4年前 黒銀千緋色
「誰か来たのか?」
「いえ、佐々木の兄ィ……どうやら子供が騒いでいるみたいで」
玄関の方向から二人の男の声が聞こえる。話の内容からして呼び鈴が鳴った件についてだろう。
千緋色は廊下ほどもある長い縁側に立って四月の庭を眺めた。天井まで伸びた大きなガラス戸には光が当たり、桜色の混ざった白磁の顔、肩まで伸びた白練の髪、鮮やかに輝く朱色の眼が映し出されている。
――そろそろ窓を埋められてしまう頃合いか。
「最近特にひでぇな。吸血鬼なんて妙なうわさも流れているようだし……ヤス、おめぇちょっと二階にのぼって、ひいの部屋の窓を外から見られねぇように板か何かで塞いでこい」
――ヤスは躊躇するかもしれんが……。
「しかし……いいんですかね、おひいさんはあそこから外の様子を眺めるのが好きみたいですし、出歩けない分、少しくらい……」
――あやつの名前を出されては何も言えぬであろう。
「馬鹿野郎! てめぇの主は誰だと思ってやがる! ひいの存在が表に出てみろ……総也様になんて言い訳すんだ。ひいのワガママに付き合ってたらバレちゃいましたか? 俺らなんてあっという間に消されちまうぞ!」
考えていたことがシナリオ通りといわんばかりに聞こえてくる。千緋色がため息をついて戸を引くと、冷たく乾いた風が吹き込んで深緑の洋装を揺らした。
いかに非合法で非常識で不条理な事であろうと、当主代行である今のあやつには誰も逆らえない。黒銀の者であれば誰もが知っていること。この程度なら子供でも見通せうるか。
日傘をさして庭へと降りて、踝まである長いスカートを引きずりながら芝生の上を歩く。視線を落とすその先には、土塀のそびえる地際に白くて小さな花が咲いている。
千緋色はこの広い庭の隅でひっそりと佇む名前も知らない花を特に気に入っていた。
「おぬしもわらわも外の世界を知ることもなくここで一生を終える運命じゃ。似たもの同士、仲良くしようではないか」
風に揺られて花びらを散らし、真っ白な一枚が足元にひらひらと舞い落ちた。
もうやがて虫たちの季節になると緑色の実をつける。日差しが強くなる頃には身を隠し、年を越す頃になるとまた花をつけるのだ。どこへ行くわけでもなく何に成るわけでもなく、いつか朽ちるまで人知れず延々と繰り返される命の営みに、千緋色は永遠にも近い途方も無いものを感じた。
「……おぬしの名前は何というのじゃろうなぁ」
「おひいさん、どうかしました?」
日傘の上から彫りの深い顔の男が現れた。口から心臓が飛び出るほど驚いた千緋色は「ヤス! 気配を消して近づくでない!」と言うと胸に手をやり呼吸を整える。
「すんません! いつもの癖で……って、おひいさんでも驚くことがあるんですか。自分が声をかけるのもお見通しなのかと思っていたもんでつい……」
ヤスは短い髪の頭を掻きながら申し訳なさそうに聞いた。まだ三十半ばというのに日焼けした顔の上には無数の小さな苦労の跡がうかがえた。
「もちろん見通せるぞ! 今は違うものを《見ていた》から不意を付かれただけじゃ」
「へい。もちろんです。なんといっても初代当主様と同じ目を持っているんですもんね」
「当然じゃ。おぬしの右手にある玄翁と木板を使って今からわらわの部屋の窓を埋めようとしている事もお見通しじゃ。見えぬものなどない」
「す、すんませんおひいさん! これはその……兄ィに言われて」
腰に手を当て自信たっぷりに言い放つ千緋色を前に、ヤスは仰々しく頭を下げてみせた。佐々木に言われてというヤスの言葉はある意味では本当なのだろうが、その先にあやつの姿が見えているのは間違いない。生まれてこのかた、僅かに与えられる自由の中でしか生きたことのない千緋色にとって、今さら取り上げられる自由に未練を感じることもなかった。
「……ところでヤス、この花の名前を知っておるか?」
「いやぁ自分は花のことはさっぱりで……しかし、花のことは見えないんですか? その、伝説のナントカガンで」
「見えぬ。わらわの千里眼は先のことしか見通せんからな」
花を見つめる千緋色の横顔を覗き込みながら、ヤスは「そんなもんなんですか」と腕を組んで頷いた。
