300+5
1
いつもは賑やかな酒場が、今日は静まり返っていた。昼間とはいえ仕事の受注に訪れた冒険者は多く、決して人が居ないわけではない。普段通りに人が集まっているのに普段の喧騒が嘘のように静かなのだ。
町で一番大きな酒場には百人以上の人間が滞在している。
その中でたった一人だけ注目を集めている人物が居た。
見れば一目でわかる特別なオーラを纏っている。
光を受けて輝くような金色の髪を持ち、身に着けたのは白い装束。背中には宝石を散りばめた長剣を背負って、ただそこに立っているだけで他の者を打ち負かすほどの眉目秀麗。この世に二つとない美術品のような美しさを持っている。まだ幼さの残る顔立ちだが、背筋がピンと伸びた姿から発される覇気は生半可な冒険者ではないと感じさせた。
その少年はまだ若いが、誰もが知っているほどの有名人だった。
大きな町とはいえ、有名な酒場とはいえ、汚れも目立つ古びた酒場に護衛の一人もつけずに現れた彼が注目を集めないはずがない。居合わせた客も店員も、もはや作業に手につかず滞るほど彼に注目していた。
「なぜだめなんだ! 僕はレベル300なんだぞ!」
件の少年、アルスは仕事を受注する受付で声を荒らげていた。
手には掲示板に張り出されていた依頼書を持ち、よく見ろと言いたげに突き出している。応対する受付嬢は顔を真っ青にして明らかに怯えている様子であった。だが憤っているアルスはそのことに気付かず、自らの主張を続けるばかりである。
「この依頼書をよく見ろ。推奨レベルはたったの10だ。数々の任務を成功させた僕にできないわけがないだろう」
「で、ですから、依頼書に記されているレベルは、それに近いレベルの冒険者の皆様にお願いするためであって……」
「僕ならすぐに終わらせることができる。仕事を完了すればいいんだろう。それとも他に問題があるのか」
「ですから、あのぅ……」
たじたじになっている受付嬢は見るからに困り果てていたが、しばらくの間は無理問答のような会話が続いて、助けが出されることはなかった。しかししばらくすると店の奥から責任者らしき大柄の男が出てくる。
アルスは責任者に目を向けると同じ口調で応対した。
「お客様。こちらのスタッフが説明した通りでございます。適正レベルを大幅に超えている冒険者にはお任せできないのです」
「なぜだ! 300レベルの僕なら――」
「確かに簡単に済ませられるかもしれません。しかしあなた様のようにレベルの高い人が仕事を選ばず独占してしまうと、低いレベルの者たちの仕事が無くなってしまいます。仕事が無ければ多くの冒険者が生活できなくなってしまいます」
「それがどうした。僕には興味がない話だ」
人道を無視した発言を平然とする。聞き耳を立てていた人々は驚愕し、信じられないという目を彼に向ける。
気付いていないのか、敢えて無視しているのか。まるで意に介さないアルスは再び依頼書を突きつけて語気も強く言いのけた。
「僕はここに書かれている報酬のブルーオーブが欲しいだけだ。仕事をこなせばもらえるんだろう。別に報酬だけ寄こせと言ってるんじゃない。ちゃんと仕事を引き受けると言ってるんだぞ」
「依頼の内容は読んでいただけましたか?」
「読んでいない。僕はレベル300だぞ。どんな相手だろうと負けることはない」
「ハァ……それでは、やはりお任せするわけには参りません。その依頼は他の方に譲っていただけますか?」
呆れた顔で男が言うとアルスは見るからに怒りを露わにした。
おそらくこれまで自分の思い通りにならなかったことはないのだろう。そう思わせるような不遜な態度で尚も強行しようとしている。周囲の目もまた呆れており、本人は気付いていないが視線は厳しいものに変わっていた。
「なんだと!? 一体何がだめだと言うんだ!」
「お引き取りください。レベルには相場があります。いくら高レベルであろうと誰でもいいわけではないのです」
「クソ。よーくわかった。それなら、低レベルの者が受ければいいんだろう」
忌々しげに呟いてアルスは振り返った。
彼を見ていた人々の多くが一斉に視線を外すが、それさえも気にならず、きょろきょろと辺りを見回すアルスは見るからに低レベルだろうという人間を探していたようだ。
昼間から酒場に集まるのは屈強な冒険者か、或いはよっぽどの酒飲みか。平均年齢は高めで見た目は厳つい人間がほとんど。見た目だけではレベルなど判別できそうにない。かといって対象のレベルを調べる道具は持っていなかった。
じろじろと不機嫌そうな顔で相手を見る。
レベルが高いと知っているだけに誰も文句は言えないが、ほとんどの人間が迷惑そうに、且つ居心地が悪そうにしていた。早く出て行ってほしいと表情で語っている人間も多い。
その中で一人、一際目につく存在が居た。
考える暇もなく決断したアルスは足早に歩き出す。
真っすぐに近寄っていった相手は彼を見ることもなく掲示板の前に立っていた。そもそもアルスに気付いていない様子で逃げる素振りすら見られない。
アルスは少年の横に立って改めてその外見を確認する。
一瞬目の端に映っただけで、低レベルだ、と感じた人物だった。
体に合っていない、安っぽそうな野暮ったい服を着て、髪は黒と珍しいが、目立つ特徴と言えばそれだけだ。覇気のない表情でぼけっとしている。一体何を見ているんだ、と聞きたくなるほど生気のない目だった。
自分とは対極に位置するこの人間を選んだ。理由はレベルが低いだろうと思ったからだ。
間違いないと踏んだアルスは見知らぬ少年に声をかける。
「君、レベルはいくつだ?」
「え?」
緩慢に振り返った様子を見てもレベルが高いとは思えなかった。
反応スピード、仕草、正面から見据えた目。何を見ても凄いとは思えない。
妙な自信を持ってアルスは彼が低レベルだと判断し、答えを聞く前から納得するように小さく頷いてさえいる。
「レベルを言うんだ。君のレベルはいくつだ?」
「えっと、5です」
「ちょうどいいだろう。こっちに来い」
「え? はい……」
言えばわけもわからずついてくる。アルスは彼を連れて受付に戻った。
一部始終を見ていた受付嬢と責任者らしき男は複雑そうな顔をしている。戻ってきたアルスは正反対のしてやったりという笑顔で、堂々と二人の前に立った。
