裸の邂逅
乾いた音が森の中を駆け抜けた。ヴァルは舌打ちしたいのを堪えて、足を上げて地面を確認した。への字になっている小枝が半分地面に埋まっていた。これを踏んで折った音が鳴り響いてしまったのだ。
こんな不注意……。
耳をわずかにくすぐる程度の音だったが、ここは深淵たる森の中だ。鳥や木々が紡ぎ出すハーモニーに、いきなり不協和音が入り込ませてしまったのだ。一瞬で駆け抜けた音だったのが、殊更に目立った。ましてやこちらは気取られないよう気配を殺して移動していたため、ヴァルの苛立ちは一気に頭に突き上げられた。ここは既に魔物のテリトリーだ。姿は目視できないが、さきほどから禍々しい気配がビンビンと肌を刺激している。
その場から動かず、数秒の時をやり過ごした。森の中は何事もなかったように静かに息をしている。木漏れ日が優しく降り注ぎ、暗い森に鮮やかな色彩を落としている。魔物討伐の依頼を受けずに通っていたら、なんて平和な眺めなのだろうと吐息を漏らす光景だ。
「………………」
動きと共に止めていた呼吸を再開した。森の新鮮な空気が肺を満たす。硬直していた体に柔らかさが戻ってきた。
「どうやら、だいじょう……」
肩の力を抜いた時、茂みから影が躍り出て飛び掛かってきた。人間の子供とほぼ変わらないサイズだが、形相は悪鬼の如く醜く、肌の色も不健康そうに青みがかっていた。姿かたちが目撃情報と一致する。こいつこそがヴァルが狙っていた獲物だ。
魔物は異様に長く伸びた爪を振り下ろしてきた。
「ちぃっ!」
ヴァルは避けるよりも剣を抜いて受け止めた。老木の幹に斬りつけたような衝撃が剣から腕に伝わる。激しさが空気を伝わったみたいに、木々から木の葉が一斉に舞い落ちた。
今の奇襲で仕留められると踏んでいたのか追撃はなく、魔物は自分のボロボロになった爪を凝視した。
「仕掛けておいて、呆けてるんじゃないわよっ!」
間髪を容れずに次の攻撃を繰り出したのはヴァルの方だった。不意討ちを喰らったとはいえ、戸惑ったり動けなくなったりはしない。初めから魔物を狩るのが目的でこの森に足を踏み入れたのだ。
魔物は反撃されることは想定外だったようで、ヴァルの剣撃を受けるのが精一杯だ。徐々に後退していき、呼吸も荒くなっていく。
「いい加減、観念しなさいっ。あんたは初めから狩られる側だったのよっ」
攻撃している野蛮な高揚感がヴァルに叫ばせた。本来、戦闘中には無意味な行為ではあるが、この時は上手い具合に挑発となって、人語を解する魔物の動きを乱す効果を果たした。受け一方になっていた魔物は、無理な姿勢から反撃を試みたのだ。
「ギギャァッ‼」
よほど激昂していたのか動作が大振りになり、隙が生まれた。そして、その隙を見逃すヴァルではなかった。
「脇がガラ空きよっ!」
水平に滑らせた剣は、空気抵抗を感じないほど軽かった。理想通りの軌跡が描けた証拠だ。肉を切り裂く感触が腕に伝わったと同時に、ヴァルは今回の依頼も無事に完了できたと、緊張を保ちながらも安堵を覚えた。
ヴァルが感じた手応えに違わず、魔物は断末魔を上げ千々に砕け散った。
地面を這うように硬質的な音が鳴り響く。死んだ魔物の残滓だ。たった今退治したのは、ここ二~三年で頻繁に現れるようになった異形で、昔から森や山に生息するモンスターとは似て非なる種である。
魔法を研究している者たちが集まり、これまで倒された魔物の残骸を調べてわかったことだが、魔物は動物と宝石と魔力が融合して誕生したらしく、なぜそんな生物が生まれ出たのかは誰も知らない。モンスターと区別するためにこれらを魔物と称している。モンスターは野生の動物と一緒で、人間が刺激しない限り襲ってこないが、魔物は積極的に人間に害を及ぼす。そのため、今では冒険者ギルドに寄せられる依頼は、魔物討伐でいっぱいだった。魔物は強さと希少さが比例しているのか、強力な魔物ほど残す宝石の価値は高い。
ヴァルのような一介の冒険者が倒せる魔物の宝石の価値などたかが知れているが、売れば路銀くらいにはなるので、ありがたく拾っておく。地面に落ちている屑石を拾う姿はなかなかに心に来るものがあり、あまり他人には見せたくない瞬間だ。
「さてと……」
宝石をレザーポーチにしまったヴァルは、仕事が終わった開放感を体全身で味わった。
「あとはギルドに戻って報告すれば、三日はのんびりできるわね」
