現在 黒銀千緋色
「ふへぇ、ようやくじゃあー」
疲れきった表情で言うと、千緋色はベンチに腰掛けた。
「ああもう……すっかり夜になってしまった。学校ではちょうど夕飯時間じゃな」
時計を見ると十九時を過ぎたところだった。千緋色は、先日の惨事で植えることが出来なかった苗を植えようと公園の土をひとり耕していたのだ。
「恐ろしく硬い土であったが……これでやっと百花の王が見られるのう」
千緋色は顔に向かって薄荷水を振りまくと、一本の苗が植えられた花壇を満足気に眺めた。もう二度とここの水は飲むまいと誓い、家から持ってきた水筒を開けて紅茶を注ぐ。
あの水飲み場は好かん。いくら地球に優しくても人に厳しいのでは本末転倒である。設計者の顔が見てみたいものだ。
コップを口に当てたところ、ふとあることに気がついた。
いや、待てよ……考えてみれば昨日は祐陽と顔を合わせたのだ、学校へ行かない理由が無くなってしまっているではないか! 不登校時の楽しみにと植えたのになんということでしょう!
疲れきって腕をあげるのもだるい千緋色は、深い溜息と共に独り言を呟く。
「まぁよいか。どうせ通り道であるし……それよりも、」
――祐陽は怒っているかもしれない。
昨日の別れ際に、明日は学校に来いとかなんとか言っていた気がする。あやつのことだからきっと定時制クラスにも顔を出しているのだろう。
しかし、今日はもう疲れきって勉強なんてしたくないし、おまけに全身が土埃だらけだ。今から学校に行くわけにはいかない。さっさと帰ってお風呂にも入りたい。
なんとなく嫌な予感がした。
あの男のことだ、どうして来なかったんだと家に乗り込んできそうな気がする。早く帰って電気を消して、しっかり鍵をかけておかなければ。
千緋色は手早く荷物をまとめてバッグを背負うと、家に帰るため腰を上げた。
「千緋色ぉー!」
公園から道路に出た所で声がした。祐陽だ。
千緋色は、恐れていた事が現実になったと思い、疲れも忘れて一瞬走ろうとする。が、直彦の「千緋色ちゃんお願いがあるんだ!」という一言に動きを止める。そして暗い夜道を二人が近づいてくると、その様子に戦慄した。
「なんじゃ……どうしたというのじゃ」
所々制服が破れて顔に切り傷を作る祐陽の姿と、その背中には女子生徒の姿。
「仲吉……か?」
「千緋色ちゃんごめん、話しは後だ。とりあえず家に入れてもらってもいいかい!?」
直彦は二人と違って一見すると怪我は無さそうである。しかし、息を切らせて絞りだす声が、只ならぬ事態であることを物語っている。
「家じゃと!? その様子ではまず病院に行くべきでは……」
「悪いけど病院には行けねぇんだ。色々あってよ」
千緋色の言葉を遮って、祐陽が言った。
「……そうか、わかった」
携帯電話を取り出すと、千緋色は電話口で「嶋馬のケータリングを手配してくれ」と言った。
「怪我だそうじゃ、女で頼むぞ。今から五分以内で来いと伝えてくれ。よいか、間違っても嶋馬聊は……え? わらわではないぞ。それには心配は及ばん。いや、だからわらわではなくて……」
独り言のように電話で揉める千緋色の様子を見て、直彦は「千緋色ちゃんも大変そうだね」と呟く。
「ふぅ……まったく、どうしてわらわの周りは人の話を聞かん奴らばかりなのじゃ……」
ようやく電話を切った千緋色がうんざりといった様子で言った。
「ごめんね千緋色ちゃん、また厄介事に巻き込んで」
早足で歩きながら直彦が言う。
「事件か事故かは知らぬが、警察も呼ばず救急車も呼ばず、ここへ来たのには理由があるのじゃろう」
「まさに、その通りなんだ……」
