現在 井山鉄斎
あれからもう十年近くが経った。途中、色んなことはあったものの千緋色は十六歳になり、高校に通うようにもなった。
これまでいつも母の幸せばかりを願って生きて来たのだ、今度は自分の幸せのために生きてほしい……そう願わずにはいられなかった。
「ああ! ぼーっとしてたらお蕎麦が乾いちゃったよぉ、ぐすっ」
目の前の茶蕎麦は、箸でつまむと塊となって持ち上がった。仕方なくもう一度水で戻し、細かく分けながら出汁に浸した。
「いただきまぁす」
いよいよ麺を口に入れようとしたその時、電話のベルが鳴る。箸をおいて電話に出ると国千院高校の岩先と名乗るものからだった。もしや学校で千緋色に何かあったのではと思い、脈が速くなる。
「千緋色さん、最近学校に来ていないようなんですが……具合でも悪いのでしょうか」
学校に来ていないだと? そんな莫迦な……いつも時間通りに家を出て行くのにどこへ行っているというのか。
岩先からの電話を切ってすぐさま千緋色の携帯番号へかけ直すが、受話器からは電波が繋がらない旨の無慈悲な応答――。
時計は十九時を回っていた。鉄斎は茶蕎麦を諦め、急いでベストを羽織るとつっかけのまま玄関を飛び出した。
「おひいちゃぁん! どこ行ったのぉ!?」
夜の住宅街に、険しい表情をした老人のしゃがれた可愛い声が響く。仕事帰りのサラリーマン風の男女に数人すれ違うと、誰もが目を丸くして一瞬動きを止めた。
見た目と喋り方のギャップに驚いているのだろう、違和感があるのは自分でも分かっている。だが、それでもこの喋り方をやめる訳にはいかないのだ。
四年前の事件が起きてからというもの、千緋色の顔から笑顔が消えた。爺、咲いたぞと言って笑った、あの時の笑顔をもう一度見たい。一緒に笑いあいたい。しかし、笑わそうと努力しても千緋色の反応は芳しくない……。
千草がいなくなってからは千緋色の心の一番近くにいるのは自分だという自負がある。そんな自分がこれ以上の方法を思い付かないのだ、たとえ反応が悪くても続けるしかない。他に方法が思いつかないのだから。
「――じゃああっ!」
公園の方向から女の叫び声が聞こえた。
「おひいちゃん!」
急いで向かうと千緋色の他に人影が見えた。それに千緋色の様子はどことなく不自然だった。顔を手で押さえ、髪の毛も乱れてボサボサだ。そのうえさっきの悲鳴……。
――もしや暴漢か!?
「とわぁ!」
鉄斎は腰にぶら下げたハタキを持って老人とは思えない速さで人影に突っ込む。
「あっぶねぇ!」
不審な人影は、襲い掛かるハタキをすんでのところで躱して体制を立て直す。鉄斎の振り回したハタキがヒュッという音と共に空を切ると、付いていた埃が宙に舞った。
「大丈夫? おひいちゃん! 爺が来たからもう安心だよ! 覚悟しなさい暴漢ども!」
千緋色は驚いて声が出ない様子で黙ったまま鉄斎を見上げている。光の当たった眼元を見ると、赤く腫れ上がって見えた。
「よくも……よくもおひいちゃんを! この暴漢め! もう絶対許さないんだからぁ!」
鉄斎は首に巻いていたハンケチーフをマスクのようにして顔を覆うと、腰に差していたもう一本のハタキを左手に持つ。低く構えるその姿は、獲物に狙いを定める猛禽類のように見えなくもない。
「何なんだよ急に! 暴漢はそっちだろっ!」
「問答無用! 綿埃二刀流奧義ッ!」
ブンブンという音を立てて日本のハタキを振り回す。そして――。
「やめんかぁあぅふっくしゅ!」
二人の間に千緋色が飛び入る。綿埃二刀流奥義の発動は免れたものの、舞い上がる埃のせいで千緋色のくしゃみが止まらなくなった。
「おひいちゃんどいて! そいつ殺せない!」
「物騒なことを申すでない! 爺、少し落ち着け!」
「くそ……! ホコリだらけだぜ! ……千緋色の知り合いか? 誰なんだよその爺さん!」
手で顔を押さえたまま二度三度くしゃみをすると、千緋色は涙目ながらに続けた。
「こやつらは顔見知りじゃあ……そしてこの爺さんはわらわの……その……ぶえっくしゅっ! ……家族みたいなもんじゃ……」
辺りを静寂が包み込んで、千緋色のくしゃみだけが聞こえた。
間をおいて、こちらに駆け足で近づいてくる人影が見える。
「――千緋色ちゃん!」
肩で息をするその人影もまた、千緋色の知っている顔だった。
「良かった、やっと、やっと会えたんだ」
「直彦なのか……?」
直彦にとって、感動の再開のはずだった。しかし、みんなの尋常じゃない様子に動きが止まる。
「おぬし、難しいタイミングで来おったな……」
涙目の千緋色は顔を押さえて上半身びしょ濡れ。おまけに髪はボサボサでくしゃみが止まらない。
「ったく……無茶苦茶だぜ」
親友の祐陽はどういうわけかホコリに塗れ、洋服をはたいている。頭は埃で白くなり、雪が積もっているようにも見える。
「ふあ……ああ」
見知らぬ女の子は腰が抜けたのか、地べたに座り込んだまま言葉にならない何かを呟いていた。
「あれ? あれれ? みんなおひいちゃんのお友達なの!?」
気の抜けたような事を言う鉄斎に、千緋色が嘆息して睨んだ。
「無茶苦茶じゃ……ぶくし!」