ここは依頼を出した街から少し離れた森の中だ。今から帰っても、まだ夕食前には間に合う。
「家に帰るのは、明日の朝でいいか。報酬が入るのは確実だし、今夜は美味しいもんでも食べようかしら」
上機嫌のため、口数も自然と多くなる。といっても、この場にはヴァル一人しかおらず、すべては風に流れる独り言だ。
「でも、戻る前に……」
ヴァルは、イタズラを思いついた子供のように笑みを浮かべ、街とは反対の方向に歩を進めた。
木々を掻き分けヴァルがたどり着いたのは、滾々と湧き出る温泉だった。街の周辺に数ある温泉の中でも、秘湯といわれる隠れ温泉だ。言われるだけあり、人の手は加えられておらず、脱衣所や洗い場などもない。
湯は透明だが、水面を漂う湯気は霧のように幻想的で、ゆらゆらと遊びヴァルを誘っていた。
「ぬひひ……。依頼を受けた時から、寄ろうと決めてたんだもんね」
周囲に人の気配がないことを確認し、ヴァルはおもむろに服を脱ぎ始めた。森の中とはいえ、覆いのない場所で衣服を脱いでいく背徳感に、奇妙なくすぐったさを覚える。
魔物が跋扈し始めてからというもの、温泉に立ち寄る客がぱったりと途絶えた。街の収益に大きな被害が出ているので今回の依頼となったわけだが、悩みの種である魔物は先ほど自分が討伐した。
誰もいない貸し切り状態の秘湯を堪能しようと、依頼を受けた時点から計画の中に織り込んでいたのだ。
脱いだ衣服は枝に掛け、一糸纏わぬ姿となった。もう一度周囲を確認してから、つま先からゆっくりと湯に体を沈めた。
「ん〜っ……」
蓄積された疲労が溶け出していく。温度は熱過ぎずぬる過ぎず調度よかった。遠回りしても立ち寄って大正解だった。
ヴァルは今年で十七歳になる。街娘なら色づいた話の一つも持ち上がりそうだが、剣術と魔法の修行に明け暮れてきた彼女は、自分には無関係だと決めつけていた。
それでも、時折胸をかすめる寂寥感に戸惑いを覚える。こんな感覚が去来するようになったのは、いつからだろう。
揺らめく水面越しに、自分の体を見つめてみる。細く華奢だが、毎日剣を振っているだけあり、引き締まって貧弱な外見ではない。年齢相応の丸みも帯びてきているが、もう少し胸にも膨らみが欲しいところだ。
「剣を振るのに邪魔にならないからいいけどね」
誰に対する言い訳なのか、そんなことを独りごちる。唯一、女らしさを漂わせていると言い張れるのは、艶のある黒髪だ。母親譲りの美しい黒髪で、ブラックダイヤモンドを細い糸に変えたような美しさだ。戦いの邪魔になると男の子のように短くしてるが、腰まで伸ばせば女としての魅力が一気に上昇するに違いない。
「………………」
そよ風の中で髪をたなびかせ、優雅に舞う自分を想像し、急に気恥ずかしくなった。
「バカみたい」
頭まで湯に沈めて呼吸を止めた。らしくないことで脳内を満たしたのは、普段しない湯治などをしているせいだろうか。
息苦しさが限界に達し、勢いよく水面から飛び出した。
「ぷはあっ!」
湯を滴らせ呼吸を整えていると、奇妙な音が耳に流れ込んできた。
「ん? なに?」
微かな音に、最初はどこから聞こえるのかもわからなかった。それは次第に大きくなり、物音ではなく声だと認識した。しかも男の叫び声だ。
「ああああああ」
「ちょっと? やだっ」
慌てて胸を隠し周囲を見渡すが、やはり人の姿はない。それなのに声はどんどん大きくなっていき、明瞭になっていった。
「近づいてきてる?」
「ああああああああ」
声が近づくにつれ、ヴァルの心に荒波が生じた。うら若き乙女の裸体を見て悲鳴をあげるわけないし、そもそも覗いているなら声なんかあげないはずだ。
「あああああっ!」
どう対処すればいいかわからずまごついていると、目の前を影が過ぎた。驚く間もなく、派手な音と水しぶきが全身に降り注ぐ。
「きゃあっ!」
不測の事態に混乱するも、女の本能で胸を隠している腕は解かなかった。
「なんなのっ?」
なにかが落下してきたのはわかった。見上げてみるが、頭上には紫色に染まった空に見え始めたばかりの星が瞬いているだけで、どこから現れたのか不思議だった。
「うむむ……」
うめき声と共に湯が盛り上がった。
ヴァルは不格好ながらも戦闘態勢をとった。落ちてきたのが敵対する者なら、恥ずかしがってなどいられない。
「なんだこれは? びしょ濡れではないか」
