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予兆

 デイムは急いでいた。手綱で刺激を与え、馬のスピードを上げた。予定していたよりも帰路に着くのがだいぶ遅れてしまった。商品を仕入れに隣街まで行った帰りだった。

 デイムはジョラという海岸沿いの村で食料品の小売店を営んでおり、その日は小麦粉を大量に仕入れてきたのだ。

 デイムには品定めをする確かな目があった。彼が仕入れる小麦は質がよく、村の料理店、特にパン屋からはすこぶる評判がよかった。デイムの小麦粉でパンを焼くと、全体がふんわりと柔らかく仕上がりとても良い香りがすると、客に人気なのだそうだ。自分の生活を守るために仕事の手を抜いてはいけないと考えているだけなのだが、パン屋の主人からは搬入する度に礼を言われ、感謝されればデイムも悪い気はしなかった。もちろん収入が一番大事だが、それだけでは味気ない。勤労意欲というものは、こういう小さなところから育まれるのかも知れない。

 まだ家庭を持ったことのない独り暮らしだが、それはそれで気楽な生活が心地好い。生まれついて独りに免疫があるのか孤独感も希薄だ。友人と呼べる者は二人いるし、性欲が抑えられなくなったら店で女を抱けばいい。けっこう順風な人生ではないかと自分では思っている。


「かなり暗くなってきたな……」


 柔らかい月の光が降り注ぐが、枝や葉が遮って光と影が織り交ぜになって通過していく。明るいうちはなんてことない道でも、日が暮れた途端に物騒になる。野生の獣が出没することもあり、遭遇したらとても太刀打ちできない。一応、護身用の弓やナイフは積んでいるが、騎士でも狩人でもないデイムにとっては、慰める程の役にしか立たない。一目散に逃げるのが最上策だ。だが、獣よりもタチが悪いのは自分のような通行人を狙う盗賊だ。奴らは逃げても鼠をいたぶる猫のように執拗に追い掛けてくる。

 わずかな金のために命を落とした者もいるという話を思い出し、ブルっと背中が大きく震えた。葉擦れを起こす風の中に潮の香りを感じ取った。もう少しで森を抜けるはずだ。


「大丈夫だ。大丈夫……」


 口の中で同じ台詞を呪文のように転がし、自分を安心させようとする。ランプに灯を点け、少しでも視界を確保しようとする。しかし、頼りないランプの灯りは、周囲に忍び寄る闇を跳ね返すどころか一層深めただけだった。夜の帳が下りるのに同調して、不安がどんどん濃厚になっていく。

 手綱を握る手はきつくなる一方で、掌が痛いくらいだった。事故を起こす危険を片隅に追いやり、頻繁に馬の背を打っていつも以上のスピードで山道を駆け抜けた。


「おっれのめっききは世界一ぃ!」


 突然、デイムは大声で歌い出した。少しでも怖さを紛らわそうとしてのことだ。他人が見れば気が触れたと思われるかも知れないが、大声を出していれば、闇だって弾き飛ばせる。


「みっんなこぞって買いに来るぅぅ!」


 歌詞もリズムも滅茶苦茶な即興の歌だ。歌というより、単に怒鳴っているといった方が近い。内容なんて問題じゃなかった。要は勢いがついて気持ちが高揚すればいいのだ。


「ふんだがびーっ。ふんだがびーっ。ちゃらららぷぷんぷうんだっがーっ!」


 いよいよ意味不明の歌詞に変化していくが、なにも考えず叫んでいたら興が乗ってきた。この暗さの中、無言で馬車を走らせる気はとうに失せていた。もう少し。もう少しだ。

 そんなデイムの涙ぐましい努力を嘲笑うように、突然森から道に飛び出してきた影があった。なんの気配もなくまったくの不意討ちだったので、彼は心底肝を冷やした。


「どうっ! どうぅっ!」


 デイムは心臓が止まるのではないかと思わせる衝撃を抑えながら、必死に馬を急停止させた。荷車に積まれた小麦粉の袋が、派手な音を立てて崩れる。


「ちくしょうっ! なに考えてやがるっ⁉ 俺の歌かっ? 俺の美声に誘われて、つい飛び出しちゃったかっ⁉」


 恐れに支配されまいと、デイムはわざと大声で悪態をついた。と同時に少しだけ安堵もしていた。飛び出してきた影が一体だけだったからだ。しかも小さい。人間の子供くらいだ。もし盗賊だったのなら、一人だけということはあり得ない。動物が相手であるなら、狙いは食料しかない。小麦粉を舐める動物などいるのか知らなかったが、一袋でも投げ捨てればそちらに気を取られて、その隙に走り去ることができるだろう。弓で射抜こうなどとは微塵も考えなかった。

 デイムはランプを手に取り、前方にかざした。闇の中に蠢くものがある。


「?」


 狙いを定めて光の輪で追うと、道を塞いでいる動物が照らされた。


「なんだ? こいつは……」


 デイムは、見たこともない生物に愕然となった。森の中には動物の他にもモンスターが生息している。滅多なことでは人を襲わないが、外見が生理的に嫌悪感を催すので、決して好かれている存在ではない。野生の獣と一緒で人間とはめったに交わらない生活を送っており、山と街を隔てて互いに住み分けをしている。

 目の前のモンスターは、これまで一度もお目に掛かったことのないもので、一際醜い容貌をしていた。恐怖を伴った嫌悪感が、デイムの心に深く食い込んでくる。

 見た目も恐ろしかったが、それ以上にデイムを怖れさせたのは目だった。獲物に襲い掛かる獣特有の殺気が放たれていたからだ。理屈ではない。デイムは本能的にそれを感じ取った。


「うわああぁっ!」


 デイムは絶叫とともに馬を走られようとした。しかし、馬はデイム以上にパニックを起こし、モンスターから遠ざかろうと、いななきを上げて無理やり方向転換をしようとした。


「馬鹿っ! そっちはっ!」


 道から外れた馬車は、急勾配を転がり落ちた。馬が転び、荷車がものすごい勢いで回転を始めた。


「うわああああっ!」


 衝撃に耐え切れなくなったデニムは手綱から手を放してしまい、御者席から放り出された。自分が宙を舞っていると気付かない状態で、太い枝に頭を強打した。


「ぐえっ⁉」


 天と地の区別がつかないまま、デニムの視界は闇に覆われた。優しい月の光も、頼りないランプの光も届かない、完全なる闇だ。来年にはもう少し店を拡張しようという目標があったが、それは果たされることはなかった。

 デニムの人生はそこで終わった。

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