第75話 星の民-1
舞鶴は奇声を上げ、折り紙で手裏剣を作った。
それを和久井の頭から肛門まで走らせるつもりだったが、そこで光悟が撃った弾丸が直撃して舞鶴は吹き飛んでいった。
和久井はすぐに体を起こした。
しかし前のめりになって、しばらくして倒れた。
グワングワンと眩暈がする。ものすごい吐き気がするのだが、それでも和久井は叫ばなければならなかった。
「幻だってわかってんだろ! それともまだ思い出してねぇのか! ここが腹の中だって!!」
舞鶴は立ち上がった。立ち上がっただけだった。動けなかった。
「いつまでくだらねーことしてんだテメェ! ブッ殺すぞ!!」
そうやって叫んだ和久井は泣いていた。
舞鶴にはその理由がサッパリわからなかった。
だが、しかし、彼の言葉がどこかに突き刺さってしまったから動けない。
どこだ? どこに刺さった? それを探っていると首に腕が入った。
しっかりとしたラリアット。仕掛けた和久井ごと、舞鶴は地面に倒れる。
頭を打った。星が散った。
何かが見えた気がしたが舞鶴は見たくなかったので目を閉じた。
視界が真っ暗になって安心したのに耳が音を拾ってしまう。
「たった一言、寂しいっていえばよかっただけなのに!」
舞鶴は反射的に目を開けた。泣いてる和久井が見えた。
「どんだけ時間をかけてんだテメェは!!」
「――う」
「は?」
「違うッッ!!」
舞鶴は立ち上がると、右ストレートを和久井に放つ。
しかし和久井はしっかりと受け止めた。
「何が違うんだよ舞鶴!」
「言ったところで! お、おッ、お前には!!」
舞鶴はボロボロと涙を零しながら、もう一方の手で和久井をひっかいた。
「お前には何も届かなかったでしょ!」
和久井の頬に赤い線が刻まれ、ヒリつく痛みが襲い掛かる。
それは今にして思えば、舞鶴がずっと心に抱えていたものだった。
「覚えてる? 覚えてないか。覚えてるわけがない!」
舞鶴はとある日付を口にした。
和久井は一瞬、何の日付かわからなかった。
だが想いはまあまあ本当だったので、それが舞鶴の誕生日だということに気づくことはできた。
だからこそ、自分の過ちに気づく。
「何もしてくれなかった! プレゼントもくれなかったじゃない!」
和久井は、真顔になった。
確かにあの日、和久井は何もしなかった。
だがそれはありえないのだ。
愛しているなら、ケーキを買うのは、あたりまえだった。
当然のことだ。なのに、それをしなかった。
「………ッ」
たとえばこれが友人同士であるなら忘れていたなんてことはあっても不思議じゃない。
恋人であったとしても、人によってはそこまで重要視するイベントではないのかもしれない。
でも和久井と舞鶴は同じものを見ていた。
だからオタクを自称する人間にとって、誕生日を祝わないなんてありえないのだ。
和久井はそれをしなかった。
むしろ逆だ。パソコンの周りに無数にいるキャラクターグッズ。
表示されたキャラクターへ捧げるケーキ。ディスプレイに表示された嫁だか、推しだか、名前も知らないオタクが、好きなキャラクターの誕生日を祝っているありふれた光景。
和久井は、それを、バカにした。
おぞましい承認欲求。
しょーもない自己顕示欲。反吐が出ると笑ってやった。
なんだったら今現在だってアニメキャラの誕生日を自宅で過剰に祝って写真をSNSに乗せるヤツらはチーズ牛丼を食ってるやつと、チーズ牛丼を食ってそうなヤツがやることだと思ってるし、そういう連中は全員下に見ているところがある。
でも和久井はため息をついた。
膝がガグガグして、たまらずしりもちをついた。
舞鶴が走ってきたが、避けられなかった。
舞鶴にはその権利があると思ったからだ。
だから顎を蹴られても許す。一瞬意識が飛んで、頭を打ったことで戻ってきたが、和久井は一秒ほどの気絶時間に夢を見た。
昔――、いやそれなりに結構最近?