「仕事は彼が受ける。僕は付添いだ。それなら文句はないな?」
原則として、仕事の受諾者が設定レベルから程遠くなければ、助っ人に誰を呼ぼうが罰則はない。同行者は自由とされている。たとえ300レベルの英雄であったとしても問題はないはず。
男と受付嬢は顔を見合わせ、深い溜息をついた。
一方で呼びだされただけの少年は何が起こっているのかさえわからず、板挟みの状態で不思議そうに首を傾げていた。
2
「君の名前はプチだ。どうせ本名を聞いても覚えられないから僕は好きなように呼ぶ。仕事の間は君はプチだ」
適当に考えただろう、或いは、考えてすらないかもしれない名前を一方的につけられて、レベル5の少年はプチと呼ばれることになった。本人は特に抵抗するでもなく、黙って承諾するという行動に出てしまい、二人きりで行動することもあってアルスを止める者など誰も居なかった。
苦い顔であったがプチが仕事を受けるということで、責任者の男と受付嬢は彼ら二人に仕事を任せることを認めた。手続きを終え、二人はすぐに出立する。
町を少しだけ離れた森の中が目的地らしい。
借りた馬車に揺られながら、プチはアルスの話を聞いていた。
「僕は生まれた時には100レベルだった。確かにかつて英雄と呼ばれた人々の中には赤ん坊の頃から50レベルだったとか言う人も居るけど、100レベルというのは僕が初めてだそうだ。それまでの最高レベルで80だったとか」
ともすれば自慢にも聞こえるような話を聞かされるのだが、アルスの表情は決して楽しげなものではなく、どこかつまらなそうに見えるのが印象的だった。
彼の顔をじっと見つめたまま、口を挟まずにプチは聞いている。
世界にはレベルという基準がある。
それは年齢とは別に、人間を含む生物を判断するための基準であり、何かを見定めるためには優先的に目を向けられるものだ。
レベルは生まれ持った身体能力などの基礎能力を含め、魔法を使うための力である魔力や、経験によって培った知力や技術を総合的に判断して設定される。古くは神が定めた物という考えがあり、基準もあやふやで問題も少なかったという記述が遺されているが、現在はレベルを管理する協会が創られたことによりレベル設定の基準は統一されている。その用途のみを持つ道具が開発されるほどだ。
通常、個人差はあれども人間ならばレベル1から10の間で生まれてくる。そして成長と共に様々な経験を積み、徐々にレベルを上げていき、平均的にはレベル50前後に到達するのが限界だと判断されている。
120歳まで生きた男の話が有名であるが、死亡時にはレベル85だったというのは伝説のように語られているのだ。
50を超えればレベルを上げることは格段に難しくなり、体を鍛え、知識を蓄え、普通ならば不可能だと語られるような挑戦を成し遂げてこそ、更なる成長が望めると言われるが、それもまた決して容易ではなかった。
歴史に名を残した英雄の中にはレベル100を超えた者も居る。しかしそれは誰にも真似できない偉業を成し遂げた者たちばかりで、遠い昔の話か、或いは作り話だと言って信じていない者も多く、現実的ではないと言われている。
しかし15年前、生まれた直後の計測でレベル100を叩きだした赤子がそこに名を連ねたことで、世間は大きく揺れた。
前例のない高レベルでの誕生。そしてその後も次々打ち立てる偉業。
若干15歳にして、アルスは知らぬ者の居ない伝説の英雄となっていた。
「僕が任される仕事はいつも国が滅ぶだとか世界滅亡の危機だとか、そんなのばかりだ。どこぞの国王や役人が頭を下げてきて、自分は何もしないくせに助けてくれと言ってくる。あんな連中の相手は飽き飽きしてるんだ。僕だって自分で仕事を選びたい。今の生活は自由が無くて窮屈だ」
歴史に名を残した誰よりも強い大勇者。
それほどの有名人だとプチも気付いていた。しかしあまり興味が無さそうな態度で常に無表情である。何を考えているのかは近くで見てもわからないが、アルス自身もそもそも彼に興味が無さそうで、その態度を一切咎めようとはしていない。
果たして会話が噛み合っているのか否か。そんな状況がずっと続いていた。
「僕は才能にかまけて自堕落に生きてる人間じゃない。そんな奴は無能だ。生まれ持った才能を磨き続けられる人間こそ天才と呼ばれてもいいと思ってる。自分で言うのはなんだが僕は鍛錬を欠かしたことはない。これからもそうだ。だけど、顔も知らない他人を助けるためだけに僕は生まれてきたのか? 僕は誰かの玩具のままなのか? そんなことないと思いたいんだ」
真剣な顔で語るアルスにプチは頷いて同意していた。
それで気分が良くなったのか、少しだけ彼の表情が緩んだ気がする。
「所詮、僕にすり寄ってくる奴は僕のレベルに興味があるだけだ。僕の人生について考える奴なんて居ない。僕の自由や生活についてなんて興味がないんだ」
「そうなんですか……レベルが高いと、それはそれで大変なんですね」
「そうだとも。わかってくれるか」
「はい。僕はレベル低いですけど」
「じゃあわからないじゃないか。わかった風な顔……はしてないな。よく見なくてもそんな顔じゃなかった。というか、聞いていたか?」
「聞いてました」
「じゃあ聞いている風の顔をしろ。君ほどわかった風な顔をしない人間は会ったことがないぞ。普通はわかりますと言うんだ、わかっていなくても」
「はぁ」
覇気のないプチに困惑している様子ではあったが、酒場に居た時とは違って苛立ちを見せる素振りは見せず、お互いの性格が違い過ぎるせいで喧嘩になることはなかった。
プチは雄弁ではなく、見た目通り無口な性質であったようだがぽつぽつと会話は続き、馬車での移動は穏やかなまま終わる。それでも、アルスの機嫌が良かったのはそこまでだった。
プチが依頼通りの仕事を始めると、見るからにアルスの表情は曇っていた。
地面にしゃがんでいるプチの背後でアルスは仁王立ちしていたのだ。
「なんだ? この仕事は」
「何って……家の掃除らしいです」
深い森の奥、少し開けた空間に立っていたのは大きな洋館だった。古びた外観とはいえ人が住んでいるのはすでに挨拶して確認している。腰の曲がった老夫婦が二人で住んでいるらしい。
仕事の内容とは、この大きな館を掃除してほしいというただそれだけのことだ。
