泳ぐもんかって君は言った。
…泳ぎたくない。
俺はいつだってそう考えていた。
授業中だって登下校の最中だって。
楽しい毎日の中、部活と水泳の授業だけが憂鬱だった。
俺の頭の中はあの学校のプールでいっぱいだった。
薄水色に反射する溢れんばかりに張られた水。
すべてが怖くて怖くてたまらなかった。
片足を入れ、膝まで寒気が押し寄せてくればもう足が動かなくなり、飛び込む時なんて得体の知れない猛獣に喰われている気分にさえなる。
嫌々やっていたその作業。
今は…やらなくてもいい。
俺は目の前にいる青春真っ最中とでもいうような日焼けした友の顔面を見つめた。
「将、今日は来いよ。」
「嫌だ。」
部友に出会う度に言われるその言葉に即答する。
あんな地獄のような水槽の中なんかに絶対に行くもんか。
「なんで来ねぇんだよ。」
「水泳、嫌だから。」
「理由になってないじゃねぇか」
俺はニヤリと笑って手を振った。
人混みの中にスッと身体を滑り込ませ、追いかけてくる声も構わずその場から離れ去る。
水泳。口の中でもう一度気づかれないように小さく呟く。
もう、もういいから。これ以上…俺を水泳嫌いにさせないでくれ。
ただ、そんな願いも虚しいことは今も尚追いかけてくる部友の声で解っていた。
俺は一つ息を吐いた。苦しい時の神頼み…か。
「おい!逃げんなよ!!」
「逃げるなと言われて逃げない奴が居るかよっ!」
「待てよ!まだお前が泳がない理由を聞いてない!」
そう叫んだ部友に大きな声で問いかける。
「じゃあお前はなんで泳いでるんだよ!」
「泳ぐのが好きで、楽しいからだよ!」
「はぁ?あんなののどこが…。」
最後の方になるにつれて小さくなる声が無性に虚しかった。
そいつの言った青春みたいな一言は『The水泳部員の鏡』といったようでプールサイドで見ただけではピンと来なかった俺に、『お前が変なのだ』と押し付けるような威圧感があった。
そのイラつきを糧に黙々と足を動かし、
俺は、逃げた。
ーーーーーーーーーーーーーー
「ここまで来れば、もう安心か、な?」
そう呟き、乱れた息を整える。
息が…やっと吸える。
そう思っていた。やっとあの水中から抜け出せると思うと俺は水から出てきた魚のように口を開けて上を向いた。
「ハァ……」
ただ。あいつはなんだ。俺が幽霊部員になった1週間前からほぼ毎日ずっと追いかけてくる。
あいつのいかにも健康そうな顔と肌を思い出し、俺は眉間に皺を寄せた。
頭を力任せに掻きむしる。
なんだよ。魚だって空気が無ければ生きてはいけないっていうだろ…。
2、3週間の辛抱だ、あいつだって飽きるはず。
そう心を落ち着けるものの放課後の息苦しさは何も変わりやしない。
毎日の帰宅中、目をさすような光が溢れる木々の隙間を眺めながらこのまま木になってしまいたいと思う。
同じ場所にずっと立ち続け、暖かい光を浴び、自分の為だけの栄養を日々作りながら生きていきたい。誰かに追いかけ回されることもない単純な日々。
ただ、こんな俺の思いが叶うはずもない。
そう。明日も、明後日も俺が木になれることはない。
そう思うと急に頭痛がした。
あまりの痛さに背を曲げ、歯を食いしばる。
薄く目を開け、歯の隙間から息を吸う。
影が伸びていき、俺はふと視線をあげた。
そこで俺はハッと目を見開いた。視界が…青い。
ポカンと開けた俺の口からコポコポと気泡が出て行く。
慌てて口から出て行った空気を取り戻そうとするが真珠のような気泡はどんどん上にいって帰らない。
「っ……。」
もうこれまでかと思った瞬間、俺は気づいた。
苦し…くない…?
