはまた違った楽しさがあるな」

「海には色んな生き物がいるぞ、ほれ」

 あるものを捕まえると、照に向かって差し出す。

「なんじゃこれは。貝殻か?」

「違うよ……ほら」

「な、なんじゃ?」

 俺の掌の上の貝が徐に動き始めた。

「ヤドカリだよ」

「ヤドカリ?」

「貝の中に住んでる生き物だよ」

 照は恐る恐る貝を摘み上げる。

「ほぉ……中々可愛いやつじゃな」

「海の中には他にも生き物沢山いるぞ、見てみるか?」

「そうじゃな、ああいう格好もしてみたいし」

「ああいう格好って……」

 照の目線の先にいるのは海水浴客だ。

「水着、着てみたいのか?」

「人間はみな着とるじゃろ。それにわらわの服では歩きづらい」

 裾を持ち上げ、肩を竦めて見せる照。

「困ったな、水着は流石に持ってきてない」

「ならば買って来れば良かろう」

「買えるならそうしてるよ。だけどそれって」

 俺と照が水着を買いに行くことを想像する。店員は照のことが見えない。俺が一人で女児用水着を物色する絵面というのは……

「完全に怪しい人だろ」

「考え過ぎじゃって。そもそもわらわには大人の水着を買うべきじゃろ」

「仕方ないな……ちょっと待ってろよ」

 すぐ近くに水着の店がある。気が進まなかったが、俺は店に向かって走った。



「買ってきたぞ……」

 十分後、俺はぐったりして戻ってきた。

「ご苦労じゃ尊」

「異性のものを買うのってやっぱりしんどいよ」

「さ、はよ見せとくれ」

「はい、これ。あっち向いてるからさくっと着替えてくれ」

 照は他の人には姿が見えない。だから更衣室を使う必要もない。俺は照に背中を向けると、着替えるように促した。

 するする……はらり。

 衣擦れの音がする。やはり和服の衣擦れは絵になる、いや音になると言うべきか。

「照、終わったか?」

 返事はない。

「おーい、照?」

「のう、尊……」

 おずおずと切り出す照。

「どうした?」

「手伝ってくれ」

 振り向くと、舌を出した照が笑っていた。



「ここをこうして……と。これで下はオッケーだ」

「すまんのう」

 結局照の背後から俺が着せてやることになった。

「それじゃ上もこうして……」

 前から通して来た水着の紐を通し、背中のところで留める。

「……」

 改めて照の身体を間近で見る。長い髪の毛の隙間から見え隠れする肩甲骨に、程よい肉付きの背中。目線を上げれば僅かに汗ばんだうなじが、下げればくびれた腰つきが扇情的なことこの上ない。