地上三階建て、部屋は二桁は当然として数えるのも億劫なほどある。二人に任せるには少々大き過ぎる気もするが、老夫婦は多くを言わず、終わるまでは何日でも泊まってくれて構わないとすら言っている。むしろ有難い待遇だろうとプチは判断していた。だが、アルスはそうではなかったようだ。
着替えもせずに早速庭の草むしりを始めたプチの背後で、何やら不満そうなアルスはその背中を見やり、文句が止まらない様子だった。
彼自身が選んだ仕事だが、内容までは確認していない。予想外の仕事だったことで少なからず動揺してもいて、勝手に出てくる言葉が止まらないのである。
「掃除? 家の掃除だと? あの二人しか住んでいない割に家がでかすぎるだろうという話は置いといて、家の掃除を任されるという仕事が世の中にあるのか?」
「はい。割と多いですよ。家じゃなくても、教会とかお店とか。今回は広いので報酬も多いです」
「待て、これは現実か? 本当にこんなことがあるのか?」
「本当ですよ。夢じゃありません」
淡々と言いながらプチは素手で草をむしっている。
一方、アルスはめまいを感じた様子で頭を抱えていた。
「別に自慢したいわけじゃないが、僕だって幼い頃から仕事をしている。町を破壊したゴーレムはどこだ? 魔王復活を企む怪しげな組織は? 国境の橋を破壊するテロリストは居ないのか?」
「はぁ。居ないと思います」
「国の存亡に関わる事件が起きたわけじゃないのか? 冒険者だろう」
「そういう仕事に関わるのは、ほんの一握りの人だと思います。普通の人たちはこんな感じです。この仕事は中でも特に簡単な方ですけど」
「他人の家を掃除するだと? そんなことで金が稼げるのか……」
愕然とした様子でアルスは立ち尽くしていた。
彼の今までの努力は、レベル100を超えるモンスターを狩るためであり、迫りくる天変地異を魔法で吹き飛ばすためである。彼の実績として、港町を襲う津波を剣で払って消し飛ばしたことだってあった。
その経歴を思えば、ただの掃除と言われても信じられなかったらしい。
草むしりを続けるプチは冷静だった。本来ならアルスがする話は誰もが耳にしたことがある英雄譚。実際に起こったと噂の話ばかりである。しかし彼は本人からそれを聞かされても一切動じず、さっきまでと一切変わらない態度で手を動かし続けていた。
「変な話に聞こえるかもしれないけど、僕は今まで掃除なんてしたことがない。屋敷の掃除はメイドがしているからね」
「そうなんですか。すごいですね」
「その僕に掃除をしろと?」
「仕事ですから」
端的に言い放ったプチの言葉にアルスは思わず口を閉ざした。
想像とは違って、普段自分に任される仕事がいかに華やかなのか、今になって思い知った気がする。現実と理想の違いに打ちひしがれた瞬間だった。
「低レベルの人間は大変なんだな……」
「これが普通なんです。みんなこうして生活してるんです」
そう言われてもアルスは動かなかったが、ふとプチの姿を思う。思ったからには言わずにはいられない。彼は一切躊躇わなかった。
「そもそも、君は5レベルだって? やけに低くないか? 聞けば戦闘技術を学んでいない10歳児でも、学業にいそしんで健康に育てば10レベルくらいになるそうだが。まさか君は10歳以下だとは言わないよな?」
「違います……すみません」
「なぜ謝るんだ?」
流石に思うところあったのか、プチは手を止めた。
視線は地面に落として、アルスに背を向けたまま少し声を小さくする。
「僕はできが悪いので……剣を持てないくらい力はないし、物覚えは悪いし、何をやってもだめだったんです。だから冒険者というより、簡単な雑用をして生きるしかなくて……」
「そうか。それはレベルが低くても仕方ないな」
「すみません」
「僕に謝る必要はない。それでも僕にはできない掃除の仕事はできるんだろう」
暗い表情でプチが謝っても、それを聞くアルスは平然としており、彼を馬鹿にする素振りもなく、かといってフォローするでもなく、ただ納得していた。
ここまでの道中は一方的にアルスが喋るだけだった。その話を聞いたことで少しは興味を持ったらしく、続けてプチに質問する。
「生まれはどこだ?」
「東の、カカンタです」
「田舎じゃないか。聞いたことだけはある」
「何もありませんけど、争いがなくて静かな場所です」
「どんな家に生まれたんだ?」
「わかりません。……すみません」
アルスは訝しげな顔で彼の背中を見つめた。
すでにプチの手は草むしりを再開し、雑草を抜いている。その後ろ姿を眺めながら話を聞くことになったことを、彼は少し不満に思っていた。
「わからない? どういうことだ。ちゃんと説明してくれ」
「僕は……孤児院で育ったので。両親には会ったことがありません。どこで何をしているのかも、知りませんし」
「そういうことか……まぁ、孤児は居るところには居る。僕もあちこち回って色んな人を見てきた。そんなに気にしないことだ」
「はい。すみません」
「だから、謝るなと言ってるんだ」
腕を組んで不満そうにアルスが言う。さっきから彼がよく謝ることが気になってきたところだ。素直に言うとまたプチが謝る。
「すみません……つい癖で」
「君は……まぁいい。言っても直りそうもないな」
やれやれと言いたげにアルスが首を振る。
そこで一度黙り込むが、プチは文句の一つも言わずに草むしりを続けている。
しばらく見ていると、退屈そうな仕事だな、という感想を抱いた。ちまちましていて進捗が確認し辛い。彼の今までの仕事ではあり得なかった光景だ。
唐突にアルスが背負っていた長剣を掴んだ。慣れた挙動で鞘から抜き放ち、ぐるりと辺りを見回す。
邪魔な草を斬るだけなら一瞬で事足りる。彼の思考は単調だった。
些細な物音から違和感を感じたプチは振り返る。すると背後には、両手で剣の柄を握りしめて構えるアルスの姿があった。それだけでなく不思議な力を纏って刀身が輝きを放ちつつある。明らかに危険な力だろうとは喧嘩さえしたことがない少年にも理解できることだ。
慌てて立ち上がったプチはそれを止めようとした。
アルスは声をかけられたことで彼の顔を見るが、やめようとはしない。
「あの、何をしてるんですか?」
「草が邪魔なんだろう? 下がっていろ、全部斬り捨ててやる」