光悟と喋っていた時の光景が、そこにあった。
「聞いてくれよ光悟、舞鶴の声優さ、結婚しちまったんだよ。しかも俺が嫌いなイキリ配信者とだぞ。激萎えだ。脳が破壊された。失っちまったよ、情熱を」
そこで和久井は夢から覚めた。
あれは和久井の部屋での会話だった。
だから舞鶴、お前も聞いていたんだよな。
わかってる。わかってるよ。あの時もしもお前にケーキを買ってきてやれば、きっとお前はこんなに拗らせることはなかったのかもな。
わかる。わかるよ。
奈々実ならケーキを買ってくれてお祝いもしてくれるから、そりゃオレより奈々実を選ぶわな。
でも仕方ない。
アニメキャラに恋をするなんて突き詰めれば自己愛でしかない。
妄想は自分が行うものだ。自分の想像力を愛するだけの歪んだナルシズムだろ。
「そりゃ、鏡に好きだって言ってるのと変わんねーもんな」
もちろんフィクションのキャラクターを愛する全ての人間がそうだとはいわない。
悪い。わかんねーんだよそのジャンルのことが。でも少なくともオレは――……。
だから、オレにはそんなことをしなくてもよくなった日が来たんだ。
「命を愛するべきだ」
「は? は……? はぁぁぁぁ!?」
「あの時、きっとオレは、何かを愛してみたかったんだよ」
「はぁあああああああああああああああああ!?!?!?」
「ただ、それだけだ」
残酷なことを言われたので舞鶴は和久井を殺そうと思った。
だが和久井もただでやられる男ではなかった。
立ち上がり、走り、舞鶴にしがみつく。
「和久井ッッ! お前に巻き込まれた! お前さえ! お前さえいなければ!!」
舞鶴から放たれた言葉は時間や概念を超越していた。
言い方を変えれば真理に触れていた。その時、その瞬間だけ、舞鶴は全てを理解していたのだ。
アダムの力があったからすぐ忘れるけど舞鶴は自分が和久井の持ち物であったことを一瞬だけ思い出した。
確か、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ。
ミリだけ、舞鶴は和久井のことが――
和久井はそれでも舞鶴を殴った。舞鶴も和久井を殴った。
お互いフラついて倒れる。
(あれ? 何やってんだオレ)
過去の光悟が答えてくれた。いつの日か、和久井は呟いた。
「夢の叶え方がわからない。見方も忘れちまったよ……」
光悟は無表情で言った。
「心の中にある」
虹色の光が和久井を照らした。
さっきまで顔がズキズキ痛んでいたのに、それが嘘みたいに引いていく。
「超介護だな。自分が情けねぇぜ」
でも、ありがたかった。サンキュー光悟。
和久井は体を起こすと、同じく虹色の光に照らされた舞鶴を見る。
「……なあ舞鶴、この前さ、テレビで見たんだよ。ネットで芸能人に殺害予告して逮捕されたヤツ。笑えるよな。いくらなんでもダサすぎる。見た目はまあ、普通だったよ。なんていうか特徴がない。オレはもっとチーズ牛丼を特盛にして温玉つけてそうなヤツを想像していたんだけど、なんか違ってたわ。はは」
「好きだね。ネットで転がってる蔑称が大好き。あんたは自分で言葉を作れないんだ」
「自分がないからって? おいおい、そりゃねぇだろ。だがまあ待て舞鶴、オレが言いたいのはつまりだな……」
「?」
「オレ、不思議に思ったんだよ。ラインを越えたヤツらって本当に怒ってたと思うか? 本気でソイツを殺したかったと思うか? 会ったこともない人間に本気でどうしようもない怒りを覚えてたのか? いやそりゃ嘘だろ。向こうはソイツを知らないんだから、どれだけ不快感を抱いたとしても、それは本当にお前が今までの人生で出会ってきた人間のなかで『殺したい』と思えるほど大きな存在だったのか? 本当か? 疑っちまうぜ。そりゃオレもムカつくヤツはいっぱいネットにいるけど、パソコン買うためにやったバイトで来た客のほうが千倍、いや一億倍は殺したいね。お前もレジ打ちするタイプのバイトだけはやめとけよ。特にジジイとババアは気をつけろ? ●●●●が多すぎる。ああ、あと思い出した。いい歳してキテーちゃんの買い物かご持ってきたオッサンもマジでブチ殺してぇわ。アイツに比べればインターネットの人間なんて――」
