吸血鬼
不意に、廊下で人のものとは思えない叫び声が上がった。
「なんだ!?」
その尋常ならざる気配に、隼人と鏡子は木刀を袋から引き抜いて臨戦態勢をとる。
「夏休みだし、一年で残ってんのは俺と四○一六号室の斉藤だけだったと思うけど」
賢次が不安そうに言う。
「マスター、私が索敵して参りましょうか?」
機械人形が一歩踏み出しながら聞く。
「そういえば、お前って名前何ていうんだ? さっきケアン型とか言ってたような」
「正式名称はケアン型自動機械兵近衛仕様です。個体識別用の名称が必要な場合は、製造番号でお呼びいただくか、お好きな名称を登録してください」
「ほんじゃ、とりあえず……」
「トリアエズ、登録します」
「ちょ待て! そんなとりあえず付けたどっかの戦闘機みたいな名前はいらん!」
機械人形が不思議そうに首をかしげて賢次を見る。
「余裕だな……」
「余裕ね……」
「ただの馬鹿ニャ」
扉の向こうを警戒しながら、二人と一匹がつぶやく。
「そうだな、マリア……待て待て! やっぱここは、原典中の原典から取ってガラテアだな! 決定!!」
「了解。ガラテア、登録します」
「よし、行け! ガラテア!」
「索敵開始します」
ガラテアは少し関節をきしませながら玄関に向かうと、無造作に扉を開いた。
再び、人外の叫び声が廊下に響く。
「敵を発見。種別、吸血鬼と思われます。特殊能力は現在不明。一般的には太陽の光に弱いとされています」
ガラテアはそう報告すると、廊下に進み出る。
次の瞬間、突進してきた怪物に吹っ飛ばされ、ガラテアは廊下の突き当たりの壁に激しく叩きつけられた。その衝撃が建物全体を揺らす。
あわてて廊下に走り出した一同の目に飛び込んできたのは、ひび割れた壁にめり込んでいるガラテアと、それに容赦なく打撃を振るう、城山高校指定ジャージを着た筋骨隆々の人間らしき後姿だった。
「てめえ! 俺様のガラテアに何しやがる!」
賢次がそう叫んで、履いていた靴を力任せに投げつける。
ポコンと軽い音を立てて当たった靴は、それでもこちらへと注意をひきつけるには十分な効果があった。
ゆっくりとこちらを振り向いたそれの、ジャージの胸元には「斉藤」と名前が刺繍されている。しかし体つきは元の彼よりふた周りは大きく、筋肉の増大した体を包みきれないジャージは所々破れてしまっていた。
肌は青白く、血の気が無い。赤く光る目と鋭くとがった爪、そして威嚇するように開いた口から覗く二本の牙が、もはや彼が人間ではない何かに変化してしまったことを物語っていた。
「マジかよ、斉藤……」賢次が震える声でつぶやく。
木刀を携えた隼人と鏡子は、絶句したまま元斉藤だったそれを見つめていた。
変化したとはいえ、まだ人間味を感じさせた――たとえそれが狼や恐竜だったとしても――宗昭や寺野を見たときとは全く違う、本質的な意味での怪物の威圧感がそこにはあった。
隼人が、搾り出すようににゃむりんZに聞く。
「あれも……井戸の影響なのか?」
「変化は何も外見だけにはとどまらニャい。生物とは違う理のモノに変化したら、当然、精神もそのように変化するニャ」
「斉藤は何になっちまったんだ? 本当に吸血鬼なのか……?」
「さすが近衛仕様だけあって、ガラテアの分析はほぼ当たってると思うニャ。吸血鬼も長く生きればいくらか分別もつくけど、いきニャり変化したら人間ニャんてただの餌ニャ。しかも多分今は腹ペコの上、急激ニャ変化で相当混乱してる。こっちが友人だったことニャんて認識できてニャいと思う」
斉藤だった吸血鬼は、しばらく値踏みするように隼人たちを睨み付けていたが、二、三回頭を振ると、恐ろしげな笑みを浮かべた。