「やめた方がいいと思います。館に被害が及ぶかもしれないし、それにどの道集めなきゃいけないので手間は変わりませんから」
「何? 斬った後に集めるのか?」
「放置しておくわけにはいかないので」
「面倒だな、掃除というものは。自然の物なんだから放っておいていいだろう」
「それじゃ掃除したことにはならないんです。多分」
そう聞くと考えを改めたのか、構えを解いたアルスはあっさりと剣を仕舞った。納得したとは言い難い表情だったが危機が去ったことは間違いない。
レベル300が軽々しく剣を振るうことがどんな被害を生むのか。あまりにも現実離れしていて想像することすらできない。プチはアルスがあっさりと剣を納めたことに安堵し、感謝をしてほっと胸を撫で下ろす。
面倒だとしても地道に手でやるしかないのだ。
プチ自身も改めてそう考え、再びしゃがみ込んで作業を始める。だが無理にアルスに手伝わせようとは思っていない。これは本来自分がやるべき仕事。そんな自覚が強く、目の前に居る英雄を気遣ってというわけではなく、媚びるつもりもない。自分の仕事は自分がやればいいという程度の認識でしかない。彼が働かないことに一切不満を持っていなかった。
命令されるのは好きではないが、かといってここまで放置されるのも珍しい。
作業を続けるプチを眺めてアルスは、自分ばかり喋っていることに気付き、この男はどうやら自分に興味がないのではないかと思い始めた。
プチの傍にしゃがみ込んで顔をじっくり眺めてみる。
視線に気付いて顔を上げるが、そこには何の感慨も見られなかった。
「君は変わってるな。僕を見ても他の奴みたいにはならない」
「はぁ。そうなんですか」
「大抵の人間は尊敬するか、媚びを売るか、遠巻きに蔑むかだ。君はそのどれでもないし今まで見たことのない態度に思う。なぜ僕に何も言わない」
「なぜと言われましても……」
「手伝ってくださいとか休んでいてくださいとか何かあるだろう。レベル300のこの僕がここまで無視されたのは初めてだ。少し傷ついてもいるぞ」
「すみません」
「うむ、今は謝ってもおかしくないな。だが欲しいのは謝罪じゃなく理由だ。なぜそこまで僕を放っておける」
構われなかったことが堪えたようで、少し睨むような目つきでプチに迫る。
困った彼は頬を掻き、黙って考え込んでから答えた。
「あまりにもレベルが違い過ぎて、どう接したらいいものか……」
「普通に接すればいい。君にだって友人くらいいるだろう」
「それがあんまり……」
「頼りにならないな。まぁいい。掃除はどうやってすればいいんだ?」
アルスもまた地面に手を伸ばして、おもむろに雑草を引き抜いた。
その行動に少し驚きながらも、どうやら手伝ってくれるようだと気付いて、プチが目を丸くしてアルスの目を見つめ返す。
「僕が選んだ仕事だ。僕もやる。だが掃除などしたことがないから、方法を教えてくれ」
「方法と言っても、そんなに大したことでは……」
「僕はレベル300だぞ。家の掃除くらい、すぐできるようになるさ」
自信満々に笑顔を見せるアルスに対し、プチは悩むことなく頷いた。
想像よりも話のわかる相手なのかもしれない。
なんとなくそんな気がして、言われた通り掃除の手順について一から丁寧に教え始め、アルスは素直に彼の言葉に従った。
決して簡単な仕事ではなかった。あまりにも広い洋館をたった二人で掃除するのはもはや苦行とも言えるほどで、少々の努力で時間を短縮するのは無理だろう。
二人は長期戦になる覚悟を決めて、時間をかけることになったとしても隅々まできれいにしようと話し合ってから、作業を開始した。
知識と経験こそないものの、レベルの差は歴然で、当初の予想とは違ってアルスが居たことで作業は驚くほど捗った。
他人の指示に従うのが嫌いだと公言する彼だが、状況を考え、プチに従った方が作業スピードが速くなると考えれば決断は迷わない。指示に従って勤勉に働く。細々とした作業は苦手とはいえ、レベルの差は大きく、レベル300の筋力と体力は普通ではない。初体験の掃除であっても休憩を欲しないほど動き回っていた。
プチが呆れるほどの体力で、彼が休憩を欲するとアルスが呆れて、息が合わないことは早々にお互いが認めていたようだ。
それでも協力して地道に作業を進めていく。
二人で来てしまったがために数日を要する大仕事となったが、本来ならば十数名を予定した仕事を二人だけで遂行したのである。
3
町に戻り、酒場の受付で任務終了の報告を終えた時点で、報酬を受け取った。
そのまま酒場の中に残って、アルスとプチは向き合って座っていた。
「これが報酬のブルーオーブです」
そう言ってプチが右手に乗せて差し出したのは、掌大の青い玉だ。宝石と呼んで遜色ない美しさを湛える一方、装飾品には利用できないだろう大きさに怪しさが感じられる。ただきれいな玉と言えばそれだけだが、用途のわからない物体だった。
差し出されていることに気付きながらアルスは受け取らなかった。
果たしてこれは何なのだろうと、難しい顔で凝視するばかりで手を伸ばさない。差し出した状態で止まっていたプチはあっという間に腕の疲れを感じてしまい、凝視されている中で動かすのは悪いと思いながらもテーブルに置く。
ころりとわずかに転がった青い宝玉。
きれいだが、だからなんだと言うのか。
アルスの表情は冷めており、感動など微塵も感じてはいないのは目に見えた。
「これはなんだ?」
「ブルーオーブです」
「それはわかる。つまり、ブルーオーブとはなんだ? 何に使う物なんだ?」
「えっと、受付の人に聞いたのは、別に何かに使う物ではないとか。売ればそれなりのお金にはなるらしいですけど」
「それだけか?」
「多分それだけです」
「ふぅー……」
深く息を吐き出した後、アルスは椅子の背もたれに体重を預けた。
たかが家の掃除、しかしその家があまりにも大きくて、簡単な仕事とは言えないほど大変だったのだ。それもこれも自らが内容を確認せず、二人だけで飛び出したのも一因とはいえ、本人はそこまで理解していない。あれだけ大変だったのに報酬はこれかと呆れているようだ。
そう思われているのだろうと気付いてプチは傍らに置いていた袋を前に出した。物言わぬブルーオーブの隣に並べたそれには金が入っている。アルスの注意を向けさせて簡潔に説明をした。
