学生寮
寮に向かう途中の路上では、所々で事故を起こした車や、道端に飛散した血痕などが目についた。
時折、救急車やパトカーなど緊急車両のサイレン音が聞こえたものの、やはり皆用心しているのか人通りはほとんどない。その静けさが、かえって隼人には不気味に感じられた。
変身の影響か、鏡子の身体能力は今までの数倍になっており、見た目をはるかに越える筋力と持久力、そして瞬発力を獲得していた。隼人も遅れないよう必死で自転車をこいだものの、結局のところ鏡子はかなり力をセーブする必要があった。
「月齢が満月に近いからパワーが上がってるんニャ」
にゃむりんZがさも当然のように言う。
「どうせ狼女ですよーだ」
鏡子がちょっと拗ねたように答える。
寮につく頃には、あたりは薄暗くなっていた。隼人と鏡子は寮の自転車置き場に駐輪すると、玄関の扉を開けた。
城山高校男子寮は、四階建てのかなり大きな建物で、各年度ごとに二~四階がそれぞれ一階ずつ総入れ替えになる。部屋は六畳一間で、各階の廊下を挟んでそれが三十並ぶ。トイレは各階にあるが、風呂は一階に大浴場があり、全学年共同となっている。また一階には食堂と住み込みの職員の部屋もある。
隼人と鏡子は、四階の一年生の部屋へと階段を上がっていく。その足元をにゃむりんZが追う。普段はにぎやかな寮も、夏休みでほとんど帰省しているせいもあるのか、今日はひっそりと静まり返っていた。
隼人が、四○二三・篠岡賢次と書かれた部屋の扉をノックする。
「お~、鍵開いてるよ」と、中から少しくぐもった声がした。
扉を開けると、本棚と数台のパソコン、そして五画面のモニターに囲まれた部屋の中で、スウェットの上下を着た小太りの少年がキーボードを叩いていた。
肌寒いくらいに冷房の効いた部屋は、本棚や電子機器のせいで狭く感じられるが、床やベッドなどは綺麗なものでゴミひとつ落ちていない。
そして、ひときわ目を引くのが、部屋の隅に鎮座している等身大の人形だった。
人形と言っても、顔はかろうじてそれと分かる鼻の突起と、ほとんど切れ込みにしか見えない口、目に至っては巨大なライトかガラス玉がはまっているだけという代物で、頭はヘルメットのようなもので覆われている。
体も、人体をディフォルメしたようなパーツが、デッサン人形のような球体関節でつながっており、腰のくびれと胸部のふくらみでかろうじて女性型とわかる程度だ。
篠岡賢次はこれを骨董屋で見つけて、五万円で購入したという。
「この無機質なところがタマラン」
そう言って、彼はこの人形をとても大切に扱っていた。これが部屋に来てから、部屋の出入りを許されているのは、ごく一部の本当に親しい友人だけである。
隼人と鏡子が部屋の玄関で靴を脱ごうとしてると、にゃむりんZがその横をすり抜けて部屋に上がりこむ。
「おい、足拭かずに上がってくるんじゃねえよクソ猫」
賢次が眼鏡越しに、にゃむりんZをにらみつけて言う。
「誰がクソ猫ニャ。まったく、レディに向かってその口のきき方は失礼ニャ」
そう言って、にゃむりんZはテーブルの上の容器からウェットティッシュを一枚引っ張り出すと、自分で手足を拭きはじめた。
それをぽかんとした表情で見ていた賢次は、思わず「ゴメン」と一言謝った。
「先生が戦いに行ったって、マジで?」
賢次が興奮して聞く。
彼は羽生道場の門下生ではないが、いちど演武を見学に来た際、宗昭の剣技にいたく感銘を受けたらしい。それ以来宗昭を先生と慕い、道場にもたまに見学に来るようになっていた。
「確かに、ネットで集めた情報だけでも、世界は相当やばいことになってるけどな」
そう言って賢次がモニターのひとつを示す。そこには、どこか外国の戦闘の様子が映っていた。
「大きな戦争は回避されてるみたいだけど、内乱とか小規模な戦闘はあちこちで起きてるみたいだな。つーか、こんなに平和なのは日本ぐらいじゃね? 日本大勝利って感じだわ、マジで」