「来る! 篠岡君下がって!」
鏡子が一歩前へ踏み出す。隼人も賢次をかばうようにそれに続く。
「はっきり言って逃げた方がいいニャ。木刀程度じゃ傷ひとつ負わせるのも無理ニャ」
「あれ相手に背中見せるとか、襲ってくれと言ってるようなもんだろ」
隼人がごくりと唾を飲み込む。じっとりと浮き出す汗は、気温のせいばかりではない。
吸血鬼が、隼人達に飛びかかろうと身構えたその時、突然後ろからガラテアが吸血鬼に抱きついた。吸血鬼の両腕ごと胴体を締め付けながら、その両足が床からわずかに浮くまで持ち上げる。
「撤退を、マスター」ガラテアが関節をきしませながら言う。
「急いでください、長くは持ちません」
「冗談じゃねえ! お前を置いていけるか!」
叫ぶ賢次を、鏡子が問答無用で肩に担ぎ、廊下の反対側の階段へとダッシュする。隼人とにゃむりんZも間髪いれずその後を追う。
「放せよ! ガラテアが!」
しかし、賢次がそう言い終わる前に、ガラテアの腕は無残に引きちぎられていた。
吸血鬼はガラテアを蹴り飛ばす反動で隼人達に襲い掛かる。しんがりにいた隼人は、振り向きざま木刀で一撃を加えたものの、そのまま吸血鬼に体当たりを食らってしまう。
軽く五メートル以上吹っ飛ばされた隼人は、その衝撃に息を詰まらせる。手から弾き飛ばされた木刀は、中央から真っ二つに折れていた。
隼人は、やはり友人相手に全力で打ち込むことはできず、ある程度手加減していた。しかし吸血鬼の突進力が隼人の予想をはるかに超えていたため、木刀が持たないほどの衝撃が加わってしまったのだ。
あえぎながらも隼人は起き上がろうとするが、床に激しく叩きつけられた体は、痺れたように言うことを聞かない。
揺れる視界の隅で、吸血鬼がゆらりと立ち上がった。
金属的な破壊音に振り向いた鏡子は、こちらへ吹き飛ばされる隼人を見て足を止めた。
そして、「篠岡君、ゴメン」と言うや、担いでいた賢次を階段の方へとカーリングのストーンのように滑らせる。
「熱っちいぃいい!」
十五メートル近く滑って、摩擦熱で火傷した賢次はのた打ち回った。
それを尻目に、鏡子は木刀を八双に構えつつ、隼人の横を通り、吸血鬼との間合いを詰めてゆく。通常ならまだ一刀一足の間には遠いが、今の彼我の身体能力を考えれば、既に攻撃圏内に入っていると考えるべきだろう。
木刀が折れるほどの衝撃でも、吸血鬼は全く意に介していないようだ。
(心臓に杭を打てば死ぬんだっけ……?)
鏡子は呼吸を整え、気持ちを落ち着けようとした。怪物になってしまったとはいえ、同じ学校の顔見知りだ。その相手に致死の一撃を加えるなど、いくら幼い頃から剣術を叩き込まれて育った鏡子でも、恐ろしさのあまり震え出しそうになる。
そんな心中を表すかのように、鏡子の耳は頭に張り付くように伏せられ、尻尾も緊張でこわばっていた。長い黒髪が不安げに揺れる。
不意に、鼻の奥がツンと痺れたかと思うと、鏡子は血が滴り落ちるのを感じた。
全身に力が入りすぎている。鏡子は肩口で鼻血をぬぐうと、息を吐き出しながら余分な力を抜いてゆく。
血を見た吸血鬼が、ひときわ大きく吠えた。もはや人とは相容れない何かに変容した禍々しさは感じるものの、見た目は鏡子などに比べれば、はるかに人間に近い。
鏡子は思う。せめてもっと恐ろしい外見に変化していてくれれば――せめて、せめてその名前の刺繍されたジャージさえなければ。せめて――
「相手はもう死人ニャ! やるんニャら、よけいニャこと考えず戦うニャ!」
にゃむりんZの言葉に、鏡子の思考が一瞬止まる。
そして、彼女は唐突に理解した。今この場で命をかけているのは自分達の方だけだという事を。
