寮監
にゃむりんZは、動かなくなった吸血鬼の体を観察していた。
胸の傷が回復しないところを見ると、どうやら完全に倒せたようだ。手足の先は、既に灰と化して崩壊を始めている。
「まずはひと安心ニャ」
そうつぶやきながら、急いで首筋のあたりに近づく。完全に灰になってしまう前に、どうしても調べておかなければならない事があった。
そこには、最も危惧していた二つの小さな傷――吸血鬼の牙に咬まれた後があった。
「一難去ってまた一難」
これで最低でもあと一体、親に当たる吸血鬼が存在する事になる。
にゃむりんZは階段の手すりに飛び乗ると、下の方を覗き込んだ。階下はひっそりと静まり返っており、鏡子達がすすり泣く声以外に音は聞こえない。
三階を調べてみようと、にゃむりんZが動き始めたその時、後ろでカランと乾いた音が響いた。完全に灰となった吸血鬼の体から、木刀が落下したのだ。
その音に呼応するかのごとく、咆哮が建物を震わせた。
聞き覚えのある、吸血鬼の叫び声。
にゃむりんZは体を翻すと、三人が座り込んでる方向へ駆けながら叫んだ。
「斉藤は吸血鬼に咬まれてたニャ! 別のがまだ寮内にいるニャ!」
隼人と鏡子は既に賢次を護るように立ち上がり、廊下の両端を警戒していた。
実戦を意識した精神鍛錬。平和だった頃には、せいぜい躾の意味くらいしか無いと思っていたその修行に、隼人は改めて感謝した。顔はまだ涙でぐしゃぐしゃだったが、ともかく体だけはきちんと反応してくれたのだ。
鏡子もまた、体に染み付いた反応で、ウエストポーチから懐剣を取り出し、構えていた。
紅牡丹、刃渡り五寸六分(十七センチ)の護り刀が、なんとも心もと無く感じられる。
「二尺(六十・六センチ)……せめて一尺五寸(四十五・五センチ)あれば……」
鏡子がそうつぶやいた瞬間、紅牡丹が眩しく輝き、見る見るうちに刃渡り二尺の小太刀に変形した。
「すっげ、何だそのマジックアイテム」
賢次が涙を拭きながら感嘆の声を上げる。
「これは……!?」
驚いて手元の刀を見つめる鏡子。
三間(約五・五メートル)先の相手を斬ったという伝承の真実、それは使用者の意思に応じて形状を変化させるという紅牡丹の能力だった。
機械人形のガラテアが動き出したのと同様、井戸の影響により、紅牡丹が本来の力を取り戻したのだろう。
鏡子はさらに念じてみる。紅牡丹は再び輝くと、穂の長さ九寸(二十七・三センチ)、全長六尺(百八十一・八センチ)の槍へと変化した。
その槍を何度かしごいてみる。手のひらの肉球は邪魔になるどころか、適度な隙間とすばやいグリップを発揮して、槍使いにはとても具合がいい。
武芸百般を宗とする羽生心影流では、長柄の武器としては薙刀の方を重点的に教えるが、槍の修練も行う。
修得武器の多さは、習熟までの時間も膨大なものにしてしまう。そのため、一般の弟子にはそれぞれ得意な武器を一、二種類指導する。しかし跡継ぎである鏡子は、刀を主軸にしながらも、様々な武器の扱いを習っていた。
鏡子が、まだそこまで得意とは言えない槍をあえて選んだ事には理由があった。心臓を突くという目的と、何より間合いの広さを重く見たのである。
いくら驚異的な回復力を得たからと言っても、どこまでそれが持つのかはまだ分からない。吸血鬼の膂力なら、下手をすれば腕の一本くらいは簡単に落とされかねないのだ。
ちぎれた腕がまたくっつくかどうか、鏡子は試したいと思わなかった。
「階段を上がって来るみたいニャ」
三人の足元に駆け寄ってきたにゃむりんZが言う。
「前方から三体、後方から一体、足音が聞こえる」
鏡子が耳をすばやく動かしながら報告する。
「マジか……あんなのがまだ四匹もいるのかよ」
賢次が震える声でつぶやいた。
「くそっ、武器無しじゃ勝てる気しねぇ……有ってもしねえけど!」
隼人の言葉に、思わず吹き出す一同。
少しだけ緊張がほぐれる。
「こうなったら絶対生き延びてやる」
賢次がいくらか落ち着いた声でそう言うと、二人と一匹は頷いた。
廊下の両端の階段から、ほとんど同時に四体の吸血鬼が姿を現した。
そのうち、隼人側の一体と、鏡子側の二体はスウェットやTシャツ、ジャージといったラフな服装だった。おそらく帰省していなかった学生だろう。