文句を言いながら立ち上がったのは、ヴァルと同年代か、それよりも少し年上の逞しい青年だった。ヴァルと同様、生まれたままの姿で仁王立ちしている。
「いやあああああああああっ!?」
「なんだっ、敵かっ?」
ヴァルが悲鳴を上げたのも無理はない。青年は男の象徴たるイチモツを隠そうともしないで立っていたのだ。
敵がいると勘違いした青年は、周囲を警戒すべく脚を開き左右に腰を捻った。その動きに逆らうことなく、イチモツも右へ左へと方向を変えた。
「いやあああああああっ!」
「どこだっ! どこに敵がいるというのだっ!?」
ヴァルの悲鳴に青年の動きが忙しなくなる。当然、ヴァルに悲鳴を上げさせているモノの動きも激しくなり、遠心力を得てほぼ真横にまで振られた。
「いやああああああああああああっ!」
ヴァルは自分のささやかな胸を隠すのも忘れて、手で両目を覆った。しかし指をぱっくりと開き、隙間から凝視してしまうのはなぜか? まるで魔力に魅入られたかのように、目が離せなかった。
なんなの、あの凶悪なモノは? 恋人なんかいたことないけど、話を聞いたことくらいある。恋人同士は、お互いの愛を確かめるために、手を繋いだりキスしたりする。それらが済んだ次は、お互い裸になって……。
カッと顔が赤くなる。
ムリムリムリムリッ。あんなのを挿れたら、愛を確かめるどころか刺し殺されちゃうっ。私は嘘を教えられたのかしら?
湯に浸かっていた上に、突然の珍事にヴァルの頭にはすっかり血が昇り、まともな思考力が維持できない。目眩すら起こしそうになった。
これはなに? このふざけた状況は? 現実に起っていることなの?
のぼせて幻でも見ているのではないかと本気で考えていると、再び湯が激しく弾け散った。またもやなにかが落下したのだ。
「もおっ! 今度はなによっ!?」
湯気の中から現れたのは、地面に突き刺さった一本の剣だった。特徴のある形状ではないが、なぜか自分の剣やこれまで目にした剣とはなにかが違う気がした。
「おお。返したはずなのにおまえも来たのか。さすがは我が相棒だ。俺とは一心同体というわけか」
青年は一人で納得すると、深々と刺さった剣をいとも容易く引き抜いた。
「おまえさえ我が手にあれば千人の兵を得たも同じよ。おい、小僧っ!」
いきなり声を掛けられ、ヴァルは身を固くした。
「離れてないで俺のそばに寄れっ! 敵が近くにいるっ!」
パニック寸前のヴァルは、勘違いしている青年に怒鳴りつけた。
「バカじゃないのっ!? 私が叫んでいるのはっ」
「もっとそばに寄れと言ってるだろうっ」
腰に腕を廻され強引に引き寄せられた。肌と肌を密着させられ、ついにヴァルの精神は爆ぜて平静さなど吹き飛んでしまった。
「ぎゃあああああああああっ!!」
「あ?」
「さわるなあっ!!」
ヴァルは脚を高々と上げ、超至近距離から踵落としを放った。もちろんヴァルに武術の経験などない。胸を隠すために両手を塞がれていたので、とっさに脚による打撃を繰り出したに過ぎない。足のもっとも硬い部分を頭部のもっとも脆い部分に当てようとして、結果的に踵落としの態になったのだ。
「んがっ!?」
脳天は下手をすれば死に至る急所だ。男も女も関係ない。一点の急所を捉えたことにヴァル自身が驚いた。
青年がグラつく。このまま倒れたらすぐに逃げだそうと考えたが、青年は驚くべき耐久力を発揮した。
「そ、こ、かあっ!」
青年が剣を振るった。水面が割れたかのように錯覚するほど、鋭い一太刀だった。
「グエエッ!」
瞬時の煌めきの中、錯覚ではなく実際に両断された影があった。その正体は、木の陰から飛び掛かってきた魔物だった。
「えっ? なにっ?」
数瞬遅れて、頭上より高く舞い上がった湯が雨となって降り注いだ。もうもうと立ち昇る湯気は、今の出来事は夢幻だと隠そうとしているようだった。
「……勘違いじゃなかったの……?」
呆然として立ち尽くしていると、青年が振り返った。ヴァルの蹴りがよほど上手く入ったのか、血がどくどく溢れ、顔面が真っ赤に染まっている。
「ひっ!?」
ヴァルは慌てて再度胸を隠した。
「……小僧。なかなかいいものを持ってるな」
「な……」
「だが、男たるものどんな状況に陥ろうとも、敵味方の区別がつけられるくらいの冷静さはなくさないことだ……」
それだけ言うと、青年は白目を剥いて倒れた。前方に倒れ込んで強かに腹を打ったので、派手な音が夜の森に染み込んで消えた。