第43話 チュータ!-2
「おやすみ、モア様」
「おやすみなさいミモちゃん。いい夢が見られますように」
現在、夜、ミモとモアは向かい合ったまま目を閉じた。
たまにこうやって眠る。モアは断らないから楽でいい。
ミモにはひとつ決めていることがあった。
絶対にモアよりも先に眠らないということだ。
ミモはこの時間が大好きだった。寝ている時はモアは笑っていないから。
モアはいつも笑っていた。
ニコニコ優しそうで、素敵な笑顔だ。
でもミモは知っている。モアは常に笑っていることを。
どんな時も笑顔なのだ。だからそれはつまり、彼女の真顔が笑顔だということ。
つまり、笑ってなんかいないってことを。
「モア様……」
だってそうだろ。何をどうしたら楽しくて笑えるっていうんだ。
母親と父親があんな死に方をして、心に傷を負ってないわけがない。
ミモは昔を思い出していた。ミモも、モアと同じだった。
あれは今でも悪い夢なんじゃないかと思ってる。
始まりは小学校五年生だった。
ミモには、よく喧嘩をするけど仲のいい弟がいた。
ある日、弟がサッカーの練習から帰ってきた。
暑い日だったから何かをゴクゴク飲んでいた。
「これがウメェ! マジでウメェ! くぅぅう! 激うんまぁあああ!」
しばらくして弟が倒れた。病院へ運ばれたが遅かった。
弟はうまそうに漂白剤をゴクゴク飲んでいたらしい。
どうして弟はそれがジュースじゃないことに気づかなかったのか。父も母もミモも、わけがわからずに泣いた。
ただ、心当たりがなかったわけじゃない。それは祖母のことだ。
弟は超がつくほどの『おばあちゃんっ子』だった。
その大好きな祖母がある日、バットで頭を割られて殺された。
『ども! あざあざおざまんす! はい! というわけでね、えー、今日は"ババア殺してみた!"やってきます! シイィッ!』
動画配信者を名乗る犯人は、企画の一つで祖母を殺したと証言したようだが、犯人が撮影に使っていたのはおもちゃのガラケーだったらしい。
もちろん動画サイトのチャンネルも持っておらず、警察は精神異常者の犯行として処理した。
しかも犯人は両耳から水が出る体質の持ち主らしく、しかも勢いが尋常ではないらしい。
犯人は留置所で、脱水症状で死亡しているのが見つかった。
たった一夜で干からびるほどの水分を耳から排出して死んだのだ。
これで真相が語られることなく事件は終わった。
あの時、弟の心に大きな傷が生まれたのなら、何かのきっかけであんな行動に出たとしてもおかしくない。
いずれにせよ弟の異変に気付くことができなかったことが悔しかった。悲しかった。
それから時間が経って、ミモが中学三年生になった時だ。
父が相談があると言ってきた。随分と改まって深刻そうだったから、緊張したのを覚えている。
『あの、父さんな……、すごく言い難いんだけど会社を辞めようと思うんだ』
母もミモも驚いた。
しかし言われてみればここ最近の父はため息が多くて辛そうだったから、むしろ打ち明けてくれたのはいいことだったと思う。
大黒柱が無職になるのは多少の不安もあったが、それでも今まで頑張ってくれた父が打ち明けてくれた弱さなのだから受け入れてあげたいと思った。
『大丈夫。私もパートで働くから。ね? ミモ』
『うんうん! あたしも高校入ったらバイトするから!』
その言葉を聞いて父は泣いてお礼を言った。
その姿を見て少し嬉しくなった。
これでまた家族の絆が強くなったのだと思ったからだ。
『でもあなた、どうして辞めるかを教えてくれない?』
