第42話 チュータ!-1
「ぁぁぁぁあぁあぁああぁ」
ただ、うろたえるだけだった。
救急車を呼んでも助からないことはわかっている。
奈々実のお腹には、ぽっかりと大きな穴が開いていて、むしろまだ生きているのが不思議なくらいだった。
奈々実が死ぬのは嫌だ。だけど何もできない。だったら泣くしかない。
「奈々実――ッ! 私ね、ずっと貴女のことが……!」
口を閉じる。まるでもう死ぬみたいだていう諦めが奈々実に伝わってしまう。そうしたらきっと印象が悪くなってしまう。
それに何を伝えても今の奈々実には聴ける余裕なんてない。
そうしたら告げようとした想いは、ただ壁に向かって言っているのと同じだ。
だがその時だった。奈々実は舞鶴の頬を撫でた。
「わたしも、大好きだよ。舞鶴ちゃんのことが、ずっと……」
「奈々実ちゃん……!」
奈々実は泣いていた。
「じにだぐ――ッ! ないよぉ……!」
ここで奈々実の中にあった『いい子』が崩れ落ちた。
「だす……げッッ! でッッ!!」
奈々実は目を見開いて、舞鶴の裾を掴んだ。あまりの力に手がブルブル震えてる。
「どうじでッ! わだじがッ! がはっ! げぇ! ごんな……! おえぇっッ!」
喋ろうとするごとに、赤い血が喉の奥から溢れてきた。
「まだッ、ばなびッ、みでないのに――ッ! ごげぇえッ! うぶぁ! だずげ! ぐるじ……! ぎゅーぎゅぅじゃ、呼んで! 舞鶴ちゃ――! ごぼぇ!」
何か言わなければならない。
舞鶴はそう思ったが、奈々実はもう死んでいた。
冷たくなっていて、青白くなっていて、だらしなく目を開けたまま死んでいる。
気持ち悪い。吐きそうだ。舞鶴は気を失いそうになるが、それでもみゅうたんの声は聴こえていた。
『希望はあるミュ! 舞鶴! 理不尽をなくすことこそ魔法の本質なんだミュウ!』
だから、魔法少女は不可能を可能にできる。
ルールは簡単。資格を持つ少女は、心を壊す出来事を忘れることができる。
心が死なないから、その時点では死なないが、その代償として魔法少女になる。
でも本来は死ぬ筈だったのだから運命を修正しようとする世界の力が働く。
それが生み出したものこそが、パラノイア。
『少女に魔法を与える使い魔、ユーマにパラノイアの命を与えた時、生命エネルギーであるソウルエーテルが蓄積されるんだミュ』
それが一定値に達した時、そのエネルギーを死んだ者へ与えることができる。
つまり、死人を生き返らせることができるのだ。
『たとえ死体が残っていなかったとしても、魔法はそれを可能にしてくれる。キミたちの思う常識は、はるか昔に崩れ去ったのだとどうか理解してほしいミュ! だから舞鶴! キミが選ぶんだミュ!』
みゅうたんは叫ぶ。
魔法少女になればパラノイアが生まれるが、それを倒し続ければいずれ奈々実は蘇る。
ならば舞鶴の答えは簡単だった。
「世界中の人間がどうなってもいい! 私はただッ、奈々実が生きて笑ってくれるなら、それでいいッ!!」
その瞬間、舞鶴の目の前に巨大な雷鳥が現れた。
『それがユーマ。キミに魔法を与える使い魔だミュ!』
なりたい自分してくれる。そう設定すれば魔法はその通りに導いてくれる。らしい。
『翼を広げるべきだ。羽ばたきたいと願ったなら!』
だから舞鶴はサンダーバードに選ばれたのだと。
◆
『アポロンの家』とは、フィーネにある児童養護施設の名前である。
海上都島であったとしても両親を事故や病で亡くしたり虐待など、様々な理由で孤児になるケースは珍しくない。
それこそパラノイアに保護者を殺されたケースも存在している。
見た目は普通の二階建てといったところで、シスターモアはずっとそこに住んで子供たちの世話を任されていた。
モアは早歩きで家に入って扉を閉めると、すぐにまた扉を開ける。
「おかえりなさい」
わざわざ、おかえりを言うために早歩きで自分を追い抜いたモアが可愛らしくて、ミモは微笑んだ。
