現在 仲吉紅耶
仲吉紅耶は戸惑った。
教室に入ると自分の席の隣りに見たことのない男子が机の上に突っ伏している。入る教室を間違えたかと思って廊下に出てみるが、どうやら教室自体はあっているらしい。
確か、この席は白金千緋色という女の子の席だったはず、この人は誰? 席を間違えたのかな、それとも見えているの私だけなのかな。
授業開始まで時間があるためか他に生徒の姿は見当たらない。紅耶は二人だけなのを確認すると静かに寝息を立てる少年の顔をのぞき込んだ。
「あのー……」
蚊の鳴くような声で話しかけるが、当の本人は起きそうな気配すらない。
もうすぐみんながやってくる。そうすれば嫌でも起きるだろう。他人と話すのは得意じゃないし、下手に男子と会話しているところを御坊山たちに見られては何を言われるかわからない。ここはそっとしておこう。
紅耶は隣りの席にそっと腰を下ろした。
そうだよ、来たのはたった一日だけだったし、その日だって一時限目の途中に突然走って出て行ってしまったんだ。きっともう辞めてしまったんだ。そしてこの人は転校生なんだ。きっと。
ここ定時制は様々な理由で全日制に通えない生徒たちが入ってくる。理由は様々だが、入ってみたものの肌に合わずやめてしまったり、ちょっとしたきっかけで不登校になってしまう者も多い。それなのに、入学早々いきなり紙片をぶつけられては行きたくなくなるのは当然だろう。
紅耶は、無理もないかなと思った。そして同時に罪悪感に襲われた。
あの紙はきっと、ううん、間違いなく私に向けられた物だ。投げた人も分かっている。あいだに入る形になってしまったあの子にとばっちりがいってしまったんだ。
もしあの時返事をしていれば……とか、「あのひとたちの事、気にしちゃダメだよ」なんて言えてたなら……などという考えが頭をよぎって、後悔の念が押し寄せてくる。
白くてお人形さんみたいに綺麗な子だったなぁ。外国の子なのかなぁ……あの子は何も悪くなかったのになぁ……私のせい……だよなぁ……。
紅耶が打ち拉がれていると、程なくして他の生徒が入ってきた。みんなもこの不審人物が気になるらしく、一度視線を注いでから自分の席に着く。いつもの紅耶なら予習復習を兼ねて教科書を開く時間であるが、今日は何だか落ち着かない。どうしても正体不明の隣人が気になってしまって集中することが出来ない。
鉛筆をいじりながら、ちらりちらりと横目で様子を伺っていると、そのうち誰かが「あれ全日制の制服じゃない?」と言った。
言われてみれば夜間定時制は基本的に服装は自由だ。紺のブレザーにグレーのスラックスなんて制服を着けてくる人なんていない。この人、全日制の生徒なんだ。授業が終わったあとそのまま寝ちゃったんだ。夜間の定時制クラスがあるのを忘れて寝過ごしちゃっているんだ!
そう思うと、居ても立っても居られなくなった。このままではこの人は笑いものだ。いや、もうすでにちょっと笑いものだけど……御坊山たちに見られたらもっとバカにされてしまう。どうしよう、やっぱり起こそうか。でも人も多くなってきちゃったし……。
教室の中を見渡すと、来ている生徒は十人そこらという感じで、御坊山たちはまだ来ていない。起こすなら今しかない。
「も、もしもー……」
すると、紅耶の声をかき消すように男子生徒が勢い良く顔を上げた。肩を叩こうと意を決して伸ばした手は弾き返され、突然の出来事に心臓の音が激しくなる。
「……お前、誰?」
「い、あ、あのごめんなさい……」
当たった手をさすりながら紅耶が言った。その様子を見て「あーわりぃ……」と返される。寝起きで呆けているのか、宙を見つめたままそれっきり動かなくなった。
「あ、あの、今から定時のクラス……ですよ」
「おお、やっとだな……お前も定時なのか」
「え、あ、う、うん」
驚く様子もなく慌てる様子もなく、堂々とした雰囲気に紅耶は驚いた。みんな注目しているのに、寝過ごして定時のクラスに入っちゃっているのにこんなにあっけらかんとしてられるなんて……なんて恐ろしい人だ。