『うん。実は、父さん、夢があったんだ。それを叶えたくて』
『夢? そうなんだ。パパにもそんなのあったんだ』
『一度きりの人生、叶えないで終わるなんて、もったいないって思ったから』
『教えてよ。ミュージシャンとか?』
『ねずみ……』
『へ?』
『ネズミを、飼いたいんだ』
少し、変な空気になった。
が、しかし、冗談を言っているようには見えなかった。
『素敵じゃない。いい夢だと思うわ』
少し間はあったが、母はそう言って微笑んだ。
あとで母から聞いたが、あれは額面通りに受け取る言葉じゃないらしい。
たとえば職場でいじめられていたとか、本当の理由があるのだけど、それを正直に口にするのは男としてのプライドが許さないとか。
あるいは単純に心配させたくないという父なりの気遣いかもしれない。
もしくは本当にネズミが好きで、ネズミを研究することでいろいろなことに役立てたいだとかそういう類のものではないかと。
とはいえ翌日、ミモは父を誘ってペットショップに出かけた。
額面通りに受け取ったほうがいいケースもあると思って一緒にネズミを選んであげようと思ったのだ。
『え、待って! やばい! めっちゃかわいい!』
愛らしいハムスターたちがミモを出迎えてくれた。
しかし父は首をかしげていた。よくわからないから、今日は帰ろうと言われた。
ネットでも買えるらしいし、もっとよく調べるのもいいだろう。
あるいは母の言ったとおりネズミというのは言い訳だったのかもしれない。ミモはそう思った。
家に帰ると、母が少し不機嫌だった。
なんでも父が勝手に八万円もするピーラー(皮むき器)を買ったのだ。
『ごめんごめん、ネズミの餌に使おうと思って』
ただ、八万円もするだけあって、なんでもスルスル皮が剥けた。
これには不機嫌だった母も、ご機嫌になった。
でも母はすぐにまた不機嫌になった。父と少し言い合いになったのだ。
というのもネズミが来てほしいから生ごみを置いておけないか? と、父に提案されたらしい。
そんなことをしたら虫が湧く。
すると父は冗談だよと笑った。冗談にしてはつまらないから母は不機嫌だったのだ。
『そういえばさ、ネズミさんの名前は考えてあるの?』
『うん。ネズミだから、チュータにしようと思うんだ』
マジ単純、ミモは笑った。
三日経った。ミモが起きると、変な音が聞こえた。
何かを強く叩きつけている音だ。リビングの扉を開くと、その音が父が出しているのだとわかった。
父はテーブルの上に座っていた。昔、ミモが子供の時に同じことをしたら行儀が悪いと怒ったのに。
ふと気づく。
父が何かを持っていた。白い棒のようなもので、ところどころ赤色も確認できる。
父はそれを叩きつけていた。バンバン! バンバン! とても、うるさい。
『なに、してるの?』
『てやんでぃ! 講談の途中にやじ入れるヤツがあるかいってんだ!』
バンと音がした。なんでも、張扇というもので、講談や落語などの日本芸能において音を立てるために作られた道具らしい。
ミモにはそれが『骨』に見えた。
『ヒッ!』
ミモは座り込むようにして死んでいる母を見つけた。
おぞましい姿だった。母は全裸で死んでいたのだが、損壊が激しく、右の乳房は抉り取られていた。
父はまず、ミモが幼い時に使っていた子供用の包丁で切れ込みを入れて、あとはミモがアイスを食べるに使う大きなスプーンで肉をひたすらに抉っていった。
肉とか、脂肪とか、よくわからない神経だか線だか。
それらも全てかき出して、あとは工具で穴をあけた。