「でも、井戸とやらの近くでは大規模な戦闘が起きてるんじゃ?」隼人が聞く。
「もともと人里はなれた場所ではあるけど、全く情報が流れてないのが逆に怪しいわな。一瞬だけ動画サイトに、その研究所がある方角で煙が上がってる画像流れたきり、その後は音沙汰なしだし」
「父さんを迎えに来た人の話では、結構な勢力が集まってる感じだったけど……」
鏡子が不安そうに言う。
「恐竜娘だって? やばい萌えるわ~。何で動画撮っとかない訳?」
能天気にそう言いながら、賢次はいくつかのサイトをクリックして表示させる。
「噂レベルでは、色んな組織だの教団だのの名前が飛び交ってるけど、どこまで信憑性があるかわかんねえしなぁ」
賢次はそう言ってため息をつくと、改めて鏡子と隼人を見る。
「しかしまあ、猫耳が現実のものになるとは……なんつーか、感慨深いものがあるな」
「私、狼だってば」
「全人類の三割くらいは何か変化起きてんだろ? なんで俺には変化起きてないんだ。まあ隼人みたいなショボイ変化なら別にいいけどさぁ」
「誰がショボイ変化だ」
「いやいや、むしろオークだゴブリンだのにならなかった事を喜ぶべきか、俺あたりは。どう転んでもカッコイイ何かにはなりそうも無いしな」
そう言って、賢次はハハハと乾いた笑い声を上げた。
「己の分をわきまえてるとは中々感心ニャ」
にゃむりんZが人形によじ登りながら言う。
「ちょ、傷が付く! ヤメロって!」
あわてて賢次が駆け寄る。
「ん~? このタイプの機械人形は見たことあるニャ。懐かしいニャ~」
「え!? マジッスかにゃむりんさん! ひょっとして動かし方とかわかるんスか?」
思わず妙な敬語口調になる賢次。
「にゃむりんが懐かしいって、何百年前の話だよ」隼人が茶化す。
「おいバカ、にゃむりんさんに失礼なこと言うんじゃない!」
「お前ニャかニャか見どころあるニャ、褒美に起動方法を教えてやるニャ」
「うお! ありがとうごぜえます~、にゃむりん様~!」
「ニャハハ、苦しゅうニャい苦しゅうニャい。起動するのは確か、体液で使用者の登録をすれば良かったはずニャ」
「た、体液ッスか!?」賢次がごくりと唾を飲み込む。
隼人と鏡子も一瞬、顔を見合わせ、照れたようにお互いそっぽを向く。
「エロいこと想像してんじゃニャいよ、全く。ロマンチックに行くニャら接吻とか、カッコよくやるニャらちょいと指先切って、血を口のとこのスリットに流し込めばいいニャ」
「なんだそのファンタジックな起動方法」隼人があきれたように言う。
「製造されたのが剣と魔法の時代だから、そういうのが流行ってたんニャ」
「キ、キスか血か……」
そういいながら振り返った賢次と、隼人と鏡子の目が合う。
「あー、ほら、うちカッターないし」
賢次の目が泳ぐ。
「指先くらい、私が紙で切ってあげる」
鏡子がにっこりと微笑みながら、プリンター用紙を構える。
「いやほら、俺って痛いの苦手だし、貧血気味だしさ」
「そうそう、やっぱ血とかやめといた方がいいと思うよ」
そう言いながら、隼人が携帯のカメラを動画撮影モードで構える。
「ちょっと待て! どこチューブにうpる気だ!」
「さっさとやらニャいニャら、あたしが起動しちゃおうかニャ」
「勘弁してくださいよにゃむりんさん~!」
賢次は人形を抱きかかえると、重さ六十キロ近くあるそれを引きずって窓際に這いより、カーテンにくるまった。
「小学生かっ!」
隼人と鏡子が同時に突っ込む。
一瞬、カーテンの隙間から青い光が漏れ、ギリギリと歯車のきしむような音がし始めた。
「所有者登録完了。製造番号F二〇八八五C、ケアン型起動します」
人工的な音声とともに、カーテンがふわりと開き、機械人形が立ち上がった。
その姿を見上げながら賢次は、
「やべえ……神様ありがとう……僕にロボ娘をくれて」とつぶやいた。