死の続き
暗かった。真っ暗だった。恐れを知らぬ彼でさえ不安で胸が寒くなる暗澹だった。この闇はどこまで深いのか。
……なんだ。
ふと思った。自分は両目を瞑ってしまっているではないか。そんなことにも気づかずに不安がるなんて、まるで幼子に戻ってしまったようだ。
苦笑と共にゆっくりと眼を開いた。しかし、飛び込んできた光景はなんら変わることはなかった。ここは一筋の光さえ存在しない真の闇なのだ。
生気を取り戻しかけた心は、再び消沈した。
ここはどこだ?
曖昧に濁っていた記憶を必死に手繰り、自分が今どういう状況に身を委ねているのか思い出そうとした。
最初に浮かんだのは戦場だった。連なり襲ってくる騎士をなぎ倒し、飛んでくる何千本もの矢をものともせずに突き進む自分。
間違いない。俺は戦場の英雄であり、歴史の中でもっとも名高い王だった。そんな俺が、なぜこんな暗いところにいる?
移動を試みるが、体が思うように動かない。まるで首から下がなくなってしまったかのように心許ない。
落ち着け。
自分に言い聞かせて、さらに記憶を手繰った。
俺はやつの隙を突いて勝機を得た。ずっしりと力強い槍をやつの心臓に突き刺してやった。愛憎相まみえる複雑な思いを槍に込め、俺は間違いなくやつを屠った。
しかし、往来したのは勝利の確信ではなく、慚愧の念だった。穿かれながらも、やつの瞳の炎は消えることなく、熱い睨みは俺を焦がした。
「……私の負けです」
「……見事な戦いぶりだったぞ。やはり俺が目を掛けていただけのことはある。最大限の尊敬をもって弔ってやる」
「それは叶わぬでしょう」
「なぜだ? この期に及んで俺が戯れているとでも?」
「いいえ。あなたの破天荒振りには手を焼きましたが、ふざけた人だとは一度も思わなかった」
「ではなぜ?」
「あなたも死ぬからです」
「がっ!?」
熱さと冷たさが入り混じった衝撃に襲われた。やつは瀕死であるにも関わらず、鬼神の如く執念で最期の一撃を繰り出したのだ。
「き……きさま……」
「王よ。不誠実なのは私の方です。それでも、私はあなたに認めてもらいたかったのです」
「………………」
「許されようとは思いません」
やつは崩れ落ちた。俺の槍はやつに地獄の苦痛を与えたはずなのに、死に顔は安らかとさえ言えた。
「……最期の最期まで、騎士道を貫いたな」
やつは自分を不義理と言ったが、名誉を損なうことのないよう、礼を尽くして送ってやろう。俺は薄れゆく意識の中で、王らしからぬ殊勝なことを考えていた。
記憶が完全に甦ったと同時に、側頭部に痛みが広がった。やっとのことで重たくなった腕を必死に動かし傷にあてがうと、不吉なぬめりが掌を濡らした。その意味を理解し、ここがどこなのか想像がついた。ここは冥府に違いない。
傷を癒やすために臣下が急いで運んでくれたような気がする。だが、どうやら間に合わなかったとみえる。
……俺は、死んだのか……。
己の人生を振り返り、込み上げてくるのは慚愧や怨讐ではなく、純粋な痛快さだった。
疾風の如く駆け抜け、焔のように熱い一生だった。いくつもの戦いと冒険に挑み、気恥ずかしくなるロマンスにも夢中になった。そして、戦いの中で生涯の幕を閉じたのだ。これが愉快でなくてなんだというのだ。
我知らず笑いが漏れ出た。可笑しくて可笑しくてしょうがなく、笑い声は次第に音量を増し、ついには大口を開けて全身を揺らした。
愉快な人生だった。やりたいと望んだことはやり尽くしたように思う。このまま闇に身を委ねて、あの世に旅立つとするか。
「………………」
悔いがない。本当にそうか?