「今日は総也さ……叔父さんと月に一度のお話の日でしたよね。千里眼を使って疲れてないんですか?」
「あんなものは茶番じゃ。このあたりで価値が十倍以上になる土地はどこかなんて下らぬ事を聞きよってからに、もはや呆れもせんわ」
「十倍になる土地なんてそりゃあそんなもんわかるも何もあるわけ……って、まさか!」
目を見開いて強張った顔のヤスに、千緋色はぐいっと顔を近づけると口元に笑みを浮かべた。
「いつもお菓子をくれるおぬしには特別にいいことを教えてやろう。この家を出て真っ直ぐ行くと国道にぶつかるであろう。そこを左に曲がって少し行ったところに古い商店街があるのじゃが、あそこの通り一帯の土地はいずれ価値が跳ね上がるぞ。今のうちに買っておいてはどうじゃ?」
「……い、いやしかし叔父さんを差し置いて先に手をつけちゃあ後が怖いですよ……」
「心配など要らぬ。あやつに買う気など初めから無いからな」
「そうなんですか?」
「あやつにとって、百万が千万になろうが今更意味のあることではない。この眼を使えなくなりはしないかと試しておるのじゃろう」
千緋色は目元に指をあてがい下まぶたを引っ張って見せた。朱色の眼は、黒い瞳が一般的なここ日本において異形に映るであろうは想像に難くない。
「難しいことはわかりませんが……それにしてもおひいさんの眼は綺麗な色していますねぇ。それを吸血鬼呼ばわりなんてバチが……って、あぁいや、叔父さんが言ってたわけじゃねえですよ!」
「隠さなくても良い、うわさになっているのは知っている。この館には吸血鬼がおると……至極的を得たうわさだとは思わぬか。黒銀家は陽の当たらぬ世界を生業にしてきた一族であるし、わらわは太陽の下に出られぬ身体。そのうえこの身姿では吸血鬼と言われたところで返す言葉も浮かばん」
慌てるヤスに、千緋色は背を向け縁側へと歩きながら言う。間があいて、ポーンとインターホンの呼び鈴が聞こえた。
「……まーたいたずらかねぇまったく。最近のガキはしつけがなってねぇ」
「悪かったのぉ愚痴をこぼしてしまって。早く行くが良い、わらわと長話をしていては周りはいい気せんであろう」
「す、すんません。ちょっと見てきます。おひいさんも日傘をさしてるからってあまり外を歩かんほうがいいですよ!」
玄関の方へと駆けて行くヤスの背中を見送り、千緋色は庇の陰へと身を隠す。
「あまり外を歩かないほうがいいか……この狭い庭ですら満足に散歩も出来ぬとは不便にも程がある……」
――ドサッと、何かが落ちる音がした。
「痛ってぇ!」
驚いて向けた視線の先に人がいる。それも子供だ。土塀から落ちた拍子に強打したらしく尻をさすっている。
「なんでこんな高い壁作ってんだよったく」
「お、お、おぬし……! そこで何やっているんじゃ! どこの子供じゃ」
「あ? いやぁここに吸血鬼が住んでいるって聞いたから、ほんとにいるのかどうか確かめに来たんだけど……もしかして、お前がそう?」
「んな、この! そんな理由で……忍び込むところを誰かに見つかったらどうするつもりじゃ! もしあやつにでも見つかったりでもしたら……」
これまで呼び鈴を鳴らしたり物を投げ入れたりするいたずらは幾度となくあったし、見た目が立派な家のせいで泥棒の標的にされることも多い。そのため侵入を試みた者はたくさんいた。しかし幾重にも張り巡らされた防犯カメラや番犬、そしてヤスたち侍衛衆によってことごとく捕まえられ、これまで誰ひとりとして侵入に成功したものはいない。少なくとも千緋色が知る限りでは。
「すげー真っ白だなお前! 俺の撮った写真より迫力があるぜ……そうだ、一枚写真を撮ってもいいか!? 証拠が無いと信じないやつがいてさぁ」
「ちょっと静かにしておれ!」
犬たちは――今、お目付け役兼教育係の鉄斎が散歩に連れ出している。それでは防犯カメラの見張りはどうしたというのだ。本来であれば侵入を許すこと無く阻止されるはずなのに……。
千緋色は予想外の出来事に狼狽するも、目の前の闖入者は脳天気に携帯電話を構えた。
「おひい、どうしました?」
佐々木が急ぎ足で縁側を横切った。千緋色は咄嗟に持っていた日傘を横手に倒して後ろを隠す。