「ん。ただいま!」
ミモもまた、アポロンの家に住む孤児の一人だった。
二人の帰宅を察知したのか、奥からは他の子供たちが駆け寄ってくる。
「おかえり! ミモねえちゃん!」
「よーっすチビたち! マジ会いたかったぞーっ!」
「モアさまぁ、おなかすいたぁー」
「よしよし、じゃあちょっと待ってて。今からすっごいおいしいの作るからね!」
はじめは食育指導員が栄養バランスの整ったメニューを用意してくれていたが、今は自立の意味も込めて自分たちで用意するようになった。
とはいえ、まだ小さい子も多いので、それは主にモアとミモが担当である。
「冷蔵庫に昨日の残りがあったから……」
「あぁ! ミモちゃん、いけません! たまごの賞味期限が今日までだよ!」
「んじゃ、ま、チャーハン作りますか。モア様はスープお願いできる?」
「うんっ! まかせてくださいねっ!」
はじめはレシピを見ながらやっても失敗していたのに、今では冷蔵庫の中を見てパッとメニューが浮かぶようにまで成長した。
そもそも毎日毎日、みんなの栄養を考えて献立を決めなきゃいけないルールもない。
スーパーのお惣菜はおいしいし、野菜はフライドポテトやパンと肉の間にある少量のレタスだけでもいいのだ。
それがきっと、家族というものだ。
今日だって、残り物の具材を適当にぶち込んだだけのチャーハンを子供たちはうまいうまいとバクバク食っていた。
そのあとは洗濯機を回して、子供たちと一緒にゲームをして、洗濯物を取り出して、干して、ゲームして、気づけば夜も遅くなっている。
ミモは家の裏にある小さな礼拝堂に向かった。
そこではモアがお祈りをしていた。
モアは暇さえあれば、いつもここにいる。そして何かを祈っていた。
別に付き合いが悪いわけじゃない。子供たちが遊んでといえば遊んだし、本を読んでほしいといえば夜遅くまで付き合った。
でも何もなければいつもここにいる。微笑みながらずっと手を合わせている。
音楽を聴くでもなく、テレビを見るでもなく。
いつも常に礼拝堂で一人、手を合わせているだけだった。
「モーアーさーま!」
「……ん? どうしたの? ミモちゃん」
モアは笑っていた。
「一緒にお風呂っ! 入ろう?」
モアはニコニコしながら頷いた。
二人は服を脱いだ。まずミモが湯船に浸かって、モアが体を洗うことにする。
「和久井にバレちゃったね」
「怖がってないか心配。でもこの島に住むってことは、私たちのことを知るってことですし」
「………」
ミモは、モアを見ていた。ニコニコしながら頭を洗うモアを見ていた。
「てか、あたしらが助けたんだから、今度お礼してもらおーよ。駅前のパンケーキ!」
「だめだよミモちゃん。かわいそう」
「冗談だって」
ミモはモアをジッと見ていた。ニコニコしながら体を洗うモアを見つめていた。
「ねえモア様。今日、一緒に寝てもいい」
いいよ。シスターモアはニコニコしながらそう言った。
ミモは嬉しかったけれど、わかっていた。モアはお願いを断ったことがない。
よほど冗談めいたものやモア自身が定めたシスターとしてのルールに背かない限り、どんなお願いでも聞き入れた。
あれして、これして、あれしろ、これしろ。
モアはいつもニコニコしながら聞き入れた。
いつも、いつも、いつも――、ニコニコとしていた。
それは幼い頃から同じだった。
モア・エドウィンは、優しくて穏やかな女の子だった。
きっと優しいママと穏やかなパパの血を色濃く継いでいたからだろう。
モアは幸せだった。広いお庭でパパとボール遊びをするのが幸せだった。
かわいい洋服を着てママと一緒に歌うのが大好きだった。
そんなある日、ママが新しい命を授かった。
パパは喜んだ。ママはとても喜んだ。モアも幸せだった。
お姉ちゃんになったら、どうやって遊ぼうかをたくさん考えた。