あの時、もっと上手く立ち回っていれば、争いなど起きなかったのではないか? もっと人心を掌握する力があれば、やつを増長させることなく、安心して後を任せることができたのではないか? 所詮、俺が築いた帝国は武力を行使して領地を広げたに過ぎないのではないだろうか? 守銭奴がなりふり構わず金銭を溜め込むように……。
頭部の痛みが意に介さなくなるほどの、焦げた思いが胸に燻る。身を捻って沈んでいくのを抗いたいが、体がどうしてもいうことをきいてくれない。
「これが死ぬというものなのか……」
さすがに諦念が滲み出た時、一点の白が眼を貫いた。完全なる闇の中の一点の白。それは嫌でも視線を釘付けにした。彼の鼓動が加速するのに同調するかのように、白は徐々に範囲を広げ、天使の階段を形作った。
「あれは……光だっ」
視界だけではなく、彼の心にも光が射し込んだ。あの光がもっと広がれば、ひょっとして助かるのではないだろうかと思った。本能的にそう思えるほどの安らぎが、あの光からは滲み出ていた。
《やり直したいですか?》
「え?」
声が聞こえた。耳から滑り込んだのではなく、脳内に直接響いた気がした。身を委ねたくなるような、優しく甘やかな声だ。
いきなりのことで対応できず黙っていると、再び声がした。
《もう一度やり直したいかと訊いたのです。かつての王よ》
甘美であると同時に有無を言わせぬ泰然さもある。あの声をありのまま受け入れてはいけない。それは侮蔑に塗れて投げられた金銭を、物乞いがありがたがって拾うに等しい行為と判断した。王としての矜持が、彼に気迫を吹き込んだ。
「かつてではない、俺は今も、いや未来永劫も王だ。王と呼ばれる者は何人もいるが、全員俺より格下よ。王の中の王。それが俺だ」
《なるほど……さすがは数多の伝説を残しただけのことはありますね。実に不遜な物言いです》
「ふん。謙虚な王などいるのか?」
《たしかに、多少不遜な方が大きな事をなし得るのかも知れません》
「それで? おまえはなにが言いたくて、俺の前に現れたのだ」
声の主に姿などなかった。現れたと表現したのは、そう言うしかなかったからだ。強いるなら、光そのものに対して言葉を放ったと言える。
《……それほど悲観することはないと言うために現れたのです。あなたの魂が消えるわけではないのですから》
「なんだと? 俺は死んだのではないのか?」
《輪廻転生を知っていますか? これから、あなたを転生させます。今度の世界は、あなたがこれまでに経験したことのない力が日常的に使われています》
「今度の世界? ちょっと待て。生き返るのではなく転生だと?」
《そうです。あなたはシャルヴィ・ダーヴォに行ってもらい、これまでとはまったく違った人生を送ります。そして天命を全うして再び死ぬのです。生命とは輪廻転生を繰り返し、未来永劫紡ぐものなのだから》
「たわけっ! なんだ、そのふざけた名は? そんな舌を噛みそうな世界に転生させずに、素直に元いた世界に甦らせろっ!」
《ふざけているのはあなたです。死を迎えた者は、新たな世界に旅立つのが世の理。そんなわがままを聞いていたら、死者のいない世界になってしまうではありませんか》
「死者のいない世界おおいに結構ではないか。死なないのであれば、無敵の軍隊が作れる」
《駄目です。あなたは次なる世界、シャルヴィ・ダーヴォで新たな人生を送るのです。もう運命は決まっています》
「なにが運命だっ! 無理やり行かせるというのなら、その世界では暴君として君臨してやるぞっ。民を苦しめるだけ苦しめ、恐怖で世界を支配してくれるわっ」
《なんという自己中心的な……》
「昼夜を問わず働かせ、重税を課し、俺が生まれなければよかったと思わせるほどの世界を築いてやる」