「一応、報酬としてお金も受け取ってるんです。厳密にはこれだけじゃないんですけど」
「ふむ……どちらにしろ、よくわからない物を渡されたわけだろう」
「価値はあるんじゃないでしょうか」
「いらない物を押しつけられたんじゃないのか? 少し、想像とは違ったな」
アルスはつまらなそうな顔をしている。
数日、寝食と仕事を共にして理解したことがあった。彼には良く言えば子供っぽい部分がある。いまだ15歳であることを考慮すればおかしなことではないかもしれないが、特別な経歴を考えれば意外にも思え、だからこそ普通の15歳とは違うのだろうとも感じている。
人によってはそれを傲慢、わがままとも言うのだろう。
数々の偉業を成し遂げた英雄らしからぬ、自らを優先する思考。本人が自覚している通り、味方ばかりではないという言葉に頷ける。
自己主張のないプチはなんとも思わなかったが、もし自分が自信に満ち溢れた冒険者だったなら彼と意見が食い違い、ぶつかっているだろうと想像する。そう考えた直後に、その場合はそもそも誘われていないか、と思い直した。
彼がそうして妄想に耽っている間もアルスは納得し難い表情で考え込んでいて、よしと決めるまで約二分を要した。
手を伸ばしてブルーオーブに触れ、そのままプチの方へ押し返した。
違うことを考えていたプチはその行動に驚く。
「これは君が持っていろ。売れば金になるんだろう?」
「いらないんですか?」
「ああ、いらない。そもそもどんな物なのか気になっただけだ。実際に自分の目で見れたからもう十分だ。それほど面白い物ではなかったし」
突き返されたブルーオーブは寂しげにころりと転がっている。
それを見つめるとなぜか可哀そうとも思い、プチはそっと両手で掴む。感情があるはずもないのだが温めてやるように優しく包み込んだ。
その後でアルスの顔をちらりと見て、テーブルにある袋を確認する。
「それじゃあ、報酬金を分けましょうか。半分か、もしくは……」
「それもいい。君が持って行け。別に僕はお金に困っちゃいないし、自分で仕事を選ぶという経験をしてみたかっただけの話だ。思っていたほど何かが変わるわけじゃなかったが、一応とはいえ経験したし、これでいい」
「でも」
「いいと言ってるだろう。僕の言うことが聞けないのか?」
不機嫌そうな目で睨まれてプチは口を閉ざしてしまう。視線を下げて金が入っている袋をじっと見た。
時間を共有した数日間にもこういった状況はあった。アルスの性格は少なからず理解しているつもりだし、強く言われてしまうと反論するほどの気力はない。大抵の場合は口論になる前に諦めてしまう。
今日もそうかと本人でさえ思ったが、今日は違った。
考える前に体が勝手に動いていて本人でさえ驚いていたのだ。
ブルーオーブから手を離して、置かれたままの袋に手を伸ばし、ひっくり返してテーブルの上に金をばら撒く。紙幣と硬貨が広げられて、アルスが驚いている前で全額を数え直して、きっちり半分に分けた。
半分を自分の前に置いたまま、もう半分はアルスの前へ。
不思議そうにする彼を見て話し始めたのはその後だ。
「これはなんだ?」
「半分に分けました。持って行ってください」
「おい、僕の話を聞いていたのか? 僕はいらないと言ったんだ」
「だめです。これはあなたの分です」
アルスは驚きもするが、それ以上に憤りを露わにしていて、自分の思い通りにならないことと、自分の発言に逆らおうというプチの態度に怒りを見せた。
「何? 僕にだめだと言ったのか? 君は」
「一緒にしたじゃないですか」
「何の話だ」
「仕事です。僕一人だけじゃなくて、あの仕事は二人でしたんです。仕事をしたなら報酬は受け取らないと。これは正当な報酬なんですから」
意外にも強い態度で言い切って、プチは袋の中にアルスの分の金を入れ、それを彼の前に置いた。続けて自分の分は財布の中に入れて仕舞う。
些細な作業が終わるまでの間、驚愕しているらしいアルスは動かなかった。
ここまで彼に意見する者はそう珍しくない。
口喧嘩と呼ぶのも生々しいほど罵詈雑言をぶつけ合った経験は多い。それは自身の性格や考え方に起因していることも自覚している。自覚した上で、変えるつもりはないし譲るつもりはない。そう思っていつだって誰かに牙を向き、意図して正面からぶつかってきた。
そんな経験が多いからこそなのか、それほど穏やかに意見されたのは初めてに等しい。そうでなくとも寝食を共にし、拉致同然で同行させたとはいえ共に仕事をした仲だ。今までの顔も覚えていない誰かとは違うと、ふと冷静になる。
袋を凝視して数秒。意を決して手に取った。
「これが仕事をするっていうことなんだな?」
「そうです」
「別に欲しくはないんだが……まぁいい。初めて自分で選んだ仕事だ。ここは受け取っておこう」
まるで嬉しそうではない、わかりやすく仕方なさそうな顔ではあったが考えを変えることはできたようだ。アルスの様子を見てプチの表情は和らぐ。それでもほとんど変化の見られない無表情であったが、多くの時間を共有した結果なのか、察したアルスは不服そうな顔をしていた。
「まさか笑ってるのか?」
「笑ってません」
「僕を馬鹿にしてないか?」
「してません」
「ふん……君もいい根性をしてるな。レベル5なのにレベル300の僕を笑うとは」
「笑ったつもりはないんですけど……すみません」
受け取ってしまえば関係性はいつも通りだった。
アルスは不遜な態度を隠そうともせず、プチは簡単に謝る。
そんなやり取りが今や珍しくもなく、たった数日、しかし特別な時間だったのは言葉にしなくても感じていた。
受け取った金を懐に仕舞って、アルスは不意に思考を切り替えた。
仕事は終わった。報酬も受け取った。気になっていたブルーオーブも確認した。
もはやプチと一緒に居る理由はないのである。
そもそも彼にプチと命名したのは名前を覚えるのが面倒で、どうせすぐに別れて二度と会うこともないだろうと考えていたからだ。何日も続く仕事だとは思っていなかったし、その間に腹を割って話すことなど想像すらしなかった。
出発時と今では彼に対する印象は違う。
自覚するのを拒んでいる一方、別れを惜しむ気持ちを抱いていたのである。
「君はこれからどうするんだ?」