「尊、わらわの身体が気になるのはわかるが早くしたもれ」

「お、おう」

 照に急かされ、不器用なりに紐を留めてやった。

「よし、これで大丈夫だ。こっち向いてみろ」

「ほれ、どうじゃ?」

 その言葉を待っていたと言わんばかりに、勢いよく振り向いた。

「うわっ……」

 俺が買ってきたのはシンプルな黒ビキニ。おおよそのサイズ感で買ってきたものだったが……

「やっぱり小さかったか?」

「若干ここがきついする気がするのぉ」

 照はしきりに胸を覆う布の部分を気にしている。照の胸が大きすぎて、布が心許ない。

「まあ尊以外に誰が見てるわけでもあるまいし、問題ないじゃろ」

「そういう問題なのか?それなら別に裸でも」

「尊はそれでいいのか?」

「……」

 誰にも見えていないとは言え、流石におかしいだろう。

「せっかくこうして遊びに来たのだから、わらわも人の遊びを体験したいのじゃ」

「そうか、そうだよな」

 この旅行の目的は、照におでかけを楽しんでもらうこと。照が望むことが一番だ。

「それで、尊の感想を聞かせてくれぬか」

「俺の?」

「わらわのこの姿じゃよ」

 そしてさりげなくアイドルらしいポーズを取ってみせる。

「どこでそんなポーズ覚えたんだか」

「それで、どうなのじゃ?」

 目を細め、薄ら笑いを浮かべている。俺の心の内を見透かしているんだろう。きっと俺の恥ずかしがる姿を期待しているんだろうな。

 改めて上から下まで眺める。俺は深呼吸すると、言葉を紡ぎ出す。

「裸は裸で良かったけど、俺は水着も同じくらい好きだよ」

「そうじゃろうそうじゃろう」

「メリハリがあるって言うのかな。白い肌と黒い水着のコントラストがいいよね。相変わらずとんでもないスタイルしてるし」

「ちょっ、尊……」

 戸惑う照。だが俺も止まらない。

「こんな照を独り占めできるのは、男として幸せだよ」

「~~~~っ!」

 そこまで言い切ると、照は顔を真っ赤にして俯いた。

「褒め過ぎじゃ、馬鹿者」

「俺も言うのは勇気がいるんだよ……でも感想は本当だよ」

「尚更恥ずかしいわ!」

 そう言うと照は海に向かって駆け出した。

「ほれ、悔しかったら捕まえてみろ!」

 思い切り水飛沫を上げながら騒ぐ照。

「別に悔しくはないんだけど、な!」

 俺も照に向かって駆け出す。童心に帰った気分だった。



「は~、遊んだ遊んだ!」

 時間を忘れて遊んだ俺と照。既に太陽は傾き、水平線にキスをしていた。

「初めての海、楽しかったか?」

 遥か遠くに燃える夕日を眺める照に声をかける。

「ああ、何から何までありがとう、尊よ」

 素直に感謝の言葉を口にする照。

「数百年生きてきたが、こんなに美しい夕暮れを見たのは初めてかもしれないな」

 夕日に照らされた照の顔からは充実した様子が見て取れた。

 その健気な表情が、俺の心をきゅっと締める。

 ──ああ、俺はやっぱりこの子に惹かれている。

 自分の心の中にある柔らかいものを自覚する。この子が大切なんだ。

「でもまだ今日は帰らんのじゃろ?」

「ああ、ここで一泊するぞ」

「家以外の場所で眠るのも初めてじゃな、それじゃ行くか」

 どちらからともなく手を差し出す。顔を見合わせて、俺たちは笑うのだった。



 浜辺から五分ほど歩き、予約していた旅館に泊まる。

 予約自体は一人で取っていたが、部屋は十分に広い。

「良い畳を使っておるな」

「流石和室には詳しい女」

「おお、ここからも海がよく見えるのぉ」

 先ほどまで遊んでいた海岸が随分小さく見える。先ほどとはまた違う角度で、ノスタルジックな夕焼けが胸を打つ。

「それじゃ照、先に温泉に入ろうか」

「温泉?」

 首を傾げる照。

「この部屋には温泉がついているんだ」

 そういって俺は、部屋の一角にある戸を開ける。

「おお!」

 そこには、モクモクと湯気を上げる檜風呂が備え付けてあった。

「こういう温泉、普通は大浴場なんだけどね。やっぱり照と一緒に入りたいからさ」

 照は他の観客からは見えないから、男湯に入ることは造作もない。だがやはり、彼女と二人きりの時間を過ごしたかった。

(それなりに値は張ったんだけど、気にしない気にしない)