歩く生徒や通りすがる教師達は時間が止まったかのようにピクリとも動かない。
学校内全体に水が張っていると気づいたのは少し経ってからだった。
俺は周りを見渡すと、手で近くの木に触れてみる。
ぷくぷくと小さな泡が上に上がっていった。
それを目で追うように俺は顔を上へ向ける。
まるでモザイクアートのような、それでいてオーロラのような光が目を刺す。
水特有の重さが全身にかかり、足でコンクリートの道路を少し蹴った。
ピクリとも動かない学園生の間を手で水をかきながら進む。
生徒達は気絶をしているように瞼を閉じ、美術室の石膏のような表情を浮かべ、硬直している。
ふと、一人の生徒の顔を見つめた。
『こいつの名前…なんだっけ。』
水泳部で居たような気がして記憶を頼りに目を細める。
女子のくせに男子より早くて……表彰もされていた気がする。
それなのに…名前が、思い出せない。
そういや…こいつもこの頃部活に来てない…?
しばらく眉間に皺を寄せつつそこに留まっていたが、
俺はそいつの隣をすり抜けるとそこから離れた。
まぁ、誰でもいいや。
俺が幽霊部員になったから見てねぇだけだろ。
俺の眉間の皺が深くなる。
『お前は人気者で良いよなァ』
ふとあの声が蘇る。
息は吸えているはずなのに俺は肺にあった空気を全てポンプで抜かれたような息苦しさを感じた。
心の中では
『俺なんて…』
という思いだけが膨らんでいく。
この前まではあんなに楽しかったのに…。
「っ………!」
だから水なんて嫌いなんだ。
早くこの状態が終わればいい。
なんならここで一生を終えてもいい。
だって、死んでしまえばもう悩むことなんてないのだから。
そのぐらい逃げたかった。苦しかった。
それなのに…
「ょう…。将…!!」
誰かの声が聞こえた気がした。
やめろよ。俺の邪魔をするなよ…。
視界から水が出て行き、泳いでいた俺は抜かれた水の波に呑まれ、ぎゅっと目を閉じた。ひっくり返って地面についたような感覚がした。
痛みの代わりなのか、右の二の腕に冷たさを感じた。
グスグスと鼻をすする音が聞こえる。
「お願いだ…。将、起きろよ…。」
そっと視界を開けると右側にあいつの姿。
またお前かよ…一馬。
先生の清潔そうな白衣が見えて目線を上にあげる。
まるで苦そうな薬のような色合いとは裏腹に、先生からは優しそうなオーラが漂ってくる。
笑顔の先生と目が合った。
「え、あ。どもっす。」
言った瞬間ここが保健室だと気がついた。
「杉田くん、熱中症よ。この時期は気をつけて。」
「あ、追いかけっこしてたからかもっす。すんません。」
半笑いでそう言う。これは0点の回答かもしれないと言ってから気がつく。
カズマは俺の方を見、またもや瞳から大粒の涙を溢れさせた。
「今日は水分をたくさん摂って、早く寝なさい。」
「はい。ありがとうございます。」
そう言う先生に作り笑いで返し、頬杖をついた。
先生が出ていき、ベッドを囲むピンク色のカーテンが閉められた。
そのまま、目線をいつまでも泣きやまない青年に移し、苦笑した。
「おーい、一馬。このままだと次はお前が脱水症状になるぞ。」
「だっ……だって、僕が君を…君、急にバタッて倒れて……」
フッと笑って目の前で鼻を啜るこいつの頭を強めに叩く。
一馬が俺の顔を見つめた。
彼の唇がどうして、と動いたように見えた。
俺は当たり前だろうと言うように眉をあげた。
自分の唇をそっと噛み、何もなかったかのようにニカッと笑う。
俺の心はあの夢なんてなかったように静かだった。
ーーーーーーーーー
部活の終了間際の時刻になり、保健室がざわざわとした雰囲気に包まれる。
「擦りむいちゃってぇー」
「あの…サポーターが取れてしまって…」