気付けばそんなことを聞いていた。
聞いた後になって、何を聞いているんだ、と自分でも不要な質問だと思ったが、相手に聞かれてしまった以上は仕方ない。考えるプチの顔を眺めていた。
「どうと言われましても……今まで通りに過ごすとしか」
「また仕事をするのか?」
「そうですね。何か探そうかと」
「ふむ……」
アルスは何か思案していたようだ。
その考えが固まる前に、慌ただしく酒場へ入ってきた男が迷うことなくアルスの下へ真っすぐ駆けてくる。足音の大きさに思わず視線を向けた。どうやら町の門を警備している兵士であるらしいと身に着けた鎧で判断できる。
駆け寄ってきた兵士はアルスの耳元へ顔を寄せる。
アルスはまたか、という顔をしながら、逃げることはしなかった。
「アルス様、どうかお力をお貸しください……緊急事態です」
「またか。君らはよく緊急事態が起こるんだな。今度はなんだ?」
「レベル400のドラゴンがこの町に向かっているそうです……!」
予想だにしない報告を聞いて、アルスは考えるまでもなくにやりと笑った。
迷わず席を立ち、出発しようとする。
その時、何も考えずにプチへ目を向け、彼を呼んだ。
「行くぞプチ」
「え?」
「ようやく張り合いのある仕事が来た。レベル300の僕がどれほどすごいかを君に見せてやろう。ついてこい」
突然呼ばれたプチは驚くが、意気揚々と歩き出すアルスの背が見る見るうちに離れていき、仮に無視してしまうと怒られることは目に見えている。ブルーオーブを掴み、慌てて席を立ってアルスの後ろに付いていった。
何がなんだかわからないまま移動する。
引き連れられるプチは早足で進むアルスに置いていかれないために必死だった。
辿り着いたのは町の外だった。強固な門をくぐり抜け、引き止める兵士の制止も聞かずに、二人は見晴らしのいい平原に立つ。
どうやらこの町にドラゴンが向かっているらしい。
遠方にある監視所から報告を受けたそうだが、本当であれ、とアルスはむしろ心待ちにしていた。今か今かとドラゴンの到着を待っている様子で、うきうきしている笑顔に恐怖心など微塵も感じられない。
何もない平原に突っ立ってしばらく待つ。
腕組みをして、真っすぐ前を見つめ、笑みを浮かべるアルスは楽しげだ。
一方でプチは手持無沙汰らしく、話しかけていいものか、それともだめなのか、迷いを見せながらちらちらとアルスの顔色を窺っていた。
「あの」
「なんだ?」
「今から何があるんですか?」
歩いている最中に説明は一切なかった。彼は今からこの場で何が行われるのかを知らない。
問われて初めてアルスはプチを見た。
今までにない自信満々の笑みだ。何かあるのは間違いない。
「これからこの町にレベル400のドラゴンが来るらしい」
「ドラゴン……」
「何が目的かは知らないが、すでに近くの町は壊されたらしい。次はここだ」
「はぁ。そうなんですか」
理解できていなさそうな顔でプチが頷く。
そんな態度が気になったが、実物を見ればその凄さがわかるだろうと、アルスは脅威の到着を心待ちにしていた。
会話が途絶えて沈黙が続き、尚も待つ。
やがてそれはやってきた。
遠くの空に真紅が見えた時、常人以上に視力が秀でるアルスが声を洩らした。
青空に混じる異質な色は徐々に接近してくる。最初は点のようだったが時間が経つごとに大きくなり、数分と待たずに山のように大きな巨体へと変貌している。
翼を大きく広げ、嵐の如く強風を巻き起こし、地面に降り立った。
アルスの前に現れたドラゴンは、彼を見やると威嚇するように咆哮する。
大気を揺らすその咆哮は町の中に居た人間たちに恐怖を与えて、アルスの隣に居たプチを触れることなく吹き飛ばした。しかしアルスは、腕組みを解くこともなく笑顔でその巨体を見据え、自身よりレベルが上だと聞いたドラゴンの前に堂々と立ち塞がる。
「なるほど。確かに強そうだ。君がどんな理由でここに来たのかは知らないし、正直に言って僕はこの町がどうなろうと知ったことじゃない。ただちょうど体を動かしたいところだったんだ。窮屈な仕事を終えたばかりでね」
背中にある剣をスラリと抜いて、右手で構えた。
嬉々とした様子でドラゴンを見据える。対峙するドラゴンもまたアルスを敵と見定めたらしく、町には目もくれずに彼を睨みつけていた。足を動かす度に地面が大きく震え、その巨大な存在を感じずにはいられない。
ひっくり返っていたプチは転がったまま顔を上げた。
アルスは彼に背を向け、今にもドラゴンと戦おうとしている。
身の危険を感じた彼は慌てて起き上がり、その場を離れようと駆け出す。
「プチよ! よく見ていろ! これが僕の本来の仕事、本来の力だ!」
威勢よく吠えてアルスは駆けた。恐怖心など欠片も持たず、地面を蹴りつければまるで風の如く、門の上から見ていた兵士たちには見えないほど速い。気付いた時にはドラゴンの顔の前まで跳び上がっていた。
数十メートルの跳躍の後、振り上げた剣は光を放つ。
アルスの体から溢れた魔力は奔流を生み、その全てが剣に纏わりついていた。
「光の剣――ライトニングセイバー!」
剣を覆った光は輝きを放ち、まるで刀身が伸びるかのようだ。
振り下ろされた剣がドラゴンの顔面を切り裂いた。閃光が走ると同時に縦一線に左目が切り裂かれ、突然の激痛に悲鳴が上がる。咆哮と同じく大気を震わす巨大な声は、悲鳴でありながら町を静まりかえらせる力を持っていた。
戦闘が始まった。レベル300の英雄とレベル400のドラゴン、想像を絶する強者二人の激突は地形を変え、ほんの数分で災害にも等しい被害を生み出す。
門の上から見ていた兵士たちは言葉を失っていた。
町を守るべく作られた、町を囲う門と壁。頑強だと思っていた分厚いそれらも彼らにとっては吹けば消し飛ぶ張りぼてでしかない。日々鍛錬を続けているが、レベルは平均して30前後の兵士たちにとって、どちらも同じ脅威でしかなかった。
彼がその気になってしまえば、町は簡単に破壊されてしまう。
もはや姿を見ることさえ容易ではない彼の姿に感じるのは恐怖だけだった。
誰も口を開くことすらできずに、硬直して眺めることしかできない。