千緋色は「気にするな。厄介事を均すのが黒銀家の努めじゃ」と言うと、涼しい顔をして歩いている。
「とりあえず病院を呼んである。急いで帰るぞ」
「病院を呼ぶ!?」
祐陽は驚いたような表情で千緋色を見て言った。
「病院へ行けない理由は知らぬが、その様子を見て治療しないわけにもいかぬ。わらわの知っている者じゃから安心しろ」
「……お前、ほんと何者なんだよ」
「化け物じゃ」
家に着くと、玄関先で手を降る鉄斎の姿が見えた。
「おひいちゃあーん!」
さらにその隣には白衣を着た人物が立っていて、「社長ぉ! 人使いの荒い社長ぉ!」と両手を上げて叫んでいる。
「五分で来いだなんて、相変わらず鬼畜だなぁ。いやま、来ましたけどね」
二十代半ばそこそこに見える白衣の男は、来れたボクはすごいなどと言いながら軽妙な踊りを披露する。その様子に、千緋色は肩を落として鉄斎を睨んだ。
「ああもう本当に話を聞かない奴らのオンパレードじゃ……」
千緋色は二人に近づくと鉄斎に言い放った。
「どうして聊がおる!?」
「肝を冷やしました?」
「盛大に冷やしたわ!」
つい大きくなる声を必死に抑えて千緋色が続けた。
「言ったであろう女でと。間違っても本人は呼ぶなといったのにどうしてよりにもよって……」
千緋色に睨まれた嶋馬は、踊りをやめると道路の方向へ指をさす。
「久しぶりに鬼畜な社長に会いたかったんでついて来ちゃいました。あ、大丈夫ですよ、約束の女医ちゃんはあそこに待機させてますからね」
見ると道沿いには街灯に照らされた、白くて大きなコンテナを積んだトラック停まっている。
嶋馬は「社長ぉ、お金あるんですからもっと広いところに住んでくださいよぉ。これじゃあトラックが中に入れないじゃないですかぁ」と言って千緋色に顔を近づける。
「もう昔の黒銀家は無くなったのじゃ、おぬしが思うとるほど持っておらん」
「まったく、社長の冗談にはやれやれです」
嶋馬が合図をすると、トラックの中から数人の白衣を着た者たちが現れて、紅耶をストレッチャーへと移す。
「仲吉をよろしく頼むぞ」
千緋色の言葉を聞いてか、紅耶は何かを喋ろうと口を開ける。
「仲吉、無理に喋るな。院長の嶋馬は頭こそおかしいものの信頼できる男じゃ。それに、ここの連中の腕は確かじゃ。とりあえず今はキズを治せ」
僅かな外燈の明かりの下では紅耶の様子をはっきりとうかがい知ることが出来ない。分かるのは、服のあちこちに乾いて赤黒く変色した血が付いているということ、そして、黒くて長いおさげが無くなっているということ――。
「祐陽、おぬしの怪我は見てもらわなくていいのか」
「このくらい、唾付けときゃ治るさ」
千緋色が「そうか」と呟くと、続けて「話は家の中で聞かせてもらおう」と言って玄関へと向かった。
「お、おう……」
街灯の光を浴びた眼は、暗い闇夜と相まって、見たことがないくらい深く朱い色に光っていた。
「――つまり、御坊山が呼んだらしい他校の生徒が、仲吉に怪我を負わせた挙げ句、屋上へ連れて行って暴行しようとしたと」
祐陽と直彦の説明を聞いた千緋色は、顔色一つ変えずに言った。
「御坊山が呼んだかどうかは想像が混じっているけど、端的に言えばそういうことになる。そうだよね、祐陽」
「ああ」
直彦に話を振られた祐陽が自分の怪我に消毒液を塗りながら答える。
「しかし……であればなおさら警察を呼ぶべきであろう。立派な刑事事件じゃ。まさか、わらわの学校だからと気を使ってくれているわけではあるまい」
「そんなんじゃねぇ。俺だってすぐ警察を呼ぼうと思ったんだ、でもよ……」
「脅されているんだ、あの総輔という男に。下手なことをすれば、写真をネットにばら撒くぞってね」