転生の際には一切の記憶をなくすので、それは不可能なはずだ。しかし、稀に前世の記憶を引き継ぐ者がいる。そして、そういった者は例外なく覚えている記憶や知識を駆使して前世と似た人生を歩む。ましてやこの男は、神や妖精からの加護を受けた『選ばれし者』として数多の奇跡を起こした。死してなお、この男からは常軌ならざる力を感じる。魂のエネルギーそのものが、他の者とは格が違うのだ。どうせ口先だけで終わると判断するには、不安材料が大きすぎた。
《わ、わかりました。少し落ち着きなさい。あなたにチャンスを与えます》
「わかったか。わかったならさっさと甦らせろ」
《だから、それはできません。あなたはシャルヴィ・ダーヴォに行くのです》
「全然わかっとらんではないかっ!」
《どうにもあなたには堪え性がないようですね。そんなんだから、信じていた者に裏切られるのです》
「んがっ!」
堪え性がないと指摘されたばかりなのに、怒りで目の前が真っ赤に染まった。相手が誰であろうが言われたくないことを、ズバリと切り込まれた。多少なりとも自覚し反省していただけに、なにも言い返せなかった。
《チャンスを与えると言ったのは本当です。今、シャルヴィ・ダーヴォは未曽有の危機に陥ろうとしています。まだ芽が出たばかりですが、静観すればあの世界は終焉を迎えるでしょう。あなたは魔王と呼ばれる者と戦うのです》
「魔王?」
《その者の名はラムゥ。今はまだ小さな火種ですが、放っておくと世界そのものを焼き尽くす業火となるでしょう。ラムゥを打ち倒し平和をもたらした暁には、あなたが生きた世界に甦らせてあげようではありませんか》
「なにっ、それは本当か?」
《嘘なんかつきませんよ。私は人間とは違います》
声の主が何者なのか興味を覚えたが、推測しても詮無いことだった。こんな状況で囁きかけてくるなど、超常の者以外に考えられなかった。
「よかろう。ではすぐにでも転生させよ。ものの数日で魔王とやらを退治してくれる」
《それは無理です。あなたは生まれたばかりの赤ん坊からやり直すのですから》
「なんだとっ!?」
《成長して力を付けるまで、二十年前後といったところでしょうか。あなたは常人には及ばない能力を会得するでしょうが、慢心することなく日々精進しなさい》
重たかった彼の体に浮遊感が加わった。ゆっくりと光の輪に吸い込まれていく。
「待てっ。そんな悠長なことをしていられるかっ! このままで転生させろっ!」
彼はあらん限りの力を四肢に注入し抗った。先程までは微かしか動かせなかった体が、見えない鎖を断ち切るかのように震えた。
《なにをするのですっ。そんなに荒ぶってはエネルギーのバランスがっ》
「おまえは言ったではないかっ。まだ小さな火種だと。だったらそいつが強大になるまで待つ必要なんかあるか。身を腐らせる根は早く切り取るに限るっ」
両腕を高々と上げ、掌を光に向けた。ついに自分のイメージ通りに体を動かすことができた。解放されたのだと昂ぶった途端、彼の全身が光に飲み込まれた。
「うわあああっ!?」
弾けそうな心とは逆に、意識が次第に遠のいていく。脳内に響く声は、かろうじてまだ聞こえた。
《仕方のない人です。これではろくに修行もできずシャルヴィ・ダーヴォでは欠かすことのできない魔法が使えない。魔法を使えずに、魔王に対抗できるかどうか……。せめてもの慈悲です。これを待っていきなさい》
魔法……。聞き慣れない単語を反芻し、自分は取り返しのつかないミスを犯してしまったのかと後悔したが、歯痒い念さえも紙一枚の厚さしか保てなかった。
《あとはあなた次第です。その未来に栄光があらんことを。不遜の王よ》
薄れゆく意識の中、とうとう謎の声さえも聞こえなくなり、意識は再び混濁の闇の中に沈んでいった。