猛然と振るわれた巨大な尻尾がアルスの体を捉えた。殴り飛ばされ、地面に激突する様を見ていると全身がバラバラになっていてもおかしくないと思うが、レベル300を超える彼の肉体は兵士たちの想像を遥かに超え、少量の血を流す程度の擦り傷だけを負い、陥没した地面からすぐに飛び出してくる。巨大なドラゴンはもちろんだが、彼を見ていてぞっとしてしまった。
攻撃を何度も叩き込んでいるとはいえ、ドラゴンは平然としている。
自身も珍しく怪我を負い、血を流し、軽傷とはいえ流石にアルスも表情を変えていた。今までに戦った相手の中で最も強いと断言できる。
再び彼は真っすぐに駆けて、姿が掻き消えるような速度でドラゴンに接近する。そして次の瞬間にはドラゴンの首の真下に現れ、光輝く剣を振るう。
「光の剣――ライトニングクロス!」
十字の奇跡を残す斬撃がドラゴンの首に傷を残した。
鼓膜を破りかねないと思うほどの絶叫が轟く。ダメージはある様子だがいまだ倒れるとまではいかず、怒りを露わにした眼がすぐさまアルスの姿を捉える。
大口を開けて、彼を呑み込もうとしたようだ。
迫る巨大な牙を目にして、彼は反射的に剣を振る。
「んんっ――!」
全力で振るわれた剣は牙を打ちつけ、多少のひびを残したが破壊までは至らず、衝撃でアルスの方が吹き飛んでしまう。彼は再び地面に打ちつけられた。だが大事はないようですぐに立ち上がり、牙に生じた違和感に吠えるドラゴンを見上げる。
息を切らすのは鍛錬以外では数年ぶりだ。
深呼吸をして自身を落ち着かせようとする彼は平静を失ってはいない。
「やはり強いな、名も知らぬドラゴン……! だが君の攻撃でもこの僕は簡単には倒せないようだな。100レベルの差も大したことは――」
アルスが余裕を見せてにやりと笑った時、彼の言葉が聞こえたのか、ドラゴンはアルスに向けて大口を開け、その奥で光が生まれた。
ハッと気付いた瞬間、アルスは全身から魔力を解放する。
ドラゴンの口から炎の塊が吐き出され、砲弾の如く飛来したそれはあまりにも大きく、避ければ町が無事では済まない。そう判断してアルスは全力で光の盾を作り出すと、正面から炎を受け止める。しかし100レベルの差は小さくない。
アルスの魔法と激突した瞬間に爆発が起こっていた。
彼の体が炎に包まれて見えなくなると同時、強固な門が吹き飛ばされていた。轟音が聞こえると同時に瓦礫が降ってくるのを目撃して、町からは無数に重なった悲鳴が上がる。
自らの魔法によって身を守ったアルスは無事だった。
周囲は炎に包まれて視界が悪い。だが少なくとも被害が大きいことはわかる。
振り返れば門が破壊されていることに気付いた。守ろうと思ったのだが失敗したのだと理解する。そして同時に、レベルの違いをようやく思い知った。
一対一で戦うだけなら、時間さえあれば勝つ可能性は十分ある。
ただ、誰かを守る戦いになると彼一人では難しい。
自らが言った言葉を忘れて、町の被害を確認した途端、アルスは、彼らを守ることを優先して考えていた。敵を倒すための戦いとは意識も行動も変わってしまう。その結果、勝てない、と気付いてしまった。
「チッ、足手まといが……場所の選択を間違えたか」
場所を変えればまだ可能性はある。
町を守るためにもこの場で戦闘を続けるわけにはいかない。咄嗟にそう考えてアルスは移動しようと駆け出した。しかし一瞬町に目を向け、注意が逸れた結果、アルスはドラゴンに捕捉されてしまい、前脚で地面に押さえつけられてしまう。
踏み潰されるほど軟な体ではなかったが、凄まじい重さで逃げられない。
地面に縫いつけられた状態で、アルスは再び炎が吐き出されようとしている光景を何もできずに見ることとなった。
「うぐっ!? このっ、離せ……!」
必死に足掻き、持てる魔力を惜しまず使って抜け出そうとするのだが、逃れられる気配はない。死は刻一刻と近付いている。ドラゴンはアルスを消すことを優先した様子だ。
死を予感しながらも諦めずにアルスが足掻いていた時、突然ドラゴンが開いていた口を閉じ、視線を逸らした。まさかの行動にアルスは不審に思う。
そちらに何があるのか。顔を向けて確認した。
アルスは目を見開いて驚愕する。
決して近い距離ではなかったが、プチがドラゴンを見つめて立っていたのだ。なぜか頭の上にブルーオーブを掲げており、それに反応したように見える。彼の表情はいつもよりも焦っているように感じられた。
なぜ逃げていないのか。アルスは今まで以上に焦りを抱いた。
「なっ!? 何をしているんだ君は!? 早く逃げろ!」
反応したプチがブルーオーブを自身の後方に投げて、それから違う方向へ走り出した。決して速くはないが必死であることは伝わってくる。
その時、ドラゴンが動いた。アルスのことは捨て置いて、プチが投げて地面に転がったブルーオーブを追いかける。彼の筋力ではそれほど遠くに投げられず、さらにドラゴンの巨体では離れた気がしないが、今や注意は全てブルーオーブにのみ向けられているらしい。
すっかりアルスに背を向けて、ドラゴンはブルーオーブに注目している。鼻先を近付けて匂いを嗅ぎ、爪で触れて転がし、それが何なのか確かめている様子だ。
やがてドラゴンは、自身にとっては非常に小さなそれを大事そうに持ち上げて、翼を広げて飛び去ってしまった。
何が起きたのかも理解できぬまま、戦闘は終了する。
ドラゴンの姿が遠くの空へ見えなくなった後、呆然と座り込んでいたアルスの傍へプチが小走りで駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「君は……魔法使いなのか? 一体何者だ?」
「魔法使いじゃありません。ただ投げただけです」
プチは彼の前でしゃがんで視線を合わせる。
アルスの目は厳しかった。彼の行動が不可解だったことと、ドラゴンが去ったことは偶然ではない。目的を持って行動したと感じ取っていたのだ。
本人に問いただせば、いつもの覇気のなさで素直に答えた。
「君は今、何をしたんだ? なぜドラゴンは逃げていった?」
「昔、孤児院の世話をしてくれたおじいさんに聞いたんです。ドラゴンは宝石が好きで、見つけると自分の巣に持ち帰りたがるって。食事中でも求愛中でも、宝石の魔力には勝てないって。みんな話が長いからって聞かなかったけど、僕はよく聞いてたので……」
「それじゃああいつは、ブルーオーブを巣に持ち帰ったと?」
