原点
翌日の放課後。
愛は四年ぶりに、『蓮根音楽教室』を訪ねた。
とはいえ、あんな別れ方をしてしまっただけに、呼び鈴を押すまでに相当の時間がかかってしまった。
意を決して押すと、チャイムの音がして、玄関の鍵が開く音がするまで、ドキドキしてすごく長く感じた。
「はい。どちら様ですか?」
玄関が開き外に出てきた蓮根が、愛に気づいた。
瞬間、大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
愛に驚いているのが分かった。
「こ、こんにちは、せんせい」
緊張で挨拶を失敗し、愛は舌を出した。
「久しぶりだね、愛ちゃん」
そんな愛を、蓮根は笑顔で迎えてくれた。
ほんの少しだけ、ほっとした。
「ここじゃなんだから」
と、蓮根は室内に招き入れてくれた。
通されたのは、いつもの練習部屋だった。
「今日はどうしたの?」
「昨日アルバムを見ていたら、なんだか懐かしくて」
「あの頃となにも変わってないでしょ」
「はい。変わってません。あっ……」
愛の視線があるところで止まった。
「変わったところもある。せんせい、老けましたね」
「そうかな? 老けたかな?」
冗談で言ったのに、蓮根が肩を落とした。
「ウソですよ、ウソ。老けてません。あの頃と一緒です」
愛はあわててフォローした。
けど、本当はそれも必要ないのだ。
文字通り、蓮根はあの頃と変わっていなかった。
「ありがとう。でも変わってないのは、レッスンの仕方もなんだよ」
「えっ、当時のままなんですか!?」
「うん、あのまま。歌ってみる?」
「いいんですか?」
「いいよ」
ピアノの前に座った蓮根の指が、柔らかいタッチでけん盤の上を滑っていく。
奏でられる音は、愛と萌子が最後に歌った曲だった。
伴奏に惹かれるように、歌いだした。
(気持ちいいな)
歌いながら、そう思った。
「楽しかった?」
「はい! とっても」
「よかった。じゃあ、もう一曲いこうか」
蓮根が伴奏を開始した。
ギターとピアノの違いこそあれ、その曲は『HIGH』だ。
「歌える? 歌詞必要?」
昨日さんざん聴いたため、歌詞も音程もばっちり頭に入っている。
「大丈夫です。歌えます」
伴奏に合わせ、精一杯の歌を響かせていく。
が、歌うにつれ、昨日感じた不思議な感覚が戻ってきた。
懐かしいような、けど初めてのような不思議な感覚が。
心の中にあるのに、正体がわからない。
集中できない。
「楽しかった?」
愛は正直に首を横に振った。
「そうだろうね。歌声も沈んでいたしね」
「この歌を歌う……ううん、聴くと……なんだかわからないんですけど、なにかが引っかかるんです」
目と顔を伏せる愛に、蓮根が言った。
「その想いが芽生えたとき、愛ちゃんはもう、スタートラインに立っているのかも、いや、すでにスタートしているのかもしれないね」
「どういうことですか?」
顔を上げた愛と、蓮根の視線が重なった。
「大丈夫。最初の楽しいって想いが感じられるなら、答えは向こうからやってくるよ」
蓮根が微笑んだ。
心のモヤモヤは晴れない。
けど、少しだけ安心できた。
両親といい蓮根といい、愛は人に恵まれているのだと実感した。
「突然お邪魔して、すみませんでした」
「ぜんぜん迷惑なんかじゃないよ。いつ来てくれてもかまわないよ」
「はい。ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
「うん。また今度」
通っていたときと同じ見送られかたが、嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。
「う~ん」
ベッドに横になり、愛はうなっていた。
(スタートしてる……か。どういうことなんだろう)
帰り道、夕飯時、入浴中。
一日中考えたが、いまだに意味がわからない。
何度目かの寝返りをうった愛の手が、なにかに当たった。
コンポが動いた。
「リモコンか」
コンポに入れっぱなしにしていたWILLの曲が、部屋を包んでいく。
思考をとめ、聴き入った。
『HIGH』が終わり、カップリング曲の『HOPE』へと進んでいった。
出会った時間を憶えてる?
ぼくの胸に芽生えた気持ち
愛しさ・尊さ・恋しさ
夢の中だけどキミがくれた想い
当然だけどキミは知らない
だから……
キミに伝えたい
キミを好きになってはじめて……
自分を好きになれたということを……
ワガママだけど……
キミが好き
ワガママだけど……
キミが欲しい
涙が頬を伝い落ちた。
(ああ……この想いは、あのとき感じた想いだ)
思い出したもの。
それは、大好きな人。
大好きな、萌子のこと。
あの日聴こえてきた萌子の歌。
楽器で奏でたような綺麗な声だった。
聴いてるだけで、楽しい、嬉しい、優しいなど、様々な感情を抱かせる歌。
そんな萌子の歌を、少しでも近く、長く聴いていたくて、蓮根のところに通い始めたのだ。
そして、本当に楽しそうに歌う萌子を見ているうちに、自分も歌うことが大好きになった。
(ああ。あの時からわたし、歌い続けていたかったんだ)
自分の気持ちに気づいたとき、愛は両親がいるリビングにいき、
「わたし歌手になりたい! だから、ハイサイドオーディション受けようと思う」
そう宣言した。