右胸だけじゃない。母の死体にはありとあらゆる場所に穴が開いていた。
目も抉り取られて、空洞になっていた。
ミモが嘔吐する中で、父は説いた。
たしかに残酷だ。でもそれはそうしなければならない理由がある。
なぜならば――
『母さんは、チュータのおうちっ!』
何を言っているか、全く理解できなかった。
『いいかいミモ。ネズミさんは狭くて小さいところが好きなんだ。だからママの右おっぱいのところには、ネズミのキョウヘイが住むんだ。右目のところはネズミのネズ子が住むんだぞ。太ももはチュースケ親分が住んで、かっ! づ! お腹のところは、みんながパーティできるようにダンスホールにしてみたんだ。チーズは穴だらけ。ミラーボールは今も高いのだろうか? きっと明日は晴れるやねずみは高いのかな? パパのお小遣いでも買えるといいけれど……。失礼、腹が減ったので、飯を食ふ』
父は自分の髪の毛を鷲掴みにすると、渾身の力で引っ張った。
ベリッと音がして頭の皮膚ごと髪が抜ける。父はそれをむしゃむしゃ食べていた。
見れば、母の頭も、ところどころが禿げ上がっている。
父が毟って、そばつゆで美味しく頂いたらしい。
粋だね、こりゃ。
『………』
声が出ない。ミモは信じられなかった。
そこにいるのが母だということが未だに理解できなかった。
だから触れてしまう。そうすると母は倒れる。すると父は激怒した。
『テメェ! ざけんな殺すぞ!! そこはチュータのお部屋だろうがァアアぁあッッ!!』
髪の毛がいっぱい入った口で怒鳴られ、ミモは肩を震わせた。
母の額にある穴から、ちゅうと音がして、ネズミの人形が出てきた。
これがチュータらしい。
『へいおめぇさん! チュータってのは松原のとっつぁんに喧嘩ふっかけたってのは本当かい?』
父はそこで口調を変えて、腕を組んでフムと唸る。
再び白い棒を叩きつけた。本人がいうには芸能の道具らしいが、それは母の大腿骨だった。
ミモは恐ろしくて震えることしかできなかった。
そうしていると父が骨を投げ捨てて立ち上がる。
手にしたのは通販で買った高級ピーラーだった。固い大根とか、ごぼうの皮もスラスラ剥けるピーラーで父は自分の腕を剥き始めた。
『がぁあぁああ! はぁあ゛! あぐぁあ! ぎゃぎひぃぃ!』
激痛に悶えながらも、父には自分の腕をチュータたちが遊ぶ滑り台にしなければならないという固い意志があった。
だから父は止めようとしたミモを殴り飛ばすと、ひたすら腕の皮膚を剥こうと努力した。
しかしすぐに血や肉や皮で、ピーラーが詰まってしまう。
『なんじゃこれ! 不良品だ! 騙された! 高かったのに! 詐欺やろ!』
父は泣き出した。
号泣しながら夢の終わりを語った。
『ごめんねチュータ!!』
ミモには見えなかったが、父は自分の後頭部に何かを押し当てていた。
それは先の尖った金属だ。父はそれを全力を込めて押し込んだ。
頭蓋骨が砕けるような音がした時、ミモは記憶を失った。
目が覚めた時、彼女は魔法少女になっていた。
『心が壊れそうになった時、その原因をキミたちは忘れたんだミュウ』
ミモは納得した。覚えているところだけでも地獄のような光景だった。
(きっと変なお薬でもキメてたんだよ)
そういうの、たぶん、不思議だけど、不思議じゃない。
『キミは辛いことがあったけど前に踏み出そうとしているミュ。それは大きな一歩であるべきだミュ。だからキミはユーマ・ビッグフットを生み出したんだミュ』
踏み出そうとしているのか?
