天武天皇の出自に関する考察 井沢元彦著「隠された帝」について
文中、表題の著作につき、ネタばらしをしてしまいますので、今後、読まれる 可能性のある方は、以降は読まないで下さい。
作家、井沢元彦氏は氏の著作「隠された帝」において、天智天皇の同母弟とされる天武天皇は 実は、天智天皇と近しい血縁関係にさえもなかった人物だったのではないか、と推理されている。
氏はこれを、その後の時代の天皇家における祭祀のあり方、あるいは、天武天皇の血脈を排除する方向で天皇家の継承が行われていったこと等によって類推されている。
この論は極めて興味深い。もっと取り上げられてよい達見であると思う。
また、私にとっても目を見開かされる思いにされた論であった。 なぜなら、この説が真実であるとすれば、天武天皇について、私がこれまでに違和感をもっていたことがふたつながらに解決するからである。
ひとつは、史書において、天武天皇の登場の仕方が唐突である、と感じたことだ。
ここでいう史書とは日本書紀のことであり、周知のように、それは天武天皇の命により編纂されたものである。
(読者の方からご指摘をいただきました。天武天皇が編纂を命じたのは、日本書紀のその原資料となった史書でした。2021年4月21日)
この日本書紀において、のちの天武天皇となる大海人皇子は、初登場した時点で既に成人となった年齢であった。
天武天皇は史書においてもなぜか厳密な生年は不明だが、記述されているさまざまな場面から、のちの天智天皇となる中大兄皇子より、4~5歳、年下であると推定される。
いずれにしても大海人皇子は、その少年時代において大事件に遭遇したことになる。
いうまでもなく大化の改新。
中大兄皇子と中臣鎌足による宮中クーデターである。
このとき中大兄皇子は数えの二十歳。 ゆえに大海人皇子は 十五歳前後であったことにある。
この大化の改新を描く場面において大海人皇子は全く登場しない。
十五歳であれば、この企てに参画はしていなかったのは無理もない。
従って、何ら寄与しなかったとしても別に不思議ではない。
しかし、日本書紀は天武天皇の命により編纂された史書である。
であるならば、実際には何の役割も果たしていなかったとしても、この大事件において、大海人皇子が何らかの役割を果たした、あるいは、大海人皇子がいかに聡明な少年であったかを物語る、そういうエピソードを挿入することこそ、むしろ自然なことと思う。
日本書紀は天皇の権威の確立、天皇の絶対性を際立たせる、という明確な意図のもとに編まれた史書である。そうであるならば 大海人皇子が少年時代からいかに英明な資質の持ち主であったかを記載することは、本来、不可欠であったはずである。そうしなかったのはなぜか。
舎人親王をはじめとする撰者の想像力をもってしても描きようがなかったから、とは考えられないであろうか。
もうひとつ、私が違和感を持っていたのは、天武天皇が大田皇女、讃良皇女をはじめ、天智天皇の娘を何人も妻としていることである。
無論この時代、近親結婚はごく普通に行われてきたし、母親さえ 違えば、兄妹の結婚も認められていたのであるから、叔父姪の結婚は特に不思議ではない。
しかし、正確に何人だったかは記憶にないが、天武天皇は相当に多くの天智天皇の娘を妻としている。
なぜ、天智天皇はそうまでして、天武天皇に自分の娘を与える必要があったのか。
不思議ではないといっても かくも人数が多い、となれば、やはり「なぜ」という疑問を感じる。
井沢元彦氏は天武天皇を、相当な力をもった有力豪族である、と推定されていた。
その論にしたがえば、実権を握った有力者が、前権力者 、それまで最も尊いとされてきた血をわが身に取り込み、権威の確立をはかるということで、歴史的にみても類例のある自然な行為、ということになる。
もちろん、以上をもってして、これこそが真実である、と言い切ることはできない。史書の正しさを証拠づける反証もあるであろう。
しかし、「隠された帝」において井沢氏が論じた天武天皇の出自は私にとって、極めて魅力的な論である。
追記:
このほど図書館で確認してみましたが、私が違和感を持っていた上記の2点についても井沢元彦氏は論述の中でちゃんと触れられています。
上記の私の文章ですと、著作の中でそのことは触れられていないような印象を与えるか、と思いますので、その旨お断りしておきます。(03.11.29記)