下り坂
雨は嫌いだった。嫌いになった。
自分は幼い頃から研究の虫だったので、天気のことなど気にしない少年時代を過ごしてきた。しかし彼女と出逢ってからは、どんなに厚ぼったい雲が月や星を隠そうと、明日は晴れてほしいと願うようになった。
さっきまでは満月の柔らかい光が降り注いでいたのに、いつの間にか雲が連なっていた。隙間から星々の瞬きが垣間見られた。雨になることはなさそうだ。長年海辺で生活を営んでいると、なんとなしにわかるようになる。
今日はテシラの体調が思わしくなかったので一日中家から出なかったが、明日は散歩に連れて行ってやれそうだ。
「ラムゥ……」
彼女が呼んだ。ただ名を呼ばれただけだが、ラムゥにとっては子守唄代わりに耳をくすぐるさざ波の音よりも、心を浮き立たせる調べだった。
「なんだい?」
ラムゥはベッドに寝ているテシラの手を取った。掌から温かさが伝わる。
「どうしたの?」
「うん……眠れないから、ちょっと相手してくれないかなって」
「ずっと……」
ラムゥは途中で言葉を切った。寝てばかりだからと言おうとしたのだが、それはテシラの病気が進行していることに他ならなかった。
ラムゥが気遣ったにも関わらず、テシラの表情が曇った。微かな笑みを浮かべながらもそうとわかる。まるで今夜の空のようだった。
「……また魔物に村の人が襲われたってね」
その一言で、ラムゥは悟った。眠れないからというのは話を始める嘘で、本当はラムゥに言いたいこと、いや、懇願したいことがあるのだ。
ラムゥは舌打ちしたくなった。寝たきりの生活だろうが、噂というものは風のようにどこにでも入り込んでくる。
「魔物が? モンスターと間違えたんじゃないのかな?」
取り繕ったが、上手くいかなかった。堂々と相手の目を見て嘘をつけるほど、ラムゥの肝は座っていなかったし、原因は自分にあるという罪悪感が滲み出てしまった。
「ごまかしても駄目よ。魔物はラムゥの研究の産物なんでしょ? それも、私のためにしている研究の」
「………………」
図星を突かれて、黙り込むしかなかった。
進行するテシラの病魔に半ば諦めかけていたラムゥの精神を奮い立たせたのは、偶然発見した古の書物だった。驚くべきことに、その誰が記したとも知れない書物には生命に関する魔法に触れていたのだ。
数多の動物を使って、実験を繰り返していたらしい。大地のエネルギーが凝縮された宝石を使ったようだ。残酷で血生臭い描写も多く残っており、著者はまともな神経の持ち主ではなかったと窺える。
そもそも、生命に魔法を絡める行為自体が禁忌なのだ。魔法にはケガや病気を治癒させる回復魔法があるが、それだって扱いを間違えれば悪化、最悪は死を招くギリギリの技術なのだ。ましてや生命を操る魔法なんて、神への冒涜以外のなにものでもない。
よくないことだとわかっていながら、ラムゥは記述にある魔法の研究を始めた。テシラを助けたい一心だった。危険を感じながら、もう少し手を伸ばせばリンゴに手が届くのを諦められなくて、細い枝にしがみつく子供の心境に似ていた。
ラムゥは昼夜を問わず、寝食を忘れて研究に没頭した。どれだけ失敗を繰り返そうが、決して諦めようとはしなかった。書物を呼んだ時には残酷だと感じた実験も、何度も繰り返した。
この本を記した者にも、助けたかった人がいたのではないだろうか……。
希望が執念に姿を変えた頃には、名も知れぬ先人をなじる気持ちもなくなっていた。
「もう研究をやめて」
力がこもらない声に、ラムゥの動きが止まった。
「……やめる?」
テシラにも研究のことは秘密にしていた。彼女が禁忌を許すはずがないことは初めからわかっていたから。しかし、自分がなにをしているのか、薄々勘づいているのではないかとの懸念はいつも抱いていた。
もう取り繕っても時間の無駄にしかならない。ラムゥは迷いを払拭し、強引に事を進める方を選んだ。
「駄目だ。ここで投げ出したら、きみの病気は……」
「死人が出ているのよ? 私たちが殺したも同然だわ」
「そうじゃない。テシラにはなんの責任もない」
「いいえ。私たちの、いえ、私の責任だわ」
「違う。魔物に襲われて死んだ人は、それが運命だったからだ。運がなかったんだよ」
「それなら、私が病気を患って死ぬのも運命だわ。運命を強引に捻じ曲げようとしても、苦しむだけよ」
「やめろ。死ぬなんて言わないでくれ」
「もう受け入れて。ね?」
慈愛に満ちた声が刺さる。自分の無力さに頭を抱えたくなる。胸を掻きむしりたくなる。体温が上昇し、考えがまとまらない自分が、ひどく矮小な存在に思えた。
「ラムゥ……」
なじるでも励ますでもない。渓流のように清らかな声が名を呼ぶ。それでも、心の奥底に沈んだ澱は流れて消えなかった。
「……テシラ。きみは生きるべき人間だ」
