現在 黒銀千緋色
――――ん。
――ぃちゃん。
誰かが自分を呼ぶ声がする。
「んもぉー、おひいちゃん! 学校行く時間だよ! 早く起きないと遅刻しちゃうよ?」
真っ暗な部屋に蛍光灯の光が灯る。夢の世界から引き戻されてうっすらと眼を開けると見慣れた老人の顔があった。千緋色はベッドから上半身を起こし、目の前にいる井山鉄斎を睨んだ。
「爺……その珍妙な口調、いい加減にやめてはくれぬか。おぬしがどう足掻こうがわらわはそのような口調に感化などされぬ」
「おひい様! ……あ、いや、おひいちゃん、諦めちゃダメだよ! おひいちゃんの喋り方はきっと爺が直してみせるんだから……爺のせいでおひいちゃんの喋り方がジジ臭くなっちゃったんだもん……今時の可愛いおにゃのこの喋り方に直してあげるのも爺の努めなんだもん!」
白髪の頭にしわがれた低い声、いくつもの深い皺の見えるごつごつと骨ばった顔……外見からは想像もつかない口調で鉄斎が言った。ネクタイ姿にベストを羽織り、右耳にかけた金の鎖は弧を描いて片眼鏡へと繋がっている。一見すれば上品な紳士か執事かと言う風貌であり、仕草もあくまで老人のそれである。にもかかわらず、喋り方だけがおかしな所に向いてしまっているのだ。
「……わらわはこの喋り方に不便は感じておらんし、幼い頃の習慣などそう簡単に治るものでもなかろう。それに……おぬしのその喋り方はあまりにも違和感が凄すぎて聞くに耐えんのじゃぞ、言ってて自分で気持ち悪くならんのか」
「ふふ、爺はオトナだもん、そう感じても仕方ないかな。でも、おひいちゃんなら間違いなく可愛く使いこなせるようになるんだからね! おひいちゃんの言葉遣いが直ったら爺も元の言葉遣いに戻るから心配しないでよねー!」
真顔の鉄斎が続けて放った「おひいちゃんのためならなんだってするんだから!」という一言に、千緋色は現実世界に蓋をするかのようにまぶたを閉じた。
「ああもう! 爺はこの有り様であるし外は湿気っているし……憂鬱じゃ! 今日はゆっくり寝ていたいのじゃ」
「え! ちょ……!? おひいちゃん!? 二度寝しちゃダメだよ! 学校遅刻しちゃうんだってばぁー!」
「良いではないかたまには行かなくたって……どうせ授業でやるのは全部知っていることであるし」
「だぁーめぇぇえ! 単位足りなくなっちゃうよぉお!」
千緋色はしばらく布団を引剥がされまいとして粘っていたものの、布団の向こうから聞こえてくる妹系爺さんの金切り声に、このままでは聴覚をやられる気がしてようやくベッドから降りる。
時計は十七時を回っていた。
「だいたいね、高校生活を送ってみたいって言ったのはおひいちゃんでしょ!? その為に嘘の戸籍まで用意したんだから感謝してよね!」
「ぷんすかぷん!」と声に出しながらクローゼットから着替えを用意している鉄斎の様子に、千緋色は観念したように低く唸ってパジャマ代わりのガウンを脱ぐとしぶしぶ着替えを手にとった。
鉄斎の言うとおり、行くと言い出したのは自分だ。とうに入学の季節は過ぎているにも関わらず無理矢理お願いをして入れてもらったという経緯もある。
「わかってはいるが……わらわにも色々と思うことがあるのじゃ……」
千緋色は先日入学したばかりの国千院高校、夜間定時制課程での出来事に気を揉んでいた。
数日前。
「自分の高校に潜り込むというのは、どうもへんてこな気分がするのぉ」
髪を梳かしながら千緋色が言った。それを聞いた鉄斎は腕を組んでほっぺたをふくらませる。
「おひいちゃん!? それを言うなら、自分の経営する高校でしょ? あと、潜り込むんじゃなくて入学! 日本語は正しく使わなきゃダメだよ、言葉の乱れは生活の乱れにつながっちゃうんだから」
「……おぬしの言葉の乱れもどうにかして欲しいもんじゃ」
呟く千緋色の声が聴こえなかったのか、鉄斎は「んもう、本当にだらしないんだから」と言って千緋色のカバンを準備する。
千緋色が高校に行くと言い出したのは何も興味本位だけのことではない。四年前のリラックスショックによってこの辺りの裕福な家をターゲットにした私立高校は大打撃を受けた。入学希望者が激減し、教師への給与も払いが遅れがちになり、教育の質は目に見えて落ちていった。それが悪循環となって経営が立ちゆかなくなった学校が相次いで倒産したのである。千緋色はその現状を知ると風前のともしびだった国千院高校を買収した。
かつて富裕層御用達ブランドで有名だった国千院高校は、高額な入学費用や授業料、寄附金などが重荷となって入学希望者はおろか転出希望者も相次ぎ、千人近かった在校生は百人近くまで減っていた。千緋色が買収してからは様々な合理化を進めたり、思うところあって夜間の定時制課程を後設置したりしたことが功を奏して順調に生徒数は四年前の倍以上まで増えていた。
しかし、千緋色はこれまで学校というものに通ったことがなかった。経営するとは言っても教育の中身については校長の長岡が仕切ていてよく分からない。自分自身の眼で見て、内情を知っておきたいという思いがあったのだ。
夜間の定時制課程は体温調節がうまく出来ない千緋色にとっても都合が良かった。服装の自由は利く上、太陽の光が強い時間帯に登下校しなくて済む。己の学校とはいえ軽々しく校則を破る訳にはいかない。クラスの生徒はおろか、学校の先生や校長にも自分が経営者ということは黙っているつもりだ。余計な混乱は招きたくない。そんな想いから定時制を選択したのである。
