プロローグ
こことは違う世界『シャルヴィ・ダーヴォ』。
魔王の出現で、平和は薄氷の上の仮初となった。
そんな世界で冒険者としてその日暮らしを続けているヴァル。
魔物退治に明け暮れるも、魔王を倒す野望はいつしか蜃気楼のように曖昧なものとなっていた。
そんな彼女の前に、突然一人の男が現れた。男は魔王を倒すために異世界から転移してきたという。
得体の知れない男に翻弄されながらも、ヴァルは己の存在と世界の平和を掛けた戦いに身を投じていく。
遠く、水平線の彼方で目が眩むほどの閃光が走った。何本もの稲妻が海に吸い込まれ、波を黄金に染めようとする。少し遅れて地鳴りのような音がした。腹の奥に食い込み、背中に鳥肌を立たせる、重く低い不穏な音だ。生ぬるい風が頬を撫でる。汗と相まって、べったりと肌にまとわりつく不快感に動きまで鈍くなりそうだった。
喉が上下に動く。ラムゥが生唾を飲み込んだのは雷鳴に驚いたからではない。むしろ、そんなものは意識の埒外だった。今、ラムゥは研究室の扉の前に立っている。研究室と言っても自宅の納戸をそれに宛がっているから、彼が便宜上そう呼んでいるだけの汚れたみすぼらしい部屋だ。
胸がざわざわと騒いだ。心臓の鼓動が通常よりかなり速くなっている。室内に入る前から嫌な予感がした。いつもなら中から漏れ出ているはずの気配が感じられなかったからだ。扉を開けなくとも、室内に生き物がいればなんとなしに察せるものだが、その空気が全く感じられなかった。遥か遠くではいつ地上を刺し貫いてやろうかと雷雲が狙っているのに、目の前に建っている小屋は静かだった。
静か過ぎた。
「………………」
もう一度唾を飲み込もうとしたが、喉がカラカラに乾いていて上手くいかなかった。緊張と怖れが圧し掛かり脚を動けなくする。まるでカップを落として割ってしまい、どうしていいかわからず、片付けもしないでその場から逃げ出してしまう幼子のように。ラムゥも逃げ出してしまいたかった。しかしラムゥはもう幼くはなかったし、その場しのぎで責任逃れができることでもなかった。
ありったけの勇気を搔き集めて意を決すると、ラムゥは扉を開けた。
「これは……」
すでに室内の様子の予想は頭に浮かんでいたのだが、ラムゥはいかにもたった今見つけた風に装って、わざと呆然の声を出した。焦燥が広がる中、僕は誰に対して演技をしているんだと冷めた思いが片隅に浮かぶ。
檻が破られ、窓ガラスが割れていた。一直線に外を目指したようで、室内は荒らされた形跡はなく、窓は中から外に向かってぶち割られていたため、ガラスの破片もそれほど散乱していなかった。それでも、ラムゥは一歩踏み出しただけで戦慄に動けなくなり、立っているのがやっとだった。それほどまでに恐ろしいことが起きてしまった。
「そんな……あれが逃げ出したなんて……」
一秒でも早く対策を練らなければならないのに、ラムゥはパニック寸前にまで追い詰められてた。呼吸が苦しくなり、口を開けなければ酸素を取り込めなかった。肩を上下させ、懸命に空気を貪った。
すぐにでも行動を起こさなければならない。早急に対処法を模索しなければならない。わかっている。頭の中はフル回転し、自分が取るべき行動を計算する。しかし、体は一向に動かせず、ただ茫然と割れた窓から暗い外の景色を見つめることしかできなかった。
遠くで再び不気味な音がした。空を割り大地にまで届く雷が走った。ラムゥには、天がすべてを見ていて、取り返しのつかない事態に対し怒り狂っているように思えた。