言い淀む祐陽に代わって、直彦が喋った。
テーブルの上には鉄斎が入れてくれた紅茶が置かれている。千緋色が静かに息を吐いて目を伏せると、一向に減る様子の無いカップの中身が微かに揺れる。
――ヤリマンビッチ死ね。
あの紙片の文字が脳裏に浮かんだ。二人の間に何があったのかは分からないが、当人同士のことだ。自分がわざわざ顔を突っ込むことではないと思っていた。みんなにも言ったように、見守ってやるだけのつもりだった。
千緋色は立ち上がって窓を開けると、空には厚い雲がかかっていて入り込む湿った空気が終わったはずの梅雨の再来を予感させた。
「ネットなんかにアップロードされちゃ回収はもう不可能だろ!? どうしたらいいのかわからねぇよ」
「……で、わらわのところへ来たというわけか」
祐陽は千緋色の言葉に、祐陽は沈黙してしまった。時間だけが流れた。
「千緋色ちゃん、それもあるんだけどさ……その……」
「なんじゃ、だからとかそのとか。さすがのわらわでもそれだけではわからんぞ」
口ごもる直彦に千緋色が苛々を募らせて言った。直彦は「女の子だし、デリケートな問題が」と呟く。
「僕たちが聞くわけにはいかないよ……聞けるのは千緋色ちゃんだけなんだ」
「なんじゃデリケートな問題とは?」
うーんと言って頭を抑える直彦に、きょとんとした表情で千緋色が言った。隣で聞いていた祐陽が「だぁもう! 写真だよ写真!」と声を荒げる。
「今、デリケートな問題と言ったらそれしかねぇだろ! なんでこんな簡単なことをいちいち空気が読めねぇんだお前は! 考えても見ろ、服はズタズタに切り刻まれて、複数の男たちに人気のないところへ連れて行かれたんだぞ。おまけに写真をばら撒くだなんて……そりゃ、写真の中身のことを俺たちから聞けるかよ!」
「どうしてそう怒るのじゃ、それなら最初から写真のことを聞いてくれって言えばよかろう。もっとも、別におぬしらが直接聞いてはいけない理由も無いと思うが」
祐陽と直彦は嘆息すると、お互いに顔を見合わせる。間をおいて、決したように二人同時に千緋色を向いた。
「おひいちゃん! ちょっと仲吉さんの様子見てきてくれないかな?」
二人の言葉を遮るように口を開いたのは鉄斎だった。鉄斎が「ほら、嶋馬先生が家に来ても困るし?」と言うと、千緋色の眉間に皺が寄る。
あやつのところへ行けというのか。またわけの分からない珍妙奇天烈な踊りで小馬鹿にされて、しかも鬼畜呼ばわりされるのに。
心のなかで文句を呟くものの鉄斎の言うとおり、治療が終われば経過報告に家へと入ってくるだろう。そうならないためにもこっちから向かうというのは理にかなっている。それに、紅耶が心配でもあるのは間違いない。
千緋色は重たい足を引きずって玄関へ向かう。その後姿を見届けてから、鉄斎が祐陽と直彦に向かって小声で言った。
「おひいちゃんの知識って、とっても偏ってるから……油断しちゃだめだよ」
「偏ってるって……なんでだよ。俺らと同じ十六歳だろあいつ。なんつーかその……性への目覚めというのが無いのかよ……」
祐陽の言葉に、鉄斎が胸を張る。
「いいの! おひいちゃんにはまだ早いの! だからわざと遠ざけてるの! セクシャルな話題はタブーなの!」
「……知識が偏ってしまったのは鉄斎さんの教育の賜物なんですね」
千緋色は靴を履いて玄関のドアを開けた。大広間からは鉄斎の大声が聞こえる。
――セクシャルな話題とは何のことだ……皆、口が重たいと思ったが、何やらわらわに隠し事をしておるな。
空からはポツポツと雨が落ちてくる。千緋色は急いでトラックへ向かった。