井戸の底より
(ああ、またお前か)
神崎博士は、やや充血した目で、枕のそばに立つ十五センチほどの光る少女を見つめた。
分厚い本が散乱した部屋の中で、唯一ある程度の広さを確保しているベッドの上、七十歳に届かんとする体を所在無げにもぞもぞと動かす。
もう何日もまともな睡眠が取れていない。目の前の少女もその原因の一つだ。
全身が淡く発光しているのでよくはわからないが、とがった耳と長い髪は妖精のようにも見える。
「いいかげん、井戸を掘るのはのはあきらめたら?」
少女が博士の目を覗き込むようにして言った。
「そうすればぐっすり眠れるのに」
「お前は――」言おうとして博士は咳き込んだ。
「お前は私の恐れが生んだ幻なのか」
明日は、次元の壁に穴を開けエネルギーを取り出す『次元障壁解放装置』の最終実験だ。
『異次元から輸入する』(import from different dimensions)の頭文字から、IDD、ID、あるいはイド計画と呼ばれるこの研究によって次元の壁に開けられる穴は、無尽の水を汲み出す井戸に例えられていた。
この実験が成功すれば世界は変わる――エネルギーに関する争いは、完全に過去のものになるだろう。もはやプロジェクトは神崎博士一人の意思で止まるものではない。
「ほんの少し、数値をいじれば……」少女がいたずらっぽく言う。
「失敗させるのは簡単でしょう?」
「私が諦めたところで、誰かが正しい解を導き出すだろう」博士はあえぐように言った。
「いいえ、あなた以外に正解にたどり着けるものはいない。少なくともこの時代には」
これが幻だとすれば、自分はなんといううぬぼれ屋なのか。
神崎博士は目を閉じると、自嘲気味に微笑んだ。
このまま眠れないとしても、どうせ数時間後には嫌でも結果が出るのだ。人生をささげた研究をわざと失敗させる選択肢など、到底ありえる話ではない。
少女は少し悲しげに微笑み、
「お休みなさい。この世界で最後のいい夢を」とつぶやき、消えた。
人里はなれた山の中腹にある研究所の敷地内には複数の建物があり、それぞれが通路でつながっている。
実験棟は十五メートル四方の起動実験室と、分厚い強化ガラスで仕切られた、隣接する操作室から成っていた。
この実験棟で「井戸」を安定的に展開、維持することが今日の目標である。すでに全ての準備は整い、あとは起動ボタンを押すだけとなっていた。
神崎博士は、実験室をのぞむ強化ガラスの手前に設けられた、計器類の並ぶ操作盤の前に立つと、起動ボタンを覆う鋼鉄製の四角い箱の鍵穴に、キーを差し込んだ。
箱の上には、研究員の誰かがいたずらしたのだろう、髑髏と交差する二本の骨がフェルトペンで描かれている。
「井戸には怪物が潜む……か」博士はそうつぶやくと、キーを回した。
「いちおう、最後の忠告に来た」
いつのまにか、箱の上に光る少女が座っていた。
神崎博士は、まるで拾ってきた子猫を親に見つかりそうになった少年のように、周囲で作業している研究員を見渡した。
「どうしました、何か問題でも?」古参の研究員が声をかけてくる。
彼の位置からは箱の上面が見えているはずである。しかし、彼の顔には特に驚いたような表情はない。
「いや、ちょっと緊張してね」
そう言ってごまかすと、博士は再び少女に目を向けた。
「このボタンを押したら、今日までの世界は終わる。井戸からは混沌があふれ出し、世界の法則が変わる。そこから先はどうなるのか、私にもわからない」
心なしか、少女は嬉しそうにも見える。
「古くからある混沌と秩序の世界観は、単なる御伽噺じゃない。混沌の渦を制御することは、今の人類には不可能よ」
「論理的に止められないとなったら、最後は御伽噺か」
神崎博士は箱に手をかけ、一気に開く。
少女は小さく悲鳴を上げて、箱の向こう側へと転がり落ち、視界から消えた。
「新たな時代の到来だ」
何か目に見えぬ強い力に導かれるように、起動ボタンを押す。
実験室の隅にそれぞれ備え付けられた八基の発信器から青白い光線が放たれ、部屋の中央に収束する。
やがてその一点から空間に亀裂のようなものが現れ、水平に広がってゆく。
それと時を同じくして、今度は部屋の上下に備え付けられた安定装置が働き、その亀裂を一定の形に整える――はずだった。
突然、亀裂が目のように見開かれた。
そこにはまぎれもない、巨大な目があった。その目はぎょろりと辺りを見回すと、満足そうに少し細まる。
そして、深遠から響く、人間のものではない声が聞こえてきた。
「ようやく、我等の番が回ってきたか」
それはこれまでに誰も聞いたことのない言語だった。しかしその場にいた全員が理解できた。それは神の言葉だった。あるいは悪魔の。
研究員達は全員、魅入られたように動かなかった。
事実、魅入られてしまっているのだ。
巨大な目は覗き穴から離れるように、亀裂の奥へと移動した。一瞬、異形の存在の体が視界に入ったが、彼らにはそれを正しく認識することは出来なかった。
それはまさしく人智を越えた存在だった。
やがて、ぽっかりと開いた真っ暗な穴の向こうで、極彩色の火花のようなものが瞬き始め、穴からこちらの世界へと、目には見えない何かがあふれ出してきた。
それは何物にもさえぎられず、ものすごい速度で広がり、人々や建物の中に浸透していった。
神崎博士は、ふと後ろで人が動く気配を感じ、振り返る。
そこには等身大になったあの少女がたたずんでいた。一糸まとわぬ体はもはや光ってはいなかったが、光るような美しく長い金髪に覆われている。
大きなアーモンド形の目には、燃えるような深紅の瞳が輝いていた。少女が長い髪をかきあげると、大きくとがった耳があらわになる。
少女は神崎博士に向かってにっこり微笑むと、凛とした声で告げた。
「新しい世界へようこそ」
そして、ふわりと身をひるがえすと、優雅な足取りで、全てが変わってしまった世界へと歩き出した。
神崎博士はその後姿を、身動きひとつ出来ないまま、ただ見送った。