1年前 仲吉紅耶
――私、弁護士になりたいの。
およそ一年前、紅耶は焚き火の向こうに座る友達に向かって話しかけた。
「おかしいかな、人まえでうまく喋れない私が弁護士になりたいなんて」
「そんなことないよ」
友達は薪を火にくべながら紅耶の言葉に耳を傾けている。薪を入れるたび火は勢いを増して、紺青の夜空に橙色の火の粉を舞い上げた。
「だって弁護士になったら法廷に立たなきゃいけないでしょ? そうしたらみんなに注目されてしまうもの」
「大丈夫、今だってちゃんと話せているし、昨日の狩りだってパーティーの人気者だったじゃないか」
「だってこれは……ゲームだから……」
紅耶がエンターキーを押すと、画面の中にいるネコムスメの頭上に吹き出し付きでセリフが流れた。
「本当の人間相手だとうまく喋れなくなっちゃうよ」
「……一応、画面の向こうの僕だって本当の人間なんだけどね」
そういう意味じゃなくて……紅耶がキーを叩いて文字を入力しようとすると、アバターの頭上にメッセージがポップアップする。
「でも、それなのにどうして弁護士になりたいと思ったんだい?」
「それは……」
――言えば嫌われてしまうだろうか。
紅耶の指が止まる。しばらく考えて、打ちかけた文字を全て消した。
「守りたい人がいるから、かな」
差し障りの無い言葉を選んで打ち直す。大丈夫、嘘はついていない。
「そっか、応援しているよ」
友達のアバターが言った。
「僕は……守りたい人を守ることが出来なかったんだ。だから、僕の分までキミの夢が叶う事を祈っている」
「ありがとう、頑張るね」
しばらくして薪が尽きた。炎が消えると光のない草原は真っ暗で、空には星が瞬いているのが見える。ゲームの中とはいえ落ちてきそうなほどたくさんの星が煌めいている様に目を見張る。
「薪も無くなったし、そろそろ落ちるかな」
「ごめんね、つまらない話ばかりして」
「大丈夫、楽しかったよ」
しばらくして相手のアバターが光りに包まれて消えた。メッセージウインドウに《ジンジャーがログアウトしました》の文字が浮かんで、見渡す限りの広い草原に独りぼっちになっていた。
モニターを消し、椅子から立ち上がってベッドに倒れこんだ紅耶の目には暗い天井がぼんやりと映っている。面白味の無いこの景色をただじっと、しばらく何をする事もなく眺めた――。
紅耶の父、仲吉善吉が逮捕されて今日で四日目だ。
今年に入りニ度目の事だった。面会に行った事務所の人の話しでは、店で接客中に警察官数名が乗り込んできてそのまま警察署へ連れて行かれたらしい。
「店長は、いつもの嫌がらせだろうって言っていましたよ。大丈夫ですよお嬢さん、きっとすぐに釈放されますから……」
父は大した事じゃないと考えているのだろう。心配無用だから中学生のお前は面会に来るなと言っていたと聞かされた。だが紅耶にとって嫌がらせかどうかは問題ではなかった。
いや、単なる嫌がらせであってほしいし、父は悪いことをして捕まったわけじゃないと信じたいという気持ちは当然ある。しかし、規模は小さいながらも《仲吉組》という組事務所を取り仕切っているのだ、悪いことはしていないと言ったところで、周りはそうは見ないだろう。
そのうえ、こう何度も逮捕されていては、いくら嫌がらせの誤認逮捕だったとしても風当たりが強くなるのは必至だ。もう既に学校でうわさになっている可能性もある。黙っていてもどこからか話しは漏れるものなのだ。
紅耶はこれまで父親がヤクザの組長ということで肩身の狭い思いや疎外感をじていた。仲の良い友達など出来るはずもなく、学校ではいつも孤立していて教師からも生徒からも腫れ物扱いされてきた。
どうして私のお父さんはヤクザなんだろう――。
多感な時期である。学校でいじめられては父親の仕事を恨めしく思う事もあった。そのたびにこの呪われた運命をどうやって終わらしたらいいのか悩む日々が続いた。しかし、苦しい組の台所事情を切り盛りしながら母親のいない紅耶を男手一つで育ててくれた父親の背中を見ていればこそ、文句を言うわけにもいかない。
日々蓄積していくやり場のない、あてどころの無い怒りを我慢しているうち、気が付くと、いつの間にか人まえで喋る事が出来なくなっていた。
そして中学三年生となった今、紅耶は悩んでいた。進路の事、これからの事、父親の事。
高校くらいは出ておきなさい、さもないと俺のようになるぞなんていう笑えない冗談を言う父の事が本当は好きだ。出来れば言うとおり高校には行きたいとは思う。
だけど……周りから孤立していじめにあって、辛い思いをしてまで学校に行く事が本当に良い事なのかわからなかった。将来に希望なんて持っていない。持ってはいけない気がする。そんな呪われた人生をあと何十年も残しているのかと思うと、ただただ息が詰まる思いしか無かった。