だからママが流産した時、モアはたくさん泣いた。
でもきっと一番悲しいのはママだから、パパと一緒にママを支えていこうと約束した。
ママも泣いていたが、ありがとうと言ってモアの頭を撫でた。
その後、ママがお家に帰ってきてからは、またいつも通りの日々が戻ってきた。
ある日ママがベビーカーを買ってきた。
パパは驚いたが、理由を聞いて納得した。
必要ないのはわかっているが、せめてもの思い出と供養にと、前から買おうと思っていたものを持っておきたいとのことだった。
次の日、ママはベビーカーを持って買い物にいった。
飾っておくと、いろいろ思い出して辛いから、どうせなら使ったほうがいいという理由だった。
買ったものをベビーカーに乗せて運んでいたのだ。
その日からママの食事が少しおかしくなった。
ママはお肉が大好きだったのに、小さな魚をよく食べるようになった。
それも噛まずに丸ごと飲み込むようになった。
モアは不思議に思って、どうしてそんなことをするのかを聞いてみた。
するとママはこう答えた。
『お魚を産めるかもしれないでしょ? 口に入ったものは、お尻から出てくるの』
モアはよくわからなかった。
『モアちゃんも、お魚の妹が欲しいでしょ?』
よくわからなかったから、どうせだったらネコちゃんの妹がいいと言っておいた。
翌日、ママはネコを持ってきた。モアはとても喜んだが、すぐに元気がなくなった。
ネコがあまりに暴れるものだから、ママが地面に落として殺してしまったのだ。
だがママはこれでいいと微笑んだ。
そもそも、これはペットとして連れてきたのではなく、ママが飲み込むために連れてきたのだ。
しかしあまりにも大きなネコだったので、飲み込むことはできなかった。
なんとかして頭を口に入れたが、どう頑張っても体が喉に入ってこない。
ママは何度も何度もえずきながらチャレンジしたが、やっぱりそれは無理だった。
しばらくしたら、ママはそうだと手を叩いた。
ジュースにすればいいのよ! ママはニコニコしながら、ネコをミキサーにかけるためにブツ切りにし始めた。
しかし骨が硬くて普通の包丁じゃなかなか切れない。
モアはやめてと叫んだ。
ネコがかわいそうだったからだ。
ママは確かにと言って、ネコをミキサーにかける前に庭へ捨てた。
『ネコちゃんがかわいそう。お墓を作っていい?』
『もちろん。ママも手伝うわ。モアちゃんは優しいね』
二人は一緒にネコのお墓を作った。
翌日、ママにしっぽが生えていた。かわいいねと言うと、ママは喜んだ。
ただそれはモアが想像していた喜び方とは少し違っていた。
モアは尻尾がかわいいと伝えたのに、ママは「貴女に似ているんだから当然よ」と笑った。
その日はパパが早く帰ってきた。
遊んでもらおうとモアは思っていたが、パパは真っ青になってママを病院へ連れて行った。
夜、パパとママが喧嘩をしていた。
モアは悲しかった。大好きな二人が言い争っているのを見ているのは本当に辛かった。
会話の内容は幼いモアではよくわからなかったが、大声だったら耳には残っている。
お前は何を考えているんだ。道に落ちていた石や犬をバラバラにして肛門から入れるなんて普通の考えじゃない。頭がどうかしてしまったのか。お医者がいなければもう少しで人工肛門になるところだった! 何を言っているのあなた。わたしはあの子の妹を産みたいだけなんです。それがどうしてあんなことになるんだ。いいか、あの子はもう死んだんだ! わかってるわよ。だからもう一度産むんでしょう! 馬鹿を言え! お前はどうかしている。そもそも子供が出てくるのは肛門からじゃない! いいえ、ちがうわ。あなたは子供を産んだことがないからわからないのよ! あの子を失って辛いのはわかる。しかし我々にはモアがいる! どうしてあの子を見てやらないんだ! 明後日俺は休みだから、お前を病院に連れていく。いいな! わかったな!