吸血鬼というものは、死んだ人間が何らかの理由でそう成り果てるのだと、鏡子も何かの文献で読んだ事があった。
つまり相手はすでに死んでおり、後はこちらが生きるか死ぬか、ただそれだけの話なのだ。目の前にいるのは命をやり取りする敵ではなく、ただ理不尽に襲い掛かる死の運命のようなものだ。
いや、それよりもっと非道い。
死んでしまった人間が、さらに死人を増やそうと動き続けているのだ。死体が死体を増やしていく。彼は殺されてしまっただけではなく、殺すことを強要されている。吸血鬼に成るという、望むと望まざるとに関わらぬ現象によって。
鏡子の心に、怒りが燃え上がった。
自分はたまたま狼女だった。そんなのは紙一重の偶然だ。むしろ幸運だったというべきだろう。自分がああなっていたかも知れないのだ。隼人を打ち倒すのが自分だったかも知れない――鏡子は全身が粟立つのを感じた。
こんな事はもう終わらせなければ。
「ごめんね」
なぜそうつぶやいたのか、鏡子にも良く分からなかった。もとより彼を救うことなど出来るはずも無かったし、自分が生き残れるかどうかすら怪しいというのに。
しかし、その一言によって、鏡子の中で覚悟が決まった。
全ての雑念を追い払い、感覚を研ぎ澄ます。そして物心つく前から積み重ねてきた修行の日々、何十万、何百万回と反復してきたその身体感覚に全てを委ねた。
変身によって獲得した鋭敏な知覚が、今まで感じたことの無いレベルで空間を認識させる。未知の、しかしなんという自由な感覚。この場にいる全ての者の息遣いや鼓動が完全に把握できる。そして――目の前の吸血鬼には、それらが全く無い事までも。
同時に、吸血鬼が襲いかかって来ない理由にも察しがついた。鏡子の構えに隙が無さすぎるのだ。
いくら吸血鬼として超人的な身体能力を手に入れたとはいえ、元は普通の高校生だ。その強さや使い方を把握し切れていないのも無理からぬ話だった。木刀が脅威で無いと分かっていても、襲いかかるきっかけが掴めないでいるのだろう。
このやわな木刀を吸血鬼の心臓にまで届かせるには、おそらく相手の突進力と自分の突きの威力、双方が必要だろうと鏡子は踏んでいた。高圧水流カッターで金属板に穴を穿つがごとく、だ。
鏡子は構えを解いて、木刀をダラリと下げる。その上で、あえて殺気を前面に押し出し、吸血鬼との間に緊張を高めていった。
周囲の空気に殺気がみなぎり、うねり、陽炎のように揺らぐ。
やがて緊張感が最高潮に達した瞬間、
「いヤッ!」
鏡子の裂ぱくの気合がほとばしる。
それに弾かれた様に、吸血鬼が飛びかかった。跳躍の衝撃で床が足の形に砕ける。
鏡子はそれを迎え撃つように、重力と筋力を調和させながら、生み出される全てのエネルギーを剣先ただ一点に集約させた。
全身の可動部位を同時に加速させ、刀を始動から最大速度で突き入れる。
羽生心影流・鎧貫き
未だ完璧には遠い技ではあったが、体に宿った人狼の膂力がそれを補い、木刀の切っ先は軽々と音速を突破する。超音速の域に達するその切っ先が、目の前へと迫る吸血鬼の胸に火花を散らしながら突き刺さっていった。
ほとんど同時に、吸血鬼の鋭い爪が鏡子の肩に食い込む。
二つの影が重なり、その莫大な運動エネルギーが、今度は轟音と共にお互いを弾き飛ばした。それぞれが、長い廊下の両端近くまで転がってゆく。
四つん這いになって、廊下に長く爪あとを残しながら体勢を立て直す鏡子の左手には、恐るべき握力で握りつぶされた木刀の柄だけが残されていた。両肩は吸血鬼の爪で深くえぐられ、血が噴き出している。
一方の吸血鬼は、廊下の突き当たりの壁に打ち据えられたガラテアのすぐ手前まで転がって行き、仰向けに倒れたままピクリとも動かない。その胸から顔の方へむけて、折れた木刀が斜めに突き出していた。