「ちょっと教えてくれねぇかな……俺は崎枝祐陽っていうんだけどさ、お前は?」
あっけらかんどころじゃなかった。自己紹介まで始めちゃった。これは答えるべきなのかな。答えないと失礼だよねきっと。相手の名前も教えてもらったのだからね。よし、頑張らなきゃ。
「仲吉……です」
祐陽は「ナカヨシか、よろしくな」と言うと微笑んで、「苗字はなんて言うんだよ」と続けた。
「へ!? いや、あ……」
「ヘイヤア? 変わった苗字してるな……ヘイヤーナカヨシ? もしかして外国人なのか? いやまてよ、それならナカヨシヘイヤーになるのか」
訂正する間も無く続ける祐陽の言葉に、周りの生徒が一斉に笑った。紅耶は顔を真赤にしながら「うわぁ」とも「あぐぅ」とも似た声にならないうめき声を上げて両手で顔を覆う。
みんなの視線が痛い。怖い。注目しないで。私を見ないで……。恥ずかしさの極みに、紅耶は名前を訂正するのを諦めて机に顔をうずめた。
心を落ち着けようとして無心で過ごしていると、しばらくしてホームルーム開始のベルが鳴った。紅耶は恐る恐る顔を上げてみる。隣の席には相変わらず彼が座っている。
……もうホームルーム始まっちゃう。この人、まさかこのまま授業受けるつもりなのかな。
紅耶はふと後席が気になって、落し物を拾うふりをして目の端で斜め後ろの席を確認する。どうやら御坊山たちは休みのようだ。紅耶はほっと胸を撫で下ろした。
担任の教師が教室へ入って来ると祐陽の存在に気が付かないまま出欠を取り始めた。手元の書類と生徒の顔を順番に見比べていき……いよいよ彼の席で視線が止まった。何度も何度も視線を手元と顔で往復させて、かなり怪しんでいるようだ。
紅耶は、それはそうだろうと思った。色も形も性別も違うのだ、気付かないはずがない。
教室内に妙な空気が流れる。まるで自分のことのように緊張する。にもかかわらず、当の本人は涼しい顔をしている。
「きみは……誰?」ついに担任の岩先が言った。
「俺? 崎枝祐陽」
短い沈黙があって、岩先が「そうじゃなくて……」と言う。
「ああ、悪い。えっと……歳は十六で家は花屋。好きな食べ物は特に無ぇ。嫌いな食べ物も特に無ぇ」
辺りは静寂に包まれた。祐陽は気にする様子もなく続けて言った。
「……今日は吸血鬼を探しにここへやって来た。知っているやついたら教えてくれな!」
教室が沸いた。あちらこちらから笑い声が上がって、どこからともなく「吸血鬼?」やら「ばかだあいつ」やら「何者なんだよ」と聞こえてくる。それらは決して刺々しいものではなく、笑いを含んだ口ぶりはどれも親近感がこめられているようだ。
紅耶は「何がおかしいんだよ」と言う祐陽の姿を見て驚きを隠しきれなかった。夜の教室には似つかわしくない明るい雰囲気は、どこか違う世界に迷い込んだ気がした。いつもの教室はとても暗くて冷たい海の底にいるような気分だったのに、この祐陽という男の子は教室の雰囲気を一瞬で変えてしまった。まるで魔法のように。
「誰が自己紹介をしろと言ったんだ。きみは定時制のクラスじゃないだろう、出て行きなさい」
「なんだよ……いいじゃねえか別に」そう言って頭を掻きながら、祐陽は岩先に言われるがままドアを開けた。
「今日は来てないようだし……みんな、また明日な!」
「もう来んでいい!」
捨て台詞を吐いて祐陽が出て行くと、再び教室が笑いに包まれた。そして開いたドアから入れ替わりで数名の生徒が入って来る。途端、紅耶から表情が消えた。
静かにしなさいという岩先の言葉も、それをかき消すみんなの笑い声も、紅耶にはもう聞こえない。
《なぁに? 楽しそうね》
無言で席についた御坊山の視線が、紅耶の背中に突き刺さる。
やっぱりここは海の底なんだ。少なくとも私にとっては……。
紅耶は長いおさげ髪がかかる小さな背中をさらに小さく丸めて、頭上のサメが見逃してくれる事を祈り、ただじっと堪えた。