「し、仕方ないのう。まだわらわの裸が見足りないと申すか。そこまで言うなら、仕方ないのう」

 照れくささにはにかむ照。

「沢山遊んで疲れたし、先に入っちゃおうよ」

「そうじゃな!」



 二人一緒に裸になると、浴槽に入る前に身体を洗う。

「この前はお主に隅々洗ってもらったからな。しっかりお返ししてやらんとな」

「くひっ!?ちょっと照!」

 背中を流してやると言ったから任せたのだが……

「その手……くすぐったいよっ!」

 泡塗れの小さな手が俺の身体のあちこちに入り込み、意地悪くまさぐってくる。

「なんじゃ?わらわはお主がやったように洗っているだけだぞ?」

 そう言いながら指を立てて、わしゃわしゃと背中を擦る。

「その洗い方は悪意が満載だ……あはっ!?」

 照の指が蠢く度に身体に走る擽感。小さい指だからこそ身体のあらゆる部分をくまなくくすぐってきた。

「あはははははははっ!ダメだ照、降参だ降参!」

「聞こえないのぉ~?」

 結局照が満足するまで擽られてしまった。だがこんなスキンシップも悪くない。



「ふぅ~、あったまるな」

「一日の疲れが溶けていくようじゃ」

 狭い檜風呂に身を寄せ合って入る。散々身体洗いで触れ合ったのに、こうして触れるのもなんだかドキドキしてしまう。

(もう身体重ねた仲なのに、初心だよな)