「何の事じゃ? どうもしないぞ」
「モニターを見ていたら玄関に人が集まっていて、何やら騒々しくってね」
「ああ、そういえば呼び鈴が鳴っておったわ」
いつも頭上にあるはずの日傘が無い。久しぶりに直射日光の熱を感じる。段々と身体が熱くなっていくのがわかる。
「おひい、陽の光に当たっちゃあ……」
「わかっておる。わかっておるが……おぬし、はやく行ってはくれぬか、ちょっと……」
「ちょっと、どうしました? 何か問題でも? とにかく傘をさすか家ん中に入って下さいよ。じゃねえと俺が怒られちまいます」
佐々木は口ごもる千緋色の様子を伺ったまま動こうとしない。それどころか今に近づいて来そうな雰囲気である。このままではまずい、この闖入者のことがバレてしまう。佐々木は侍衛衆をまとめる頭だし、どちらかといえばあやつに忠誠心の高い人間だ。外部の人間と話したことが知られれば相手がどのような目にあうのか想像に難くない。
「ちょ……ちょっと、その、も、もようして……の。おぬしがいるとうう、動けんじゃろう……」
平静を装いながらも顔から火が出る勢いだった。熱いのは何も陽に当っているからだけではない。咄嗟の事とはいえこの程度の言い訳しか出てこない自分に嫌気がさす。
「も、もようしって……おひい、もう十二にもなるんですから……勘弁してくださいよ」
千緋色に促されて玄関へと向う佐々木の背中を見届けると、千緋色は大きくため息を吐いて日傘を空へ向けた。
「うわー、おっかねぇおっさんがいるもんだなー、あの目を見たかよ? ぜってー人とか殺してる目だぜ。直彦が言ってた事は本当だったのか」
「いやまぁ、ああ見えてわらわを守ってくれているのじゃ……」
まるで他人事のように言う闖入者を前に千緋色は頭を抱えた。
よくよく考えてみれば、この闖入者がどのような目に会おうと自分には関係のない事だ。どうして危険を冒し、恥ずかしい嘘をついてまでかばわねばならないのだ。まったく今日は見えない事ばかり起こる。闖入者といい、自身の行動といい、見えないし、解らない事だらけだ。ああもう今日は寝よう。こんな日は寝るのが一番だ。鉄斎が帰ってきたら本読みがどうだとか勉強がどうだとか言い出すかもしれないが今日は何をするにも良くない予感がする。こういう時は寝てしまうに限る。
「どうしたんだよ、ぶつぶつと」
「うう、うるさい。用は済んだであろう。さっさと帰れこの闖入者」
「用? 俺の用は吸血鬼に会うって……それじゃお前、本当に吸血鬼なの?」
「そうじゃ」
「人間の生き血をすするんだろ!? マジ?」
「ああそうじゃ、これで満足したであろう」
淡々と返事をする千緋色に、闖入者はあっけらかんとした口調で続けた。
「……お前、もらしたの?」
「もらすかぁー!」
大声をあげ肩で息をする千緋色を前に闖入者は「しぃー!」と口に指を当てる。
「声大きいって! またおっかないおっさんが戻ってくんだろ!」
「何を知った風な! もとはと言えばおぬしが……!」
「わかった! 悪かったって……かばってくれたのわかってるさ。でもよ……」
千緋色の視界が揺れた。一瞬何が起きたのかわからなかった。
「吸血鬼のくせに牙が見えないんだけどさぁ、お前本当に吸血鬼なのか?」
「はひ?」
間をおいて、千緋色は口の両端に指を入れて広げられ、歯をむき出しにされている状況を理解した。生まれてこの方、あやつにも、教育係の鉄斎にもいたずらに触れられた事がない千緋色にとって闖入者の言動すべてが混乱の極みだった。
「こんの……無礼者!」
「いいじゃねぇかこんくらい減るもんでもねぇし。それに俺はチンニュウシャでも無礼者でもねえ。崎枝祐陽って名前があるんだよ。お前と同じ十二歳で……そういやお前どこの小学校行ってるんだよ。この家なら俺と同じ小学校のはずだぞ?」
平手打ちを颯爽とかわすと、祐陽は悪びれる様子もなくにこやかに自己紹介を済ませる。千緋色の顔に諦めの色が浮かんだ。
「……わらわは学校になど行ってはおらぬ」
「どうしたんだよ、学校楽しいぞ給食も出るし。吸血鬼は入学お断りって言われてんの? それかもしかしてお前あれか、ヒキコモリってやつか」