刺さった場所の周囲は摩擦熱で黒々と炭化し、プスプスとくすぶり続けている。前傾姿勢によって心臓は肋骨に守られていたが、木刀の切っ先は肋骨を砕き深々と心臓へとめり込んでいた。
「大……丈夫か……鏡子?」
ようやく動けるようになった隼人が、よろめきながら鏡子に歩み寄る。
「その傷……」
隼人の言葉に、鏡子が肩口に目をやると、両肩から二の腕まで深く切り裂かれていた四本の傷は、既に赤いスジがわずかに確認できる程度にふさがっていた。その痕も、見る見るうちに端から消えてゆく。
あっという間に、あれほどの深手の痕跡は、血まみれのTシャツと、ボロボロに引き裂かれたその肩口の生地だけになってしまった。
しかしその脅威の回復速度は、見つめる鏡子に、自分もまた怪物なのだと強く再認識させた。鏡子の表情がこわばる。
「よかった……本当に」
隼人の声に、鏡子が顔を上げる。そこには心底ホッとしたような、隼人の笑顔があった。
もしも傷があのままだったら、隼人がどれほど心配していたことか。手当てだって相当大変だったはずだ。そのことを考えれば――
気分がフッと軽くなるのを感じる。
(怪物も悪くない――かもね)
鏡子は心の中でつぶやく。自然と笑みがこぼれた。
「全っ然よくねぇーっ!」
その雰囲気に突っ込むように、賢次が怒鳴る。顔面では、眼鏡のレンズが片方ひび割れていた。鏡子に投げられた時に床に落ちたのだろう。
「俺の方は大惨事のままだっての! 見ろよこれ!」
そう言って、両腕の肘の辺りを見せる。床との摩擦で、かなり広範囲に火傷していた。
「うっわ、痛そ~。賢次にも毛皮があれば良かったのにな」
隼人が顔をしかめながら言う。
「ごめんね~、とっさの事だったからつい力加減が……」
鏡子が手をあわせながら謝る。
「……まあ助けてもらったんだから、いいんだけどさ」
賢次はボソボソとそう答えると、廊下の反対側に倒れている『斉藤だった』吸血鬼の死体と、壊れたガラテアを見やった。にゃむりんZがうろうろと二体の臭いを嗅いでいる。
賢次が、少し震える声で鏡子に言う。
「ありがとな、羽生。仇を討ってくれて」
鏡子は賢次のその言葉に、吸血鬼という存在そのものに殺されてしまった斉藤と、破壊されたガラテア、二人への思いを感じた。
「うん。残念だったね、二人とも」
そう答えながら鏡子も、座り込んだままボンヤリと、動かないその二人を見つめる。
突然、両手の中に、木刀で胸板を貫く感触が蘇ってきた。同時に胸の奥から熱い固まりがこみ上げてくる。
自然と、鏡子の目から涙がこぼれた。一度溢れ出した涙は、堰を切ったようにとめどなく流れ続ける。咽喉の奥から嗚咽が漏れはじめ、鏡子は口を手で覆った。
世界は変わってしまった――もう二度と元には戻らない。そのことが、心の底からようやく理解できた。
気丈な鏡子が涙を流すのを見て、賢次が動揺したように言う。
「何泣いてんだよ、ズルイぞ。俺だって――」
その後は言葉にならない。賢次も押さえていた涙が止まらなくなってしまう。
隼人が鏡子と賢次の肩にそっと手をかける。
鏡子は隼人の胸に頭を預け、声を上げて泣き始めた。賢次も肩に置かれた手をぎゅっと握り返し、眼鏡を曇らせながらすすり泣く。
そんな二人を目の当たりにして、隼人も思わず涙がこぼれそうになるのを、ぐっと我慢する。しかし、どれほど歯を食いしばってみても、溢れる涙に視界がぼやけてしまうのを止められない。
三人はひたすら泣き続けた。
新しい世界の理不尽さに、残酷さに、恐ろしさに、涙を流し続けた。
泣きながら、ついに三人は本当にこの世界の一員となった。