 いつまでも奥手な自分自身に苦笑する。そんなことを考えていると、照が先に口を開いた。

「この夏はいい思い出になったわい」

 僕と目を合わせることはせず、独り言のように呟く。

「久しぶりに誰かと会話して、身体まで重ねて。こうして家の外に出かけられるとはな」

「照……」

「長年生きてきて、こんなに濃厚な一週間は記憶にないわ。ありがとう、尊」

 そこまで言って、寂しそうに外に目を向ける。やはり俺とは目を合わせない。だがその目尻には涙が煌めいていた。

「悪いな、せっかくの旅行なのに」

「気にするな……大丈夫だよ、照。ただ後で、俺にも話をさせてくれ」

 そっと照を抱き寄せる。何度触れても照の身体は小さい。何百年生きてきていようが、神様であろうが、腕の中の女の子は心許なく、頼りなかった。

 俺の覚悟は決まった。



 食事を摂り、何をするでもなくのんびりする俺と照。だがさっきのやりとりで、微妙な空気が場を支配していた。

「ふわぁ……尊、そろそろ寝たいんじゃが」

「そうだな……じゃあその前にちょっといいか?」

 布団に入ろうとする照を呼び止める。

「さっきの話か?」

「ああ」

 布団の前で居住まいを正し、こちらを見据える照。

「それじゃ、聞かせてもらおうかの」

「わかったんだよ、俺が照を見える理由」

 単刀直入に切り出す。

「……ほぉ」

 照の目つきが変わる。こちらを試す、値踏みするような眼差し。

「言ってみよ」

「助けてくれたんだろ、俺のこと」

「……」

 照は答えない。俺はそのまま続ける。

「俺は生まれてまもない頃、重い肺炎にかかっていた。その名残がこれだよ」

 胸に手を当て、わざとらしく咳き込んでみる。

「母さん曰く、正真正銘俺は”死にかけた”。何日も生死の境を彷徨っていたって言うじゃないか」

 照は俯いたまま、依然沈黙を貫いている。一息つき、また俺は口を開く。

「回復したのは文字通り奇跡だったとさ。その時思い出した。照は健康の神様だって」

 照と初めて出会った日。名前を付ける時に、照は自分が健康の神様だと言った。あの時は特に何も思わなかったけれど、その言葉が本当なら全てに納得が行く。

「ほう」

「爺ちゃん婆ちゃんが信心深かったことも言っていたよな。何かにつけては神棚に向かって祈っていたって」

「よく覚えておるな」

「だから考えた。照が自分の力で俺のことを癒してくれたんだって。そこで縁が結ばれた。だから俺には照が見えているんだ」

 そこまで言い終え、照の言葉を待つ。目を見ると、照の瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。

「……」

 暫く逡巡していた照だが、やがて首を横に振った。

「いや、お主のことなど覚えておらん。わらわがお主を治したことなんてない」

 照の回答はノー。そのまま俺から目を逸らしてしまう。

「そもそも健康の神様とは言え、直接的にお主を治す力があるとは限らんじゃろ」

「それならあの日は?」

 僕も食い下がる。

「俺が熱中症で倒れた日。倒れて数時間で目を覚ましたが、大した症状や後遺症もなかった」

 あの日のことを思い出す。

「俺の持病を考えれば、アレだけで済むわけがない」

 熱中症に過度の呼吸困難。あれだけのことがあって、部屋で寝ているだけで回復するとは考えにくい。

「そして倒れた時に感じたあの温かい力。夢の中で感じたあの不思議な力。この世の力ではないんじゃないのか」

 証拠は俺の感覚でしかない。だけどこれ以外考えられない。

「そんなことができるのは照しかいないだろ」

 そこまで言い切って、俺は照の言葉を待つ。

「尊……」

 照は再び目を閉じる。やがて一つ大きくため息をつくと、照を口を開いた。

「あの時の爺さん婆さんの必死さは凄かったよ」

 昔を思い出し目を細める照。

「生まれたばかりの孫が危篤で大変です、お助けください、とな。暇さえあれば神棚に向かって手を合わせていたよ」

「やっぱり……」

 あの熱中症で見た夢。あれは夢なんかじゃなく俺の過去。走馬灯だったのかも知れない。

「私たちの命と引き換えでも、とまで言っておったよ」

「爺ちゃん……婆ちゃん……」

 既にこの世にはいない二人に想いを馳せる。

「それを不憫に思い、わらわが手を貸したんじゃ」

 照はやるせなく笑う。

「お主があの時助けた子供だと知った時は驚いたよ。じゃがあの時の二人のことを思えば、お主が元気そうで本当に良かった」

「それならどうして隠していたんだ?隠すことでもないんじゃ」

 そう言いかけて気づいた。

「お主がそのことを知ったら、わらわに気を遣うじゃろ」

「っ──」

 否定は出来なかった。今のように気軽な関係ではいなかったかもしれない。

「折角見つけたわらわの話し相手。そんなお主に負担はかけたくなかった」

「照……」

 それは神様という特異な存在故の苦悩。人間の寿命を遥かに超えた時を生きながら、人間とは関われない。どこまで行っても孤独な彼女にとって、コミュニケーションの取ることのできる俺は貴重な存在だったということか。