それだけ言うと、ラムゥは引きずるような愚鈍な足取りで部屋を出ていった。そのまま隣接する納戸にむかうと、円卓にうつ伏せになって座り込んだ。
「………………」
実験途中だった魔物が逃げ出したあの日以来、ラムゥも無責任に放置していたわけではなかった。時間が許す限り捜索を続け、山中や森の中を這いずり回った。体力を使う作業は慣れていない。全身が汗でドロドロになり、草や枝で切って傷だらけになった。
それなのに、魔物の行方は杳として知れなかった。どだい、広大な森の中でたった一匹の生物を見つけ出すなんて不可能なのだ。
これまでの実験動物は、魔法とうまく癒着せずすぐに死んでしまった。あの魔物だってきっとそうだ。もうとっくに息絶えて骸と化し、土に還っているのだ。そうに違いない。そう自分を納得させることで、諦めを正当化した。
「僕にはやらなければならないことがある。貴重な時間をいつまでも捜索に宛がうわけにはいかないんだ」
声を出して自分に言い聞かせ、捜索を打ち切った。
しかしここ数日、村人や通りすがる旅人が正体不明の獣に襲われる事件が頻繁に起こるようになった。ラムゥはすぐにピンときたが、もちろん言い出せるはずもない。しかも、不可解なこともあった。からくも命拾いした目撃者の証言を聞くと、逃げ出した魔物とは別物のようなのだ。出現率も一匹では計算が合わないくらいに多く、事態はラムゥが思っていた以上に深刻なものになっていた。
きっと、魔物の体内に埋め込まれている宝石の魔力に、山中に埋まっている石が反応しているんだ……。
市場に出回ることのないクズ石なら、無尽蔵に埋まっている。魔物から滲みだした魔力を帯びたクズ石を、野生の動物がなんらかの理由で、例えば土の中の虫や植物を摂取することで体内に取り込んでしまったら。森の動物が魔物化してしまったとしたら、何匹の魔物が産み出されたのか想像もつかない。
今までと同様、短命なのか? それとも宝石とうまく融合して安定した生命を得たのか? 怖ろしいと思う一方で、もしかしたら生命を繋ぐ魔法は完成に近づいているのではないのだろうかと期待してしまう。因果を含んだ二律背反に懊悩しながら、それでも研究をやめるわけにはいかないと、必死に自分を鼓舞するしかなかった。
気分が晴れないまま、研究室に入った。途端に異臭が鼻を刺激する。獣から発せられる独特の匂いだ。テシラには立ち入らないよう言ってあるが、はたして彼女がこの異臭に気づいていないかどうかは怪しいものだ。窓とドアを全開にして換気を行うと、瞬く間に潮風が臭いをさらってくれた。
「む……」
まるでラムゥが窓を開けるのを見計らったようなタイミングで、一匹の魔物が月光を割って舞い降りてきた。彼が出迎えてくれたとでも思っているのだろうか。
魔物はカトラ邸に侵入した時とは打って変わって、音も立てずに扉の前に着地した。
「グルル……」
差し出された手には見事な宝石が握られており、ラムゥの命令を忠実に実行してきたことを物語っていた。
ラムゥは当然のように素手で宝石を受け取る。魔物には無関心で労いの言葉を掛けるでもなく、仔細に宝石の観察を始めた。
「……これだけの逸品、滅多なことではお目に掛かれないな。市場に出たら相当な価格が付いたに違いない」
理想的な宝石を探し、情報を搔き集めてきた甲斐があったというものだ。満足げに頷くと、机の抽斗に剥き出しのまま放り込んだ。
「グググッ……」
「ん?」
いきなり魔物が崩れ落ちて痙攣を始めた。呼吸をするのも難しいらしく、短い息を忙しなく繰り返している。
「こいつも駄目だったか。もう少し保つと思ってたのに……」
魔物は助けを求めるように、ラムゥに手を伸ばした。その様は不気味な姿とは相容れない憐憫さを感じさせる。寿命を迎えた今際の際の犬を連想させた。
ラムゥは伸びて空を掻く手を冷たい目で見つめ、ひたすら観察を続けた。
「グウ……」
ついに魔物はもがくのをやめた。体が崩れて、跡には小さな宝石が一つ残された。
ラムゥは宝石を拾い、ポケットにしまった。
「危なかった。もしここにたどり着く前に崩壊していたら、宝石も行方不明になるところだった。次回からは、もっと余裕を持たせて使役しなければ……」
魔物の逃亡を許してからも、ラムゥは動物を使った実験をやめることはなかった。牛歩のような速度ではあるが、研究は成果を見せ始め、今では魔物と化した実験動物の寿命を一週間以上伸ばすことができ、命令に従うよう調教もできるようになった。宝石を盗んでこられたのも、ラムゥが調教し命令したからだ。研究の実を結ぶためには、大きく調和の取れた宝石が必要不可欠だった。
「魔法と肉体が上手く融合すれば、病気を駆逐するだけじゃない。不老不死だって可能かも知れない……」
今夜も寝ている暇なんかないな。そう思いながら、ラムゥは宝石を握りしめて本棚から書物を引っ張り出した。