「いちいち癇に障るやつじゃな」
千緋色はゆっくりと向き直って咳払いをすると、祐陽に向かって禍々しい笑みを浮かべて見せる。細めた眼に妖しい光が宿ると、燃えるように輝きを増した。
「よいか小僧、世の中にはおぬしの理解出来ん事柄もたくさんあるのじゃ。現にわらわは他人の生き血をすするも同然じゃ……この眼を見てわからぬか? 呪われておるのじゃ。一生ここから出ることも許されぬ。この呪われた眼で全てを見据え、恐ろしい未来を予言するのがわらわのさだめ……。おぬしも見てやろうか、混沌と狂乱が支配する、恐怖と絶望しかない己の行く末を……」
「はぁ? 何いってんだお前。アタマやられちまったのかよ」
「……怖く無いのかおぬし」
「怖くねえよ。お前なんかただの痛い子供じゃねえか。吸血鬼はモンスタークエストではラスボスなんだぜ」
先ほどから頭痛がする。日光にやられたのかもしれない。千緋色は土塀の陰へと腰を下ろした。
「おぬしの言うとおり、確かに頭は痛いが……モンスタークエスト? ラスボス? なんじゃそれは。そんなものは知らぬ」
「今どきゲームも知らないのかよ。じゃあ今度貸してやるぜ、俺はもうクリアしたしな。エンディングがすごいんだ、まさかあんな展開に……って、どうした? 突然座り込んで……さっきよりも顔が赤いし、熱でもあるんじゃねえの?」
「……日光に当ってしまったからな。おぬしの好きな吸血鬼と同じで弱点じゃ。聞かれる前に言っておくがニンニクも苦手じゃ。あれは体温をあげてしまう」
おおーすげー! ゲームと同じだ! とはしゃぐ祐陽に、千緋色は指を口元に立てて騒がないよう促す。
「しかし十字架は嫌いではないぞ。現にほれ……今も」
「なんでだよ!? ゲームじゃあラスボス対策用の必須アイテムなのに」
祐陽の抗議に、千緋色は浅い呼吸のまま適当に頷く。うなじがひりひりと痛い。日焼けもしているようだ。
「なんか辛そうだな、俺の血飲む? そうすりゃちからが戻ってくるんだろ?」
「そんなもの飲めるか。生まれつき皮膚が弱いのと汗がかけないだけじゃ。ちょっとのことで熱が身体に籠ってしまうでの……しかし、こうしてじっとしておれば気温も高くないしそのうち良くなるじゃろう」
「そうなの?」
「わらわはここで大人しく座っているから、おぬしは見つからないうちに大人しく帰れ」
「おう、わかったぜ! じゃあ名前教えてくれよ。俺も教えたんだからさ。あとサイン書いてくんない? それから忘れないうちに写真も撮っていいか?」
促されても祐陽は一向に帰る気配を見せず、土塀にもたれかかるようにして千緋色の側に腰を下ろした。
「本当に話を聞かんやつじゃのうまったく、こんな無礼なヤツは初めてじゃ……そうじゃ、おぬしのことをブレイメンと呼んでやろう。《無礼男》と書いてブレイメンじゃ。どこぞの音楽隊のようでなかなか粋な名前であろう?」
いつか見た絵本の動物たちが積み重なるシーンを思い出して、千緋色は思わず吹き出しそうになる。
「うくく……今わらわを笑わせるでない。熱が上がって死んでしまう」
「どっちが無礼なんだよ!? 初対面だぞ!? 今日はじめて会った奴にひでぇアダ名つけやがって。そっちこそ無礼者じゃねえか。あれだ、お前は女だから、ええと……ブレイオンナ!」
「ぶわはっ! ひどい感性じゃ。もはやお見事としか言えん! もっと捻ればいくらでもあるじゃろう。無礼なレディでブレイディとか、無礼な令嬢でブレイジョウとか……」
「ひどい感性で悪かったな……でも、お前が無礼な女だってこと認めるんだな」
千緋色はきょとんとした表情で祐陽を見つめた。しばらくして自分の言っていた事に気がつき二人同時に吹き出した。
「ブレイオンナでいいのかよ。名前教えろって」
「確かにブレイオンナは嫌じゃなぁ。しかしお断りじゃ。名前は教えぬ」
「俺の名前知っといて自分のは教えないっておかしくねえ!?」
「おぬしが自分で言い出したのであろう!? 教えてもらいたくなかったし、聞きたくもなかったのに」
ふん、とそっぽを向く千緋色にむかって「かわいくないやつ」と祐陽が言った。