保健室に広がるいくつもの声に俺の吐息がかき消される。
俺は少し肩の荷を落ろした気になって、保健室のカーテンをめくる。
「一緒に帰るか…?」
「おう。」
同じ水泳部の女子が先生にサポーターを巻いてもらっている。
隣の一馬が手を挙げて挨拶をした。
その子は気まずいような雰囲気を漂わせ、軽く会釈をした。
俺も慌てて会釈を返す。
そうか。夢…。
……夢、なぁ。
校門をくぐり、一馬と話しながらゆっくり歩き、電車に乗る。
「お前、あんまり泣きすぎるなよ。」
「どうしてだい?」
「水泳部屈指のイケメンが泣くことで俺よりモテたら困るからな。……あと、いや…何でもねぇ」
「なんだよ?気になるじゃないか」
「っ…。あ、頭…痛くなるって言ってただろ。」
俺がそっぽを向いてそう言うと彼は赤くした目を細めてフッと笑った。
「僕が君より先に彼女が出来るのは解りきったことじゃないか。」
「なんだと!?」
「と、いうか君こそ偏頭痛大丈夫なのかい?」
段々と厚くなり、灰色に変わる雲をカズマは指さした。
「別に。平気だし。」
「そうか。それならよかった。」
一馬は細めた目をそのままに視界を俺から離し、前方に向けた。
次々と同じ制服を着た人達が消えていく。
一つ息を吸い、異様に軽いリュックを背負って二人同時に座席から立ち上がった。
リュックは先程より軽くなっているように感じる。
追いかけられる事への悩みが消えたからだろうか。
エスカレーターに乗り、一段上に乗ったカズマの背中を凝視する。
ふと目線を遠くに向けると改札の向こう側に同じ学校の生徒がバスに乗って行ったのが見えた。
二人だけになった夕暮れの道。
事故防止の為に作られたガードレールが夕日に打たれ、少し伸びた真っ黒な影が辺りに刷られている。
「僕さ、」
一馬がふいに話し始めた。
「君が急に部活に来なくて心配だったんだよね。」
そいつは弱々しく笑うと言葉を続けた。
「でも、僕が心配するのは将にとって強要にしかなってなかったんだって今日気付かされたよ。」
小さな言葉が俺の口からこぼれた。
「ばっかじゃねーの」
そうやって一人で笑って。悩んで。
カズマの弱々しい笑みが吐息に変わった。
「やっぱそうだよね。僕なんかバカだし邪魔…」
「何言ってんだよ。」
雲の間から入ってきた光が影を超えて目に入った。
そのせいか俺の目からはいつの間にか涙が出ていた。
でも涙を落とすわけにはいかないと奥歯をこれでもかと言う程奥歯を噛んで耐える。
でも、思っていたよりずっと心は冷静で。
『このままじゃ明日はこいつみたいに目腫れるぞ』
なんて事がそっと頭によぎり、消えていった。
俺はふっと微笑んだ。
『本当は水泳が好きなんだ。』
頭に今まで視界に入れないようにしてきた心の声が響き渡る。
『俺が半泣きなのはこいつが邪魔だからなんかじゃない。』
「………」
無言で頷く。枷が外れたように心の声は止まらない。
『俺は部活でただ一人の『友達』が消えてしまうのが怖いんだ。』
「っ………。」
憎々しげに顔を歪ませた俺をカズマは下を向いていて見ていない。
拳の震えが止まらない。
「ほんと、たち悪りぃ。」
ゆっくりと顔を下に向けるとそこにはインクの滲みのような二粒の涙の痕が影よりも濃く刻まれていた。
どうしてお前が、そう言おうとし、口を開いたが、そのまま俺はカズマの頭を軽く叩くと、一言呟き、別れ道に足を踏み入れた。
さっきまでいたあいつがいないせいでしばしの静寂がいささか変だった。
「俺もお前も悪くねぇよ。」
後ろで部友が顔を上げたような気がしたような、しなかったような。
『全ては……あいつのせいなんだから。』
心の声はいつでも正直だった。