「じゃが、こうなってしまっては仕方があるまい。崇めるでもなんでもするが良い」

 力が抜けた笑みを浮かべる照。

「わかったよ。それなら好きにさせてもらう」

 そう言って俺は──

「な、なんじゃ!?」

 正面から思い切り照を抱き締めた。

「た、尊!?どういうことじゃ」

「ありがとな、ありがとう……だけどそれ以上に大好きだ、照」

「お、お主、自分が何を言っとるのかわかっておるのか」

声を荒げる照。

「お主とわらわは同じ時を生きることはできない。それに子孫を残すこともできないんだぞ」

だが俺は怯まない。

「わかってる。でも好きなんだよ、照のことが。仕方がないじゃないか」

「尊……!」

「ずっと一緒にいて欲しい。神棚と一緒に、俺についてきて欲しいんだ」

 今の俺の、思いの丈を余さず伝える。

「尊……」

「短い間だったけど、お話しして、遊んで、身体を重ねて……これで休みが終わったら照のいない日常に戻るなんて考えられない」

 身体の内から熱いものがこみあげてくるのを感じる。

「確かに照の言う通り、助けた・助けられたの関係から始まったのかも知れない」

 自分でも言ってておかしいのはわかっている。それでも、言葉にせずにはいられなかった。

「今は俺にとって大事な家族で……それ以上に、大好きな女の子だから」

 そこまで言い切って、息を吐く。そのまま俺は、照の胸の中で涙を流した。

「まったく尊は……」

 口を開く照。

「今も昔も世話が焼けるやつじゃ」

 頭に感じる温もり。照が俺の頭を撫でているのだ。

「照…」

「立派な男になるために男女の理を教えてやろうと思ったのに、わらわに惚れさせてしまうとは……我ながら罪な女じゃ」

 顔を上げると照と目が合う。照の眼差しは慈愛に満ちていた。

「照に比べたら、俺は一生子供だ。いつまでも手のかかる、どうしようもない子供だよ」

「まったくじゃ」

 照は続ける。

「じゃがそんなどうしようもない男に、わらわも助けられたのじゃ」

「それって」

「今日こうやって連れ出してくれたの、本当に嬉しかった。神様ではなく、一人の女になれたのだと」

 髪を掻き上げる。照の目にも光るものが浮かんでいた。

「今まで数百年生きてきたけど、こうやって接してくれる男はいなかった」

 そっと袖で涙を拭う。

「わらわで良ければ、尊が死ぬまで付き合ってやる。沢山愛してくれ、尊」

「照!」

 気が付くと俺は、再び照を強く抱き締めていた。

「こら、泣くな尊。男じゃろうが。わらわを娶る男ならしゃきっとせい」

「へへっ……照だって泣いてるじゃないか」

 二人同じ布団の上、俺と照は夜が明けるまで抱き合っていた。



 翌日、夏休み七日目。

 家に帰った俺と照を待っていたのは、母さんのお叱りだった。

 俺は平謝りに徹したものの、照と暮らすために神棚を持ち帰ることを切り出すと、二重に怒られる羽目になった。

 結局、この家で使う新しい神棚の費用を俺の財布から出すことで了解を得た。

「全く、何考えてるんだか……」

 照のことを具に説明するわけにも行かず適当な理由で誤魔化したが、かえって母さんから呆れられてしまったようだ。

「神様に惚れると大変じゃなあ」

 部屋で荷造りする俺の隣で、照が笑っている。

「照ったら他人事なんだから」

「わらわの夫になるのじゃからそのくらい我慢せい」

「へいへい……それじゃ照も」

 そう言って俺は照にあるものを渡す。

「なんじゃこの布は」

「エプロンだよ。俺と一緒に暮らすなら、家事くらい覚えてもらわないとな」

「お主、神様のわらわをこき使うつもりか!?」

「一人の女性として俺の妻になるならな。照は働いてないんだし」

「この性悪旦那!差別じゃ差別!」

「どの口が言うか色ボケ神様!」

「お主も喜んでたであろう!」

 そんな言い合いをしては、顔を見合わせて笑う俺と照。

 こんなやりとりをあと半世紀は続けるんだろう。

 きっと俺が先にこの世を去ることになるんだろうけど、その時まで共に笑っていたい。

 そう思い、俺は神棚をカバンにしまう。

「準備完了、それじゃ行くか」

「わらわの愛の巣へ」

 何も言わず差し出される照の小さな手。その顔にはいつもの悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。それに応えるよう、俺も手を握り返す。何度握っても温かい子供のような手だった。

「あっ!」

 外に出て振り返った照が声を上げる。俺も釣られて振り返る。

 気づいたのは屋根の上。鉢植えで照が育てていた向日葵が大輪の花を咲かせていた。

「立派に咲いたじゃないか」

「ああ、ちょっと待っておれ」

 素早く屋根に上がると、そのまま鉢植えを持って降りてきた。

「随分大きいな」

 向日葵は照の身長は悠に超え、俺とほぼ同じ高さまで身体を伸ばしていた。

「尊、この子も一緒に連れて行こう」

「えぇ?」

「この子は我が子みたいなものじゃからな」

「子供、か」

 俺と照では子を為すことはできない。一夏限りの娘にはなるが、そんな愛し方も良いのかも知れない。

「それじゃ俺も」

 鉢植えの半分を掴む。

「奥さんだけに重労働させるのは申し訳ないからな」

「よくわかっておるではないか」

 二人で持てば重さは半分。これからも二人、持ちつ持たれつで生きて行く。

「なあ尊、向日葵の花言葉は知ってるか?」

「いきなりなんだよ」

「なんじゃ知らんのか?男としては覚えておいて損はないぞ」

「そこまで言うのならもったいぶらずに教えてくれよ」

「仕方ないのう、向日葵の花言葉は──」




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