強奪の夜
それから三年後―
カトラは興奮してなかなか寝付けなった。昼間の出来事を反芻するだけで、目が冴えてくる。開かれるだろう明るい未来に胸が躍った。
何度寝返りを打っても一向に睡魔が訪れないので、諦めて酒でも飲もうと起き上がった。書斎に入りカーテンを開いた。今宵は満月だ。ランプを灯さずとも、月明かりだけで充分事足りるほど明るかった。書斎机の傍らに備え付けてある金庫を開け、手袋をはめて中から二つの宝石を取り出した。実際の重量よりずっしりと掌に感じる重さに、満足感が膨張する。
私の未来も今宵の月と同様、いやそれ以上に明るく照らされるに違いない。不安のない生活は王以上の人生と言ってもいいだろう。
宝石を机の上に置くと、常備してあるブランデーをグラスに注いだ。琥珀色の液体が月光を透かして妖しく揺らめいた。二十年以上も熟成させた上物だ。
芳醇な香りを楽しむと、一口含み舌の上で転がした。チリチリと刺激するほんのりとした甘さが口内を喜ばせ、コク深い熱さが喉を満足させる。ブランデーはアルコール度数が高い酒だが、飲む前からカトラは酔い痴れていた。
彼は宝石商を営んでおり、先日ある伝手から『双子の乙女』という宝石を入手することに成功した。古びたアンティークに埋め込まれていたのを発見し、ただ同然で譲り受けたのだ。譲ってくれた者は高価な宝石が使われていることを見抜けなかった愚人で、旅行中に気まぐれで購入したのだと言っていた。後で知ったら烈火の如く怒り狂うだろうが、知ったことではない。正規の手続きを踏んで購入したのだ。気づけなかった方が阿呆なのだ。
宝石はその名が示す通り、色も形も輝きもそっくりな石が一組となった宝石だ。今、目の前に置かれている宝石がそれだ。一つだけでも逸品であるのに、それが二つ並んでいるのだから美しさは倍増する。コレクターならなにがなんでも我が物にしたいと思うはずだ。
自分の店で捌くには手に余ると判断し、オークションに出品することにした。鑑定士によると、どんなに少なく見積もっても四十億ディシは下るまいとのことだ。自分で行った査定でも同様の価値があると踏んでいたので、その鑑定士の眼に文句はなかった。
四十億ディシともなれば、人生を何回やり直しても遊んで暮らせる額だ。出品手数料や保管料など諸々引かれたとしても、些細な出費程度にしか思わない。明日には引き渡さなければならないので、こうして間近で眺めて楽しむのも今夜限りだ。
再びブランデーを舐めた。胸が熱くなると同時に想像の翼はさらに広がる。手に入れた金をどうやって使うかだ。思い切り高級な服を着飾り美女を侍らせて、自分を三流呼ばわりしたジジイ共の前を闊歩してやろうか。それとも貴族でも開けないパーティーを催し、あいつらを招待するのもいい。目の前で格の違いというものをみせつけてやるのだ。想像しただけでも胸がすく思いだ。これまでは腹の奥底が熱くなる憎悪も、今夜はブランデーで上手く流すことができた。
カトラは仕事熱心だった。より価値が高い宝石を見つけて商売に結び付けるために東奔西走するあまり、三十歳を過ぎた頃から頭が薄くなり、婚期を逃してしまったほどだ。
禿頭の独り者。それだけでもコンプレックスなのに、いや、そのコンプレックスを跳ね除けるために、彼は一つ悪い癖を身に付けていた。勝てなければ、一番にならなければ満足しない、いわゆる一番病だ。
生来の気質も手伝い、集団の中ではとにかく一番でありたいと思う幼さがいつまでも抜けなかった。宝石商になってからは、その幼稚さはますます顕著になった。しかし、特筆すべき才能があるわけではないので抜きん出るはずもない。それを認めようとしない彼が取った手段は、とにかく人の意見や発言を否定することだった。たいした理由もないのに、ギルド内の会議や仲間内の打ち合わせでは、なにに対してでも「いや」と「でも」を連発した。理由のない反対なので理詰めされればたちどころに馬脚を露すのだが、そうなったら大声を出して相手を押さえつけることでごまかした。