そして鏡子側の残り一体、身長百九十センチはあろうかという痩身の中年男性が、黒髪をオールバックに撫で付けながら、二、三歩前に進み出た。
「寮監……あんたもかよ……」
賢次がその男性を見つめながら言う。
他の吸血鬼が筋骨隆々に変化しているのに比べ、明らかに体型が違う。しかし、夏だというのに黒いスーツを着たその姿は、むしろ映画に出てくる吸血鬼をイメージさせた。
そして、他の吸血鬼と最も異なっている点は、知性を宿したその眼差しである。
「男子寮は女人禁制だぞ」
寮監は涼しげな声で、鏡子に向かってそう告げる。
「お前、相当長く生きてるニャ?」にゃむりんZが聞く。
「ふふっ、また完全な吸血鬼に戻れるとは思ってなかったから、危うく死にかけたよ。全く、日差しに馴れるのも考え物だな。明日からはうっかり日の光を浴びないよう注意しないと」
寮監は黒猫が喋ることにさして驚いた様子も無く、答える。
「普通の人間に戻りきったら、とっくに死んでるはずニャ。今までもずっと血を吸ってたんだニャ?」
「なに、不死性を保てるギリギリの量だよ。命を吸い切ったら、虚無……この時代では井戸と呼ばれてるらしいが、あれが開いてない世界ではそのまま死んでしまうからな。派手にやったら捕まってしまう」
寮監は、ちらりと後ろの、灰になってしまった吸血鬼の残骸に目をやり、続けた。
「しかし、こんな餓鬼どもに倒される奴が出るとはな。御前のババアが目覚める前に少しでも勢力を増やしておこうと思ったが、とんだ邪魔が入ったものだ」
隼人達は、寮監の言葉に、井戸で起きているという戦闘を思い出していた。
自分達が直接それに関わるとは思ってもいなかったが、こんなに身近な場所でも密かに勢力争いは行われていたのだ。
「おい、娘」
寮監に呼びかけられて、鏡子は身構える。
「なによ、生徒に手を出したら、教育委員会に訴えてやるから!」
「見たところお前、猫又か人狼といった所だな。尻尾の様子からすると人狼か? こいつを倒したのもお前だろ」
親指で後ろを示しつつ、寮監が尋ねる。
「そうよ。楽勝だったし。あんたもやられたくなかったら、さっさと逃げたらどう?」
鏡子はそう強がって見せた。
しかし寮監は鼻で笑って言う。
「しかし見たところもう杭は無いようだな? そんな槍じゃ俺は倒せんぞ」
見事に不安材料を言い当てられて、鏡子は動揺する。止まっている心臓を破壊して倒せるからには、木であることに何か理由があるのだろう。
それでも一縷の望みを託してにゃむりんZに聞いてみる。
「本当なの? にゃむりん」
「心臓に刺すのは木の杭じゃニャいと意味がニャい。それは単純ニャ破壊じゃニャく、呪術的行為だからニャ」
にゃむりんZは残念そうに答えた。
「さて、結論が出たところで提案だ。どうせお互い人外の身、殺し合いなんて野暮な真似はやめて協力しないか?」
「協力……?」
鏡子が怪訝な表情で聞き返す。
「なに、後ろの男子二人を吸血鬼にさせてくれれば、見逃してやろうという訳さ。むしろ人外同士、もっと仲良くなれるかも知れんぞ」
「二人を殺させたりしない」
「頭が悪いな。殺すんじゃなくて永遠の命を与えてやるだけだ」
「死なないという事と、生きてるという事は同じじゃない。そんなのは化物の理屈よ」
化物という言葉に、寮監の表情が一瞬険しくなる。
「これだからガキは始末に終えん。お前、自分も化物だという事を早く認識した方がいいぞ。俺なんかよりよっぽど酷い有様じゃないか」
鏡子の表情がこわばる。
その時、鏡子の後ろから賢次が叫んだ。
「うっせえバーカ! 羽生はお前なんかよりよっぽど人間だ! 大体、ケモ耳とか激萌えなんですけど何か!?」
隼人もそれに続く。
「俺の幼なじみを侮辱すんじゃねえ、オッサン! 肉球とか超可愛いんだぞ! 尻尾もモフモフだし!」
二人の言葉に、思わず苦笑する鏡子。
「人が人であるかどうかは器の問題じゃニャい。魂の問題ニャ」
にゃむりんZが優しく言う。
その言葉に力強く頷いた鏡子は、寮監に向かって、
「どうやら私は人間だったみたいよ」と、静かに告げた。
「クソ餓鬼どもが……」
寮監の顔が怒りに歪む。
「おい、そっちの野郎二人はお前に任せる。きっちり吸血鬼にしてやれ」
隼人の前の吸血鬼にそう指示すると、寮監は鏡子を睨み付けた。そして下品に舌なめずりをして言う。
「この小娘は俺がたっぷり可愛がってやる」