定時制課程は五つのクラスに分かれており千緋色が割り振られた一年五組には四十人ほどの学生が在籍している。生徒のうち一割は明らかに同年代ではない年上の風貌で、三割は一筋縄ではいきそうもないやんちゃな格好をしていた。あとの残りは普通の学生のなりをしている者か、そもそも出席しておらず顔を見ていない生徒たちだ。
簡単な自己紹介を済ませると、担任の岩先が廊下の近くの空いている席に座るように言った。隣には千緋色とは対照的な、漆黒色をした艶のある髪を空色のリボンで留めたおさげの女子生徒が座っていた。
千緋色が「よろしく」と言って挨拶を交わすものの女生徒は目も合わさず蚊の鳴くような声で「仲吉です」と言ったっきり黙ってしまう。千緋色は自分の容姿が他人と違うということに気付いている。怖がらせてしまったかと思ってそれ以上話しかけることはやめた。それからは仲吉の方からも話しかけてくることもなく、授業は淡々と進んだ。
つまらない授業だった。どれもこれも千緋色が三歳の頃には既に知っていることばかりだ。教育係の鉄斎のおかげでもあるのだろうが、千緋色の人並み外れた知識量と感性の賜物でもあった。
まじめに授業を聞いている者も少なくて、教師はその様子を目の当たりにしていながら特段咎めることもしない。
千緋色は一時限目からすでに、高校生活があまり楽しいものではないということに気がついた。
授業中しばらくして頭に紙くずが当たった。豆粒程度の大きさで痛くは無い。飛んできたであろう方向を見ると数人の女子がなにやら騒がしくしている。紙くずを開いてみると《ヤリマンビッチ死ね》と書かれていた。ヤリマンビッチの意味はわからなかったものの、死ねという単語の意味は当然知っている。
これは自分に向けられたものなのか?
千緋色はもう一度振り返って飛んできた方に目を向けると、女生徒の何人かが指をさして口を開けたり閉じたりさせている。どうやら「お前じゃない」と言っているようだ。
お前じゃない? それでは誰の事なのだ。
「なあおぬし、ヤリマンビッチとは誰のことか知っておるか?」
隣の席の仲吉に聞くと、びくっと一瞬体を震わせて目を背けた。途端、後ろから下衆なクスクス笑いが聞こえてくる。
奇妙な空気を千緋色は感覚的に理解した。言い知れぬ虚脱感が心の中に漂い始める。
それからいくつもの紙片が飛んできた。いちいち中身を確認することはしなかったが、無言で拾い集める千緋色に対して投げられたものもあったかもしれない。時折不安そうな目つきで仲吉がこちらに視線を向けるので、千緋色は「メモ用紙がタダでこんなに集まった」と独り言を呟いては、何気なく机の中に手を突っ込んでみたりした。
その時だ、机の中に入れた手に何か硬いものが当たる。取り出してみると年季の入った缶ペンケースである。全日制の生徒の持ち物だろうか。持って帰るのを忘れたのだなと思い元に戻そうとした時、ケースの表に描かれた絵に目が止まった。勇ましく剣を構える少年の前には囚われの身となったお姫様風の女の子、すぐ隣には赤い目を光らせ牙をむき出しにした吸血鬼とモンスタークエストの派手な文字。
千緋色の胸に四年前の出来事が蘇る。
確かこれは……ゲームというものの名前だったはずでは。
手にとって四方からケースを眺めると、一番迫力のあった吸血鬼の絵のとなりに小さく《チヒロ》と彫られているではないか。
「……白金さん?」
担任の岩先が驚いたような顔をして言った。気がつけば千緋色は椅子を倒し立ち上がっていた。
恐る恐るペンケースを開けると、蓋の内側からは聞き覚えのある名前が眼に飛び込んで来る。
「さきえだ……ゆうひ……」
その後どうしたのかはよくわからない。気が付くと逃げるように学校を飛び出していた。
通学路の途中にある小さな公園に差し掛かったところでやっと止まって、熱が上がりすぎて足がもつれ、動けなくなってようやく事を理解した。
祐陽も通っているのだ、同じ学校に……それも、同じ教室の同じ席に。
霧雨の降る夜だったことがどれだけ幸いだったであろう。危険なほどに上がってしまった体温が落ち着くまで、千緋色は濡れた身体でブランコに揺られ続けた。
それからというもの、昔の夢を見ることが多くなった。
祐陽と出会い、家を抜け出し、千里眼を捨てて……黒銀家が崩壊した。その余波は黒銀家の持つ世界最大の金融機関、リラックス銀行を破綻に追いやって、ついには世界恐慌を引き起こしたのだ。
「今さらどんな顔をして会えるというのじゃ。花屋を潰したのもわらわが原因だというのに……」
「うん? どうかしたの?」
玄関で見送る鉄斎の姿は、あの日から少々やつれたように見えた。
外に出ると昼まで降っていた雨は既に上がっていて、久しぶりに綺麗な月が顔を出している。
千緋色は「何でもない」と言うとカバンを手に取る。
「気をつけてね、おひいちゃん。この日傘は晴雨兼用なんだから雨が降ったらちゃんと使ってよね。いつかみたいにずぶ濡れで帰ってきちゃダメだよ!」
学校へ向かったはずの足は途中、公園の前で止まった。
全日制と定時制――違う時間帯とはいえ同じ席だ。顔を合わせる可能性が無いとはいえない。今はまだ、心の準備ができていない。
「……今宵は計画でも練るとするか」
千緋色は今日もブランコに揺られた。