翌日、ママが死んだ。
鉄筋工事の現場に忍び込んで、コンクリートから伸びた鉄の棒に向かって股を広げてダイブしたらしい。
ママは出かける前に、モアにこんなことを言っていた。
鉄の棒は長くて硬くてしっかりしてるから、絶対に何にも負けずに体の中に入れることができるし、そのあとも消化されることはないの。だから絶対に産める。
本当に鉄の棒はしっかりしてるから。パパのよりもよっぽど硬くてしっかりしてるから強い精子を頂けるかもしれない。
そしたら絶対に妹を産めるから待っててね。
ママは引き留めようとするモアを叩いて家を出て行った。
ママの狙い通りになったかどうかは知らないが、鉄の棒はママを突き刺し、脳天を貫いて串刺しにしていた。
だからたぶん、ママは頭から赤ちゃんを産んだのだ。
『ママ、もう帰ってこないの?』
『ああ。これからは二人で生きていこうな。モア』
パパは泣きながらモアを抱きしめた。
モアはよくわからなかった。ママの死体を見ていなかったから、ママが死んだと言われてもまったく実感がわかなかった。元気なママに帰ってきてほしかった。
翌日、モアは一人で起きた。
いつもはママが優しく起こしてくれたのに。
やはり本当に死んでしまったのだろうか? モアはそんなことを思いながら、朝ご飯を食べるためにリビングへ向かった。
扉を開けると、パパが全裸で椅子に座っていた。
『びびぃぃぶぅべべべっばばばおぽぽぽぽーぴーっぱぱぱぺぱぁっっ!』
文字にすれば、『じょばーッ!』と、噴水のように勢いよくおしっこを出していた。
おしっこは赤色だった。血尿というよりは、血そのものだった。
パパは目を見開いていた。笑っていたから、たぶん楽しかったんだと思う。
服は着ていなかったが体中にママの死体の写真をたくさん貼り付けていた。
写真はすべて画鋲を皮膚に刺して留めていた。
痛そうだった。
パパはしゃぶりつくして味がしなくなった指を噛みちぎると、それを自分の鼻の穴に突っ込んでいた。
こうすることで嗅覚が封じられ、かわりに味覚が研ぎ澄まされて、指の甘みが復活するかもしれないからだと口にしていた。
いつしか、パパは自分の舌を噛み切っていた。タン塩で一杯やるためらしい。
パパはすべての真理に達していた。
そうか、ママが死んだのはタン塩にレモンをかけなかったからだ。
だからママは死んだんだ。
そうか、そういうことか。パパの中ですべてのピースがはまった気がした。
パパは指のない手で自分の腹を全力で殴り始めた。
何度も何度も殴ると、いくつかの内臓が破裂した。気持ち悪いから血を吐いた。
『あれはオレンジが好きだったから。オレンジだったら、よかったんだ!』
モアは必死に夢から覚めようとするが、これは現実だった。
『んぼぉおぉぉぉぉぉおぉおおおおお!!』
なぜかパパが叫ぶと、パパの両目が取れた。
そこでモアは記憶を失った。
何が起こったのか、どうなったのか、まったく覚えていない。
ただ次に目覚めた時、パパはいなかった。モアはアポロンの家にいた。
そしてみゅうたんに出会った。
『モア、キミは魔法少女になったんだミュ』
首が長ければ、より広い範囲の人たちを見守れる。
手が伸びれば、遠くにいる人にも手を差し伸べられる。
『そんなキミの想いが、ユーマ・ネッシーを生み出したんだミュ』
モアは微笑んだ。
ステンドグラスには神様がいた。