彼の人を見下そうと必死になる姿勢が、周囲から同情と嫌悪の眼差しを送られる要因となり、最近では誰もが遠巻きにして距離を取るようになった。疎外感は劣等感へと姿を変え、ますます女性どころか知人すら近づかなくなるという悪循環に陥っていた。
そこにきて双子の乙女の入手だ。自分をコケにした連中を、今度は私が思い切り見下してやるのだ。カトラは一人ほくそ笑んだ。人格の低さを金の力で補おうとするさもしい発想だったが、カトラはそんなことにも気づけなかった。
「クケケケ……」
どの道を選んだとしても、転落することなどあり得ない切符を手にしたのだ。自然と笑いが漏れ出してしまう。抑えようとしても止めようのない、腹の奥から滲み出てしまう笑いだ。
それなりに頑張ってきた。誠心誠意尽くしたこともあるし、少しばかり汚いことに手を染めたこともある。思い切り嫌いになった奴を蹴落したこともあるし、逆に蹴落されてその場に留まれなくなったこともある。人生には波があるが、結局ところは大きな転機は運ひとつで決まる。努力しても報われない奴はとことん報われないし、碌に努力しない奴でも運にさえ恵まれれば飛躍的に出世できる。世の中なんてそんなもんだ。そして、私も運をつかんだ。これ以上ないくらいの最良の運を。
「悪魔に魂を売りでもしなければ、こんな人生は手に入らないと思っていたぞっ」
喜びを抑えきれず、カトラは声に大にして叫んだ。多分に演技が入っており、一人きりの舞台で主役を演じる喜びに興奮した。勢い余ってグラスのブランデーが床に飛び散ったが、そんなものは夜が明けたら家政婦に掃除させればいい。いや、双子の乙女の引き渡しが済むまでは、誰も書斎には入れない方がいいか。
「いい気分だ。最高の夜だ。もう誰も私を見下せなくなるぞ」
金の力は万能の力だ。オークションが始まるのが待ちきれない。自分を祝福しているような見事な満月を見上げていると、妙なものが映った。月のほぼ中央に、動く黒い点があったのだ。
「んん?」
なんだろうと確認する間もなく点はどんどん大きくなり、ついには月を覆い隠すほど大きくなった。
「近づいて……⁉」
カトラは思わず飛びのき、その瞬間に窓ガラスを割って影が飛び込んできた。あまりに突然のことだったので、床に転がったカトラはへたり込んだまま動けなくなる。
「なっ? なっ?」
少し遅れて賊が侵入したのだと思い至ったが、その一方で疑問符で頭の中がいっぱいになった。乱入してきた者が、人間には見えない容姿をしていたからだ。動物ではない。窓を突き破って入ってくる動物などいない。森を徘徊するモンスターでもない。怖ろしい見た目をしているが、やはり人家に入り込む大胆さはないはずだ。魔物……そう、魔物と呼ぶに相応しい姿をしたそれは、カトラには一瞥しただけで机の上の双子の乙女を乱暴に引っ掴んだ。
「それは……それは……」
ついさっきまで、自分に無限の夢を見せてくれていた宝石が持ち去られようとしている。人生のすべてが詰まった宝石を目の前で強奪されようとしているのに、カトラは脚に力を伝達できなかった。見たこともない魔物を相手に抗うことを、細胞レベルで拒否していた。それでもカトラは必死に手を伸ばすが、腰が砕けて立ち上がることができなかった。正体がなんであろうと、立ち向かうのは無謀だと訴える本能には逆らえなかった。
「乙女……双子……私のもの」
恐怖と混乱で頭の中は靄がかかったように白くなってしまっているが、命と金のどちらを守らなくてはならないか計算するくらいの思考能力は残っていた。
魔物は用が済んだと言わんばかりに、他の物には目もくれず、自らが破った窓から飛び立って消えた。書斎に侵入してから、ものの十数秒の出来事だった。
「宝石が……私の人生が……」
怪物が去った後もカトラは呟くことしかできず、金の力でもどうすることもできない状況が世の中にはあると知った。いつまで経っても動悸が治まらず、ガタガタ震えるのと頭髪がハラハラ落ちるのを止めることができなかった。