和久井は急に言葉を止めた。
信じられないくらいの早口だったのに、いきなりピタリと喋るのをやめた。
「人間ってのは自分より上手くいってるヤツを見るとイライラするんだ。嫉妬とかじゃねぇ、純粋に不愉快なのさ」
着地地点が見つからない。
ため息をついて首を振る。呆れた目で舞鶴を睨んだ。
「何に怒ってんだ? 何に泣いてんだ? お前は本当に理解してんのか? 本気でわかろうとしてんのかよ」
「………」
「そんなことをしても、お前の不安は消えねぇよ」
どうにも上手くいかない。
こんな説教臭いことを言いに来たんじゃないのに。
「でも無理だ。流石に言わないとダメだ。テメェのその不幸せを追いかける姿勢がたまらなく気に入らねぇ。自分のことも周りのことも嫌いなヤツが幸せになれるわけねェだろ」
和久井は怒っていた。
「答えろクソ女。誰かを憎めば、テメェの地獄は終わんのか?」
たぶん、それなりに、かなり。
「テメェ、このオレ様をハメておいて今の今まで謝罪の一つもねぇ。そんなカス人間、お前が変わろうとしなきゃ一生クソのままだ。奈々実様には会えねぇよ。永遠にな」
舞鶴は表情を変えた。
オレは本当にこの女のことが好きだったのか?
そう疑いたくなるほど、醜く歪んでいた。
「奈々実は私の全てよッ! 彼女が私を救ってくれる!」
「無理だな。お前の不幸を心から願ってるのはお前自身だ。気に入らねーよ安平舞鶴、奈々実が来てくれても、お前自身がまたお前を不幸にするんだ」
良心を、常識を、モラルを破壊して、それでも奈々実に手を伸ばそうとする舞鶴がたまらなく好きで、どうしようもなく嫌いだった。
「お前はいつもオレを軽蔑の眼差しで見つめてきやがる。はいはい、まあでも、誕生日忘れてたのはオレが悪かったよ。翌年からはショートケーキとチョコケーキを一つずつ買ってやる。それでいいだろ? 許してくれ。ガチで。土下座するわ。モンブランもつけるか?」
和久井は土下座した。
髪を掴まれて引き起こされると、顔面を殴られた。
「いいわけねーだろッ! 奈々実なら本心で祝ってくれる! お前はいらねーんだよクソボケカスがァあ! 死ねよゴミッッ!」
「……祝ってくれる? ふざけたことぬかしてんじゃねーぞ底辺カス屑ヘドロ女。お前のどこを見て祝ってくれるんだよ。奢ってんじゃねーぞゴミウンコ野郎」
「奈々実はいい子だから!」
「いい子ってのは都合のいい奴のことか? テメェ自分が何をしてここにいるか理解してんのか? おーん?」
「ッッッ!!」
「全肯定、都合のいい理解ある彼女くんが欲しいってか? なら人間性を磨けよカス」
「奈々実はそれでもッ! それでもッッ、私の味方で! 守ってくれるッ! だって、だってッ! だってッッ!!」
一筋、涙が零れた。
「奈々実は私のッ、唯一の友達なんだからッッ!」
「………」
和久井にはまだ、奈々実の正体が、アイが見せた幻だということはわからない。
でも舞鶴が欲しいものは、わかってる。
一緒に線路の上を歩くようなツレが欲しかったんだろう。
星空の下で将来の夢を語り合う相手が欲しかったんだろう。
気だるい授業をサボって屋上に寝ころんで青空を見る友達が欲しかったんだろう。
残念ながら舞鶴はいずれも手に入れることができなかった。
自分を理解してくれる友達の幻想を視ながら便所の個室で一人でご飯を食べていた。
学校の屋上はいつも閉鎖されている。
和久井はそれら全てを見たわけではないが、『痛み』はとっくに見抜いてた。
「お前にはもう魂がある。そろそろ創作は、終わりにしようぜ……!」