「……笑った時は百花の王だと思ったのによ」
「なんじゃそれは。吸血鬼の仲間か?」
「花の名前だよ。花の中の王様という名前のとおり綺麗な花なんだぜ、お前みたいな種類があってよ、すげー真っ白で……」
「待て、おぬし花に詳しいのか!? もしかしてこの花の名前もわかるか!?」
祐陽の言葉を遮って千緋色は興奮気味に白い小花を指した。
「これはヒメイチゲだな。というかお前が育てたの!? ここらで育つのは珍しい花だぞ。なかなかやるじゃねえか」
「そうか、おぬしはヒメイチゲというのか……可愛い名前があったんじゃな」
「こいつは夏の暑さが苦手なんだ。夏になると、ちょうどお前みたいに日傘をさすだろ? 見たことあるか?」
「もちろんじゃ! 隠れてしまうのは寂しいが、また冬に顔を出すのが楽しみでな!」
目を輝かせてはしゃぐ千緋色に、祐陽が続けた。
「こんなに小さくて弱っちいくせにさ、こいつの花言葉、《あなたを守りたい》だぜ? なんか笑っちまうよな」
「……健気じゃなぁ」
「百花の王は《王者の風格》だ。花もヒメイチゲとは違って豪華な感じでよ、周りの花びらは白くて真ん中だけ緋色の種類があるんだ。お前の眼のようにさ」
「緋色……?」
笑って話す祐陽の言葉に、千緋色は無意識に呟いていた。名無しの小花に本来の名前が戻ったように、百花の王の話はまるで自分にも生命があるということを教えてくれたような気がして、気がつくと勝手に口が動いていた。
「……千緋色」
「あ? なんだって?」
「千に緋色で千緋色。わらわの名前は黒銀千緋色じゃ。覚えておかなくては良い……」
「お前、千緋色っていうのか。そりゃますます……って、黒銀? 表には黒本って書いてあったと思ったけど」
「ま、色々あっての……」
それっきり何も答えない千緋色にかまわず、祐陽が手を引っ張って無理やり起こす。いつの間にか熱は引いていた。
「俺んち花屋やってんだ。百花の王を見せてやるよ。ちょうど今入ってきてるんだ」
「い、いやしかし……」
「自転車もってきてあるから走らなくていいし、風がスゲーから日傘無くてもたぶん大丈夫だ」
祐陽は生垣から土塀によじ登ると千緋色に手を差し伸ばした。
「早く! 直彦が……俺の友達が玄関とこで粘ってんだ。今のうちに」
いつもであれば迷うことなく断る話だが、度重なる予想外の出来事に千緋色の心は揺れていた。
自分が花に似ているという。陽の下に出られない自分にとって少々気恥ずかしい名前ではあるものの、とても綺麗な花のようだ。
今まで生きて、好奇か畏怖の対象としてしか見られて来なかったのに一体この男は何なのだ。突然現れたかと思うと無礼なことを言ったり口の中に指を突っ込んできたり、そうかと思えば懐っこい笑顔をしてみたり……とにかく予想外の行動ばかりする。この家への侵入を成功させた初めての人間でもあろう。自分の眼もってしても先が読めん。
次は一体何をしでかすのか、見えないというのは不安でもあるが、見えないというのは……それはそれで心が躍る。
「お前さっき呪いがどうとか言ってたけどよ、試してみようぜ。俺にお前の呪が解けるかどうかをさ。俺は将来、勇者になるんだ。これくら出来ないはずがねぇ」
見える未来はいつも決まって同じだった。名も知らぬ小花のように与えられた僅かな自由の中で命を消化し、ただ朽ち果てていくという未来だ。しかし今は違う。小花は少年によってヒメイチゲという名前が与えられたのだ。自分にも千緋色という名前がある。
一生に一度でいい、自分に似ているという花の王様を見てみたい。
「大丈夫だとは思うけど一応、太陽対策な」
祐陽は自分の頭の帽子をとって千緋色に深々と被せた。
「よぉし、いくぞ! しっかり捕まってろよ」
地面を蹴って勢い良く自転車が走り出すと、景色が、風が、まるで生きているように通り抜けていく。初めて乗る自転車は不安定で振動も凄くて尻も痛い。それでも、流れる景色は今まで見たことのある自動車の窓越しのものとはまったくの別物だった。
「これはすごいな! あはははは!」
「危ねぇ! あんま暴れんなって!」
千緋色は、たった今この世界に生まれた、そんな気がした。