でもみゅうたんが言うのだから、そうなのかもしれない。
ひとりぼっちになったミモはアポロンの家にやってきた。
施設を見てまわるなかで礼拝堂を見つけた。
神様を否定はしていないが、信じてもいなかった。
でも少し興味があって覗いてみると、そこでミモは女神を見つけた。
ステンドグラスから漏れる光に照らされながら、手を合わせ、目を閉じ、祈っていた。
人形のようなその姿は、人間らしさを感じさせなかった。
だからミモはそこに人間よりも大きな存在がいると勘違いをしたのだ。
しかしシスターモアは神になろうと思ったから、それは不思議な光景ではなかった。
それを驕りというなら間違ってはいないだろう。
それでもモアはあの日、神を見つけた時から、それに限りなく近い存在になろうと決めたのだ。
モアは月になりたかった。
遠くで浮かべばいい。
それで人々が見上げて、淡い光に意味を見出してくれるならそれでよかった。
だから彼女は月になりたい。ならなければならない。
でなければ悲しみに心食われてしまう。
たとえそれが魔法少女であったとしても。
魔法少女は心を砕く最後の一撃を忘れるだけだ。
それ以外の記憶は残り続ける。そしたらそれは永遠に心を蝕んでいく。
お風呂に入っているふとした時間で。眠っている際に視る夢で。
それはあまりにも辛いことだから。
「……モア様」
今、現在、ベッドにいるミモは小さく呟いた。
魔法少女であるとお互いが知った時、お互いは己の悪夢を初めて他人に打ち明けた。
モアの記憶を聞いて、ミモは真っ青になってガタガタ震えた。
でもモアは笑顔だった。
「悲しくないの?」
ミモが聞いた。
「悲しくないよ」
モアがそう答えた。
「嘘つかないでよ!」
「本当だよ。そうお祈りしたから。涙の流し方を忘れちゃったの」
「でもあたしはマジで悲しいよ!?」
ミモはあの時のことを話すだけで泣けてきた。
どうしてあんな辛い目に合わなければならないのだろうかと、いつも思う。
真面目には生きてこなかったかもしれないけど、あんな酷い思いをしなければならないようなことはしてないのに。
だからミモは神様を信じていない。
「もう会えない。みんなに……!」
ミモは泣きじゃくってへたり込んだ。
その時だ。頭を撫でられたのは。
「よしよし。もう泣かなくていいんですよ」
モアが微笑んでいた。
馬鹿にしないでよと言いたくなったが、ミモは反射的にモアを抱きしめていた。
モアも、ミモをギュッと抱きしめた。
「傍に、いるから」
耳元でそう囁かれた時、ミモの中で何かが芽生えた。
ただ単に、近くにいるというたったそれだけの言葉でミモはモアから離れたくなくなった。
一生この人の隣にいて、ずっといつまでも優しい匂いを感じて生きていきたいと思ってしまった。
家族を全て失ったミモにとってはその優しさがあまりに心に染みてしまったらしい。
優しすぎるのも罪というものだ。我ながら情けないとは思うが、コロリと堕ちてしまったのだ。
きっとあたしの苦しみを真の意味で理解してくれる人は、この人以外には現れないと本気でそう思った。
現に同じ魔法少女で、同じように悪夢みたいに家族が死んだ傷がある。
その傷同士を重ねて血を混じり合わせることができるのは、確かにモア以外にはいなかった。
苦しみを理解してくれなければ、救いを与えてくれることもない。
だからモアが全てだった。だからモアの一番近いところにいたい。
家族ではないとすれば、それはどこだ?
「………」
ミモは目を閉じた。
この感情は間違っているのだろうか?
ただの錯覚、ひと時の夢でしかないのだろうか?
ではこの痛みの正体はなんだ?
モアの隣に誰かが立っていると想像するだけで張り裂けそうになる痛みの正体はなんだ?
ミモは目を開けた。モアが見えた。
この胸の高鳴りはただの友情や信頼だけではない。
う、い、あ、お。口パクが母音の形を作る。
「あたしなら、モア様の心の引っ掛かりを取ってあげられるかもしれないよ……?」
月にならなくてもいいのに。
おいしいものを食べて、楽しいことをしたら忘れられるのに。
もしかしたら気持ちいいことをすれば、よっぽど早く忘れられるかもしれないのに。
歌が好きなんでしょ? カラオケは楽しかったでしょ?
貴女はいつもみたいに笑っていただけだったけど楽しかった筈だよ。
だからもっと歌えばいいのに。自分で。鼻歌でもいいから。
でもそれをしないのはきっと貴女の中にある何かが悪さをしてるんでしょ。
じゃなかったら、こんな――……。
月になろうなんて思わない。