プロローグ
住宅の玄関にかけられた『蓮根音楽教室』と書かれたプレート。
その脇を過ぎ、中峰愛は家の中へ駆け込んだ。
「こ~ん~に~ちは~」
声が響き渡ると、玄関脇にある部屋のドアが開き、講師の男性―蓮根透が姿を現した。
「いらっしゃい、愛ちゃん」
短く切りそろえられた黒髪。メガネの奥の下がった目じりと、口元から絶えることのない笑み。それらが、蓮根の柔和な性格をよく表している。
「せんせい! こんにちは」
愛はペコッと頭を下げた。
「萌子ちゃんも来てるよ」
勢いよく靴を脱ぎ捨て、愛は蓮根の脇を抜け部屋に入った。
「萌お姉ちゃん。こんにちは」
中にいた少女―大道寺萌子が振り返った。
肩より少し長い栗色の髪を、後ろで一つに結わいている。二重の瞳、長いまつ毛、スラリと通った鼻、桜色の唇。
同姓から見ても、萌子は美人だ。
「こんにちは。今日もがんばろうね」
にっこり微笑まれ気恥ずかしくなった愛は、顔を隠すように萌子に抱きついた。
優しく受け止めてくれた萌子は中学二年生。小学校四年生の愛より四つ年上だ。
一人っ子の愛は、萌子を本当のお姉ちゃんのように大好きだった。
萌子も愛のことを、妹のように可愛がってくれた。
「さあさ、萌子ちゃんも愛ちゃんもそろそろ始めるよ」
蓮根が手を叩いたのを合図に、
「は~い」
愛たちはグランドピアノの前にいった。
「じゃあ、今日は愛ちゃんから弾こうか」
椅子にちょこんと座り、愛はけん盤に手を伸ばし、音を紡いだ。
弾くのは、今現在邦楽のヒットチャートを賑わせている流行の曲。
イントロ部分を弾き終え、メロディーに入っていく愛の演奏に合わせ、萌子が歌った。
曲はAメロディーからBメロディーへと進み、最後にサビを奏でた。
「萌お姉ちゃん。やっぱり歌うまいね」
「ありがとう。愛ちゃんの伴奏も、すごく上手だったよ」
愛が笑いかけると、萌子も笑顔になった。
「そうだね。二人とも息が合ってて、とてもよかったよ」
蓮根も褒めてくれた。
「じゃあ、今度は萌子ちゃんが弾こうか」
「はい」
愛に代わり椅子に座った萌子が、撫でるようにピアノを弾く。曲は、愛と同じ流行のJ―POP。
愛も伴奏に合わせ、歌を口ずさんだ。
交互に演奏と合唱をすること一時間。愛たちは休憩をとりながら、部屋の真ん中にあるテーブルを囲み談笑していた。
「せんせい。なんでわたしたちは、クラシックを弾かないの?」
愛の質問に、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた蓮根が、飲んでいた紅茶のカップを置いた。
「愛ちゃんはクラシックが弾きたいの?」
そう訊く蓮根の顔は真剣だった。
だから、愛も正直に話した。
「弾きたくない……けど、他のピアノ教室にいっている子にね、わたしたちみたいに最近の曲を弾くのはヘンだ、って言われたの」
目を伏せた愛の髪を、蓮根の大きな手が優しく撫でた。
「愛ちゃん。音楽は好きかい?」
ちいさくうなずいた。
「なら、そんな悲しそうな顔をすることはないんだよ」
立ち上がった蓮根が、ピアノへと歩いていく。
「愛ちゃんと萌子ちゃんが好きな『WILL』も、クラシックも同じ音楽。だから、クラシックを弾かないから変、なんていうことはないんだよ。今は、大好きな想いを込められる曲を、純粋に楽しめばいいんだよ」
蓮根が演奏を始めた。
愛と萌子が大好きなロックバンド『WILL』のバラード。
ピアノから始まる唯一の曲で、一途な愛を綴った彼らの代表曲だ。
「愛ちゃん。歌お」
萌子が差し出した手を取り、愛たちは歌いだした。
紡いだ言葉がメロディーに乗り、部屋を舞う。
それだけで、幸せになれた。
「愛ちゃん。楽しかった?」
笑顔でうなずいた。
「じゃあ、今日は終わりにしようか」
蓮根がピアノを閉じた。
気づけば、窓から差し込む夕日が室内を紅く照らしている。
「先生……」
「なんだい? 萌子ちゃん」
呼ばれ、蓮根が萌子を見た。
視線が合うが、萌子はなにも言わずうつむいてしまった。
目線を合わせるように蓮根がしゃがむと、顔をあげた萌子が笑った。
「先生……楽しかったです。ありがとうございました」
突然のことに面くらいながらも、萌子が差し出した手を、蓮根はしっかりと握り返した。
いつもはない光景に、愛は眉を寄せた。
なにか違うが、なにが違うのかがわからない。
「愛ちゃん。帰ろうか」
答えが出ぬまま、蓮根と手を離した萌子が、その手を愛に向けた。
これはいつものことで、愛は安心した。
「うん」
萌子の手を取り、愛たちは家路についた。
帰り道が分かれる交差点。
「愛ちゃん。バイバイ」
繋がれていた手が離れ、萌子が手を振った。
「うん。バイバイ」
愛と萌子は、笑顔でさよならした。
「せんせい。萌お姉ちゃんは?」
後日、蓮根のところに来た愛は、萌子の姿が見えないことに首をひねった。
「愛ちゃん。萌子ちゃんはね、お父さんの仕事の都合で、福岡に引っ越しちゃったんだ。だから、もうここには来れないんだ」
「えっ?」
蓮根の言葉が理解できなかった。
「美樹ちゃん。入ってきて」
知らない女の子が入ってきた。
「相原美樹です。よろしくお願いします」
目の前の少女が、頭を下げた。
愛と同じくらいの背格好だ。可愛らしい子だが、美樹は萌子じゃない。
愛の大好きな、萌子じゃない。
教室のどこにもいない。
あの笑顔に、もう会えない。
「ヤダッ!」
信じたくない。
「お願いなんかしない! イヤ!」
愛は部屋を飛び出した。
萌子のいない教室。
それが悲しくて、愛は蓮根のところに行くことをやめた。