「多分そうです」
なんとも気の抜けた話だが、状況を見れば真実だと考えた方が納得できる。
溜息をついて、アルスは疲れた表情になった。
予想だにしなかった呆気ない終戦だ。
「だとしても、君はレベル5だろう。自分がどんなに危険なことをしたのか、わかっているのか? 僕よりもレベルが高いあのドラゴンだ、つま先が掠るだけで死んでいたんだぞ」
「そうですね……すみません。でも自信はありました」
「何?」
「レベル400のドラゴンから見れば、レベル5の僕なんてその辺の石ころと変わらないでしょうから、相手にされないと思ってたんです。今までの経験でわかってました」
珍しくきっぱりとした発言にアルスは目を丸くする。
レベルが低いからこその経験があったようで、相手のレベルがあまりにも高いと相手にされなくなるらしい。逆の経験ならばアルスにもある。モンスターであれ人間であれ、レベルが高い自分の敵ではないとわかれば相手にするだけ時間の無駄。無視をして通り過ぎることも少なくない。彼もその無視をされる側の人間だったということだ。
無事に町の破壊を防ぐことができたのだが、アルスの心中は複雑だった。
不満そうな様子は表情を見れば明らか。不思議に思ったプチは顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「うるさい。どうもしていない」
「はぁ」
怪我をしているが命にかかわるほどの重症はないようで、いつもと変わらぬ様子で立ち上がったアルスは、町を背にしてドラゴンが飛び去った方角を睨みつけた。
その表情は曇っていて、喜びの色は一切ない。
プチは彼の背中を見つめ、不穏な空気を感じて声をかけられなかった。
4
ドラゴンの襲撃から四日後。
ようやく衝撃の事件から落ち着きを取り戻し、門の修繕を急ぎながらも、徐々に平穏を取り戻そうとしていた頃。
町一番の酒場に衝撃が走ったのは昼前のことだった。
忽然と姿を消したと言われていたレベル300の英雄アルスが現れたのである。
あまり機嫌が良さそうではない表情で真っすぐに掲示板へ向かう。
どうやら仕事を受けるつもりだとその行動で気付き、またか、というのが周囲の反応だった。ほんの四日前にドラゴンとの戦いを終え、退かせたと噂になったばかりだ。そんなことができる男がなぜ今更誰でもできるほど簡単な仕事をするのか、理解に苦しむ。
尊敬と軽蔑と親愛と嫉妬の視線を周囲から受けながら、一向に気にする様子はなく平然として、選び終えたアルスは掲示板から一枚の依頼書を手に取る。
そして向かったのは酒場の隅にあるテーブルだった。
テーブルに依頼書を勢いよく置くと同時ににやりと笑う。
そこに座っていたプチはぽかんとした顔でアルスの顔を見ていた。
「仕事だプチ。僕はこの報酬が気になるぞ。さあ出発だ」
「はぁ。そうですか」
「では受付で手続きをしてきてくれ。僕じゃレベルが高過ぎて断られてしまうみたいだからな」
あまりの勢いに呑まれてしまいそうになったが、依頼書を手にしたプチは念のために仕事の内容に目を通し、それとは別に、気になっていたのはアルスの行動だ。
ドラゴンが姿を消した後、少しだけ言葉を交わして、彼は目的を告げずにどこかへ行ってしまった。その日以来、今が初めての再会である。気になることは色々あるのだが、元々会話が苦手なプチは多くを聞くことができそうになかった。
それでも、彼は言葉少なに質問する。
再び行動を共にするとは思っておらず、その点が最も気になった。
「どうして、僕なんですか?」
「僕じゃレベルが高過ぎて受けられないからだ」
「そうですけど、他にも人は居ますし、前の仕事で終わったのかと思ったので」
「深い意味はない。別に君がドラゴンを帰らせたから悔しいわけじゃない」
わざわざ言葉にしたということはそうなのか。プチは言わずに思う。言えば怒られるだろうと思ったから口を閉ざしたままだった。
彼がそう思っている間にもアルスはいつになく真剣な目でプチを見つめる。
「だが、あれは君の功績だ。僕一人なら死んでいたかもしれない。いや、死ぬことはないだろうが町の崩壊は免れなかっただろう。そうなれば僕の名声も地に落ちていたに違いない。別に名声になんか興味はないが、ただでさえ色々言われているからな」
「はぁ。大変ですね」
「久々の窮地でよくわかった。僕にはまだ知らないことがある。もはやレベルを上げることは難しいと思っていたが、可能性はまだ残されているはずだ」
真剣な顔で見つめられて、プチは目を逸らすことができなかった。
「手伝ってほしいんだ。君に」
「僕に、ですか? レベル5、ですけど……」
「確かにレベルは低いが、だからこそできることもあるのだと学んだ。君がレベル400のドラゴンに怯えない大馬鹿者だと知っている。他の誰かでは無理でも、君なら僕の旅についてこれるはずだ」
おそらく、彼が他人を認めるのは滅多にないことなのだろう。自信満々という態度に見えるが以前は感じなかった緊張感が見え隠れしていた。
これまで無気力に生きていたプチだが決意する。
いつ終わるとも知れないが、もう少し彼を見ているのもいいかもしれない。
依頼書を持って席を立ち、プチは頷いた。
「わかりました。じゃあ、手続きをしてきます」
「頼んだぞ」
そう言って受付へ向かおうとしたプチを、声をかけてアルスが止めた。
「そうだ。君の名前は? これから長い付き合いになりそうだ。今度こそ本当の名前を教えてくれ」
歩くのをやめて振り向いたプチは、少し考えた後、淡々と答える。
「プチです」
「何?」
「僕の名前は、プチです」
「おい、それは僕が適当に付けた名前だろう。そうじゃなくて――」
「いいんです。結構気に入ってるので。仕事の時は、僕はプチです」
言うだけ言って答えを待たず、再び振り向いて受付に向かってしまう。
あんぐりと口を開けたアルスは驚きを隠せず、しかし周囲の視線に気付くと口を閉じて、やれやれと言いたげに頭を掻いた。
「フン……まぁいい。それなら、仕事が終わったら教えてもらおう」
一旦は納得することにして、自身も受付に向かって歩き出す。
受付嬢はアルスの存在に怯えていたようだが、まるで意に介さない彼はプチの背後からあれこれ口を出し、早く出発するぞと急かしていた。